婚約破棄? 国外追放?…ええ、全部知ってました。地球の記憶で。でも、元婚約者(あなた)との恋の結末だけは、私の知らない物語でした。

aozora

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 謁見の間を満たしていたのは、息を呑む音と、制御を失った囁き声が織りなす、奇妙な不協和音だった。

「ケインさん!」

 腕の中でぐったりと意識を失った騎士の体を、リナは必死に揺する。しかし、銀色の髪が虚しく揺れるだけで、紫水晶の瞳が開かれる気配はなかった。

 ただ、彼の唇の端に浮かんだ微かな笑みだけが、まるでこの状況を予期していたかのように、不思議な安らぎを湛えていた。

「な、なんですって……!? 一体、何が起こったと、おっしゃるのですか……!」

 イザベラが、狼狽した声を上げた。毒を盛ったはずの男が、死ぬどころか、意味不明な言葉を口にして倒れたのだ。

 彼女の完璧な脚本には、こんな展開は一文字も書かれていなかった。

「医師を! 宮廷医師を呼べ!」

 最初に我に返った大臣の一人が叫び、衛兵たちが慌ただしく動き出す。貴族たちは、恐々と、あるいは好奇の視線を、床に膝をつくリナと、彼女に抱かれたケインへと注いでいた。

 その喧騒の中心で、国王だけが、厳しい表情のまま、ある一点を凝視していた。

 それは、ケインが最後に口にした、聞き覚えのある名前。

「……エリアーナ、だと……?」

 国王の呟きは、誰の耳にも届かなかった。

 ケインが口にしたその名が、リナの心の奥深く、深い場所で忘れ去られた扉を激しく叩いた。切ないほどに愛おしく、同時に胸を締め付けるような痛み。

 それは、魂が覚えているはずの、しかし決して思い出せない記憶の欠片だった。

 その衝動に突き動かされ、リナはただ、腕の中で意識を失った騎士の名を呼び続けることしかできなかった。

 二人の運命が、今、再び大きく軋みながら動き出そうとしていた。

 やがて駆けつけた宮廷医師がケインの容体を診る間、リナはまるで罪人のように、その場から引き離されそうになった。

「衛兵! この女を捕らえなさい! 殿下に毒を盛ったのは、まさしくこの娘に違いありませんわ!」

 イザベラが甲高い声で叫び、衛兵たちがリナの腕を掴もうと迫る。

「待て」

 その衛兵たちの動きを止めたのは、玉座から響く、低く、しかし威厳に満ちた声だった。

 国王ヴァルター・フォン・ヴァイスリヒト。彼は厳しい眼差しでイザベラを一瞥し、次いでリナと、意識のないケインへと視線を移した。

「まず、医師の見立てを聞く。――そして、あの娘についてもだ。騎士ケインが身を挺して庇った者を、余がむやみに罰することはできぬ」

 国王の言葉は絶対だった。イザベラは唇を噛み締め、悔しげに扇子を握りしめる。

 宮廷医師はしばらくケインの脈を取り、瞳孔を確かめ、やがて困惑した表情で国王に向き直った。

「陛下。騎士ケイン殿の御身体に、毒物の反応はございません。脈拍、呼吸ともに正常。ただ、極度の精神的負荷により、一時的に意識を失っておられるだけのようです」

「……精神的負荷、だと?」

 国王が訝しげに眉をひそめる。

「はい。まるで、忘れていた何かを、無理やりこじ開けようとしたかのような……。今は安静にしていただくのが最善かと」

 医師の診断に、謁見の間は再びざわめきに包まれた。毒でないのなら、一体何が起きたというのか。誰もが困惑に沈んだ。

「……分かった。騎士ケインを客室へ運べ。手厚く看護せよ」

 国王が命じると、衛兵たちがケインの体を担架に乗せて運び出そうとする。

「あ……」

 リナは思わず、その背中に手を伸ばしかけた。離れたくない。その強い衝動が、胸の奥から突き上げてくる。

 その時だった。

「その娘も、共に」

 国王が、静かに付け加えた。

「陛下!?」

 イザベラが驚愕の声を上げる。

「ですが、この女は……!」

「黙れ、マーロウ嬢」

 氷のように冷たい声が、イザベラの言葉を遮った。

「これは王命である。ケインが目覚めるまで、薬師である娘をそばに置く。……何か、申し開きでもあるかな?」

 有無を言わせぬ圧力に、イザベラは顔を青くして俯くしかなかった。

 リナは戸惑いながらも、衛兵に促され、ケインが運ばれていく後を追った。去り際に振り返ると、イザベラが憎悪に燃える瞳で、自分を射抜くように睨みつけているのが見えた。

 王城の一室。豪奢だが、どこか無機質な客室のベッドにケインは横たえられていた。

 リナは医師から簡単な説明を受けた後、ただ一人、彼のそばに残ることを許された。

 静かな部屋に、ケインの穏やかな寝息だけが響く。

 リナは椅子を引き寄せ、彼の傍らに座った。そして、そっとその手に触れる。鍛えられた、大きくて無骨な手。けれど、いつも自分を守ってくれた、優しい手だ。

 (エリアーナ……)

