ざまぁ?結構ですわ。私はただ、この手で物語を紡ぐだけ――そう思っていたら、私の装飾写本が文化革命を起こして、元婚約者が土下座しに来ました。

aozora

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 グレイアムと名乗った男が去った後、応接室には重苦しい沈黙が降りてきた。まるで、男が吐き出した毒が部屋の隅々にまで染み渡ったかのようだ。

 セラフィナは己の指先が冷たくなるのを感じていた。王都で受けた侮辱、理不尽な追放。癒えかけたはずの古傷が、ギルドという新たな敵意によって再びこじ開けられ、鈍い痛みを訴えている。

 自分の生み出したささやかな光が、王都の巨大な闇を呼び寄せてしまった。その事実に、セラフィナは知らず身を震わせた。

 だが、隣に立つカイは微動だにしなかった。彼は静かに立ち上がると、セラフィナの震える肩に、もう一度、力強く手を置いた。

「恐れるな、セラフィナ」

 彼の灰色の瞳が、未来を見据えて鋭く輝いていた。

「戦いの舞台が整った。ただ、それだけのことだ」

 カイの声は、不思議なほど落ち着いていた。それは諦観ではなく、全てを予見していたかのような、絶対的な自信に裏打ちされているように聞こえた。

「ギルドが……これから何をしてくるというのですか……?」

 かろうじて絞り出した声は、自分でも情けないほどに震えていた。

「奴らは商人だ。そして権威を笠に着る者たちだ」

 カイは窓の外に広がる、活気づき始めた領地の風景に目をやりながら言った。

「技術を盗めないと分かれば、次に盗むのは『物語』だ。君の作品の価値は、その比類なき技術だけではない。むしろ、人々が共感し、心を寄せる『緋色のインクの乙女』の物語そのものにある。奴らは、その魂だけを抜き取り、自分たちの都合の良い抜け殻を被せるだろう」

 それはあまりにも的確な、そして残酷な予測だった。セラフィナは息を呑む。自分の分身とも言える物語が、無残に利用される光景を想像し、胸が締め付けられた。

「では、私は……」

「君は、君の仕事を続けろ」

 カイはセラフィナに向き直り、その紫の瞳をまっすぐに見据えた。

「本物を創り続けろ。最高の輝きを持つ、誰にも真似のできない作品を。敵が土俵を用意してくれるというのなら、我々はそこで、本物の力を見せつければいい」

 彼の言葉には、不安を鎮める力があった。恐怖に凍てついていた心に、再び小さな火が灯る。

 だが、灰色の絶望の底で、何かが燃え上がった。それは怒り。自らの魂を土足で踏み荒らされた創作者としての、聖なる憤怒だった。

 そうだ、自分には工房がある。カイがいる。そして、この辺境の地で生まれた、かけがえのない素材と技術がある。

 セラフィナは、こくりと頷いた。震えは、まだ完全には収まらない。だが、その瞳には、恐怖を焼き尽くすほどの、確かな闘志の光が宿り始めていた。

 ***

 数日後。王都の中央にそびえ立つ、壮麗な書記ギルド本部。その最上階にあるギルド長の執務室は、権威と富をこれでもかと見せつけるような、華美な装飾で埋め尽くされていた。

 分厚い絨毯の上に膝をつき、辺境から戻ったグレイアムが、汗を滲ませながら報告を終えた。

「……以上です、ギルド長。かの辺境伯は、我々の申し出をまったく聞く耳を持ちませんでした。あの女も、頑なで……」

 巨大な黒檀の机の向こうで、ギルド長オルダス・クレイヴンは、指を組んだまま黙って報告を聞いていた。贅肉のついた顔に浮かんだ表情は読み取れない。ただ、その小さな瞳だけが、まるで磨かれた黒曜石のように、一切の光を反射しない無感情な輝きを宿していた。

「して、技術の再現は?」

 オルダスの低く、重い声が室内に響いた。

「……は。持ち帰った『辺境画』を最高の職人たちに分析させましたが……困難を極めております。あの銀色に輝く紙は『鉄葉』なる未知の植物から作られており、王都では育成すら不可能。インクに使われている『陽光糸』なる苔も、魔力を帯びているらしく、通常の顔料ではあの発光は再現できません。木版に使われている木材も……」

