虫愛ずる令嬢は、追放先から王国を蟲毒に沈める

aozora

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 夜の帳が下りた嘆きの森に、張り詰めた静寂が満ちていた。

 イーサンの隠れ家には、粗末なランプの灯りが揺らめき、集った者たちの真剣な横顔を照らし出している。

 セリーナとイーサンの向かいに座るのは、命がけで王都を抜け出してきた「沈黙の蜂」の幹部たちだ。先代国王に仕えた元騎士団長、白髪の宰相補佐官、そして諜報を担ってきた痩身の男。皆、その瞳には悲壮な決意と、この国の未来を憂う深い苦悩の色が浮かんでいた。

「皆様、お父様の手引きがあったとはいえ、この嘆きの森までご無事で何よりです」

 セリーナが労いの言葉をかけると、元騎士団長が深々と頭を下げた。

「……つまり、王宮の地下には、そのようなおぞましいものが」

 元騎士団長が、かすれた声で呟いた。彼の節くれだった指が、固く握りしめられている。

 先ほど、セリーナとイーサンは、キメラ・クイーンの存在と、スカーレット一族の最終計画の全てを彼らに明かした。人々を意のままに操る生体兵器。建国記念祭を利用した、王国全体の乗っ取り。それは、彼らが想像していた腐敗や簒奪の企みを、遥かに超える冒涜的な計画だった。

「にわかには信じ難いが……街で頻発している諍いや暴動を思えば、辻褄が合う。すでに我々の足元は、見えぬ毒に蝕まれ始めているのだ」

 宰相補佐官が、重々しく頷く。

 誰もが言葉を失い、絶望的な戦力差に唇を噛む中、セリーナは静かに立ち上がった。その姿には、もはや追放された令嬢の弱々しさは一片もなく、凛とした指導者の威厳が満ちていた。

「絶望している時間はありません。敵の計画は、我々に反撃の好機をも与えてくれました。建国記念祭の日、敵の油断が最大になるその瞬間こそ、我々が動くべき時です」

 彼女の澄んだ声が、隠れ家の空気を引き締める。幹部たちの視線が、一斉に彼女へと注がれた。若く、か細い少女。だが、その瞳に宿る光は、誰よりも強く、気高かった。彼らはこの瞬間に、血筋ではない、真の女王がここにいることを確信した。

 セリーナはイーサンに目配せをする。彼は頷き返し、壁に広げられた巨大な王都の地図の前に立った。

「これより、最終作戦の概要を説明する。作戦名は『オペレーション・メタモルフォーゼ』。旧い王国を喰らい、新しい国へと羽化させるための、我々の変態だ」

 イーサンは壁の地図を指し示し、冷静な口調で、作戦の骨子を語り始めた。その言葉の一つ一つが、絶望の中に確かな光明を灯していく。

「作戦は、建国記念祭の祝砲を合図に、三つの部隊が同時に行動を開始する。これは精密な時間との戦いだ。一つでも歯車が狂えば、全てが失敗に終わる」

 彼は地図上の幾つかの地点を、ナイフの先で指し示した。

「第一段階。セリーナが率いる『見えざる軍勢』が、王都のインフラを沈黙させる。伝令鳥の通信網、兵站となる食料庫、そして城門の開閉機構。我々の突入経路を確保し、敵の反撃の芽を完全に摘む」

「インフラの麻痺、と簡単に言うが、具体的にどうやって敵の目を欺き、城門を無力化するのだ?」

 元騎士団長が問う。その問いは、彼ら武人の常識では計り知れない領域だった。

「それは我らが女王の領域です」

 イーサンは毅然と言い放った。

「常識は通用しません。彼女の蟲統術は、あらゆる防衛を無力化する。誰にも気づかれることなく、王都は機能を停止するでしょう」

 幹部たちが、息を呑む。彼らの知るどんな戦術とも異なる、異次元の戦いだった。

「第二段階。『沈黙の蜂』の本隊が、機能不全に陥った城門から城内へ突入。混乱する衛兵たちを最小限の戦闘で制圧し、祝宴会場にいるマクシミリアン、国王、そしてスカーレットとその一族を一斉に確保する」

 元騎士団長が、力強く頷いた。それは、彼ら武人が最も得意とする領域だった。

「そして、第三段階」

 イーサンは、地図の中心、王宮の真下を指した。

「俺とセリーナが、王宮地下に潜入。諸悪の根源であるキメラ・クイーンを、その手で破壊する」

 最も危険で、最も重要な役割。それを、二人が担う。誰一人、異を唱える者はいなかった。この革命が、セリーナという女王なくしては成り立たないことを、誰もが理解していたからだ。

