1 / 1
恋の景色と夏の記憶
しおりを挟む
7月23日金曜日
今日は幸せな日。
なぜなら、明日は翔平と花火を見に行く約束をしているからだ。
花火は明日なのに、なぜ今日が幸せなのかと聞かれれば、その答えは明白。
子どもの頃、誕生日やクリスマスの前日は誰だって心が躍ったものだと思う。
約束された幸せを待つ時間ほど幸せなものはないのだ。
私は小さくスキップをして、門を開けた。
いつもは耳障りなその雑音も、始まりを告げる悦びに満ちていた。
今日は何もかもが輝いて見える。
何もかもが私を祝福しているような気がする。
軽く目を瞑ると朝ごはんの匂いがした。
白味噌の優しい香りが鼻腔を滑らかにくすぐる。
お隣さんの食卓だろうか。
きっと穏やかな朝を過ごしているに違いない。
私が笑みを浮かべると、そよ風が頬を撫でた。
それを肌で吸い込むように味わって、大きく目を見開いた。
視界が広がる感覚。
目の前には夏色の空が続いている。
少し歩くと、スズメのさえずりが耳に入った。
今日はやはり良い天気らしい。
学校は家から徒歩7分くらいのところにある。といっても、ほとんどは信号待ちの時間だ。
でも、私はそんな待ち時間が好きだった。
だって赤信号を見つめて立っていると、いつも、私を呼ぶ男の子の声が聞こえるから。
「蒼井~!」
私の心臓は高鳴った。
「おはよう、翔平」
「おう、おはよう」
「良い天気だね」
「だな!」
なんてことのない会話だけど、日々の平穏を分かち合えるこの瞬間は大切だと感じていた。
「今日が終われば夏休みだな」
「そうだね」
「蒼井は宿題溜め込むタイプ?」
「8月の頭までには終わらせるかな」
「真面目だな~」
「逆だよ。思いっきり遊びたいから早めにやるの」
「はは、それもそうだな」
信号が青になって、私たちはせーので足を踏み出す。
「でも、今日と明日は何もしないかも」
「どうして?」
「明日は……翔平と遊ぶから」
「そ、そうだな」
翔平は恥ずかしそうに目を逸らして、口を噤んだ。
ちょっぴり悪戯っぽいその顔は、年頃の男の子にしては可愛らしかった。
「もう夏だね」
「だな」
校舎沿いの歩道を歩いていると、フェンス越しに学校のプールが見えた。
先月取り替えたばかりの水は透き通っていて、浅葱色の中でゆらめく波間は7月の輝きを受けて、強く白光していた。
「好きだなあ」
「え」
「夏」
「……ああ」
そうして一分一秒を噛み締めているうちに、私たちは学校に着いた。
私たちを自転車で追い越すクラスメイトたちが口々に「おはよう」と言って去っていく。
心なしかみんな表情が明るい。
校内の喧騒も、なんだか色めいているような気がする。
かくいう私もやっぱり浮かれていて、夏休み前の学校は、こういう空気だったと思い出した。
「じゃあ、また放課後な」
「うん、またね」
私たちは挨拶を交わして、各々の教室へ向かう。
振り返ると、友達と笑う翔平の横顔が見えた。
ーー今日はきっと良い一日になる。
そんな予感がした。
◇◇◇
翌日、早まる鼓動を抑えながらベッドに横たえていると、スレート屋根を叩く雨音に気がついた。
「雨」
不安になって窓の外を覗くと、比較的空は明るく、暗雲が立ち込めているというわけではなかった。
夕立のようだ。
実際、数十分で雨は止んだ。
しばらくすると、楽しげな表情を浮かべた姉が私の部屋に来て、
「虹、見えるよ」
と言った。
私は言われた通り、向かいの部屋から東の空を臨むと、オレンジ色を纏った空を背に、綺麗なアーチを描く七色の光が宙をかけていた。
「わあ」
その半円に、思わず手を伸ばした。
「綺麗でしょ」
「うん」
「……今日は花火大会だっけ」
「うん」
「楽しんできなよ」
「うん」
目を輝かせて身を乗り出す私の隣で、姉は微笑んだ。
「なに」
「ううん。なんでも」
それから時計に目をやると、約束の時間まであと30分を切っていた。
