ざまぁ?結構ですわ。私はただ、この手で物語を紡ぐだけ――そう思っていたら、私の装飾写本が文化革命を起こして、元婚約者が土下座しに来ました。

aozora

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 カリ、カリ、と硬質な音が、静寂に満ちた写字室に心地よく響いていた。

 大理石の乳鉢の中で、鮮血のような色の鉱石が、ガラスの乳棒によって丹念にすり潰されていく。セラフィナ・ド・ヴァレンシアは、息を詰め、全神経を指先に集中させていた。細かな粒子になった辰砂は、光を受けると絹のように滑らかな光沢を放つ。

 彼女の銀灰色の長い髪は、一本の革紐で無造作に束ねられ、背中に垂れている。着古した作業着の袖は捲り上げられ、その下から覗く繊細な手首から指先にかけては、青や緑、黄金色のインクの染みが、まるで奇妙な刺青のようにこびりついていた。

 だが、彼女はそれを気にも留めない。むしろ、その染みこそが彼女の誇りであり、生きた証だった。

 十分に細かくなった顔料に、彼女は温めたアラビアゴムの溶液を数滴、慎重に垂らす。甘く、どこか樹脂っぽい香りがふわりと立ち上った。乳棒で練り上げると、顔料はみるみるうちに命を吹き込まれたかのように艶を増し、粘り気のある液体へと姿を変えていく。

 深紅ではなく、朱でもない。燃えるような、それでいてどこか荘厳さを秘めた、緋色。

「……美しい……」

 思わず、吐息のような声が漏れた。紫色の瞳が、恍惚とした強い光を宿して揺らめく。まるで自らの魂を溶かし込んだかのようなその色を前に、彼女はもはやただの侯爵令嬢ではなかった。千年の時を超えた古代の技法を受け継ぐ、孤高の職人だった。

 顔料の調合、羊皮紙や特殊紙の加工、そして羽根ペンを走らせるカリグラフィーと、物語を彩る細密画。その全てを、彼女はこの薄暗い写字室で、たった一人で行うのだ。

 侯爵家の誰もが気味悪がって近寄らないこの部屋だけが、セラフィナの世界であり、聖域だった。貴族の令嬢としての責務も、華やかな社交界の虚飾も、ここにはない。ただ、純粋な創造の喜びだけが満ちていた。

 彼女は完成したばかりの緋色のインクを、小さなガラスの壺に移し替える。これで、制作中の写本の最後のページを飾る、不死鳥の絵が描ける。そう思うだけで、胸が高鳴った。

 コン、コン、と控えめなノックの音が、彼女を現実へと引き戻した。

「セラフィナお嬢様、お時間でございます。王宮へのご準備を」

 侍女の固い声に、セラフィナの表情から至福の光がすうっと消えた。代わりに、憂鬱な影が落ちる。

 今宵は、王太子アレクシス・ド・ヴァンドームが主催する夜会が開かれる。彼の婚約者であるセラフィナが、欠席することなど許されない。

「……すぐに行きます」

 短く答えると、彼女は名残惜しそうにインクの壺を見つめ、静かに立ち上がった。指先の染みを隠すための、窮屈な白い手袋が待っている。

 ***

 王宮の大広間は、幾百もの蝋燭が放つ光と、磨き上げられた大理石の床に反射するシャンデリアの輝きで、昼間のように明るかった。弦楽団が奏でる優雅なワルツ、人々の賑やかな談笑、そしてむせ返るような香水の匂いが渦を巻いている。

 セラフィナは、そんな喧騒の中心から少し離れた壁際に、まるで根のない花のようにひっそりと佇んでいた。

 締め付けられるような豪奢なドレスも、重々しく結い上げた髪も、彼女にとっては借り物のように馴染まない。視線は伏し目がちで、誰とも目を合わせようとしなかった。早くこの場から逃げ出して、あの静かな写字室に戻りたい。その思いだけが、彼女の心を占めていた。

「まあ、ご覧なさいな。ヴァレンシアの姫君ですわ」

「あの指先の染み……。手袋で隠しても隠しきれないのかしら。侯爵令嬢の嗜みとは思えませんわね」

「王太子殿下も、あのような無愛想な方を隣に置かねばならぬとは、お気の毒に……」

 扇の影で交わされる囁き声が、鋭い針のようにセラフィナの耳に届く。彼女が口下手で、他者とのコミュニケーションを苦手としていることは、社交界では「傲慢」「無愛想」という言葉にすり替えられていた。

 弁解する気力もなかった。興味のない会話に愛想笑いを浮かべるより、美しいインクの色合いを研究している方が、百万倍も有意義だと本気で思っているのだから。

 その時、ふいに音楽が止み、広間のざわめきが静まった。

 全ての視線が、大階段へと注がれる。そこには、今夜の主役である王太子アレクシスが、一人の令嬢を伴って立っていた。

 アレクシスは、彫刻のように端正な顔立ちと、自信に満ちた立ち居振る舞いで、まさしく次代の王たる風格を備えていた。だが、その瞳の奥には、常に他者を見下す冷たい光が宿っているのを、セラフィナは知っている。

 そして、彼の隣で完璧な笑みを浮かべているのは、イザドラ・ヴォルテール。黄金色の髪と計算され尽くした愛嬌で、アレクシスの承認欲求を満たすことに長けた令嬢だった。

 何かが、おかしい。婚約者である自分を差し置いて、なぜイザドラ嬢が彼の隣に?

