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工房がある。使え。
その言葉だけを残し、カイは音もなく部屋から去っていった。
一人残されたセラフィナは、彼が立っていた場所を呆然と見つめていた。
同情でも、憐憫でもない。ただ、彼女の持つ技術の価値を正確に見抜き、そのための場を提供するという、極めて実務的な申し出。
だが、それこそが、今の彼女にとって何よりの救いだった。
絶望の血で染まったはずの羊皮紙。その上に咲いた、痛々しい薔薇。
そして、辺境の地に眠る、未知の素材。
セラフィナの心に、この砦に来てから初めて、小さな、小さな光が灯った。それは、希望と呼ぶにはまだあまりに弱々しい。だが確かな「可能性」という名の、震えるような光だった。
その光に導かれるように、彼女は震える膝に力を込めて、ゆっくりと立ち上がった。
部屋の扉を開けると、ひんやりとした石造りの廊下が続いていた。カイが指し示した方向へ、壁を伝うように歩を進める。この無骨な砦の最も奥まった一角に、その扉はあった。重厚な木の扉には、錆びついた鉄の閂がかかっている。
力を込めると、閂は軋むような重い音を立てて外れた。
扉を開けた瞬間、セラフィナの鼻孔を、埃っぽさと、微かな薬品の匂い、そして乾いた木の香りがくすぐった。それは、彼女が王都の屋敷で何よりも愛した、写字室の匂いによく似ていた。
中は広く、天井の高い空間だった。高い位置にある窓から差し込む陽光が、宙を舞う無数の塵をきらきらと照らし出し、幻想的な光の筋を描いている。
壁際には、顔料をすり潰すための石の乳鉢や乳棒、様々な大きさのガラス瓶、薬品を調合するための天秤が並んだ作業台。中央には、紙を漉くための巨大な木製の水槽と圧搾機。そして、写本を制作するための傾斜した写字机が、まるで主を待ちわびるように静かに佇んでいた。
埃は積もっているが、道具の一つ一つは丁寧に手入れされた形跡がある。今すぐにでも使える状態だ。
ここまでの設備が、なぜこの辺境の砦に?
セラフィナは、カイ・ウォーカーという男の意図を測りかねて、ただ茫然と立ち尽くす。彼は一体、何を自分に求めているのだろう。
だが、その疑問よりも先に、彼女の指先が疼き始めた。
インクの染みがついた、不格好な指先が。
この場所は、彼女を呼んでいる。失われたはずの世界が、すぐ目の前に広がっている。
セラフィナは、吸い込まれるように工房の中へと足を踏み入れた。
◇
それから数日間、セラフィナは工房の掃除に明け暮れた。
窓を開け放って空気を入れ替え、床を掃き、道具の一つ一つを丁寧に布で磨き上げていく。それは、自分自身の心に積もった埃を払い、凍てついた魂に光と風を通すための、神聖な儀式にも似た作業だった。
工房がかつての輝きを取り戻した頃、セラフィナが作業台の埃を拭っていると、背後にふと人の気配がした。
振り返ると、いつの間にかカイがそこにいた。
「準備はできたか」
相変わらず感情の読めない声だった。セラフィナはこくりと頷く。
「ならば、行くぞ。素材がなければ始まらない」
カイはそれだけ言うと、背を向けて歩き出した。セラフィナは慌てて、採取用の籠と小さなナイフを手に、彼の後を追った。
砦の外は、王都の整えられた庭園とは全く違う、荒々しくも生命力に満ちた自然が広がっていた。ごつごつとした岩肌を縫うように、名も知らぬ草木が力強く根を張っている。
カイは慣れた足取りで、道なき道を進んでいく。彼の背中は大きく、頼もしい。追放の旅路で見た荒野を、今は恐怖ではなく、好奇心と共に歩いている自分に、セラフィナは気づいていた。
「ここだ」