胸の内が熱くなるのと同時に、指先が震えた。
「空ちゃん、忘れ物ない?」
「うん」
母が玄関で私に呼びかける。
「頑張んなさいよ」
「なにが」
「なんでも」
どうやら浮き足立っているのは私だけではないらしい。
そんな家族に背中を押されながら、私は水溜りを飛び越えて、彼の元へと駆けていく。
ーーもうすぐだ。
ひぐらしの音が慎ましく響き渡る。
◇◇◇
「やっほ」
「おう」
私たちは少々ぎこちなく合流した。
「雨、止んだね」
「ああ」
「晴れてよかった」
「だな」
改まって意識すると、照れ臭さを隠しきれない。
「……じゃあ、行こうか!」
「うん」
歩幅は僅かにずれていて、緊張が露呈していた。
だから、足元を見て、ゆっくり、呼吸を落ち着かせた。
「……そういやさ」
「うん」
「髪」
「ん?」
「おろしてるなって」
「ああうん、今日は校則とかないし、いいかなって」
「思ったより長いな」
「うん、割と伸ばしてる」
「へー」
変化を指摘されたことが嬉しくて、私は毛先を束にして指先で擦った。
「良いと思う、それ」
「え?」
「おろしてるのも似合う……てこと」
明後日の方を向いて、翔平はそう言った。
耳の縁がほんのり色づいている。
「恥ずかしいなら言わなきゃいいのに」
「んな、せっかく褒めてやったのに」
「ふふ」
「なんだよ」
そうやってからかう私もまた、内心は顔から火が出そうなほどに当惑していた。
でも、張り詰めていた気持ちは、ほんの少し柔らかくなって、緊張はとけた。
そうして弾性を帯びた私たちの会話が、水風船のように跳ねかえる。
小刻みに、控えめに弾んで、それでも動的に流れるものがある。
派手でも、大胆でもないけれど、楽しいという言葉を定義するならば、それは今のことを指すのかもしれない。
「屋台、たくさん並んでるな」
「うん」
「何か食べるか?」
「うん、もうお腹減っちゃった」
「だよな」
あたりを見回すと、私たちはすっかり橙色の灯りに包まれていた。
そこかしこから魅力的な香気が漂ってきて、食欲を掻き立てられる。
道ゆく人々の手には焼きそば、たこ焼き、りんご飴、じゃがバター。
古き良き祭りの食文化が花めいていた。
私たちは二人分の焼きそばと、自販機で買った麦茶を携えて、空いているベンチを探した。
なかなか見つからないね、と首を回していると、大学生くらいのカップルがこちらを見て、何かを察したのか席を譲ってくれた。
去り際の表情は「ごゆっくり」とでも言いたげだった。
今頃「初々しかったね」とでも言われているのだろうか。
そう考えると少し恥ずかしくなって、汗をかいた。
「どうした?」
「いや、なんでも」
とりあえず今は、目の前で湯気を立てている焼きそばを頬張ることにする。
「にしても不思議だよな」
「何が?」
「祭りで食べるとこれが世界一美味いって気がしてくる」
「確かに」
翔平と一緒にいるからかな、とは言わなかった。
「花火まであとどれくらい?」
「えーと、45分ちょいだよ」
「じゃあ、直前は混むだろうし、これ食べたら場所取りに行くか」
「そうだね」
それから食事と雑談に区切りがつくと、私たちは立ち上がって、河川敷の方へと足を運んだ。
仰向くと、藍色の夜空が、煌々とした星々が、優しく地上を見守っていた。
天地の色彩は対照的で、朧げな輪郭が世界を二分している。
この空は明日も変わらないけれど、この景色は今日だけのもの。
きっとそれが思い出になるのだと、少し先の未来へ思いを馳せた。
◇◇◇
私たちが着く頃には、会場はすでに人で溢れていた。
「立ち見かなー」
「だねー」
「始まるまで15分立ちっぱなしか」
「だね」
「疲れてない?」
「うん、大丈夫」
翔平はいつも、私のことを気にかけてくれる。
そこに義務感はなくて、ただ純粋な誠意が私を充足する。
でも、その先を求めてしまう自分がいることも確かで、桃色の感情はすでに芽生えていた。
