役立たずと追放された空想令嬢ですが、その知識は未来の科学技術でした。私を拾ってくれた冷徹公爵様に溺愛され、世界を変える発明で大逆転します!

aozora

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 ヴァルヘイム公国を包む夜は、深い静寂に沈んでいた。

 だが、その底で、新たなる嵐が胎動を始めていた。

 カイウス・エトール・ヴァルヘイムが放った、宣戦布告にも等しい呟きは、誰に聞かれることもなく夜の闇に吸い込まれていく。

 その一言が、静寂の皮を被った底なし沼の蓋を開けた。

 ヴァルヘイム公国の心臓部たる城館は、主の静かな怒りに呼応し、水面下で激しく蠢動し始めた。

 夜が明ける頃には、カイウスはすでに執務室で数人の側近と向き合っていた。

 彼の顔に昨夜の激情の跡はなく、そこにあるのは、研ぎ澄まされた刃のような冷徹さ。

 領主としての絶対的な威厳だけだった。

「――以上が、グランツ王国軍の動向だ。王太子アルフォンス自ら一個師団を率い、グライフスヴァルト砦に向かっている。名目は『国境付近の治安維持と軍事演習』。噴飯ものだな」

 カイウスがこともなげに言うと、集まった将軍たちの顔に緊張が走る。

「公爵様、これは明らかに我が国への恫喝……いや、侵攻の口実作りと見て間違いありません!」

「愚かな。王太子自ら辺境の砦へとは。何を考えているのか」

 カイウスは、広げられた地図の上で、グランツ王国との国境線を黒い手袋に包まれた指でなぞった。

「目的は一つ。エリアーナ嬢の引き渡し要求だろう。私がそれに応じないと見るや、武力に訴えるつもりだ。……なんとまあ、短絡的で、想像力のない手だ」

 その声には侮蔑の色さえ滲んでいた。

「全軍に通達。第一騎士団、及び第三魔導師団は、即刻グライフスヴァルト砦へ。国境は一歩たりとも越えさせるな」

「ただし、こちらから先に手を出すことも禁ずる。全ての責任は、愚かな王太子に取らせる」

「はっ!」

 淀みない指示が飛ぶ。

 それはまるで、長年稽古を重ねた演目の一幕のように、完璧に統制が取れていた。

「それから……この一件、エリアーナ嬢の耳には入れるな。彼女には、今しばし工房での作業に集中してもらいたい。余計な心労を与える必要はない」

 カイウスの金の瞳が、ふと、窓の向こう、湖畔の工房の方角を捉えた。

 その一瞬だけ、張り詰めた領主の仮面が緩み、奥に潜む、一人の女性を深く慈しむ男の面差しが揺らめいた。

「全て、私が終わらせる」

 その言葉は、絶対的な自信と、揺るぎない覚悟の表明だった。

 ヴァルヘイム公国という小国は、大陸屈指の技術力と経済力を誇る。歯車が噛み合い、蒸気が噴き出し、鋼の脈動が響き渡る。

 その全ての機能が、カイウスというたった一人の男の意志のもと、グランツ王国という巨大な敵を迎撃するために、静かに、そして恐ろしいまでの緻密さで動き始めていた。

 ◇

 エリアーナが城館の異変に気づいたのは、カイウスが軍議に詰めるようになってから三日目のことだった。

 工房での作業は、最終段階に差し掛かっていた。

 スパイであった見習い技師ヨハンの裏切りはチームに衝撃を与えたが、カイウスの迅速な対応と、残された仲間たちの結束によって、その傷はすぐに癒えた。

 むしろ、苦難を乗り越えたことで、エリアーナを筆頭とする開発チームの絆は、以前にも増して強固なものとなっていた。

「お嬢様、ここの『流電』回路の配線、これでよろしいですかい?」

「ええ、ギデオン。完璧よ。このパターンなら、信号の減衰を最小限に抑えられるはず……」

 巨大な『天命石』のウェハーを前に、エリアーナとギデオンは顔を突き合わせて議論を交わす。

 その傍らでは、若い技師たちが黙々と自らの持ち場を守り、工房全体が心地よい緊張感と熱気に包まれていた。

 エリアーナの足元では、聖獣ライテイが丸くなって微睡んでいる。

 時折、その銀色の毛皮が、静電気でぱちぱちと小さな火花を散らした。

 全てが順調だった。

 だというのに、エリアーナの胸には、拭い去れない澱のようなものが溜まり始めていた。

 (……何かが、おかしい)

