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カイの言葉は、氷の楔となってセラフィナの心に打ち込まれた絶望を、内側から砕く槌の一撃だった。
「……比較対象」
彼女は、か細い声でその言葉を繰り返す。
そうだ。彼らが「偽物」と声高に叫ぶのは、比べなければ価値が定まらないほど、自らの作品に自信がないからだ。本物は、ただそこにあるだけで本物なのだ。
俯いていた顔を上げたセラフィナの紫の瞳に、工房で産声を上げたばかりの真実の輝きが蘇る。奪われた物語の価値は、この手で証明する。王都が振りかざす巨大な嘘を、この辺境の地から生まれた真実の光で焼き尽くすために。
彼女の隣で、カイは燃え盛る怒りを静かな闘志へと変えていた。彼はセラフィナの肩を抱いていた腕をそっと離すと、一歩前へ出た。
「面白い見世物だな」
低く、だが広場の喧騒を圧する声でカイが言うと、周囲のざわめきがわずかに静まる。王都から来た布告官と、その傍らで得意げに贋作を並べる書記ギルドの男たちが、嘲るようにカイを見た。
「これはウォーカー卿。ご領主自ら『偽物』の弁護ですかな? 王家の布告に逆らうおつもりか」
布告官の嫌味な声に、カイは表情一つ変えない。彼はギルドの男たちが並べた、安っぽい羊皮紙に描かれた色のくすんだ絵を一瞥し、鼻で笑った。
「これが、王都が推奨する『本物』か。なるほど、目利き揃いのようだ」
その言葉に含まれた痛烈な皮肉に、布告官の顔が引きつる。
カイは彼らを無視し、傍らに控えていた屈強な側近に顎で示した。
「砦に戻り、工房から『辺境画』を持ってこい。『緋色の乙女』が森に辿り着き、初めてこの土地の光に触れる場面。あれを急ぎ運べ。それから、広場の中央に台座を。一番人目につく場所だ」
側近は「はっ」と短く応じ、瞬く間に人混みの中へと消えていく。残った者たちが、戸惑うギルドの連中を押し退けるようにして、広場の中央に場所を確保し始めた。
突然の出来事に、セラフィナは息をのむ。だが、カイの鋼のような横顔を見れば、彼が衝動で動いているのではないことは明らかだった。そこには、冷静な計算と、絶対的な勝算があった。
カイは、不安げなセラフィナを振り返り、その灰色の瞳をわずかに和らげた。
「セラフィナ。君の作品は、言葉で語る必要すらない。ただ、見せればいい」
その声には、揺るぎない信頼が満ちていた。セラフィナはこくりと頷き、彼の背中を、そこに宿る力強い意志を見つめた。
民衆は固唾を飲んで成り行きを見守っている。辺境の民は、自分たちの誇りが「偽物」と断じられたことに憤り、王都からの役人やギルドの人間は、辺境伯の不遜な態度に不快感を露わにしていた。
やがて、馬を駆って戻ってきた側近が、丁寧に布で包まれた一枚の木版画を運んできた。カイはそれを受け取ると、急ごしらえの台座へと向かう。
そして、全ての者の目の前で、ギルドが並べた「公式版」の隣に、セラフィナが生み出した「辺境画」を並べてみせた。
その瞬間、広場にいた全ての者が息をのんだ。
それは、比較と呼ぶことすらおこがましい、圧倒的な光景だった。
右にあるのは、書記ギルドの贋作。
くすんだ羊皮紙は平板で、描かれたインクは深みもなく、ただ物語の筋書きをなぞっただけの魂のない絵。王太子殿下好みとされる、感情を殺した能面のような乙女の顔。イザドラ嬢が称賛したであろう、ただ高価なだけの顔料を塗りたくった、深みのないけばけばしさ。アレクシスとイザドラが「洗練されている」と評したそれは、流行りの様式を無個性になぞっただけの、どこにでもある退屈な代物だった。
そして、左にあるのはセラフィナの真作。カイが『辺境画』と名付けた、この土地の魂そのもの。
辺境の特殊な植物『鉄葉』から漉かれた紙は、それ自体が月の光を思わせる柔らかな銀色の光沢を放っている。そこに描かれた乙女の銀灰色の髪は、まるで一本一本が風に揺れているかのように繊細だ。彼女が追われた灰色の城は冷たく、だが辿り着いた森は、生命の息吹に満ち満ちていた。
何より、人々を驚かせたのはその色彩。『陽光糸』の苔から作られた顔料は、自ら淡い光を宿しているかのように輝き、葉の一枚一枚、花びらの一片に至るまで、鮮烈な生命感を放っていた。緋色のインクは、ただの赤ではない。それは痛みと情熱が混じり合った、物語の核となる色だった。