そんな気持ちを抱いて遠くの星を眺めていると、翔平が口を開いた。
「俺が花火誘ったときさ……どう思った?」
「え?」
「いや……その、夏休み最初が俺でよかったのかなぁなんて……」
「うーん、別に。嬉しかったよ?」
「本当に?」
「うん」
「なら、よかった」
正確にいえば、嬉しいの一言では形容しきれないほどに幸せだった。
でも、それを口に出すのはずるい気がした。
私が直接気持ちを伝えるまでもなくなってしまうから。
「晴れてよかったな」
「うん」
屋台の香りが印象的で忘れていたけど、思えば今日はずっと雨の日の匂いがする。
夕立で湿った草木がまだ乾いていないからだろうか。
「もし晴れてなかったら、俺……」
「……何?」
「……あ、いや。なんでも、ない」
そう言葉を詰まらせる翔平は、なんだかきまりが悪そうにしていた。
微かに震える唇は何かを訴えている。
私はそれを自分にとって都合の良いように解釈して、小さな拳を握りしめた。
「もうすぐだね」
「ああ」
「なんか、寂しいなぁ」
「まだ始まってもいないのに」
「でも始まったら終わっちゃうでしょ」
私がそう言うと、翔平は目を丸くしていた。
「……今日が終わっても、夏休みは終わらないだろ」
「……それって」
「……また一緒に遊ぼうか、てこと」
「……!」
翔平の視線は真っ直ぐ私を貫いていた。
「……うん!」
それから私は大きく頷いた。
そして、尾を引いて空を昇る曲導が笛を鳴らし、全員の関心が一点に集中した。
思わず息を呑む。
それは一瞬闇に消えーー
ーー大輪を咲かせた。
次々と咲き揃うそれに見惚れて、私たちは呼吸を忘れた。
濡れたアスファルト、滴り落ちる雫、人々の瞳に、千輪菊が色彩を与えて、世界を輝かせる。
きっと、あの空に咲く全てに心が宿っているのだと、そう感じた。
「……好き」
口を衝いて出た言葉は、花火の音にかき消される。
それでも私は、紡ぐ。
きっと彼には聞こえないけれど。
だけどーー
「…………空、綺麗だな」
それに応えてくれたような気がして、涙が滲んだ。
霞んだ視界の先に見えるその顔は、花火の光を反射して少し赤く見えた。
隣り合った肩が触れるたび、胸の奥がじんわりと暖かくなる。
◇◇◇
それから長い時間が流れた。
人混みはまばらになって、辺りはすっかり元の様相に戻っている。
まるで夢でも見ていたかのような感覚だ。
「……」
「……」
「……じゃあ、かえろっか」
「うん」
こうして、待ちに待った今日という時間は終わりを告げた。
目を閉じれば、これまで見た全ての景色が蘇る。
私はそれを心にしまって、翔平の一歩前に踏み出すと、振り返って微笑んだ。
「ありがとね」
それを聞いた翔平が口を綻ばせて言う。
「こちらこそ」
これからきっと、もっと思い出を作っていくんだと、そんな気がする。
ーーそしてその日、私たちは初めて手を繋いで帰り道を歩いた。
今日は幸せな日。
なぜなら、明日は翔平と花火を見に行く約束をしているからだ。
花火は明日なのに、なぜ今日が幸せなのかと聞かれれば、その答えは明白。
子どもの頃、誕生日やクリスマスの前日は誰だって心が躍ったものだと思う。
約束された幸せを待つ時間ほど幸せなものはないのだ。
私は小さくスキップをして、門を開けた。
いつもは耳障りなその雑音も、始まりを告げる悦びに満ちていた。
今日は何もかもが輝いて見える。
何もかもが私を祝福しているような気がする。
軽く目を瞑ると朝ごはんの匂いがした。
白味噌の優しい香りが鼻腔を滑らかにくすぐる。
お隣さんの食卓だろうか。
きっと穏やかな朝を過ごしているに違いない。
私が笑みを浮かべると、そよ風が頬を撫でた。
それを肌で吸い込むように味わって、大きく目を見開いた。
視界が広がる感覚。
目の前には夏色の空が続いている。
少し歩くと、スズメのさえずりが耳に入った。
