無能と蔑まれ婚約破棄された私の数学は、最強の剣術でした~元婚約者が後悔した頃には、寡黙な辺境伯に世界一溺愛されています~

aozora

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 エララの静かな呟きは、宿屋の喧騒にかき消されそうなほど小さなものだった。

「……複雑な方程式ほど、心を惹かれますわ」

 だが、隣に立つカシアンの耳には、その言葉が明確に届いていた。

 彼は嘲笑の渦の中心で、ただ一人、穏やかな表情を崩さない少女に視線を落とす。

「ええ、きっと。君が導き出す『解』は、いつだって、彼らの想像を遙かに超える美しさを見せるでしょう」

 灰色の瞳に宿るのは、恐怖ではない。

 それは、難解なパズルを前にした学者のような、純粋な、知的好奇心の輝きだった。

 周囲の騎士たちが憐れみや侮蔑の視線を向ける中で、エララの世界は、ただ静かに、これから解き明かすべき真理の探求へと向かっていた。

「ああ、もちろんだ」

 カシアンは、囁きに囁きで返す。

「君の知性が示す道は、常に最も美しく、そして確実だ。彼らには、その真理を理解することすらできまい」

 その声には、絶対的な信頼が込められていた。

 二人の間には、他者の評価など入り込む余地のない、静かで強固な結びつきが確かに存在していた。

 ざわめきは、まだ続いている。

 だが、エララにとっては、それはもはや遠い世界の雑音に過ぎなかった。

 彼女の思考は既に、盤上へと移っていた。対戦相手という名の変数。彼の剣筋、重心移動、力のベクトル。

 それら全てを組み込んだ、壮麗な数式を組み立て始めているのだった。

 ***

 剣術大会『証明の場』の当日は、王都を揺るがすような熱気に包まれていた。

 円形の巨大な闘技場は、ひしめき合う観客で埋め尽くされている。色とりどりの旗が風にはためき、楽団の奏でる勇壮な音楽が人々の興奮を煽っていた。

 貴族たちが陣取る豪奢な観覧席。平民たちが声を枯らして声援を送る立ち見席。

 そして、その中央には、王族専用の、天蓋付きの特別席が設けられていた。

 そこには、金糸銀糸で彩られた軍服に身を包んだアラリック王子と、隣で扇を優雅に揺らすイゾルデ嬢の姿があった。

「今年の参加者は粒ぞろいだと聞く。特に、ガウェイン・アームストロング卿の剣には期待している」

 アラリックは、満足げに呟く。

 彼の目は、これから繰り広げられるであろう力の饗宴を、まるで自分の権威の現れであるかのように見つめていた。

 一方、エララとカシアンは、そんな華やかな場所とは無縁の、薄暗く、汗と鉄の匂いが立ち込める参加者控え所にいた。

 屈強な騎士たちが、武具の立てる硬質な音を響かせながら、思い思いに試合前の時間を過ごしている。

 ある者は瞑想し、ある者は自慢の剣を磨き、またある者は野卑な冗談を飛ばし合っていた。

 その中で、細身の剣を一本携えただけの、質素な革鎧姿のエララは、あまりにも異質だった。

 彼女の静謐な存在感は、この場所の荒々しい空気とは決して交わらない。

「おい、見たかよ。あのお嬢ちゃん」

「どこぞの田舎貴族が、物見遊山で参加したんだろう」

「ガウェイン卿の初戦の相手らしいぜ。怪我しなきゃいいがな」

 ここでもまた、侮りと憐れみの視線がエララに注がれる。

 しかし、彼女はただ静かに目を閉じ、意識を集中させていた。頭の中に、無数の幾何学模様が明滅する。

 やがて、重々しい足音が響き、控え所の空気が一変した。

 現れたのは、熊と見紛うばかりの巨漢だった。身の丈は七尺(約二メートル)はあろうか。

 分厚い鋼の鎧を身に着け、背には人の背丈ほどもある両手剣を背負っている。顔には幾筋もの古い傷跡が走り、その威圧感だけで、並の騎士なら竦み上がってしまいそうだ。

 “豪剣”ガウェイン・アームストロング卿。その人だった。

 ガウェインは、周囲の騎士たちを睥睨するように見回すと、やがてその視線をエララに留めた。

「……ほう。貴様が、俺の最初の相手か」

 地響きのような声だった。