カイが立ち止まったのは、日の当たりにくい、湿った岩壁に囲まれた場所だった。そこには、彼女の部屋にあったものと同じ、淡い光を放つ苔が一面に群生していた。
「陽光糸(サン・スレッド)。夜でも微かな光を放つ。湿度の高い場所を好む」
カイの簡潔な説明を聞きながら、セラフィナはそっと苔に触れた。ひんやりとしながらも、生きている温かみが指先に伝わってくる。これを砕けば、光を宿す顔料になる。想像しただけで、胸が高鳴った。
次に案内されたのは、風の強い丘の上だった。そこには、窓から見えた、葉が金属光沢を放つ低木が群生していた。
「鉄葉(アイアン・リーフ)。見ての通り、金属のような光沢と強度を持つ。普通の刃物では切れん」
カイが言う通り、ナイフを当ててみても、葉はかすり傷一つ負わなかった。これがあの、破れない紙の原料。
セラフィナは夢中になった。陽光糸を傷つけないように岩から丁寧に剥がし、鉄葉を特殊な剪定鋏で一枚一枚切り取っていく。その目は、王都の夜会で伏せられていたものと同じとは思えないほど、強い光を宿していた。
カイは何も言わず、ただ黙って彼女の作業を見守っていた。時折、周囲を警戒するように鋭い視線を巡らせる。
夕日に照らされ、夢中で素材を籠に入れるセラフィナの横顔には、王都で見た伏し目がちな令嬢の面影はどこにもなかった。その頬についた泥汚れすら、彼女が生きている証のように輝いて見える。カイは、自分でも気づかぬうちに口を開いていた。
「王都の連中は、この土地を岩と森しか見えぬ不毛の地と蔑み、厄介者を押し付ける」
その言葉に、セラフィナの肩が小さく震える。
「だが奴らは、自らが捨てたものの価値を知らない。この土地も……そして、お前もだ」
セラフィナは顔を上げることができなかった。頬が熱い。
『役立たずなガラクタ』。そう罵った王太子と、その言葉に嘲笑を浮かべた貴族たち。彼らの声が遠のいていく。
代わりに、この無愛想な辺境伯の、低く静かな声が心に染み渡った。
工房に戻ったセラフィナは、生まれ変わったかのように創作活動に没頭し始めた。
ここからが、彼女の真骨頂だった。
陽光糸を乳鉢に入れ、慎重にすり潰していく。だが、力を入れすぎると光が消え、弱すぎると粒子が粗くなる。幾度となく失敗し、貴重な素材を無駄にした。
鉄葉の加工は、さらに困難を極めた。アルカリ性の薬液で煮沸し、繊維を柔らかくしようと試みる。しかし、薬液の濃度、煮込む時間、その後の処理。一つ間違えるだけで、葉はただの黒い炭塊になるか、あるいは全く変化しないかのどちらかだった。
工房には、失敗した顔料の粉や、無残な姿になった鉄葉の残骸が山のように積み上がっていく。
それでも、セラフィナの心は折れなかった。
ふと、王都の写字室で過ごした日々が蘇る。師の皺だらけの指が、失敗した羊皮紙を優しく撫でた。
『これは失敗ではない。こうすれば駄目だと教えてくれた道標じゃ。お嬢様、職人とはな、誰よりも多く道標を立てた者のことなんじゃよ』
あの温かい声が、今も耳の奥で彼女を支えていた。
失敗は、成功への道標だ。彼女の目は、かつての輝きを取り戻し、いや、それ以上の情熱の炎を燃やしていた。
食事も忘れ、眠る時間も惜しんで、来る日も来る日も実験を繰り返す。彼女の指先は、植物の汁と薬品で再び汚れ、衣服にも様々な色の染みがついた。しかし、その姿には悲壮感など微塵もなかった。水を得た魚のように、生き生きとした生命力に満ち溢れていた。
カイは、そんな彼女の様子を静かに見守っていた。
彼女が食事を忘れていると見れば、焼きたてのパンとスープを。夜遅くまで作業を続けていれば、温かい飲み物を、何も言わずに工房の隅のテーブルに置いていく。
彼の行動は、純粋な善意だけではないのかもしれない。この辺境の未利用資源を活用し、新たな産業を生み出すための投資。セラフィナという類稀な才能への、冷徹なまでの投資家としての視線。