光のない絵と、光を放つ絵。
死んだ模倣と、生きた創造。
二つを並べられたことで、その差は残酷なまでに明らかになった。ギルドの男たちの顔から、自信に満ちた笑みが消え、焦りの色が浮かぶ。
カイは、静まり返った群衆を見渡し、ゆっくりと口を開いた。その声は、広場の隅々にまで響き渡った。
「聞け、我が民よ。そして、王都から来た者たちもよく聞くがいい」
彼の指が、まずギルドの贋作を指し示す。
「王都は、王家は、そして書記ギルドは、こちらが『本物』であり、宝であると告げた。王の布告は絶対であり、これこそが公式なのだと」
次に、彼の指はセラフィナの『辺境画』へと移される。その指先は、まるで聖遺物に触れるかのように敬虔だった。
「そして、こちらを『偽物』であり、罪人の作ったガラクタだと断じた。我々の土地で生まれた、この輝きをだ」
カイは一度言葉を切り、集まった一人ひとりの顔を見つめるように視線を巡らせた。
「だが、諸君には目がある。権威に与えられた目ではない。自らの真実を見抜くための目だ。ならば己の目を信じよ!」
声に、力がこもる。
「どちらに生命が宿っている? どちらの乙女の瞳に、悲しみと希望が揺れている? どちらの森の葉が、この西の風にそよいでいる? どちらが、我々の土地の魂を語っているのだ!」
それは問いかけであり、断定だった。
沈黙を破ったのは、工房で働く若い職人の一人だった。
「決まってる! こっちが本物だ! 俺たちの宝だ!」
その声を皮切りに、堰を切ったように辺境の民の声が溢れ出す。
「そうだ! ギルドの絵はただの紙切れだ!」
「乙女が辿り着いた森は、俺たちの森だ!」
「王都に虐げられてきた俺たちの痛みを、乙女は代弁してくれているんだ!」
「『緋色の乙女』は、我々の希望の物語だ! 偽物はお前たちの方だ!」
怒号と歓声が入り混じり、広場は熱狂の渦に包まれた。人々は次々と台座に押し寄せ、セラフィナの作品を食い入るように見つめ、その美しさを讃えた。そして、蔑むような視線でギルドの贋作を指さし、嘲笑の声を上げた。
王都の布告官とギルドの男たちは、民衆の圧倒的なエネルギーに気圧され、蒼白な顔で後ずさるしかなかった。権威のメッキは、真実の輝きの前ではかくも容易く剥がれ落ちるのだ。
セラフィナは、その光景をただ呆然と見つめていた。
自分の作品が、これほど多くの人々に受け入れられている。信じられない思いと、胸の奥から込み上げてくる熱い何かで、視界が滲んだ。
王宮で、アレクシスに「陰気で非生産的」と罵られた。イザドラに「時代遅れの暗い遊び」と嘲笑された。国王に「役立たずなガラクタ」と断じられた。
公の場で否定され、価値を剥ぎ取られ、追放された。そのトラウマが、今、同じ公の場で、名も知らぬ人々の声によって洗い流されていく。
自分の価値が、初めて認められた。
王太子妃としてではなく、侯爵令嬢としてでもなく、「セラフィナ・ド・ヴァレンシア」という一人の人間が、その手で生み出したものの価値が。
彼女の頬を、一筋の涙が伝った。それは、もう絶望や屈辱の色をしていなかった。温かく、澄んだ、喜びの雫だった。
不意に、たくましい腕が彼女の肩をそっと支える。見上げると、カイが誇らしげな、そしてこの上なく優しい眼差しで彼女を見つめていた。
「よくやったな、セラフィナ」
その短い言葉だけで、全てが報われた気がした。
熱狂が少しずつ落ち着きを見せ始めた頃、一人の男が人垣を分けて、カイとセラフィナの前に進み出た。
年の頃は四十代半ば。質素だが上質な旅装に身を包み、その佇まいには長年の経験に裏打ちされた風格が漂っていた。何より、彼の瞳は、ただの好奇心ではない、価値を見定める鑑定家の鋭い光を宿していた。
「ウォーカー卿、そして……こちらが制作者のセラフィナ嬢ですな」
男は丁寧な仕草で一礼した。
「お見事。実に、見事なものでした」
カイは警戒を解かずに男を見返した。
「貴殿は?」
「失礼。私は、王都で商いを営む者。名をライオネルと申します。書記ギルドの息はかかっておりませんので、ご安心を」
ライオネルと名乗った男は、二つの作品が並ぶ台座に再び目をやった。