 セラフィナの胸に、冷たい予感が芽生える。

 アレクシスは、集まった貴族たちを見渡し、満足げに頷くと、まっすぐにセラフィナの方へと歩みを進めてきた。イザドラも、まるで忠実な小鳥のようにその後に続く。

 人々がモーセの前の海のように割れて道を開ける。衆人環視の中、アレクシスはセラフィナの目の前で足を止めた。

「セラフィナ・ド・ヴァレンシア」

 彼の声は、静まり返った広間によく通った。その声には、一切の温かみがなかった。

「貴様との婚約を、この場を借りて破棄させてもらう!」

 雷鳴のような宣告だった。

 セラフィナは、自分が何を言われたのか、一瞬理解できなかった。世界から、音が消える。

「な……ぜ……」

 かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、震えていた。

 アレクシスは、そんな彼女を心底軽蔑した目で見下ろし、嘲笑を浮かべた。

「なぜ、だと? まだ分からぬか、この愚か者めが! 国母たるもの、民の模範となり、社交の華となるべき存在だ。だが貴様はどうだ? 先日の隣国使節団との会食では愛想笑い一つせず、国の威信を損ない、私の誕生日に贈られたのは、宝石の一つもなく、ただ気味の悪い絵が描かれた羊皮紙一枚だった!」

 アレクシスの声が、怒りで熱を帯びていく。

「挙句、我が国の未来を照らすべき王太子妃の座を、工房の薄闇でインクに汚れる趣味と天秤にかけるなど、愚かの極み! その陰気で非生産的な執着は、未来の王太子妃に、いや、この国の貴族の令嬢としてすら相応しくない!」

 非生産的。気味の悪い。愚かの極み。

 その言葉が、鋭い刃となってセラフィナの心を突き刺した。彼女の全て。彼女のプライド。彼女の唯一の心の拠り所。それを、こんなにも多くの人々の前で、踏みにじられた。

「まあ、アレクシス様……。セラフィナ様がお可哀想ですわ。あの方にとって、あれは大切な……」

 隣でイザドラが、悲しげな表情を浮かべてアレクシスの腕にすがる。だが、その伏せられた瞳は、セラフィナに向けられた瞬間、紛れもない勝利の輝きを放っていた。

「でも、ええ、アレクシス様のおっしゃる通りですわ。先日も、わたくしが流行の刺繍の話をしても、セラフィナ様はインクの染みの落とし方の話ばかりで……。皆様との輪を、とても大切になさっているようには思えませんでしたもの」

 イザドラの追撃が、セラフィनाをさらに奈落へと突き落とす。

 周囲の貴族たちの、驚きの表情が、次第に納得と、そして侮蔑と嘲笑へと変わっていくのが見えた。彼らは、王太子の判断が常に正しいと信じている。セラフィナが、欠陥品だったのだと。

 ああ、そうか。だから、私の作るものを「時代遅れの暗い遊び」だと嘲笑っていたのね。

 セラフィナの世界から、色が消えていく。あれほど愛した鮮烈な緋色のインクも、今はもう、ただのくすんだ灰色の染みにしか見えなかった。頭が真っ白になり、立っているのがやっとだった。

 彼女の絶望を肯定するように、玉座から厳かな声が響いた。アレクシスの父である国王が、静かに立ち上がったのだ。

「静まれ!」

 国王の威厳に満ちた一喝に、広間の囁き声がぴたりと止む。彼はゆっくりとアレクシスの側まで歩み寄り、その肩に手を置いた。

「王太子アレクシスの決定を、余は全面的に支持する」

 追い打ちをかけるような、冷酷な言葉だった。

「ヴァレンシア嬢。王家との婚約を、個人的な趣味に現を抜かすための隠れ蓑とした罪は重い。貴殿の常軌を逸した行いは、王家への背信行為に等しい。もはや王都に、貴殿の居場所はない」

 国王の冷たい目が、セラフィナを射抜く。

「よって、これより西の辺境への追放を命じる。貴殿が愛してやまぬ、その役立たずなガラクタと共に、即刻王都を去るがよい」

 追放。

 その言葉が、セラフィナの砕け散った心に、最後のとどめを刺した。

 あれほど誇らしかったインクの染みが、今は消えない罪人の烙印のように思えた。視界が急速に暗転し、彼女は糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。もはや、嘲笑の声すら、遠い世界の出来事のようにしか聞こえなかった。
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