「フェイランの……何とか言ったな。まるで雛鳥だ。悪いことは言わん。今すぐ棄権して、お母さんのところに帰るんだな。この俺の剣は、女子供に振るうには重すぎる」

 あからさまな侮蔑。周囲から、くつくつと笑い声が漏れる。

 エララはゆっくりと目を開いた。

「ご忠告、痛み入りますわ、アームストロング卿」

 その声は、凪いだ湖面のように静かだった。

「ですが、わたくしの剣は、卿の信じる『力』とは異なる法則に従います。それは、重さや大きさでは測れない、もっと普遍的な真理ですもの」

 凛とした、しかしどこまでも穏やかな返答に、ガウェインは眉をひそめる。

 小娘の戯言だと断じ、彼は鼻を鳴らした。

「理、だと? 剣とは力だ! この俺が、それを証明してやる!」

 その時、甲高いファンファーレが鳴り響き、第一試合の開始が告げられた。

「第一試合! “豪剣”ガウェイン・アームストロング卿、対、フェイランの騎士エララ!」

 呼び出しの声に応え、ガウェインは巨大な両手剣を肩に担ぎ、闘技場へと続く通路を堂々と歩いていく。

 その背中に、万雷の拍手と歓声が送られた。

「エララ」

 カシアンが、静かに彼女の名を呼ぶ。

「君の証明を、見せてくれ」

「はい、カシアン様」

 エララは小さく頷くと、フェイラン鋼で打たれた、己の思考を体現したかのような細身の剣を手に、静かに立ち上がった。

 陽光が降り注ぐ、円形の闘技場『証明の場』。

 観客の熱狂は最高潮に達していた。特に、昨年度準優勝者であるガウェイン卿への期待は大きい。

 対するエララが姿を現すと、会場は一瞬、困惑のどよめきに包まれた。

「女……?」

「騎士、というより令嬢ではないか」

「何かの間違いだろう。あれが“豪剣”の相手だと?」

 嘲笑が、さざ波のように広がっていく。

 王族席のアラリックも、眉を寄せた。

「辺境伯の悪趣味か? あのようなか弱い娘を晒し者にするとは」

 イゾルデは、扇で口元を隠し、くすくすと笑っている。

 彼らはまだ、その「か弱い娘」が、かつて自分たちが追放した公爵令嬢であることには気づいていない。

 試合開始の鐘が、高らかに鳴り響く。

「うおおおおぉぉぉっ!!」

 ガウェインは獣のような雄叫びを上げ、大地を揺るがして突進した。

 振りかぶられた巨大な両手剣は、太陽の光を鈍く反射し、死の影をエララの上に落とす。

 巨大な鉄塊が降り注ぐような、あまりにも直線的な一撃。観客席から悲鳴が上がった。

 誰もが、次の瞬間には華奢な体が叩き潰される光景を思い浮かべた。

 だが。

 エララは動かない。

 ただ静かに、迫りくる剣の切っ先、その軌道、速度、角度を灰色の瞳に映している。

 ――変数入力完了。最適解の算出を開始。

 脳内で、無数の計算が瞬時に行われる。

 剣が振り下ろされる、まさにその刹那。

 エララは、ただ一歩、左に滑るように足を動かした。

 ゴウッ、という轟音と共に、両手剣がエララのいた場所を叩き、地面を砕いて土煙を上げる。

 紙一重。いや、それ以上に正確な回避。まるで、剣が彼女を避けたかのように見えた。

「なっ……!?」

 ガウェインが驚きに目を見開く。

 観客も、何が起きたのか理解できずに静まり返る。

「偶然か……! 次は仕留める!」

 ガウェインは体勢を立て直し、今度は竜巻のように腕を翻して横薙ぎに剣を振るう。

 嵐のような一撃が、エララの細い胴を断ち切らんと迫る。

 エララは、その場で僅かに身を屈め、同時に自らの剣の切っ先を、まるで指揮棒を振るかのように、ほんの少しだけ下げた。

 キィン、と甲高い金属音。

 エララの剣が、ガウェインの剣の腹に触れた。触れただけだ。

 しかし、その瞬間、凄まじい威力を持ったはずの横薙ぎは、まるで川の流れが岩に当たって逸れるように、軌道を変えて空を切った。

 力のベクトルを、最小限の力で逸らす。ギデオンの教えが、完璧な形で具現化されていた。

「……ば、馬鹿な!」

 ガウェインの顔に、焦りの色が浮かぶ。

 その後も、彼は何度も、何度も、猛攻を仕掛けた。

 地を穿つ突き、空を斬る斬り上げ、猛る嵐のような回転斬り。考えうる限りの豪剣が、エララに襲いかかる。