 最初は気のせいだと思っていた。

 だが、日に日にその違和感は確信に変わっていく。

 城館と工房を繋ぐ橋を警備する兵士の数が増えている。

 彼らの纏う空気が、普段の穏やかなものではなく、研ぎ澄まされた刃のようにぴんと張り詰めている。

 そして何より、あれほど頻繁に工房を訪れ、エリアーナとの議論を楽しんでいたカイウスが、この三日、一度も顔を見せていないのだ。

「ギデオン。何か、城館の方であったのかしら?」

 作業の手を止め、エリアーナは思い切って尋ねてみた。

 ドワーフの老工芸師は、一瞬だけ動きを止め、その皺深い目元を気まずそうに掻いた。

「さあな。ワシら職人には、殿上人の考えるこたぁ、とんと分かりゃしねぇ」

 明らかに、何かを隠している口ぶりだった。

 普段は饒舌なギデオンが、これほどまでに歯切れが悪いのは珍しい。

「……そう。ごめんなさい、変なことを聞いて」

 エリアーナはそれ以上追及するのをやめた。

 ギデオンが口を噤むということは、カイウスの指示なのだろう。

 自分に知られたくない何かが、起きている。

 その日の夕食後、エリアーナは自室の窓から、ぼんやりと城館を見上げていた。

 煌々と灯りがともる城は、いつもと変わらぬ威容を誇っているように見える。

 だが、その内側で、何かが蠢いている。

 自分には知らされない、重大な何かが。

 (私の知らないところで、カイウス様が……)

 (私がここにいるせいで、彼が苦しんでいるのではないか?)

 胸がざわつく。

 不安が、深い闇のように心を覆い尽くしていく。

 同時に、一つの決意が彼女の心に、冷たい水が湧き上がるように込み上げた。

 (もし、これが私の持つ『天命』の知識が招いたことならば、私はその真実から目を背けてはならない。カイウス様だけに、全ての重荷を背負わせるわけにはいかない)

 足元で、ライテイが「きゅぅ」と不安そうな鳴き声を上げた。

 エリアーナは小さな聖獣を抱き上げると、その温かい毛皮に顔を埋める。

「大丈夫よ、ライテイ。きっと、何でもないわ」

 自分に言い聞かせるような言葉だった。

 だが、その言葉は少しも彼女の心を軽くはしてくれなかった。

 否、むしろ、真実を確かめたいという衝動を加速させた。

 いてもたってもいられず、エリアーナは部屋を飛び出した。

 夜の冷たい空気が、頬を撫でる。

 彼女の足は、迷うことなく一つの場所を目指していた。

 カイウスの、執務室だ。

 執務室へと続く廊下は、いつもより警備が厳重だった。

 重厚な扉の前で、二人の衛兵が鋼の壁のように立ちはだかる。

「エリアーナ様。申し訳ありませんが、これより先は……」

「カイウス様にお会いしたいのです。お願い、通してください」

 エリアーナの必死の形相に、衛兵は戸惑いの色を見せた。

 普段の彼女からは想像もつかない、揺るぎない覚悟を宿した紫の瞳。

 その真摯な光に射抜かれ、屈強な衛兵たちは、一瞬、たたらを踏んだ。

 その時だった。

 中から、重々しい声が響いた。

「――構わん、通せ」

 カイウスの声だった。

 衛兵は恭しく頭を下げ、ゆっくりと扉を開ける。

 エリアーナが息を呑んで足を踏み入れた先は、いつもの静かな執務室ではなかった。

 そこは、戦場そのものだった。

 部屋の中央には巨大な軍事地図が広げられ、その周りをカイウスと、屈強な将軍たちが囲んでいる。

 地図の上には、ヴァルヘイム公国を示す青い駒と、そして、国境線にびっしりと並べられた、グランツ王国を示す赤い駒が置かれていた。

「……っ!」

 部屋の中は、まるで絶対零度の氷塊にでも閉じ込められたかのように、張り詰めた空気が満ちていた。

 誰もが、エリアーナの存在に気づきながらも、地図上の赤い駒――敵から目を離せずにいた。

「グライフスヴァルト砦前面に展開する敵師団は、およそ一万。率いるは王太子アルフォンス本人との由」

「魔法障壁の準備は。敵の魔導砲による先制攻撃を警戒しろ」

「兵糧の備蓄は十分です。長期戦にも耐えられます」

 飛び交う言葉の断片が、エリアーナの頭の中で恐ろしい一つの像を結んでいく。

 グランツ王国。

 王太子アルフォンス。

 戦争。

 ――私の、せいだ。

 全身から、血の気が引いていくのがわかった。

 足が震え、立っているのがやっとだった。

 私が、ここにいるから。

 私の持つ、この『天命』の知識のせいで。

 多くの人が傷つき、命を落とすかもしれない戦争が、始まろうとしている。

 私が夢見たのは、こんな世界ではない。

 人と人とを繋ぎ、遠い場所にいる大切な人の顔を見て話せるような、温かい未来だったはずだ。

 なのに、現実はどうだ。

 私の知識は、人と人とを殺し合わせるための、争いの火種になっている。

 (私は、世界を豊かにするどころか、破壊しようとしている……?)