「要点を言え」

 オルダスの苛立ちを含んだ声に、グレイアムはびくりと肩を震わせた。

「は、はい! 結論から申しますと、完全な模倣は、不可能です」

 執務室に、再び沈黙が落ちる。オルダスはゆっくりと立ち上がると、窓際に歩み寄り、眼下に広がる王都の街並みを見下ろした。ギルドの支配が隅々まで行き届いた、彼の王国だ。

「技術が真似できぬのなら、価値を奪えばいい」

 オルダスは、独り言のように呟いた。

「民衆というものは愚かだ。本物か偽物かなど、己の目では判断できん。権威ある者が『こちらが本物だ』と示してやれば、それを信じる。ましてや、片や王都のギルドが認めた公式品、片や追放された罪人が辺境の片隅でこしらえた密造品だ。どちらに価値があるか、火を見るより明らかだろう」

 彼は振り返り、グレイアムに冷酷な命令を下した。

「『緋色のインクの乙女』の筋書きだけを使え。絵は、我々の息のかかった、安くて仕事の速い絵師に描かせろ。紙もインクも、一番安価なもので構わん。重要なのは、我々ギルドの印章が押してあることだ。それを大量に印刷し、市場に流せ。我々の流通網を使えば、あの辺境の小さな工房など、一瞬で駆逐できる」

「は、ははっ! かしこまりました!」

 グレイアムは、主人の悪辣な計画に、卑屈な笑みを浮かべて深々と頭を下げた。

 その日のうちに、王都の薄暗い印刷所では、新たな『緋色のインクの乙女』の生産が開始された。

 セラフィナが心血を注いで描いた、繊細で、力強く、痛みに満ちながらも希望を宿した乙女の姿は、そこにはなかった。代わりに、ギルドお抱えの凡庸な絵師が描いた、表情の乏しい、どこにでもいるような少女が、ただ物語の筋書きをなぞるように配置されているだけだった。

 光を放つインクも、決して破れない奇跡の紙も、そこにはない。安っぽい紙に、くすんだ色のインクが染みのように滲んでいる。それは、芸術への冒涜であり、魂の抜け落ちた、ただの印刷物だった。

 だが、その安っぽい模倣品は、ギルドの巨大な力を背景に、恐るべき速さで刷り上げられていった。

 ***

 王宮の一室。アレクシス王太子は、書記ギルド長オルダスが恭しく献上した一冊の書物を手に取り、満足げに頷いていた。

「うむ。見事な出来栄えだ、ギルド長。これこそ、洗練された王都の芸術というものだ」

 隣に立つイザドラも、その本を覗き込み、甲高い声で賛同する。

「本当に! あの……セラフィナ様の描かれたものは、どこか陰気で、絵柄も複雑で自己満足のようでしたけれど、こちらはとても明るくて分かりやすいですわ。これなら、難しいことを考えられない人々でも楽しめますわね」

 二人の目には、辺境で生まれたセラフィナの真作と、ギルドが作り出したこの贋作の違いなど、まるで分かっていない。いや、理解しようとすらしていない。彼らにとって重要なのは、その芸術的価値ではなく、それが誰によって作られ、誰に推奨されているか、ただそれだけだった。

「セラフィナ・ド・ヴァレンシア……」

 アレクシスは、忌々しげにその名前を口にした。

「追放された身でありながら、辺境でこそこそと法を犯し、あのようなガラクタを売り捌いているとは。不愉快極まりない。私の妃となるはずだった女が、犯罪者とはな。私の判断がいかに正しかったか、改めて証明されたというものだ」

 彼の認知は、もはや都合の良いようにしか機能していなかった。「王太子妃はこうあるべき」という自らの規範から外れたセラフィナは、断罪されるべき悪でなければならなかった。彼女の才能が開花し、人々から評価されているという事実は、彼のプライドが許さなかった。

 オルダスは、王太子のその心理を巧みに利用する。

「殿下のおっしゃる通りでございます。つきましては、王家の権威をもって、ギルドが制作したこの『公式版』こそが唯一無二の『緋色のインクの乙女』であると、お認めいただきたく……。そして、あの女の作る密造品は、禁制品として市場から完全に排除する布告を、お願いできないでしょうか」