 だが、その全てが、まるで幻影を斬るかのように、エララの身体に届かない。

 彼女は、最小限の歩法(ステップ)だけで、全ての攻撃の線上に己が存在しない座標へと常に移動し続ける。

 攻撃を受け流す時も、力は一切使わない。相手の力を利用し、最も効率の良い角度で逸らすだけ。

 その動きは、もはや剣術ではなかった。

 それは、流麗な舞踏。物理法則という名の神に捧げられる、静かで、冷徹で、そしてあまりにも美しい、論理の舞だった。

 あれほど熱狂していた観客席は、水を打ったように静まり返っていた。

 誰もが、目の前で起きている信じがたい光景に、言葉を失っている。

「……なんだ、あれは……」

 ある者は呟き、ある貴族は青ざめた顔で訴えた。

「魔法か……? いや、魔力の流れは一切感じない……。騎士道に反する、邪道な戦い方だ!」

 平民たちはただ口を開けたまま、理解を超えた現象に畏怖の目を向けている。

「まるで……未来が見えているかのようだ」

 貴賓席のカシアンだけが、その光景を静かな微笑みと共に見つめていた。

 ――君の描く線は、どんな魔法よりも美しい。

 彼の言葉が、今、この『証明の場』で、現実のものとなっていた。

「はぁっ……はぁっ……!」

 ガウェインの息が上がる。彼の信じてきた「力」が、全く通用しない。

 巨大な剣を振るうたびに、体力だけが消耗していく。それは、出口のない迷路に迷い込んだような、底知れぬ恐怖だった。

「化け物め……!」

 自尊心を砕かれた怒りが、彼の理性を焼き切った。

「こ、これで、終わりだぁぁぁっ!!」

 ガウェインは残る全ての力を振り絞り、渾身の一撃を放つ。

 それは、彼の剣士人生の全てを賭けた、最大最強の『鉄槌』だった。

 ――最大の力は、最大の隙を生む。

 エララは、その瞬間を待っていた。

 彼女は、初めて前に踏み込んだ。

 大振りの剣が生み出した、致命的な懐の空白。その一点を目指し、彼女の体は滑るように移動する。

 時間が、止まったように見えた。

 空を切るガウェインの剣。

 彼の懐に深く入り込み、体勢を崩した巨漢の喉元に、音もなく突きつけられる、フェイラン鋼の鋭い切っ先。

 勝負は、決した。

 一瞬の静寂の後、審判が震える声で叫んだ。

「しょ、勝者、フェイランの騎士、エララァァァッ!!」

 その声が、魔法を解いた。

 闘技場は、先ほどまでの熱狂とは質の違う、爆発的などよめきに包まれた。

 信じられない、という驚愕の声が、渦のように会場を支配する。

 ガウェインは、己の喉元に突きつけられた剣先を見つめ、がくりと膝をついた。

 エララは、静かに剣を収めると、呆然とする元王国の剛者に背を向け、退場口へと歩き始めた。

 その時だった。

「――待て」

 凛とした、しかし不機嫌さを隠さない声が、闘技場に響き渡った。

 声の主は、王族席から身を乗り出すようにして、闘技場を見下ろしていた。第一王子、アラリック。

 彼は、ようやく気づいたのだ。その見たこともない剣術を使う無名の騎士が、自分が捨てた婚約者であるという事実に。

 アラリックは衛兵を押し退け、階段を駆け下りると、退場しようとするエララの前に立ちはだかった。

 その美しい顔は、驚愕と屈辱、そして理解できないものへの苛立ちで歪んでいる。

「……どこかで見た顔だと思ったが。エララ、お前だったのか」

 アラリックは、嘲るような笑みを無理やり浮かべた。

「公爵家から勘当され、辺境で騎士紛いの真似事とは……。落ちぶれたものだな」

 彼は、周囲に聞こえよがしに言い放つ。

「まさか、僕への当てつけか? この程度の小賢しい勝ち方で、僕の顔に泥を塗ろうとでもしたのか。どこまで愚かな女だ、お前は」

 その言葉は、勝者への賛辞ではなく、敗者への侮蔑そのものだった。

 エララは、ただ静かに、かつての婚約者を見つめ返した。

 彼女の灰色の瞳には、もはや何の感情も揺らめいてはいなかった。
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