だが、その灰色の瞳の奥に、時折、別の光が宿るのをセラフィナは感じていた。それは、困難に立ち向かう一人の人間への、静かな敬意と……庇護欲にも似た、温かい光だった。
そして、嵐の夜だった。
外では風が吹き荒れ、雨が窓を激しく叩いている。だが、工房の中はランプの光に満たされ、静寂に包まれていた。
セラフィナは、ある発見をしていた。鉄葉を煮込む薬液に、この土地で採れる特定の鉱石の粉を少量加えることで、繊維が驚くほどしなやかになることを突き止めたのだ。
彼女は、祈るような気持ちで、処理を終えた鉄葉の繊維が溶け込んだ水槽に、木枠をゆっくりと沈めた。
息を止め、静かに、水平に引き上げる。
木枠の網の上に、均一な膜が張られていた。それは、ただの膜ではなかった。ランプの光を浴びて、まるで溶かした月光をそのまま固めたかのように、幻想的な銀色の光沢を放っていた。
震える手で、それを圧搾機にかけ、慎重に水分を抜いていく。
そして、フェルトの上に広げ、ゆっくりと乾かした。
数時間後、完全に乾いた一枚の紙が、そこに誕生した。
薄く、絹のようになめらかな手触り。それでいて、驚くほどの弾力と強度を秘めている。両手で力を込めて引っ張っても、びくともしない。
王都で最高級とされる、赤子の肌のように滑らかな羊皮紙ですら、これほどの優雅さと強靭さを両立させることは不可能だ。
これは……奇跡だ。
王都では絶対に作れない、この辺境の土地でしか生まれない至宝。
自分の技術が、追放されたこの場所で、新たな価値を、新たな美を生み出した。
セラフィナの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、婚約破棄の夜に流した絶望の涙ではなかった。失われた全てを取り戻し、さらなる高みへと至った、歓喜の涙だった。
「やった……できたわ……!」
彼女は完成したばかりの奇跡の紙を高く掲げ、声を上げて笑った。その輝きは、工房の薄暗がりを照らし出すほどに眩しい。
その歓声に、背後の扉が静かに開いた。入ってきたカイが、そこに立っていた。
彼の視線は、セラフィナが掲げる紙に釘付けになっている。その灰色の瞳が、驚愕に見開かれていた。彼がこれほど感情を露わにするのを、セラフィナは初めて見た。
「カイ様……! 見てください。これが、この土地の紙です!」
セラフィナが誇らしげに叫んだ、まさにその瞬間だった。
遠くで何かが倒れる音、複数の怒鳴り声。そして、静寂を破り、砦の中庭から普段は決して鳴ることのない、けたたましい鐘の音が鳴り響いた。緊急事態を告げる鐘だった。
慌ただしい足音が廊下を駆け抜け、工房の扉が勢いよく開け放たれる。
「ウォーカー辺境伯! 申し上げます!」
息を切らして飛び込んできたのは、カイの側近である若い騎士だった。
「王都より、陛下の勅令を携えた伝令が到着いたしました!」
王都からの、伝令。
その言葉に、セラフィナの血の気がさっと引いた。歓喜に満たされていた心臓が、氷水で冷やされたように縮こまる。
カイの表情が、瞬時にいつもの冷徹なものに戻っていた。彼はセラフィナを一瞥し、低く命じた。
「ここで待っていろ」
しかし、その必要はなかった。
騎士の後ろから、王家の紋章を刺繍した豪奢な外套を羽織った男が、尊大な態度で工房に足を踏み入れてきた。いかにも中央の役人といった風情の、痩せて神経質そうな男だ。
伝令は、工房の有り様と、インクで汚れたセラフィナの姿を一瞥し、侮蔑の色を隠そうともせずに鼻を鳴らした。
「ほう。このような場所で、まだそのような古臭い遊びを続けておられたか、ヴァレンシア嬢」
その声は、アレクシスとイザドラの嘲笑を思い出させ、セラフィナの心を鋭く抉った。