 創造主としての恐怖が、津波のように彼女を襲った。

 呼吸が浅くなり、視界が白んでいく。

「皆、少し席を外してくれ」

 その混乱の最中、凛としたカイウスの声が響いた。

 将軍たちは黙って一礼すると、足早に執務室から退出していく。

 やがて、重い扉が閉められ、広い部屋にはエリアーナとカイウスの二人だけが残された。

 カイウスはゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。

 その金の瞳には、戦場を支配する領主の厳しさと、エリアーナを気遣う優しさが、不思議な形で同居していた。

「……なぜ、黙っていたのですか」

 エリアーナは、かろうじてそれだけを口にした。

 声が、自分のものではないように震えている。

「心配を、かけたくなかった」

「心配……? これは、私の問題です! 私がここにいるから、アルフォンス様は……!」

「違う」

 カイウスは、エリアーナの言葉を、短く、しかしきっぱりと否定した。

「これは、君の問題ではない。君という類稀なる才能の価値を理解できず、己の愚かさを糊塗するために、力で全てを奪い返そうとする者の問題だ」

「でも、現に軍が動いています! このままでは、戦争に……!」

「ああ、そうなるかもしれん」

 あまりにもあっさりと肯定され、エリアーナは言葉を失った。

 カイウスは、そんな彼女の目の前に立つと、その震える両肩を、力強く、それでいて壊れ物を扱うかのように優しく掴んだ。

「エリアーナ。よく聞け。君は何も悪くない」

 まっすぐに、金の瞳が彼女を射抜く。

「君が私に語ってくれた未来を覚えているか? 遠い場所にいる者たちが、互いの顔を見て、声を聴き、心を繋ぐことができる世界。誤解や不信が生まれにくく、人々がより深く理解し合える世界。……君の知識は、そのためにあるのだろう?」

「……っ、はい。カイウス様が、そう仰ってくださるのなら……私は、もう迷いません。この天命を、世界を繋ぐ希望の光とするため、成すべきことを成します」

「アルフォンスの起こしたこの愚かな騒ぎは、いわば、新しい時代が生まれる前の陣痛のようなものだ。古い価値観が、新しい光の到来を恐れて、最後の抵抗をしているに過ぎん」

「……カイウス、様」

「だから、君は君の成すべきことを成せ。君が創り出す未来を、この私が守る。このヴァルヘイムの全てを懸けて、必ず」

 ようやく腕の中に帰ってきた、かけがえのない宝物を確かめるように、カイウスはそっと目を閉じた。

 次の瞬間、エリアーナは力強く引き寄せられ、カイウスの硬い胸の中に包み込まれていた。

 彼の軍服越しに、トク、トク、と力強い心臓の鼓動が伝わってくる。

 それは、どんな言葉よりも雄弁に、彼の覚悟とエリアーナへの想いを物語っていた。

 カイウスの言葉と温もりが、張り詰めていたエリアーナの心の枷を、音もなく砕いた。

 エリアーナの瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。

 それは、渦巻く恐怖と罪悪感、そして深い安堵が、混じり合って流れ出る泉のようだった。

 彼の軍服の胸元を、温かい涙が濡らしていく。

 カイウスは何も言わず、ただ、彼女の背中を優しく、ゆっくりと撫で続けた。

 この腕の中にいる限り、誰にも傷つけさせはしない、と誓うように。

 どれほどの時間が経っただろうか。

 ようやく嗚咽が収まった頃、執務室の扉が控えめにノックされた。

「公爵様、急報です! グランツ王国軍、グライフスヴァルト砦まで五キロの地点に到達。王太子アルフォンスより、公爵様との会談、並びに『国を捨てた罪人』エリアーナ・フォン・クレスメント嬢の即時引き渡しを要求する使者が!」

 報告が響く。

 特に『国を捨てた罪人』という言葉が耳に届いた瞬間、カイウスの黄金の瞳から、感情という光が一切消え失せた。

 それは、全てを凍てつかせる絶対零度の怒り。

 その場にいた衛兵たちが思わず息を呑むほどの、無音の殺気が執務室を満たした。

 エリアーナを侮辱する愚かさに、彼の怒りは限界に達していた。

 彼はゆっくりとエリアーナの体を離すと、彼女の涙の痕が残る頬を、指で優しく拭った。

「すまない、行かねばならん」

「……はい」

 エリアーナは、赤く腫れた目で、それでもまっすぐに頷いた。

 もう、迷いはなかった。

 彼が、信じてくれる。

 彼が、守ってくれる。

 ならば、自分は進むだけだ。

 この天命の先にある、彼と共に創る未来へと。

 カイウスはエリアーナに背を向けると、扉へと向かう。

 部屋を出る直前、彼は一度だけ振り返り、鋼の刃のような、冷酷な笑みを浮かべた。

「待っていろ、エリアーナ。退屈な余興は、すぐに終わらせる」

「ええ、信じております、カイウス様。私の創る未来を、貴方が守ってくださる限り」

 絶対的な王者の宣言を背に、エリアーナは力強く応えた。

 扉が閉ざされ、一人残されたエリアーナは、静かに窓の外を見上げた。

 東の空は、不気味なほどに暗く沈んでいる。

 (カイウス様は、私の未来を、この世界の未来を守ろうとしている)

 (ならば、私にできることは一つ。この『天命』を、彼と共に未来へ繋ぐこと)

 エリアーナの紫の瞳に、揺るぎない光が宿る。

 それは、未来を見据える希望の輝きだった。

 彼女自身の運命は、もう工房という小さな揺りかごの中には収まらない。

 大陸全土を揺るがす巨大な嵐の中心で、彼女は今、カイウスと共に未来を切り拓くことを選んだのだ。
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