 アレクシスは、それを待っていたかのように口の端を吊り上げた。セラフィナを社会的に、そして経済的に完全に抹殺する、絶好の機会だ。

「当然だ。許可しよう。王家の推奨を与える。罪人の作った偽物など、我が国の市場に存在してはならない。即刻、布告の準備をさせよ!」

 傲慢な声が、部屋に響き渡った。イザドラは勝ち誇った笑みを浮かべ、アレクシスに寄り添う。彼らが依って立つ権威が、再び自分たちの正しさを証明してくれる。そのことに、二人は何の疑いも抱いていなかった。

 数日後。王都の名において、王国全土に新たな布告が発令された。

 書記ギルドが制作した『緋色のインクの乙女』を、王家が推奨する唯一の「公式版」と認定する。

 それ以外の版、すなわち、辺境で制作されているセラフィナの「辺境画」は、文化統制法に違反する「贋作」であり「禁制品」とする。所持および売買を固く禁じる、と。

 その布告と共に、ギルドの流通網に乗った大量の贋作が、まるで黒い津波のように、辺境の町にまで押し寄せてきた。

 ウォーカー領の市場は、その日、異様な空気に包まれていた。

 王都から派遣された役人が、広場の中央で布告を読み上げる。そして、彼らが荷馬車から降ろしたのは、山と積まれたギルド版の『緋色のインクの乙女』だった。

 噂の「聖なる書」が王都から公式に届いたと聞き、集まってきた領民たちは、最初こそ期待に目を輝かせていた。だが、実際にその本を手に取った者から、戸惑いの声が上がり始める。

「……なんだ、これは?」

「俺たちが吟遊詩人から聞いた話と、絵が違うぞ」

「輝いてもいなければ、インクの匂いも安っぽい……。これが、本当に王都の『本物』なのか?」

 工房でセラフィナから直接指導を受けた若い職人の一人が、その一冊を手に取り、眉をひそめた。

「違う。これはマイスターの作品じゃない。インクに光がない。紙が、息をしていないんだ」

 彼らは、本物を知っていた。たとえ実物を目にしていなくとも、吟遊詩人の語りを通して、その輝きと魂を心に描いていた。そして何より、彼らは自分たちの土地が生み出した奇跡の紙とインクの噂を、誇りとして語り継いできていたのだ。

 そのざわめきの中、セラフィナもまた、カイと共に広場の隅に立っていた。彼女は、人々が手に取るその一冊を、信じられない思いで見つめていた。

 自分の物語。自分の痛み。自分の希望。その全てが、無残に剽窃され、魂のない抜け殻にされている。血を流す茨の薔薇は、ただの棘のついた蔓になり、追放される乙女の絶望と決意に満ちた表情は、のっぺりとした無個性な顔に成り代わっている。

 そして、その醜い模倣品が、王家の印を掲げ、「本物」として売られている。自分の生み出した、我が子のような作品が、「偽物」の烙印を押され、禁じられている。

 ――ガラクタ。
 ――陰気で自己満足な執着。
 ――罪人の作った偽物。

 かつて投げつけられた言葉が、脳内でこだまする。世界が、再び灰色に染まっていくかのような感覚。怒りと、屈辱と、そして深い悲しみが、奔流となってセラフィナの心を襲った。

 唇を噛みしめ、俯く彼女の隣で、カイは静かにその光景を見つめていた。彼の表情は硬い。だが、その灰色の瞳の奥には、冷たい怒りの炎が燃え盛っていた。

 彼は、怒りに震えるセラフィナの肩を、そっと引き寄せた。

「面白い」

 彼の声は低く、だが広場の喧騒の中でもはっきりと聞こえた。

「王都の権威とは、自らの価値を証明するために、わざわざ比較対象(ほんもの)を必要とするらしいな」

 その言葉は、絶望の淵に沈みかけていたセラフィナの心を、強く引き上げた。そうだ、これは終わりではない。始まりなのだ。価値を巡る、真の戦いの。

 セラフィナの紫の瞳に、再び強い光が戻る。彼女は、自分の工房で輝きを放つ、本物の『緋色のインクの乙女』を思った。

 奪われた物語の価値は、必ずこの手で証明してみせる。

 王都の権威が作り出した巨大な嘘を、この辺境の地から生まれた真実の光で、焼き尽くすために。
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