「実は、吟遊詩人が広めている『聖なる書』の噂の真偽を確かめるため、数日前からこの地に滞在しておりました。噂はかねがね。ですが、これほどとは。王都の連中は、己が何を敵に回したのか、全く理解していないようですな」
彼の声には、抑えきれない興奮が滲んでいた。
「ウォーカー卿。これはもはや、辺境の一地方で起こっている小競り合いなどではございません。これは、芸術の、いや、この国の文化そのものの未来を賭けた戦いです」
ライオネルの視線が、カイを、そしてセラフィナをまっすぐに射抜く。
「二月後、王都にて十年ぶりに『大文化博覧会』が開催されます。王侯貴族、諸外国の使節、そして大陸中の富商が集う、国の一大行事です」
彼はそこで言葉を切り、確信に満ちた声で続けた。
「私が、貴殿らに最高の場所をご用意いたしましょう。書記ギルドの巨大な展示場の、真ん前に」
その提案に、カイの眉が微かに動く。
「……面白い。だが、禁制品の烙印を押された我々が、どうやって公式の場に出られる?」
「そこは、私の腕の見せ所。ギルドの独占を快く思わぬ者は、王都にも数多くおります。抜け道はいくらでもある」
ライオネルはセラフィナに向き直り、深い敬意を込めて言った。
「セラフィナ嬢。今日のこの光景は、始まりにすぎません。あなたの芸術の真価を、それを最も理解せぬ者たちの目の前で証明するのです。王太子殿下の、そして国王陛下の御前で。そうすれば、ギルドの権威も、彼らが作った嘘も、全てが砂上の楼閣と化しましょう」
王都へ。
その言葉に、セラフィナの心臓が一度、冷たく跳ねた。あの屈辱の場所へ、再び戻る。恐怖が鎌首をもたげた。
だが、隣に立つカイの力強い体温を感じ、広場に響き渡った民衆の声援を思い出す。もう、一人ではない。私の作品には、価値があると信じてくれる人々がいる。
そして何より、自らの手で生み出した作品の、誰にも否定しようのない輝きを信じた。
セラフィナは、震える唇を固く結び、恐怖を乗り越えて顔を上げた。彼女の紫の瞳には、再び戦いの炎が灯っていた。
戦いの舞台は、王都へ。
今度は、追放されるためではない。奪われた全てを取り戻し、新たな伝説を刻むために。
彼女は、カイの隣で、静かに、だが力強く頷いた。
「……比較対象」
彼女は、か細い声でその言葉を繰り返す。
そうだ。彼らが「偽物」と声高に叫ぶのは、比べなければ価値が定まらないほど、自らの作品に自信がないからだ。本物は、ただそこにあるだけで本物なのだ。
俯いていた顔を上げたセラフィナの紫の瞳に、工房で産声を上げたばかりの真実の輝きが蘇る。奪われた物語の価値は、この手で証明する。王都が振りかざす巨大な嘘を、この辺境の地から生まれた真実の光で焼き尽くすために。
彼女の隣で、カイは燃え盛る怒りを静かな闘志へと変えていた。彼はセラフィナの肩を抱いていた腕をそっと離すと、一歩前へ出た。
「面白い見世物だな」
低く、だが広場の喧騒を圧する声でカイが言うと、周囲のざわめきがわずかに静まる。王都から来た布告官と、その傍らで得意げに贋作を並べる書記ギルドの男たちが、嘲るようにカイを見た。
「これはウォーカー卿。ご領主自ら『偽物』の弁護ですかな? 王家の布告に逆らうおつもりか」
布告官の嫌味な声に、カイは表情一つ変えない。彼はギルドの男たちが並べた、安っぽい羊皮紙に描かれた色のくすんだ絵を一瞥し、鼻で笑った。
「これが、王都が推奨する『本物』か。なるほど、目利き揃いのようだ」
その言葉に含まれた痛烈な皮肉に、布告官の顔が引きつる。
カイは彼らを無視し、傍らに控えていた屈強な側近に顎で示した。
「砦に戻り、工房から『辺境画』を持ってこい。『緋色の乙女』が森に辿り着き、初めてこの土地の光に触れる場面。あれを急ぎ運べ。それから、広場の中央に台座を。一番人目につく場所だ」
側近は「はっ」と短く応じ、瞬く間に人混みの中へと消えていく。残った者たちが、戸惑うギルドの連中を押し退けるようにして、広場の中央に場所を確保し始めた。
突然の出来事に、セラフィナは息をのむ。だが、カイの鋼のような横顔を見れば、彼が衝動で動いているのではないことは明らかだった。そこには、冷静な計算と、絶対的な勝算があった。
