婚約破棄? 国外追放?…ええ、全部知ってました。地球の記憶で。でも、元婚約者(あなた)との恋の結末だけは、私の知らない物語でした。

aozora

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 夜の闇が最も深くなる頃を過ぎ、東の空が白み始めた。

 王城の禁書庫から静かに姿を現したアリステアは、一度だけ空を見上げた。

 夜明けは、もうすぐだった。

 彼の紫水晶の瞳は、夜の闇よりも深く、それでいて黎明の光を宿したように澄み切っていた。そこには、昨夜までの微かな迷いや、決断に至るまでの葛藤の影はもうない。

 禁書庫で知った真実が、彼の心に燃え盛る炎を灯し、全てを貫く鋼のような決意を固めさせていた。

 魔導書に記されていた真実――『忘却の罰』は記憶の消去ではなく、魂への封印であること。

 そして、その封印を内側から破壊する唯一の鍵が、「身を焦がすほどの愛」であること。

 その一文が、アリステアの凍てついていた心に、雷光のように響き渡った。

 愛する者への魂の叫びこそが、道を拓くのだと。

 鍵は、ある。

 俺と彼女の間に。

 その確信が、彼を突き動かした。

 アリステアは、リナが囚われているであろう王城の地下牢へと、迷いなく歩を進めた。

 第一王子直属の近衛騎士であることを示す白銀の腕章が、彼の揺るぎない身分を証明している。

 地下へと続く冷たい石の階段を下りると、松明の火が壁に揺らめく薄暗い通路が続いていた。

 湿った空気と、微かな鉄錆の匂いが鼻をつく。

 牢獄特有の重く澱んだ気配が、彼の肌を撫でた。

 牢の番をしていた二人の衛兵が、彼の姿を認めて驚愕に目を見開いた。

「け、ケイン殿!? 一体なぜこのような場所に……」

 アリステアは歩みを止めない。

 彼の全身から放たれる、王族だけが持つ圧倒的な威圧感と、戦場を生き抜いてきた騎士の鋭い殺気に、衛兵たちは思わず息を呑んだ。

 時間はない。

 東の空が白むたびに、彼女の命が削られていく。

「罪人イザベラ・マーロウを告発した薬師に、いくつか確認すべきことがある。……通せ」

 その言葉に、衛兵たちは困惑の表情を浮かべた。

 イザベラを「罪人」と呼ぶその断定的な響きに、一瞬言葉を失う。しかし、アリステアの声は氷のように冷たく、有無を言わせぬ響きを持っていたため、反論の言葉は喉の奥に引っ込んだ。