 彼が最後に呼んだ名前が、耳の奥でこだましていた。

 その名前を思うと、自分の脳裏にも、知らないはずの光景が明滅する。

 陽光が降り注ぐ、美しい庭園。甘い花の香り。そして、目の前で優しく微笑む、銀髪の青年――――。

「う……」

 こめかみに走る鋭い痛みに、リナは顔をしかめる。記憶の断片は、いつも激しい頭痛を伴って現れ、そしてすぐに霧散してしまう。

 私は、誰なの……?

 そして、あなたは……。

 リナがケインの手を握りしめ、混乱する思考の中で答えを探していると、彼の瞼がかすかに震えた。

「……ん……」

 ゆっくりと、紫水晶の瞳が開かれる。

「ケインさん!」

 リナは思わず身を乗り出した。

 彼の瞳は、しばらく虚空を彷徨っていたが、やがてリナの顔を捉え、その焦点がぴたりと合った。

「……エリアーナ……」

 魂の奥底から絞り出すような、掠れた声で、彼は再びその名を呼んだ。その響きには、形容しがたい切実さが込められていた。

「私は、リナです。でも……」

 リナは戸惑いながらも、彼の言葉を否定しきれなかった。彼の呼びかけが、自分自身の奥深くにある何かに、強く共鳴しているのを感じたからだ。

 ケイン……いや、アリステアは、ゆっくりと体を起こした。まだ少し頭が痛むのか、眉間を指で押さえている。

「記憶が……戻ったのか……?」

 彼は呟くように言った。

「断片的だ。だが、魂が確かな感触を覚えている。エリアーナ……俺の、婚約者だった君のことだ」

「……!」

 リナは息を呑んだ。婚約者。その言葉の響きが、心の奥底にある鍵穴に、ぴたりと嵌るような感覚がした。

「なぜ……? どうして、私たちから記憶が……奪われたのでしょうか?」

「分からないことだらけだ。だが、一つだけ確かなことがある」

 アリステアは、揺るぎない確信を秘めた眼差しでリナを見つめた。

「君にかけられた罪状は、偽りだ。お前は禁術になど手を出していない。俺が、この魂がそう告げている」

 彼の言葉には、理屈を超えた真実が満ちていた。記憶が不完全でも、彼はエリアーナという人間の本質を覚えているのだ。

「だが、おかしい」

 アリステアは思案するように顎に手をやった。

「陛下がお前に下した罰は、『忘却の罰』。対象者の記憶を全て消し去るという、古代の禁術だ。だが、なぜ俺まで記憶を失った? 術が執行された時、俺は確かに君のそばにいた。……だが、術の余波が、無関係の俺にまで及ぶなどという話は聞いたことがない」