カイは、不安げなセラフィナを振り返り、その灰色の瞳をわずかに和らげた。
「セラフィナ。君の作品は、言葉で語る必要すらない。ただ、見せればいい」
その声には、揺るぎない信頼が満ちていた。セラフィナはこくりと頷き、彼の背中を、そこに宿る力強い意志を見つめた。
民衆は固唾を飲んで成り行きを見守っている。辺境の民は、自分たちの誇りが「偽物」と断じられたことに憤り、王都からの役人やギルドの人間は、辺境伯の不遜な態度に不快感を露わにしていた。
やがて、馬を駆って戻ってきた側近が、丁寧に布で包まれた一枚の木版画を運んできた。カイはそれを受け取ると、急ごしらえの台座へと向かう。
そして、全ての者の目の前で、ギルドが並べた「公式版」の隣に、セラフィナが生み出した「辺境画」を並べてみせた。
その瞬間、広場にいた全ての者が息をのんだ。
それは、比較と呼ぶことすらおこがましい、圧倒的な光景だった。
右にあるのは、書記ギルドの贋作。
くすんだ羊皮紙は平板で、描かれたインクは深みもなく、ただ物語の筋書きをなぞっただけの魂のない絵。王太子殿下好みとされる、感情を殺した能面のような乙女の顔。イザドラ嬢が称賛したであろう、ただ高価なだけの顔料を塗りたくった、深みのないけばけばしさ。アレクシスとイザドラが「洗練されている」と評したそれは、流行りの様式を無個性になぞっただけの、どこにでもある退屈な代物だった。
そして、左にあるのはセラフィナの真作。カイが『辺境画』と名付けた、この土地の魂そのもの。
辺境の特殊な植物『鉄葉』から漉かれた紙は、それ自体が月の光を思わせる柔らかな銀色の光沢を放っている。そこに描かれた乙女の銀灰色の髪は、まるで一本一本が風に揺れているかのように繊細だ。彼女が追われた灰色の城は冷たく、だが辿り着いた森は、生命の息吹に満ち満ちていた。
何より、人々を驚かせたのはその色彩。『陽光糸』の苔から作られた顔料は、自ら淡い光を宿しているかのように輝き、葉の一枚一枚、花びらの一片に至るまで、鮮烈な生命感を放っていた。緋色のインクは、ただの赤ではない。それは痛みと情熱が混じり合った、物語の核となる色だった。
光のない絵と、光を放つ絵。
死んだ模倣と、生きた創造。
二つを並べられたことで、その差は残酷なまでに明らかになった。ギルドの男たちの顔から、自信に満ちた笑みが消え、焦りの色が浮かぶ。
カイは、静まり返った群衆を見渡し、ゆっくりと口を開いた。その声は、広場の隅々にまで響き渡った。
「聞け、我が民よ。そして、王都から来た者たちもよく聞くがいい」
彼の指が、まずギルドの贋作を指し示す。
「王都は、王家は、そして書記ギルドは、こちらが『本物』であり、宝であると告げた。王の布告は絶対であり、これこそが公式なのだと」
次に、彼の指はセラフィナの『辺境画』へと移される。その指先は、まるで聖遺物に触れるかのように敬虔だった。
「そして、こちらを『偽物』であり、罪人の作ったガラクタだと断じた。我々の土地で生まれた、この輝きをだ」
カイは一度言葉を切り、集まった一人ひとりの顔を見つめるように視線を巡らせた。
「だが、諸君には目がある。権威に与えられた目ではない。自らの真実を見抜くための目だ。ならば己の目を信じよ!」
声に、力がこもる。
「どちらに生命が宿っている? どちらの乙女の瞳に、悲しみと希望が揺れている? どちらの森の葉が、この西の風にそよいでいる? どちらが、我々の土地の魂を語っているのだ!」
それは問いかけであり、断定だった。
沈黙を破ったのは、工房で働く若い職人の一人だった。
「決まってる! こっちが本物だ! 俺たちの宝だ!」
その声を皮切りに、堰を切ったように辺境の民の声が溢れ出す。
「そうだ! ギルドの絵はただの紙切れだ!」
「乙女が辿り着いた森は、俺たちの森だ!」
「王都に虐げられてきた俺たちの痛みを、乙女は代弁してくれているんだ!」
「『緋色の乙女』は、我々の希望の物語だ! 偽物はお前たちの方だ!」
怒号と歓声が入り混じり、広場は熱狂の渦に包まれた。人々は次々と台座に押し寄せ、セラフィナの作品を食い入るように見つめ、その美しさを讃えた。そして、蔑むような視線でギルドの贋作を指さし、嘲笑の声を上げた。