今日はやはり良い天気らしい。
学校は家から徒歩7分くらいのところにある。といっても、ほとんどは信号待ちの時間だ。
でも、私はそんな待ち時間が好きだった。
だって赤信号を見つめて立っていると、いつも、私を呼ぶ男の子の声が聞こえるから。
「蒼井~!」
私の心臓は高鳴った。
「おはよう、翔平」
「おう、おはよう」
「良い天気だね」
「だな!」
なんてことのない会話だけど、日々の平穏を分かち合えるこの瞬間は大切だと感じていた。
「今日が終われば夏休みだな」
「そうだね」
「蒼井は宿題溜め込むタイプ?」
「8月の頭までには終わらせるかな」
「真面目だな~」
「逆だよ。思いっきり遊びたいから早めにやるの」
「はは、それもそうだな」
信号が青になって、私たちはせーので足を踏み出す。
「でも、今日と明日は何もしないかも」
「どうして?」
「明日は……翔平と遊ぶから」
「そ、そうだな」
翔平は恥ずかしそうに目を逸らして、口を噤んだ。
ちょっぴり悪戯っぽいその顔は、年頃の男の子にしては可愛らしかった。
「もう夏だね」
「だな」
校舎沿いの歩道を歩いていると、フェンス越しに学校のプールが見えた。
先月取り替えたばかりの水は透き通っていて、浅葱色の中でゆらめく波間は7月の輝きを受けて、強く白光していた。
「好きだなあ」
「え」
「夏」
「……ああ」
そうして一分一秒を噛み締めているうちに、私たちは学校に着いた。
私たちを自転車で追い越すクラスメイトたちが口々に「おはよう」と言って去っていく。
心なしかみんな表情が明るい。
校内の喧騒も、なんだか色めいているような気がする。
かくいう私もやっぱり浮かれていて、夏休み前の学校は、こういう空気だったと思い出した。
「じゃあ、また放課後な」
「うん、またね」
私たちは挨拶を交わして、各々の教室へ向かう。
振り返ると、友達と笑う翔平の横顔が見えた。
ーー今日はきっと良い一日になる。
そんな予感がした。
◇◇◇
翌日、早まる鼓動を抑えながらベッドに横たえていると、スレート屋根を叩く雨音に気がついた。
「雨」
不安になって窓の外を覗くと、比較的空は明るく、暗雲が立ち込めているというわけではなかった。
夕立のようだ。
実際、数十分で雨は止んだ。
しばらくすると、楽しげな表情を浮かべた姉が私の部屋に来て、
「虹、見えるよ」
と言った。
私は言われた通り、向かいの部屋から東の空を臨むと、オレンジ色を纏った空を背に、綺麗なアーチを描く七色の光が宙をかけていた。
「わあ」
その半円に、思わず手を伸ばした。
「綺麗でしょ」
「うん」
「……今日は花火大会だっけ」
「うん」
「楽しんできなよ」
「うん」
目を輝かせて身を乗り出す私の隣で、姉は微笑んだ。
「なに」
「ううん。なんでも」
それから時計に目をやると、約束の時間まであと30分を切っていた。
胸の内が熱くなるのと同時に、指先が震えた。
「空ちゃん、忘れ物ない?」
「うん」
母が玄関で私に呼びかける。
「頑張んなさいよ」
「なにが」
「なんでも」
どうやら浮き足立っているのは私だけではないらしい。
そんな家族に背中を押されながら、私は水溜りを飛び越えて、彼の元へと駆けていく。
ーーもうすぐだ。
ひぐらしの音が慎ましく響き渡る。
◇◇◇
「やっほ」
「おう」
私たちは少々ぎこちなく合流した。
「雨、止んだね」
「ああ」
「晴れてよかった」
「だな」
改まって意識すると、照れ臭さを隠しきれない。
「……じゃあ、行こうか!」
「うん」
歩幅は僅かにずれていて、緊張が露呈していた。
だから、足元を見て、ゆっくり、呼吸を落ち着かせた。
「……そういやさ」
「うん」
「髪」
「ん?」
「おろしてるなって」
「ああうん、今日は校則とかないし、いいかなって」
「思ったより長いな」
「うん、割と伸ばしてる」
「へー」
