ざまぁ?結構ですわ。私はただ、この手で物語を紡ぐだけ――そう思っていたら、私の装飾写本が文化革命を起こして、元婚約者が土下座しに来ました。

aozora

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 伝令官が読み上げた布告の最後の言葉が、しんと静まり返った工房に木霊していた。

 国家への反逆。厳罰に処す。

 その言葉の一つ一つが、氷の刃となってセラフィナの心臓に突き刺さる。手の中で銀色に輝く奇跡の紙が、まるで罪の証のように重く感じられた。

 歓喜も、希望も、生まれたばかりの光も、すべてが幻だったのだ。結局、自分はどこまで行っても「役立たずなガラクタ」を作る、忌むべき存在でしかない。

 セラフィナの膝から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった。

 だが、その肩を力強い腕が支える。

 はっと顔を上げると、隣に立つカイの横顔があった。彼の顔から表情は削ぎ落とされ、その灰色の瞳は、目の前の伝令官を射抜いていた。それは人間を見る目ではなかった。ただの物体、邪魔な障害物として認識しているかのような、絶対零度の視線だった。

 伝令官は、辺境伯の尋常ならざる気配に気圧され、乾いた喉をごくりと鳴らした。

「……以上が、国王陛下からの勅命である。ウォーカー辺境伯におかれては、滞在中のヴァレンシア嬢を監督し、法を遵守させるよう――」

「下がれ」

 地を這うような、だが工房の隅々まで染み渡るような絶対零度の声だった。カイの唇から漏れたその一言に、空気がびりりと震える。

「なっ……! 辺境伯、これは陛下の……」

「聞こえなかったか」

 カイはセラフィナの肩を支えたまま、一歩前に出た。その巨躯が、まるでセラフィナを守る盾のように立ちはだかる。

「そのくだらん紙切れを王都に持ち帰り、お前たちの主人に伝えろ。――西の辺境は、我が統治下にある、と」

 その声には、領主としての揺るぎない威厳と、煮えたぎるような怒りが込められていた。伝令官は完全に怯えきり、ほうほうの体で工房から逃げ出していく。その背中には、もう何の権威も感じられなかった。

 ばたん、と扉が閉まる音がやけに大きく響く。

 静寂が戻った工房で、カイはゆっくりとセラフィナから手を離した。そして、伝令が置いていった布告書を無言で拾い上げる。

 彼はそれに一度だけ目を通すと、次の瞬間、乾いた羊皮紙が悲鳴を上げるような音を立てて、その紙片をぐしゃりと握り潰した。

「……カイ様」

 セラフィナが、か細い声で呼びかける。

「申し訳、ございません。私のせいで、あなた様まで……」

 自分の存在が、この土地の主にまで迷惑をかけている。その罪悪感に、胸が潰れそうだった。

 だが、カイはゆっくりと振り返ると、その灰色の瞳でまっすぐにセラフィナを見据えた。瞳の奥には、まだ怒りの炎が燻っている。しかし、それはセラフィナに向けられたものではなかった。

「謝るな。君は何も悪くない」

 彼の声は、硬質だが、不思議なほど穏やかだった。

「これは君個人への攻撃ではない。中央が、辺境を支配するための新たな口実だ。奴らはいつだってそうだ。自分たちの価値観にそぐわぬものを『非効率』と断じ、『違法』と烙印を押し、支配下に置こうとする」

 カイは握り潰した紙屑を、暖炉の火に投げ込んだ。羊皮紙は一瞬で炎に包まれ、王太子とギルドの傲慢な言葉は、あっけなく灰と化した。

「王都の法など、この西の果てまで届くものか。ここでは俺が法だ。君が作るものは、何一つ禁じられてなどいない」

 力強い断言。それは慰めではなかった。事実を告げているだけだという、揺るぎない響きがあった。

 セラフィナは、ただカイの顔を見つめていた。追放されてからずっと、自分は価値のない、罪深い人間なのだと思い込んできた。だが、この人は違う。自分の芸術を、自分の存在を、王都の価値観で測ったりはしない。

 心の奥底で、何かが小さく、ぱちりと音を立てて爆ぜた。

 それは絶望に凍り付いていた感情の氷が、砕ける音だったのかもしれない。

 悔しい。

 心の底から、そう思った。

 自分の全てを否定したアレクシスが、イザドラが、王都の人間たちが、許せない。

 古風で、非効率?

 違う。

 この手で鉱石を砕き、顔料を練り、ニカワを溶かし、紙を漉く。何日も、何週間もかけて、たった一枚の絵を完成させる。その全ての工程に、魂を込めている。効率では測れない、時間と情熱そのものが、自分の芸術なのだ。