 王子としての明晰な頭脳が、状況の異常性を的確に分析し始めていた。

「罰が不自然すぎる。まるで、誰かが意図的に、俺たち二人から記憶を奪おうとしたかのようだ」

「意図的に……? 誰が、そんなことを……」

 リナの脳裏に、憎悪に満ちたイザベラの顔が浮かんだ。

「それを、これから調べる」

 アリステアはベッドから立ち上がった。その足取りに、もうふらつきはない。

「真実を突き止めなければならない。君の名誉を取り戻し、そして、俺たちの記憶を完全に奪還するために」

「どうするんですか?」

「王家の禁書庫へ行く」

 彼の紫水晶の瞳が、強い光を宿していた。

「『忘却の罰』について、詳しく調べる必要がある。術の性質、効果。そして、最も重要な『解除方法』だ。必ず、何か手がかりがあるはずだ」

「でも、禁書庫なんて、簡単に入れる場所じゃ……」

「王子としての権限を、行使させてもらう。……記憶は失っても、体が覚えている、俺の領域だ」

 アリステアは不敵に笑った。その表情は、辺境の騎士ケインのものではなく、自信に満ちた第一王子アリステアのものだった。

「リナ……いや、エリアーナ。君はここにいてくれ。ここは王城だ、下手に動けばイザベラの息がかかった者に見つかるやもしれん。俺が戻るまで、誰が来ても扉を開けるな」

「……はい。でも、気をつけて」

 リナは頷くことしかできなかった。彼を信じたい。心の底から、そう思った。

「ああ、必ず戻る」

 アリステアはリナの頬にそっと触れ、名残を惜しむように一度だけ目を伏せると、音もなく部屋を出ていった。

 一人残された部屋で、リナは自分の胸に手を当てる。心臓が、今まで感じたことのないほど、激しく、そして温かく脈打っていた。

 その頃、アリステアは王城の長い廊下を、迷うことなく進んでいた。

 衛兵に見つからぬよう、物陰から物陰へ。貴族や侍女たちの往来を避け、裏階段を使い、地下深くへと降りていく。

 記憶はまだら模様だ。しかし、幼い頃から慣れ親しんだ城の構造は、体が完璧に覚えていた。

 やがて彼は、重厚な鉄の扉の前にたどり着いた。王家の禁書庫。選ばれた王族と、許可を得た大賢者しか入室を許されない、知の聖域。

 扉には複雑な魔法錠がかけられている。しかし、アリステアは躊躇わなかった。彼は自らの指先を噛み切り、血の滲んだ指で、錠に刻まれた王家の紋章に触れる。

「我はヴァイスリヒトが血統。真理への道を求め、禁忌の扉を開く」

 詠唱と共に、紋章が淡い光を放ち、カチリ、と重い金属音が響いた。

 ゆっくりと扉を開き、中に滑り込む。

 ひんやりとした空気。そして、古い羊皮紙とインクの匂いが、彼の鼻腔をくすぐった。その匂いが、さらに遠い記憶の扉を叩く。

 膨大な書架が、天井まで届く勢いで迷路のように立ち並んでいる。

 (『忘却の罰』……たしか、古代魔術の中でも、精神干渉系の項目に記されていたはず……)

 アリステアは記憶の断片を頼りに、目当ての書物が収められている区画へと向かう。

 時間はあまりない。夜が明ける前に、全てを終わらせなければ。

 彼は魔導ランプに灯りをともし、一冊、また一冊と、背表紙を確認していく。『古代禁術大全』『失われた魔法体系』『魂魄論序説』……。

 そしてついに、彼は一冊の古びた魔導書に手を伸ばした。

 『禁忌呪法とその対抗策』。

 埃を払い、重い表紙を開く。羊皮紙のページは黄ばみ、インクは掠れていたが、そこに記された古代文字は、王子としての教育を受けた彼には問題なく読むことができた。

 指先で項目を辿り、彼は目的の記述を見つけ出した。

 【忘却の罰(The Blank Slate Curse)】

 アリステアは息を詰め、食い入るようにその文章を読み進めていく。

 術の成り立ち、必要な触媒、発動条件……。そこには、エリアーナの処罰の際に用いられたであろう、ロケットや水晶に関する記述もあった。

 そして、彼の目は、ある一文に釘付けになった。

「――本術の本質は、記憶の『消去』にあらず。対象者の魂の最深部に、記憶という名の情報を魔力障壁で『封印』する精神攻撃魔法の一種なり」

 消去ではなく、封印。

 アリステアの心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。

 ならば、封印を解く方法があるはずだ。

 彼は震える指で、さらにページを読み進める。

 そこには、絶望的な事実と、一条の光が記されていた。

「封印は術者の生命力と固く結びついており、外部からの物理的、魔術的干渉による破壊はほぼ不可能。しかし、唯一の例外が存在する」

 アリステアは、ごくりと唾を飲み込んだ。

「封印されし記憶と魂を揺さぶるほどの、強烈な感情の奔流。すなわち、死への恐怖、あるいは……身を焦がすほどの愛。それのみが、内側から魂の牢獄を破壊する、唯一無二の鍵となる――」

 鍵は、あった。

 アリステアは魔導書を閉じた。

 エリアーナの無実を証明し、そして何よりも、この封印を解き放つ鍵が、俺とエリアーナの間にあると知った。その希望が、アリステアの胸に熱く燃え盛る。

 彼の紫水晶の瞳には、先ほどまでの迷いはなく、必ず二人で真実を掴み、全てを仕組んだ者に、報いを受けさせてやるという、確固たる決意の光が燃えていた。

 夜明けは、もうすぐだった。
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