「以上が、我々の革命の全てだ。異論は?」

 イーサンが一同を見渡す。
 沈黙を破ったのは、白髪の宰相補佐官だった。彼は椅子から立ち上がると、深く、恭しくセリーナに頭を下げた。

「異論などございません。セリーナ様。あなたの指揮のもと、我らは命を懸けましょう。この国を、あるべき姿に取り戻すために」

 その言葉に続くように、元騎士団長も、諜報の男も、固い決意を込めて頭を垂れた。彼らは、セリーナの中に、血筋や権威ではない、真の指導者の器を見ていた。

 作戦会議が終わり、幹部たちがそれぞれの持ち場へと戻っていく。嵐の前の静けさが、森を支配していた。

 その夜更け、隠れ家の入り口に、一つの人影が立った。みすぼらしい旅人のマントを羽織っているが、その佇まいには隠しきれない気品がある。

「セリーナ」

 その声に、セリーナは弾かれたように顔を上げた。

「お父様……!」

 そこに立っていたのは、危険を冒して会いに来た父、ダヴェンポート侯爵だった。
 セリーナは駆け寄り、父の胸に顔を埋めた。やつれた父の姿に、胸が締め付けられる。

「無茶ですわ、このような場所に……」

「我が娘の晴れ舞台だ。顔を見ずにはいられんだろう」

 侯爵はそう言うと、セリーナの肩を掴み、その顔をしみじみと見つめた。追放された時の怯えた少女の面影はない。幾多の困難を乗り越え、強く、美しく成長した娘の姿がそこにあった。

「……立派になったな」

 侯爵の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

「お前はもはや、ダヴェンポート家の、そしてこの私の誇りだ」

「お父様……」

「だから、頼みがある」

 侯爵は、真剣な眼差しで娘を見据えた。

「第二段階の作戦、祝宴会場で貴族たちを引きつける役目……私にやらせてはくれまいか。マクシミリアンたちを油断させ、時間を稼ぐ。お前を追放した者たちの前で、この手で反撃の狼煙を上げる。それが、お前の道を切り拓くための、父親としての最後の務めだ」

 それは、最も危険な囮役だった。一歩間違えれば、真っ先に命を落とすことになる。
 セリーナは唇をきつく結んだ。父の覚悟を、無にはできない。

「……分かりました。お父様の役目、確かにお受けいたします。ですが、必ずご無事で。生きて、新しい国の夜明けを、私と一緒に見届けてください」

「ああ、必ず」

 父と娘は、固く抱き合った。それは、言葉にならない多くの想いが込められた、決意の抱擁だった。

 父が闇夜に紛れて去っていった後、セリーナは一人、ランプの灯りの下で静かに座っていた。

 背後から、イーサンが静かに近づき、彼女の隣に腰を下ろす。

「……怖いか?」

 彼の問いに、セリーナは小さく頷いた。

「怖いです。たくさんの人の命が、私の判断一つにかかっている。私がもし間違えたら……」

 彼女の声には、張り詰めた不安が滲んでいた。

「お前は間違えない」

 イーサンは、きっぱりと言い切った。その言葉には、一切の迷いがなかった。

「お前の判断は、常に正しい。なぜなら、お前の根底には、蟲たちへの、生命そのものへの愛があるからだ。それは、どんな戦術よりも強く、正しい羅針盤だ。俺は、かつてその羅針盤を見誤った。だから、今度こそは、お前を間違えさせない」

 彼の言葉が、セリーナの心の不安をそっと溶かしていく。彼女は意を決したように、イーサンに向き直った。

「イーサン。一つだけ、お願いがあります」

「なんだ」

「もし……もし、私が帰らなかったら……地下で、私に何かあったら……」

 セリーナは一度言葉を切り、震える声で続けた。

「私の蟲たちを、森に返してあげてください。彼らを、自由にしてあげて……」

 それは、死を覚悟した者の言葉だった。
 だが、イーサンは彼女の言葉を遮るように、力強くその肩を掴んだ。彼の顔が、息がかかるほどの間近に迫る。ランプの光を宿した灰色の瞳が、逃がすまいと彼女を射抜いていた。

「ふざけたことを言うな」

 彼の声は低く、しかし熱を帯びていた。

「お前が帰る場所は、この森でも、王宮でもない。俺の隣だ」

「……イーサン」

「それ以外の未来は認めない。絶対にだ。俺が必ずお前を連れて帰る。分かったな」

 有無を言わさぬ、絶対的な響き。それは命令でも懇願でもなく、揺るぎない事実を告げるかのような、魂の誓いだった。
 セリーナの瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。不安も、恐怖も、彼の言葉一つで、絶対的な安心感へと変わっていく。
 彼女は、胸元に下げていた小さなカブトムシのお守りを、ぎゅっと握りしめた。イーサンが、彼女のために手ずから彫ってくれた、不格好で、温かいお守り。それが、彼女の心の奥底に、確かな希望の光を灯した。

「……はい」

 頷くのが、精一杯だった。

 翌朝。

 王都に、建国記念祭の始まりを告げる荘厳な祝砲が鳴り響いた。

 華やかなパレード、民衆の歓声、鳴り響くファンファーレ。王都が祝祭の熱気に包まれる中、その喧騒から隔絶された嘆きの森で、セリーナは静かに目を閉じた。
 彼女の意識が、森から王都へと、蜘蛛の糸のように広がっていく。

「……始めましょう」

 彼女の静かな呟きが、革命の号砲となった。

 その意思は、見えざる波紋となって王都全域へと広がり、何十億という小さな生命体の魂を、ただ一つの目的のもとに束ねていく。

 その瞬間。

 王都の石畳の下で、城壁の隙間で、食料庫の暗闇で、何十億という蟲たちが、一斉にその活動を開始した。
 誰にも知られることなく、音もなく、静かなる侵略が、今、始まった。
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