変化を指摘されたことが嬉しくて、私は毛先を束にして指先で擦った。
「良いと思う、それ」
「え?」
「おろしてるのも似合う……てこと」
明後日の方を向いて、翔平はそう言った。
耳の縁がほんのり色づいている。
「恥ずかしいなら言わなきゃいいのに」
「んな、せっかく褒めてやったのに」
「ふふ」
「なんだよ」
そうやってからかう私もまた、内心は顔から火が出そうなほどに当惑していた。
でも、張り詰めていた気持ちは、ほんの少し柔らかくなって、緊張はとけた。
そうして弾性を帯びた私たちの会話が、水風船のように跳ねかえる。
小刻みに、控えめに弾んで、それでも動的に流れるものがある。
派手でも、大胆でもないけれど、楽しいという言葉を定義するならば、それは今のことを指すのかもしれない。
「屋台、たくさん並んでるな」
「うん」
「何か食べるか?」
「うん、もうお腹減っちゃった」
「だよな」
あたりを見回すと、私たちはすっかり橙色の灯りに包まれていた。
そこかしこから魅力的な香気が漂ってきて、食欲を掻き立てられる。
道ゆく人々の手には焼きそば、たこ焼き、りんご飴、じゃがバター。
古き良き祭りの食文化が花めいていた。
私たちは二人分の焼きそばと、自販機で買った麦茶を携えて、空いているベンチを探した。
なかなか見つからないね、と首を回していると、大学生くらいのカップルがこちらを見て、何かを察したのか席を譲ってくれた。
去り際の表情は「ごゆっくり」とでも言いたげだった。
今頃「初々しかったね」とでも言われているのだろうか。
そう考えると少し恥ずかしくなって、汗をかいた。
「どうした?」
「いや、なんでも」
とりあえず今は、目の前で湯気を立てている焼きそばを頬張ることにする。
「にしても不思議だよな」
「何が?」
「祭りで食べるとこれが世界一美味いって気がしてくる」
「確かに」
翔平と一緒にいるからかな、とは言わなかった。
「花火まであとどれくらい?」
「えーと、45分ちょいだよ」
「じゃあ、直前は混むだろうし、これ食べたら場所取りに行くか」
「そうだね」
それから食事と雑談に区切りがつくと、私たちは立ち上がって、河川敷の方へと足を運んだ。
仰向くと、藍色の夜空が、煌々とした星々が、優しく地上を見守っていた。
天地の色彩は対照的で、朧げな輪郭が世界を二分している。
この空は明日も変わらないけれど、この景色は今日だけのもの。
きっとそれが思い出になるのだと、少し先の未来へ思いを馳せた。
◇◇◇
私たちが着く頃には、会場はすでに人で溢れていた。
「立ち見かなー」
「だねー」
「始まるまで15分立ちっぱなしか」
「だね」
「疲れてない?」
「うん、大丈夫」
翔平はいつも、私のことを気にかけてくれる。
そこに義務感はなくて、ただ純粋な誠意が私を充足する。
でも、その先を求めてしまう自分がいることも確かで、桃色の感情はすでに芽生えていた。
そんな気持ちを抱いて遠くの星を眺めていると、翔平が口を開いた。
「俺が花火誘ったときさ……どう思った?」
「え?」
「いや……その、夏休み最初が俺でよかったのかなぁなんて……」
「うーん、別に。嬉しかったよ?」
「本当に?」
「うん」
「なら、よかった」
正確にいえば、嬉しいの一言では形容しきれないほどに幸せだった。
でも、それを口に出すのはずるい気がした。
私が直接気持ちを伝えるまでもなくなってしまうから。
「晴れてよかったな」
「うん」
屋台の香りが印象的で忘れていたけど、思えば今日はずっと雨の日の匂いがする。
夕立で湿った草木がまだ乾いていないからだろうか。
「もし晴れてなかったら、俺……」
「……何?」
「……あ、いや。なんでも、ない」
そう言葉を詰まらせる翔平は、なんだかきまりが悪そうにしていた。
微かに震える唇は何かを訴えている。
私はそれを自分にとって都合の良いように解釈して、小さな拳を握りしめた。
「もうすぐだね」
