かわいいクリオネだって生きるために必死なの

ここもはと

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第3章

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「……お願い。ペン返してほしい」と、何度か言われた。
 どれも泣き声だった。
 でも、無視した……。

 大河が香葉来へのいじめを始めた日から、彼女はグループ内で、一見仲間はずれを解かれたような雰囲気だった。
 恭奈は「かぁは」と甘い声をだし、ミアも普通に話しかけていた。さくら、桃佳もだ。
 真鈴も涼しい顔でグループの中にいる。
 香葉来がいじめられていることを大河に告発した雪乃は、グループからはずされ、ひとりで過ごしていたけれど。

 ただ、香葉来は仲間としてグループにいられているわけではない。
 むしろ、雪乃よりひどい扱いを受けている。
 なぜなら、香葉来はミアと恭奈にこんなことを言われていたから。

「ねぇ、香葉来。私の新しいアイコン描いてくれない?」
「あーずるいみあみあ! かぁは~、あたしのも描いてくるよねぇ? 天才画伯ぅー」

 大河に知らしめるため、ふたりとも教室中に響き渡るくらいに、がらがらとでかいはしゃぎ声をあげていた。
 香葉来は青白い顔をしながらも、うなずいていた。

「じゃあ納期は5日後ねぇー! かぁはは仕事早いから余裕っしょ!」

 描けるわけがない。
 大河は前、香葉来のイラストをほめたことがあった。
 香葉来は、「あたしじゃなくってこのペンがすごいの。指じゃきれいな曲線が描けないから」とデジタルペンを大事そうに持ちながらはしゃいでいた。
 香葉来は天才的な絵のセンスがあるため、指でもきれいな曲線が描けるようになるかもしれないが、5日なんて短期間では不可能だろう。
 大河はこっそりと香葉来にデジタルペンを返してやろうかとも考えた。
 でも、それじゃあ真鈴はすぐに気づくだろう。
 真鈴に反することが怖くて、歯を食いしばって苦痛に耐えた。

 香葉来は結局、絵は描けなかった。
 その5日後、教室につくなり、香葉来はミアと恭奈に深く頭を下げていた。

「約束破るの?」
「えー嘘つきじゃーん! 誰かさんと一緒じゃーん!」

 ミアと恭奈は香葉来をしつこく責めていた。とんだ茶番だった。
 香葉来を罵りたいがために、描けないとわかっていて依頼した。
 ふたりは香葉来が断れない性格だとわかっていて、いじめたかったんだ。クズだ。
 でも大河は、自分がそのいじめの原因を作っているため、自分ほどのクズはいないと思った。自分を刃物で切りつけたかった。自分の首を絞めたかった。死にたいとすら思えてしまった。

 そして、大河が香葉来をいじめてから1週間が経った日。
 香葉来は設置校の通級指導教室に通う日だった。
 いつまでも、空は黒いな……。
 大河は家を出て、傘を開いた。すると、隣の家から香織が出てきた。
 大河はぺこりと頭を下げ、香織にあいさつした。

 香織は相変わらず若々しい見た目をしている。里璃子の会社で勤めてからは髪の色はだいぶん落ちついたが、まだ20代半ばにも見える容姿だ。
 でも、目の下にはクマが見え、げっそりとしていた。なのに「おーはよー」と、気の抜けた明るいあいさつをしてくる。

「今日は香葉来、朝から通級なんだけど。もしかして待っててくれた?」
「……いいえ」
「そっか。いつもありがとね」
「……別に、なんにも」

 すると香織、目を三日月にして。

「ううん。あの子、家でよく大河くんのことしゃべってるよ。学校でいじめられないように守ってくれて、『お兄ちゃんみたいで大好き』って」
「……えっ」
「あ、ごめんね。あの子さ、恋とかうといから……わかんないんだけど。でも大河くんのこと大好きって気持ちは本当に嘘じゃないと思うから。まあさ、やじゃなかったらさ、ちゃんとした彼女ができるまでのあいだ、付き合ってあげてほしいな、なんてね。あははっ」
「……はい。……行ってきます」
「いってらっしゃい」

 香織は小さく手を振ってくる。大河は逃げるようにその場から離れた。

 おれはこんなにもひどいいじめをしているのに、おばさんから「ありがとう」と言われてしまった。ちくしょう……。ちくしょう……。悪人なのに、なんでだよ……。

 大河は香織からの感謝の声が痛かった。

 そして。
 いじめられているにも関わらず、香葉来は香織に何も伝えていない。
 香織からの感謝の声を聞いて、香葉来がいじめを隠し通しているという事実を知った。

 大河はすぐにでも、今起きているすべての出来事を香織に告白したかった。楽になりたい。犯罪者が自首をしたくなると聞いたことがある。大河はその心理状態に近いものを感じていた。たがそれでは真鈴を裏切ることになり、その結果、香織と香葉来の生活に不利益を被ってしまわないか。さまざまな負の可能性を考えると、とてもじゃないが簡単に言えなかった。これは何よりもキツい罰だ。


 学校で大河は孤立していた。公の場所でミアに暴力を振るった事件から「危ないヤツ」とみなされてしまったのだ。
 大河自身はそんなことどうだっていいという気持ちだった。
 そんな中でも央だけは相変わらず話しかけてくる。この日も。

「おはよ。汐見さんは?」
「休み」
「ふーん。最近なか悪いね。けんかしてる?」

 央は知ってか知らずか、軽い口ぶりで香葉来の名前を出してくる。
 どこか楽しんでいるようで腹が立つ。大河はそれ以上は答えず無視した。

「もし別れちゃったのなら、僕、汐見さんにアタックしよっかなぁー」
「黙れよ」
「って冗談だよ。ピリピリしないでよ」

 うっとおしい! 大河は席を立ち央から離れた。
 今の心理状況で軽口をたたかれると手が出そうになる。
 大河は蛍光灯の人工的な光に頼る廊下を歩いた。

 ザァーザァー。
 もうこの音は聞きたくない。
 遅い梅雨入りだったから、明けるのは夏休みに入った頃になるらしい。
 
 ザァーザァー。
 香葉来の梅雨は明けるのだろうか……。 大河はうつむいて歩いていた。

 そこで。
 タッタッタッタ……と軽い足音が近づいてくる。顔を上げた。
 足音の主は真鈴だった。

 鋭いつり目は、直線上に打つかった。もはや、おはようを言える関係じゃない。
 でも大河は真鈴と対話したかった、鉛のように重い唇を上下に開いた。

「……おはよう」
「おはよう」

 あいさつは返してくれた。真鈴は少しだけ目を見開いた。
 今、彼女には、ミアや恭奈たちがコバンザメのようにくっつていない。
 朝礼までまだ時間がある。
 ドクドク……。
 大河は意を決して、声を出した。

「……あのさ、話があるんだ。少しだけいい?」

 大河の決意。声は通らなかった。真鈴は足を止めた。でも。

「放課後ね。大河と一対一は嫌。暴力を振るわれたくないから」

 冷たい口ぶりで、あっさり拒否された。

 大河の思いとは裏腹だ。一対一の対話と、ミアたちを交える対話はわけが違う。
 それでも従うことしかできない。対話のチャンスができただけマシだ。

「わかった」

 スゥーっと風をなびかせ、真鈴は何も言わずに大河を横切った。
 大河はひとりになり、トイレにかけこんだ。
 異様に吐き気を感じてしまった。

 うぐっ、げえげえっ!
 便器に、それを吐き出した。
 このとき、大河は極限状態に達していた。
 胃は、ガスバーナーで直接焼かれるような、熱さを感じた。
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