「し、しかし、国王陛下からの許可なくしては……」

 なおも食い下がろうとした衛兵の喉元に、アリステアは抜き放った剣の切っ先を突きつけていた。

 瞬きすら許さない、神速の動きだった。

「俺は第一王子アリステアだ。王子の名において、この女の尋問を許可する。異論は許さん」

 紫水晶の瞳が、射殺すような光を放つ。

 その瞳に見据えられた衛兵は、恐怖に顔を青くして震え上がった。

 目の前にいるのは、辺境帰りの一介の騎士ではない。触れれば斬られる、本物の強者だ。

「……はっ! どうぞ、こちらへ」

 衛兵は震える手で鍵を取り出し、一番奥の牢の扉を開けた。

 アリステアは剣を鞘に収めると、静かに牢の中へと足を踏み入れた。

 ひんやりとした石の床に、わずかな藁が敷かれているだけの簡素な牢。

 壁の高い位置にある小さな窓から、ようやく差し込み始めた朝の光が、一筋の帯となって床を照らしていた。

 その光の中に、小さな影が蹲っていた。

「……リナ」

 アリステアが名を呼ぶと、蜂蜜色の髪が揺れ、彼女はゆっくりと顔を上げた。

 不安と疲労の色が濃い翠の瞳が、彼を捉えて大きく見開かれる。

「ケイン、さん……っ!」

 リナの声は掠れていた。絶望の淵で、一晩を過ごしたのだ。無理もない。

 イザベラが勝ち誇ったように告げた「処刑」の二文字が、どれほど彼女を苛み、魂を削ったことだろう。

 その姿を見た瞬間、アリステアの胸を、どうしようもないほどの愛しさと、激しい怒りが同時に突き上げた。

 この世の全てを敵に回してでも、彼女を守り抜くという強烈な衝動が湧き上がる。

 リナは震える足で立ち上がると、おぼつかない足取りで鉄格子越しのアリステアに歩み寄った。

「どうして……ここに? 危ないです! あなたまで、イザベラ様に目をつけられたら……!」

 自分のことよりも、彼の身を案じる言葉。

 その優しさが、アリステアの心を締め付ける。

 この状況にあっても、他者を慮る彼女の魂の輝きに、彼の愛は一層深まった。

「もう心配はいらない」

 アリステアは鉄格子越しに手を伸ばし、そっと彼女の頬に触れた。

 ひんやりとした彼女の肌に、自分の体温が伝わっていく。その肌の冷たさが、彼女がどれほどの恐怖に苛まれていたかを物語っていた。

「必ず、お前をここから出す。俺が、全てを終わらせる」

 リナは、アリステアの様子がいつもと少し違うことに気づいていた。

 口数は少ないままだが、その瞳に宿る光の強さが、まるで違う。それは確信に満ちた、何者にも揺るがぬ決意の光だった。

「ケインさん……?」

「リナ。少しだけ、俺の話を聞いてほしい」

 アリステアは静かに語り始めた。

 自分の脳裏に蘇った、断片的な記憶の話を。

 そして、禁書庫で辿り着いた、魂の真実を。

「リナ……いや、エリアーナ。俺は、ずっとお前を探していた。記憶がなくとも、この魂がお前を求め続けていたんだ」

 アリステアの紫水晶の瞳が、真っ直ぐにリナの翠の瞳を射抜く。

「あの庭園の夢、白い花……全て、お前との記憶だ。俺の魂は、ずっとお前を覚えている。……俺の半身、魂の片割れは、お前だったんだ、エリアーナ! 俺の、愛しい人……!」

 彼の言葉の一つ一つが、リナの魂に染み込んでいくようだった。

 そうだ、と魂が肯定している。

 この人は、ただの騎士ではない。自分にとって、かけがえのない、特別な人なのだと。

「記憶が俺を王子だと言うのなら、俺の魂は、お前を愛する一人の男だと叫んでいる」

 彼は鉄格子越しに、リナの冷たい手を両手で包み込んだ。

 その手は、わずかに震えていた。それは恐怖ではない。彼の魂が、今、最大の賭けに出ている証だった。

「辺境の村で再びお前に出会えたのは、偶然じゃない。運命だったんだ、エリアーナ。俺は、お前を愛している」

 告白。

 それは、アリステアの魂からの、偽りのない叫びだった。

 ケインとして過ごした日々の無意識の庇護欲も、アリステアとして苦悩した日々の想いも、全てがこの一言に集約されていた。

 リナの翠の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。

 それは悲しみの涙ではない。凍てついていた心が、彼の熱い想いに溶かされていくような、温かい涙だった。

「ケインさん……っ」

 彼女もまた、ずっと感じていたのだ。彼にだけ感じる、特別な引力を。

「心が、あなただと叫んでいたんです。……いいえ、魂が、覚えていたんです」

 リナは震える声で告げた。

「初めてお会いした時から、あなたの瞳を知っているような気がして……あなたの隣だけが、私の本当の居場所だと、心が教えてくれるんです」

 記憶のない自分が、誰かをこれほどまでに信じ、焦がれることがあるなんて、思ってもみなかった。

「理由なんて、分かりませんでした。でも、あなたのそばにいると、胸が温かくなって……とても、幸せでした」

 リナは、包まれた自分の手に、もう片方の手を重ねた。

「ずっと、あなたを求めていました。ケインさん、いいえ……私、あなたのことを、心から愛しています」

 その瞬間だった。

 ゴォン……ッ!

 まるで、世界のどこかで巨大な鐘が打ち鳴らされたかのような、荘厳な音が二人の魂に直接響き渡った。

 それは、失われた記憶の壁が、揺るぎ始めた音。

「「……ッ!」」

 同時に、激しい閃光が頭の中を駆け巡る。

 パリン、と硝子が砕けるような微かな音がして、二人を縛り付けていた見えない鎖に、大きな、決定的な亀裂が入った。

 奔流のように、記憶の断片が溢れ出す。

 王立学園のテラスで交わした、ぎこちない会話。

 星月夜の舞踏会で、触れ合った指先の熱。

 公務の合間に、彼が淹れてくれた不器用な紅茶の味。

 エリアーナ、と優しく名を呼ぶ、アリステアの声。

 アリステア殿下、と微笑み返す、エリアーナの顔。

 それはまだ、全てを取り戻すには至らない。

 だが、魂の牢獄を覆っていた分厚い壁は、二人の愛の告白という強烈な衝撃によって、崩壊の一歩手前まで来ていた。

 『身を焦がすほどの愛』が、確実に封印を砕き始めたのだ。

 激しい頭痛と目眩に、リナは思わずよろめく。

 アリステアは鉄格子越しに、力強く彼女の腕を支えた。

「大丈夫か、リナ!」

「はい……なんだか、たくさんの光が……頭の中に……」

 リナは潤んだ瞳でアリステアを見上げる。

 彼の瞳が捉えたのは、もう辺境の騎士ケインだけではない。誇り高く、そして優しい王子、アリステア・レオンハルト・ヴァイスリヒトの面影が、はっきりと重なって見えた。

「今はそれでいい。完全な記憶は、全ての戦いが終わった後、必ず二人で取り戻す」

 アリステアの瞳に、再び強い光が宿る。

「リナ。俺を信じて、ここで待っていてくれ。お前を陥れた者、俺たちの記憶を弄んだ者に、必ずや報いを受けさせる」

 その言葉には、一片の疑いもなかった。

 彼は必ずやり遂げるだろう。リナは、魂のレベルでそれを理解した。

「……はい。信じています、アリステア……殿下」

 彼女の唇から、無意識のうちにその名が滑り落ちた。自身でも驚き、ハッと息を呑むリナ。

 しかし、彼の瞳は優しく、その名を肯定するように微笑んでいた。

「ああ、エリアーナ。必ずだ。この命に代えても、お前を迎えに来る。だから、もう少しだけ、俺を待っていてくれ」

 彼はリナの手を名残惜しそうに離すと、牢の扉へと向き直った。

 衛兵が呆然と二人を見つめている。

「開けろ」

 アリステアの命令に、衛兵ははっと我に返り、慌てて扉の錠を開けた。

 牢を出たアリステアは、一度だけ振り返り、リナに力強く頷いてみせた。

 そして、彼はもう迷うことなく、光の差す地上へと続く階段を上っていく。

 彼の背中が闇に消えても、リナはその場から動けずにいた。

 一人残された牢の中は、先ほどまでとは全く違う空気に満ちていた。

 彼の体温が残る鉄格子に触れると、冷え切った心が温かい光に包まれる。絶望の澱は消え去り、希望の香りが胸いっぱいに広がる。

 リナはそっと自分の胸に手を当てた。

 心臓が、力強く、そして温かく鼓動している。

 魂の封印に入った亀裂から、愛という名の光が漏れ出し、彼女の全身を内側から照らしているかのようだった。

 もう、怖くはない。

 だが、安堵は長くは続かなかった。

 その時、地下の奥深くから、微かな振動と、不気味な獣の唸り声のようなものが響いてきた。

 ドォン……ドォン……と、心臓に直接響くような、重苦しい響き。

 牢獄の壁が、わずかに震える。

 衛兵たちが、通路の奥から聞こえる音にざわつき始めた。

 夜明けを迎えつつある王城の地下で、何かが始まろうとしている。アリステアが去った今、この牢獄に、新たな嵐が迫っているかのようだった。

 翠の瞳に、夜明けの光を映しながら、リナは彼の勝利を、そして二人の未来を、強く信じた。

 しかし同時に、彼女は全身に走る悪寒を感じていた。

 彼が去ったばかりのこの場所で、何かが蠢いている。

 戦いは、まだ始まったばかり――その予感が、リナの全身を駆け巡った。

 守るべきものが、はっきりと見えた今、彼女はもう、怯まない。
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