男はセラフィナが震える手で握りしめている奇跡の紙に目を留め、嘲るように唇を歪めた。
「ほう。これが辺境でできる『役立たずなガラクタ』の最高傑作かね? 精が出ることだ」
伝令はセラフィナの反応を愉しむように一瞥すると、懐から羊皮紙の巻物を取り出し、大げさに広げた。
「国王陛下より、王国全土に通達される新たなる法が布告された! 辺境伯も、そこにいる罪人も、心して聴くがよい!」
彼は咳払いを一つすると、朗々と、そして意地の悪い響きを込めて布告書を読み上げ始めた。
「――新たなる『文化統制法』の発布を宣言する! 第一条、今後、王国における公式な文書、及び流通を許可される書物は、王立書記ギルドが認定した書記官により、ギルドが規定した羊皮紙に記されたものに限るものとする!」
セラフィナの頭が、真っ白になった。
ギルド認定の書記官。規定の羊皮紙。
「第二条、前条に反し、ギルドの認可なき者が、古風かつ非効率な工芸技術を用いて書物、あるいはそれに類するものを製造、販売、譲渡することを、固く禁ずる! 違反した者は、国家への反逆とみなし、厳罰に処す!」
生まれたばかりの光が、無慈悲な言葉によって吹き消されていく。
古風で、非効率な工芸。
それは、セラフィナの人生そのものを指していた。彼女の芸術、彼女の技術、彼女の魂の全てを。
歓喜の頂点から、奈落の底へ。
セラフィナは、手の中に握りしめた奇跡の紙を見つめた。銀色に輝く、この土地だけの至宝。
それは、生まれた瞬間に、禁忌の烙印を押されたのだ。
彼女は血の気の引いた顔で、ただ立ち尽くす。
隣で、カイの纏う空気が、絶対零度まで凍りついていくのを感じた。彼の顔から一切の表情が消え、その鋭い灰色の瞳に、氷のように冷たく、燃えるような怒りの光が宿っていた。
その言葉だけを残し、カイは音もなく部屋から去っていった。
一人残されたセラフィナは、彼が立っていた場所を呆然と見つめていた。
同情でも、憐憫でもない。ただ、彼女の持つ技術の価値を正確に見抜き、そのための場を提供するという、極めて実務的な申し出。
だが、それこそが、今の彼女にとって何よりの救いだった。
絶望の血で染まったはずの羊皮紙。その上に咲いた、痛々しい薔薇。
そして、辺境の地に眠る、未知の素材。
セラフィナの心に、この砦に来てから初めて、小さな、小さな光が灯った。それは、希望と呼ぶにはまだあまりに弱々しい。だが確かな「可能性」という名の、震えるような光だった。
その光に導かれるように、彼女は震える膝に力を込めて、ゆっくりと立ち上がった。
部屋の扉を開けると、ひんやりとした石造りの廊下が続いていた。カイが指し示した方向へ、壁を伝うように歩を進める。この無骨な砦の最も奥まった一角に、その扉はあった。重厚な木の扉には、錆びついた鉄の閂がかかっている。
力を込めると、閂は軋むような重い音を立てて外れた。
扉を開けた瞬間、セラフィナの鼻孔を、埃っぽさと、微かな薬品の匂い、そして乾いた木の香りがくすぐった。それは、彼女が王都の屋敷で何よりも愛した、写字室の匂いによく似ていた。
中は広く、天井の高い空間だった。高い位置にある窓から差し込む陽光が、宙を舞う無数の塵をきらきらと照らし出し、幻想的な光の筋を描いている。
壁際には、顔料をすり潰すための石の乳鉢や乳棒、様々な大きさのガラス瓶、薬品を調合するための天秤が並んだ作業台。中央には、紙を漉くための巨大な木製の水槽と圧搾機。そして、写本を制作するための傾斜した写字机が、まるで主を待ちわびるように静かに佇んでいた。
埃は積もっているが、道具の一つ一つは丁寧に手入れされた形跡がある。今すぐにでも使える状態だ。
ここまでの設備が、なぜこの辺境の砦に?
セラフィナは、カイ・ウォーカーという男の意図を測りかねて、ただ茫然と立ち尽くす。彼は一体、何を自分に求めているのだろう。
だが、その疑問よりも先に、彼女の指先が疼き始めた。
インクの染みがついた、不格好な指先が。
この場所は、彼女を呼んでいる。失われたはずの世界が、すぐ目の前に広がっている。
セラフィナは、吸い込まれるように工房の中へと足を踏み入れた。
◇
それから数日間、セラフィナは工房の掃除に明け暮れた。
窓を開け放って空気を入れ替え、床を掃き、道具の一つ一つを丁寧に布で磨き上げていく。それは、自分自身の心に積もった埃を払い、凍てついた魂に光と風を通すための、神聖な儀式にも似た作業だった。
工房がかつての輝きを取り戻した頃、セラフィナが作業台の埃を拭っていると、背後にふと人の気配がした。
振り返ると、いつの間にかカイがそこにいた。
「準備はできたか」
相変わらず感情の読めない声だった。セラフィナはこくりと頷く。
「ならば、行くぞ。素材がなければ始まらない」
カイはそれだけ言うと、背を向けて歩き出した。セラフィナは慌てて、採取用の籠と小さなナイフを手に、彼の後を追った。
砦の外は、王都の整えられた庭園とは全く違う、荒々しくも生命力に満ちた自然が広がっていた。ごつごつとした岩肌を縫うように、名も知らぬ草木が力強く根を張っている。
カイは慣れた足取りで、道なき道を進んでいく。彼の背中は大きく、頼もしい。追放の旅路で見た荒野を、今は恐怖ではなく、好奇心と共に歩いている自分に、セラフィナは気づいていた。
「ここだ」
カイが立ち止まったのは、日の当たりにくい、湿った岩壁に囲まれた場所だった。そこには、彼女の部屋にあったものと同じ、淡い光を放つ苔が一面に群生していた。
「陽光糸(サン・スレッド)。夜でも微かな光を放つ。湿度の高い場所を好む」
カイの簡潔な説明を聞きながら、セラフィナはそっと苔に触れた。ひんやりとしながらも、生きている温かみが指先に伝わってくる。これを砕けば、光を宿す顔料になる。想像しただけで、胸が高鳴った。
次に案内されたのは、風の強い丘の上だった。そこには、窓から見えた、葉が金属光沢を放つ低木が群生していた。
「鉄葉(アイアン・リーフ)。見ての通り、金属のような光沢と強度を持つ。普通の刃物では切れん」
カイが言う通り、ナイフを当ててみても、葉はかすり傷一つ負わなかった。これがあの、破れない紙の原料。
セラフィナは夢中になった。陽光糸を傷つけないように岩から丁寧に剥がし、鉄葉を特殊な剪定鋏で一枚一枚切り取っていく。その目は、王都の夜会で伏せられていたものと同じとは思えないほど、強い光を宿していた。
カイは何も言わず、ただ黙って彼女の作業を見守っていた。時折、周囲を警戒するように鋭い視線を巡らせる。
夕日に照らされ、夢中で素材を籠に入れるセラフィナの横顔には、王都で見た伏し目がちな令嬢の面影はどこにもなかった。その頬についた泥汚れすら、彼女が生きている証のように輝いて見える。カイは、自分でも気づかぬうちに口を開いていた。
「王都の連中は、この土地を岩と森しか見えぬ不毛の地と蔑み、厄介者を押し付ける」
その言葉に、セラフィナの肩が小さく震える。
「だが奴らは、自らが捨てたものの価値を知らない。この土地も……そして、お前もだ」
セラフィナは顔を上げることができなかった。頬が熱い。
『役立たずなガラクタ』。そう罵った王太子と、その言葉に嘲笑を浮かべた貴族たち。彼らの声が遠のいていく。
代わりに、この無愛想な辺境伯の、低く静かな声が心に染み渡った。
工房に戻ったセラフィナは、生まれ変わったかのように創作活動に没頭し始めた。
ここからが、彼女の真骨頂だった。
陽光糸を乳鉢に入れ、慎重にすり潰していく。だが、力を入れすぎると光が消え、弱すぎると粒子が粗くなる。幾度となく失敗し、貴重な素材を無駄にした。
鉄葉の加工は、さらに困難を極めた。アルカリ性の薬液で煮沸し、繊維を柔らかくしようと試みる。しかし、薬液の濃度、煮込む時間、その後の処理。一つ間違えるだけで、葉はただの黒い炭塊になるか、あるいは全く変化しないかのどちらかだった。
工房には、失敗した顔料の粉や、無残な姿になった鉄葉の残骸が山のように積み上がっていく。
それでも、セラフィナの心は折れなかった。
ふと、王都の写字室で過ごした日々が蘇る。師の皺だらけの指が、失敗した羊皮紙を優しく撫でた。
『これは失敗ではない。こうすれば駄目だと教えてくれた道標じゃ。お嬢様、職人とはな、誰よりも多く道標を立てた者のことなんじゃよ』
あの温かい声が、今も耳の奥で彼女を支えていた。
失敗は、成功への道標だ。彼女の目は、かつての輝きを取り戻し、いや、それ以上の情熱の炎を燃やしていた。
食事も忘れ、眠る時間も惜しんで、来る日も来る日も実験を繰り返す。彼女の指先は、植物の汁と薬品で再び汚れ、衣服にも様々な色の染みがついた。しかし、その姿には悲壮感など微塵もなかった。水を得た魚のように、生き生きとした生命力に満ち溢れていた。
カイは、そんな彼女の様子を静かに見守っていた。
彼女が食事を忘れていると見れば、焼きたてのパンとスープを。夜遅くまで作業を続けていれば、温かい飲み物を、何も言わずに工房の隅のテーブルに置いていく。
彼の行動は、純粋な善意だけではないのかもしれない。この辺境の未利用資源を活用し、新たな産業を生み出すための投資。セラフィナという類稀な才能への、冷徹なまでの投資家としての視線。
だが、その灰色の瞳の奥に、時折、別の光が宿るのをセラフィナは感じていた。それは、困難に立ち向かう一人の人間への、静かな敬意と……庇護欲にも似た、温かい光だった。
そして、嵐の夜だった。
外では風が吹き荒れ、雨が窓を激しく叩いている。だが、工房の中はランプの光に満たされ、静寂に包まれていた。
セラフィナは、ある発見をしていた。鉄葉を煮込む薬液に、この土地で採れる特定の鉱石の粉を少量加えることで、繊維が驚くほどしなやかになることを突き止めたのだ。
彼女は、祈るような気持ちで、処理を終えた鉄葉の繊維が溶け込んだ水槽に、木枠をゆっくりと沈めた。
息を止め、静かに、水平に引き上げる。
木枠の網の上に、均一な膜が張られていた。それは、ただの膜ではなかった。ランプの光を浴びて、まるで溶かした月光をそのまま固めたかのように、幻想的な銀色の光沢を放っていた。
震える手で、それを圧搾機にかけ、慎重に水分を抜いていく。
そして、フェルトの上に広げ、ゆっくりと乾かした。
数時間後、完全に乾いた一枚の紙が、そこに誕生した。
薄く、絹のようになめらかな手触り。それでいて、驚くほどの弾力と強度を秘めている。両手で力を込めて引っ張っても、びくともしない。
王都で最高級とされる、赤子の肌のように滑らかな羊皮紙ですら、これほどの優雅さと強靭さを両立させることは不可能だ。
これは……奇跡だ。
王都では絶対に作れない、この辺境の土地でしか生まれない至宝。
自分の技術が、追放されたこの場所で、新たな価値を、新たな美を生み出した。
セラフィナの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、婚約破棄の夜に流した絶望の涙ではなかった。失われた全てを取り戻し、さらなる高みへと至った、歓喜の涙だった。
「やった……できたわ……!」
彼女は完成したばかりの奇跡の紙を高く掲げ、声を上げて笑った。その輝きは、工房の薄暗がりを照らし出すほどに眩しい。
その歓声に、背後の扉が静かに開いた。入ってきたカイが、そこに立っていた。
彼の視線は、セラフィナが掲げる紙に釘付けになっている。その灰色の瞳が、驚愕に見開かれていた。彼がこれほど感情を露わにするのを、セラフィナは初めて見た。
「カイ様……! 見てください。これが、この土地の紙です!」
セラフィナが誇らしげに叫んだ、まさにその瞬間だった。
遠くで何かが倒れる音、複数の怒鳴り声。そして、静寂を破り、砦の中庭から普段は決して鳴ることのない、けたたましい鐘の音が鳴り響いた。緊急事態を告げる鐘だった。
慌ただしい足音が廊下を駆け抜け、工房の扉が勢いよく開け放たれる。
「ウォーカー辺境伯! 申し上げます!」
息を切らして飛び込んできたのは、カイの側近である若い騎士だった。
「王都より、陛下の勅令を携えた伝令が到着いたしました!」
王都からの、伝令。
その言葉に、セラフィナの血の気がさっと引いた。歓喜に満たされていた心臓が、氷水で冷やされたように縮こまる。
カイの表情が、瞬時にいつもの冷徹なものに戻っていた。彼はセラフィナを一瞥し、低く命じた。
「ここで待っていろ」
しかし、その必要はなかった。
騎士の後ろから、王家の紋章を刺繍した豪奢な外套を羽織った男が、尊大な態度で工房に足を踏み入れてきた。いかにも中央の役人といった風情の、痩せて神経質そうな男だ。
伝令は、工房の有り様と、インクで汚れたセラフィナの姿を一瞥し、侮蔑の色を隠そうともせずに鼻を鳴らした。
「ほう。このような場所で、まだそのような古臭い遊びを続けておられたか、ヴァレンシア嬢」
その声は、アレクシスとイザドラの嘲笑を思い出させ、セラフィナの心を鋭く抉った。
男はセラフィナが震える手で握りしめている奇跡の紙に目を留め、嘲るように唇を歪めた。
「ほう。これが辺境でできる『役立たずなガラクタ』の最高傑作かね? 精が出ることだ」
伝令はセラフィナの反応を愉しむように一瞥すると、懐から羊皮紙の巻物を取り出し、大げさに広げた。
「国王陛下より、王国全土に通達される新たなる法が布告された! 辺境伯も、そこにいる罪人も、心して聴くがよい!」
彼は咳払いを一つすると、朗々と、そして意地の悪い響きを込めて布告書を読み上げ始めた。
「――新たなる『文化統制法』の発布を宣言する! 第一条、今後、王国における公式な文書、及び流通を許可される書物は、王立書記ギルドが認定した書記官により、ギルドが規定した羊皮紙に記されたものに限るものとする!」
セラフィナの頭が、真っ白になった。
ギルド認定の書記官。規定の羊皮紙。
「第二条、前条に反し、ギルドの認可なき者が、古風かつ非効率な工芸技術を用いて書物、あるいはそれに類するものを製造、販売、譲渡することを、固く禁ずる! 違反した者は、国家への反逆とみなし、厳罰に処す!」
生まれたばかりの光が、無慈悲な言葉によって吹き消されていく。
古風で、非効率な工芸。
それは、セラフィナの人生そのものを指していた。彼女の芸術、彼女の技術、彼女の魂の全てを。
歓喜の頂点から、奈落の底へ。
セラフィナは、手の中に握りしめた奇跡の紙を見つめた。銀色に輝く、この土地だけの至宝。
それは、生まれた瞬間に、禁忌の烙印を押されたのだ。
彼女は血の気の引いた顔で、ただ立ち尽くす。
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このお話はそんな事情で王都を追放された悪役令嬢の素性を知らぬまま、修道院まで護送する下級兵士の恋物語である。
この度なろう、アルファ、カクヨムで同時完結しました。
(なろう版だけ諸事情で18話と19話が一本となっておりますが、内容は同じです)
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こんなに忙しい私が、最後は冤罪にて処刑ですって? 学園にすら通えて無いのに、すべてのルートで私は処刑されてしまうと解った今、わたくしは全ての仕事を放棄して、冤罪で処刑されるその時まで、推しと穏やかに過ごしますわ。
※さくっと読める悪役令嬢モノです。
2月14~15日に全話、投稿完了。
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