王都の布告官とギルドの男たちは、民衆の圧倒的なエネルギーに気圧され、蒼白な顔で後ずさるしかなかった。権威のメッキは、真実の輝きの前ではかくも容易く剥がれ落ちるのだ。
セラフィナは、その光景をただ呆然と見つめていた。
自分の作品が、これほど多くの人々に受け入れられている。信じられない思いと、胸の奥から込み上げてくる熱い何かで、視界が滲んだ。
王宮で、アレクシスに「陰気で非生産的」と罵られた。イザドラに「時代遅れの暗い遊び」と嘲笑された。国王に「役立たずなガラクタ」と断じられた。
公の場で否定され、価値を剥ぎ取られ、追放された。そのトラウマが、今、同じ公の場で、名も知らぬ人々の声によって洗い流されていく。
自分の価値が、初めて認められた。
王太子妃としてではなく、侯爵令嬢としてでもなく、「セラフィナ・ド・ヴァレンシア」という一人の人間が、その手で生み出したものの価値が。
彼女の頬を、一筋の涙が伝った。それは、もう絶望や屈辱の色をしていなかった。温かく、澄んだ、喜びの雫だった。
不意に、たくましい腕が彼女の肩をそっと支える。見上げると、カイが誇らしげな、そしてこの上なく優しい眼差しで彼女を見つめていた。
「よくやったな、セラフィナ」
その短い言葉だけで、全てが報われた気がした。
熱狂が少しずつ落ち着きを見せ始めた頃、一人の男が人垣を分けて、カイとセラフィナの前に進み出た。
年の頃は四十代半ば。質素だが上質な旅装に身を包み、その佇まいには長年の経験に裏打ちされた風格が漂っていた。何より、彼の瞳は、ただの好奇心ではない、価値を見定める鑑定家の鋭い光を宿していた。
「ウォーカー卿、そして……こちらが制作者のセラフィナ嬢ですな」
男は丁寧な仕草で一礼した。
「お見事。実に、見事なものでした」
カイは警戒を解かずに男を見返した。
「貴殿は?」
「失礼。私は、王都で商いを営む者。名をライオネルと申します。書記ギルドの息はかかっておりませんので、ご安心を」
ライオネルと名乗った男は、二つの作品が並ぶ台座に再び目をやった。
「実は、吟遊詩人が広めている『聖なる書』の噂の真偽を確かめるため、数日前からこの地に滞在しておりました。噂はかねがね。ですが、これほどとは。王都の連中は、己が何を敵に回したのか、全く理解していないようですな」
彼の声には、抑えきれない興奮が滲んでいた。
「ウォーカー卿。これはもはや、辺境の一地方で起こっている小競り合いなどではございません。これは、芸術の、いや、この国の文化そのものの未来を賭けた戦いです」
ライオネルの視線が、カイを、そしてセラフィナをまっすぐに射抜く。
「二月後、王都にて十年ぶりに『大文化博覧会』が開催されます。王侯貴族、諸外国の使節、そして大陸中の富商が集う、国の一大行事です」
彼はそこで言葉を切り、確信に満ちた声で続けた。
「私が、貴殿らに最高の場所をご用意いたしましょう。書記ギルドの巨大な展示場の、真ん前に」
その提案に、カイの眉が微かに動く。
「……面白い。だが、禁制品の烙印を押された我々が、どうやって公式の場に出られる?」
「そこは、私の腕の見せ所。ギルドの独占を快く思わぬ者は、王都にも数多くおります。抜け道はいくらでもある」
ライオネルはセラフィナに向き直り、深い敬意を込めて言った。
「セラフィナ嬢。今日のこの光景は、始まりにすぎません。あなたの芸術の真価を、それを最も理解せぬ者たちの目の前で証明するのです。王太子殿下の、そして国王陛下の御前で。そうすれば、ギルドの権威も、彼らが作った嘘も、全てが砂上の楼閣と化しましょう」
王都へ。
その言葉に、セラフィナの心臓が一度、冷たく跳ねた。あの屈辱の場所へ、再び戻る。恐怖が鎌首をもたげた。
だが、隣に立つカイの力強い体温を感じ、広場に響き渡った民衆の声援を思い出す。もう、一人ではない。私の作品には、価値があると信じてくれる人々がいる。
そして何より、自らの手で生み出した作品の、誰にも否定しようのない輝きを信じた。
セラフィナは、震える唇を固く結び、恐怖を乗り越えて顔を上げた。彼女の紫の瞳には、再び戦いの炎が灯っていた。
戦いの舞台は、王都へ。
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