 それを分かろうともせず、一方的に断罪する者たちに、なぜ屈しなければならないのか。

 恐怖に震えていた心が、静かな怒りの炎に包まれていく。それは、緋色のインクのように鮮烈で、熱い感情だった。

 でも、ただの復讐譚にはしたくない。彼らを断罪するだけの物語を描いたなら、結局は彼らと同じ土俵に立つことになる。

 描くべきは、絶望の先にある希望。この辺境が見せてくれた、魂の再生の物語だ。

「……私は」

 セラフィナは、震える唇を必死に動かした。

「私は、作りたい。いいえ、作ります。この土地の素材で。私の、技術で」

 それは、か細くとも、明確な宣戦布告だった。

 カイは何も言わず、ただ静かに頷いた。その瞳に、ほんのわずかな安堵と、深い信頼の色が浮かんだのを、セラフィナは見逃さなかった。

 ◇◇◇

 その日から、セラフィナは工房に籠もりきりになった。

 しかし、以前のようにただ無心に手を動かすのとは違っていた。彼女の創作は、もはや自己治癒のプロセスではなかった。明確な意志を持った、抵抗活動へと姿を変えていた。

 ただ美しいだけの絵では足りない。

 王都の人間たちが、一目見て理解できるような、単純なものであってはならない。

 物語を、紡ごう。

 彼女は、銀色に輝く鉄葉の紙を一枚、作業台に広げた。

 自身の物語を、寓話として描くのだ。

 王都で受けた全ての屈辱。婚約破棄の夜の、嘲笑と侮蔑の視線。

 追放の道中で見た、荒涼としながらも生命力に満ちた風景。

 この辺境で出会った、無愛想だが誰よりも自分の価値を信じてくれた人。

 そして、暗闇に差し込んだ一筋の光――陽光糸の苔。

 その全てを、この紙の上に叩きつける。ペンを剣のように握り、インクを魂の血として、彼女は自らの戦いを始めた。

 彼女はまず、物語のタイトルを決めた。

『緋色のインクの乙女』

 それは、彼女が王都で失った情熱の象徴であり、辺境で流した心の血の証でもあった。

 何日も、何週間も、セラフィナは工房から出てこなかった。食事はカイが運び、黙って扉の前に置いていく。彼は決して作業の邪魔をしなかったが、その静かな見守りが、セラフィナにとっては何よりの支えとなっていた。

 彼女は陽光糸を丹念にすり潰し、光を宿した黄金の顔料を作る。黒曜石を砕き、夜の闇よりも深い黒を作る。辺境の森で見つけた血のように赤い樹液を煮詰め、燃えるような緋色を作る。

 王都のギルドが規定する、平板で退屈な色ではない。この土地の魂が宿った、生きた色だ。

 細い筆の先が、鉄葉の紙の上を滑る。

 彼女の紫の瞳には、かつてないほどの強い光が宿っていた。それは、職人の集中力と、反逆者の決意が入り混じった、鋭い輝きだった。

 そして、ある月の明るい夜。

 物語の最初の見開きページが、ついに完成した。

 ◇◇◇

 いつものように夜食のパンとスープを盆に乗せ、カイが工房の扉を静かに開けたとき、彼は思わず息をのんだ。

 月光が差し込む窓辺の作業台で、セラフィナが完成したばかりの一枚の絵を、じっと見つめていた。その横顔には、達成感と極度の集中から解放された疲労、そして何者にも屈しないという反逆の光が入り混じった、張り詰めたような美しさがあった。

 カイは足音を殺して彼女に近づき、その視線の先にあるものを覗き込んだ。

 それは、見開きの装飾画だった。

 左のページには、天を衝くほど巨大で、冷たく威圧的な灰色の城が描かれていた。全ての線は硬く、直線的で、生命の温かみが一切感じられない。色も、濃淡の異なる灰色と黒だけで構成された、無機質な世界。その城壁の下に、顔も定かではない、小さく色を失った乙女の姿があった。まるで世界に塗りつぶされ、存在を消されかけているかのようだった。

 対して、右のページは、圧倒的な色彩と生命力に満ち溢れていた。

 見たこともないような奇妙な形をした植物が鬱蒼と茂り、大地には光る苔が点々と星のように瞬いている。木々の幹は力強くうねり、葉の一枚一枚が鮮やかな緑や赤、黄金色に輝いていた。

 その色彩豊かな森へ、追放された乙女が、今まさに足を踏み入れようとしている。

 その背中は小さく、頼りない。だが、無造作に束ねられた銀灰色の髪の一房だけが、月光を反射するかのように、決然とした光を放っていた。

 灰色の絶望から、色彩の希望へ。

 それは、ただの美しい絵ではなかった。物語だった。見る者の心を掴んで離さない、強烈な訴求力を持つ、魂の叫びそのものだった。

 カイは、その芸術が持つ力に、背筋が震えるほどの畏怖を感じた。

 これは単なる芸術ではない。金や権力とは質の違う、人の心を直接動かす『力』そのものだ。王都の権威に虐げられてきた辺境の民の魂を、一つに束ねる旗印になり得る。

 カイは、セラフィナの横に並び立った。

 彼女は、カイの存在に気づくと、少しだけ不安そうな顔で彼を見上げた。

「……やりすぎ、でしょうか」

「いや」

 カイは、ほとんど即答していた。彼は絵から目を離さずに、静かに、だが確信に満ちた声で言った。

「完璧だ」

 そして、彼は決断した。この芸術を、セラフィナ一人の胸の内に留めておくわけにはいかない。これは、武器になる。王都が振りかざす「法」という名の暴力に対抗できる、文化という名の力になる。

 カイは、セラフィナの肩にそっと手を置いた。

「セラフィナ」

 彼の声に、セラフィナははっとして顔を上げる。カイの灰色の瞳が、燃えるような光を宿していた。

「これを、見せるべき者たちに見せる」

 彼は窓の外に広がる、闇に沈んだ広大な領地へと視線を向けた。

「王都の愚か者どもではない。この物語の真価がわかる――我が民にだ」
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