「ああ」
「なんか、寂しいなぁ」
「まだ始まってもいないのに」
「でも始まったら終わっちゃうでしょ」
私がそう言うと、翔平は目を丸くしていた。
「……今日が終わっても、夏休みは終わらないだろ」
「……それって」
「……また一緒に遊ぼうか、てこと」
「……!」
翔平の視線は真っ直ぐ私を貫いていた。
「……うん!」
それから私は大きく頷いた。
そして、尾を引いて空を昇る曲導が笛を鳴らし、全員の関心が一点に集中した。
思わず息を呑む。
それは一瞬闇に消えーー
ーー大輪を咲かせた。
次々と咲き揃うそれに見惚れて、私たちは呼吸を忘れた。
濡れたアスファルト、滴り落ちる雫、人々の瞳に、千輪菊が色彩を与えて、世界を輝かせる。
きっと、あの空に咲く全てに心が宿っているのだと、そう感じた。
「……好き」
口を衝いて出た言葉は、花火の音にかき消される。
それでも私は、紡ぐ。
きっと彼には聞こえないけれど。
だけどーー
「…………空、綺麗だな」
それに応えてくれたような気がして、涙が滲んだ。
霞んだ視界の先に見えるその顔は、花火の光を反射して少し赤く見えた。
隣り合った肩が触れるたび、胸の奥がじんわりと暖かくなる。
◇◇◇
それから長い時間が流れた。
人混みはまばらになって、辺りはすっかり元の様相に戻っている。
まるで夢でも見ていたかのような感覚だ。
「……」
「……」
「……じゃあ、かえろっか」
「うん」
こうして、待ちに待った今日という時間は終わりを告げた。
目を閉じれば、これまで見た全ての景色が蘇る。
私はそれを心にしまって、翔平の一歩前に踏み出すと、振り返って微笑んだ。
「ありがとね」
それを聞いた翔平が口を綻ばせて言う。
「こちらこそ」
これからきっと、もっと思い出を作っていくんだと、そんな気がする。
ーーそしてその日、私たちは初めて手を繋いで帰り道を歩いた。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
悪役令嬢は手加減無しに復讐する
田舎の沼
恋愛
公爵令嬢イザベラ・フォックストーンは、王太子アレクサンドルの婚約者として完璧な人生を送っていたはずだった。しかし、華やかな誕生日パーティーで突然の婚約破棄を宣告される。
理由は、聖女の力を持つ男爵令嬢エマ・リンドンへの愛。イザベラは「嫉妬深く陰険な悪役令嬢」として糾弾され、名誉を失う。
婚約破棄をされたことで彼女の心の中で何かが弾けた。彼女の心に燃え上がるのは、容赦のない復讐の炎。フォックストーン家の膨大なネットワークと経済力を武器に、裏切り者たちを次々と追い詰めていく。アレクサンドルとエマの秘密を暴き、貴族社会を揺るがす陰謀を巡らせ、手加減なしの報復を繰り広げる。
ある辺境伯の後悔
だましだまし
恋愛
妻セディナを愛する辺境伯ルブラン・レイナーラ。
父親似だが目元が妻によく似た長女と
目元は自分譲りだが母親似の長男。
愛する妻と妻の容姿を受け継いだ可愛い子供たちに囲まれ彼は誰よりも幸せだと思っていた。
愛しい妻が次女を産んで亡くなるまでは…。
悪役令嬢だとわかったので身を引こうとしたところ、何故か溺愛されました。
香取鞠里
恋愛
公爵令嬢のマリエッタは、皇太子妃候補として育てられてきた。
皇太子殿下との仲はまずまずだったが、ある日、伝説の女神として現れたサクラに皇太子妃の座を奪われてしまう。
さらには、サクラの陰謀により、マリエッタは反逆罪により国外追放されて、のたれ死んでしまう。
しかし、死んだと思っていたのに、気づけばサクラが現れる二年前の16歳のある日の朝に戻っていた。
それは避けなければと別の行き方を探るが、なぜか殿下に一度目の人生の時以上に溺愛されてしまい……!?
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる