ざまぁ?結構ですわ。私はただ、この手で物語を紡ぐだけ――そう思っていたら、私の装飾写本が文化革命を起こして、元婚約者が土下座しに来ました。

aozora

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 意識が浮上した時、セラフィナは硬い木の板の上で揺られていた。

 どれくらい気を失っていたのだろう。王宮の床に崩れ落ちた後の記憶は、ひどく曖昧だった。誰かに腕を引かれ、引きずるようにして夜会から連れ出されたことだけを、断片的に覚えている。

 ごつごつとした衝撃が、定期的に背中を打つ。うっすらと目を開けると、粗末な幌馬車の天井が見えた。ギシギシと絶え間なく鳴る車輪の音と、吹き抜ける乾いた風が、ここがもはや王都ではないことを告げていた。

 追放。

 国王が言い放った言葉が、頭の中で冷たく反響する。彼女の人生から、すべての光と色が奪われた瞬間。

 ゆっくりと身体を起こすと、窓の外に荒涼とした風景が流れていくのが見えた。赤茶けた大地と、ごつごつとした岩肌。王都周辺の緑豊かな丘陵地帯とはまるで違う、厳しく、痩せた土地。

 けれど、その荒野にも生命はあった。見たこともない、棘だらけの奇妙な低木が風にそよぎ、岩の隙間からは、まるで鉱物のように鈍い光を放つ葉を持つ植物が顔を覗かせている。それは、王都の整えられた庭園には決して存在しない、野生的で強靭な生命力だった。

 だが、その光景も、今のセラフィナの心には何一つ響かない。彼女の瞳は、ただ虚ろに景色を映すだけ。感情というものが、すっかり抜け落ちてしまったかのようだった。

 一度だけ、馬車の御者が無言で差し出した硬いパンを受け取った。しかし、一口も喉を通らなかった。指の間でぼろぼろと崩れ落ちていくそれを、彼女はただ、人形のように見つめているだけだった。

 胸に抱えているのは、使い古された木製の道具箱。

 『役立たずなガラクタ』――王太子アレクシスの嘲笑が、耳の奥で不快に蘇る。イザドラが勝ち誇ったように見せた、憐れむような視線も。

 衛兵が乱暴に邸宅から運び出したそれを、彼女は必死で抱きしめて馬車に乗り込んだ。これだけが、かつて自分であったことの唯一の証明だった。

 どれほどの時間が過ぎたのか。昼が夜になり、また昼が訪れるという単調な繰り返しが幾度かあった後、馬車は速度を落とした。

 やがて、遠くに巨大な建造物が見えてくる。城というには装飾がなく、ただひたすらに高く、分厚い石壁が天を衝いていた。それはまるで、自然の岩山からそのまま削り出したかのような、質実剛健という言葉を体現した砦だった。

 ここが、西の辺境。そしてあの砦が、彼女の新たな牢獄となる辺境伯の居館なのだろう。

 馬車が巨大な城門の前で止まると、重々しい音を立てて扉が開かれた。中庭に乗り入れると、一人の男が馬車の前に立っていた。

 供も連れず、ただ一人。

 歳は二十代半ばだろうか。黒曜石のような黒髪は短く刈り込まれ、鍛え上げられた長身痩躯は、貴族というよりは戦士のそれに近い。飾り気のない、実用的な革の服を身にまとい、その顔や節くれだった手には、いくつかの古い傷跡が生々しく残っていた。

 セラフィナは、ぼんやりとした頭で馬車を降りようとした。長旅でこわばった足がもつれ、よろめく。

 地面に倒れ込む、と思った瞬間、力強い腕が彼女の身体をさっと支えた。

 驚いて顔を上げると、男の鋭い灰色の瞳と視線がぶつかった。彼はすぐに手を離し、何事もなかったかのように一歩下がる。

「カイ・ウォーカーだ。この地の領主をしている」

 低く、感情の抑揚に乏しい声だった。自己紹介はそれきり。歓迎も、憐憫も、その声には一切含まれていない。

 セラフィナは、その圧倒的な存在感と、すべてを見透かすような視線に射竦められ、ただ小さく頷くことしかできなかった。王太子アレクシスとはまったく質の違う、揺るぎない自信と力が、彼からは滲み出ていた。

 カイは、セラフィナが震える手で抱える道具箱に、ほんの一瞬、目を留めた。素人が持つには、あまりに精緻な木組みと意匠。厄介払いされた追放者の持ち物としては不釣り合いなそれに、彼の灰色の瞳が値踏みするような光を宿したが、それはすぐに消えた。

「ついてこい」

 短くそれだけ言うと、カイは踵を返し、砦の中へと歩き出した。その背中を、セラフィナは人形のように、おぼつかない足取りで追うしかなかった。

 砦の内部は、外観の印象を裏切らなかった。華美な装飾は一切なく、磨き上げられた石の床と壁が、ひんやりとした空気を湛えている。そこにあるのは、機能性と堅牢さだけ。虚飾に満ちた王宮とは、何もかもが正反対だった。

 長い廊下を抜け、螺旋階段をいくつか上った先で、カイは一つの扉の前で立ち止まった。

「ここがお前の部屋だ」

 扉を開けると、簡素な部屋が現れた。ベッドと、小さな机と椅子、そして衣類を入れるための簡素な戸棚。それだけ。けれど、床は塵一つなく掃き清められ、ベッドには清潔なリネンがかけられていた。窓からは、西日が静かに差し込んでいる。

 カイは部屋には入らず、戸口に立ったまま言った。

「食事は朝夕の二度、侍女が運ぶ。それ以外で何かが必要なら、侍女に伝えろ。可能な範囲で用意させる」

 彼は淡々と、まるで業務連絡のように告げる。

「問題を起こさぬ限り、ここでの行動は自由だ。書庫の利用も許可する。ただし、無断で砦の外に出ることは禁じる」

 自由。その言葉が、セラフィナの胸に奇妙な波紋を広げた。罪人として、どこかに監禁されるものとばかり思っていた。同情も、憐憫もない。かといって、憎悪や侮蔑もない。カイの態度は、あまりに事務的で、予測がつかない。それが逆に、彼女を混乱させた。

「……なぜ」

 かさかさに乾いた唇から、ようやく絞り出した声だった。

「なぜ、私を……?」

 厄介者であるはずの自分を、なぜこの男は受け入れたのか。

 カイは、まるで分かりきった問いを発する子供でも見るかのように、初めてわずかに眉根を寄せた。

「国王陛下からの命令だ。それ以上でも、それ以下でもない」

 彼はそれだけ言うと、セラフィナに背を向けた。だが、去り際に一瞬だけ足を止め、部屋のテーブルに置かれた水差しを顎で示す。

「……水だ。喉が渇いているだろう」

 その言葉には、やはり何の感情もこもっていなかった。バタン、と重い扉が閉められ、セラフィナは部屋に一人取り残された。

 しん、と静まり返った部屋で、彼女はしばらく立ち尽くしていた。全てを失い、見知らぬ土地に捨てられ、感情は麻痺しているはずなのに、カイ・ウォーカーという男の存在が、凍てついた心の表面を微かに波立たせる。

 やがて、彼女はふらふらと窓辺に歩み寄った。窓の外には、中庭が見える。そこには、先ほど道中で見かけたのと同じ、葉が金属のような鈍い光沢を放つ不思議な植物が、群生していた。まるで、鉄でできているかのように硬質で、それでいて風にしなやかに揺れている。

 王都の誰も見向きもしない、辺境の、名もなき植物。今の自分のようだ、とセラフィナは思った。

 彼女はゆっくりと床に膝をつき、胸に抱えていた道具箱をそっと置いた。震える指で、留め金を外す。

 ぎぃ、と小さな音を立てて蓋が開いた瞬間、セラフィナは息をのんだ。

 箱の中は、惨状と化していた。

 長旅の激しい揺れで、彼女が最も愛用していた緋色のインクを入れた、小さなガラスの壺が割れてしまっていたのだ。

 鮮烈な緋色が、箱の中に無残に広がっている。そして、そのインクは、彼女がいつか特別な物語を綴るためにと、何年もかけて手ずから加工した、最高級の純白の羊皮紙の束に、大きな、大きな染みを作っていた。

 それは、ただの染みではなかった。

 まるで、心臓から流れ出した血の跡。

 普段なら心を落ち着かせてくれるはずの、鉱物と樹脂の混じったインクの香りが、今はただ鉄錆の匂いのように感じられ、吐き気を催させた。

 彼女の情熱そのものであったはずの緋色は、今や拭い去ることのできない心の傷跡となり、純白の未来を汚していた。

 王宮で断罪された時も、追放を宣告された時も、どうにか堪えていた涙の堤が、その光景を前に、ついに決壊した。

「あ……ぁ……」

 声にならない嗚咽が、喉から漏れる。

 情熱の象徴は、痛みの証と化した。

 希望の羊皮紙は、絶望の血で染まった。

 もう、何も残っていない。自分には、何も。

 セラフィナは、インクで汚れた羊皮紙に顔を埋めた。声を殺し、ただひたすらに肩を震わせる。誰にも見られることのない、辺境の砦の一室で、彼女は生まれて初めて、心が砕ける音を聞いた気がした。
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