夜の帳が降りるとき

泉 沙羅

文字の大きさ
8 / 26
Chapter I Side Nell & Lucien Youth

Side Nell & Lucien Youth I 仮面の令嬢

しおりを挟む

 ネルはロサンゼルスの空の下で、世界のどこよりも閉じられた屋敷に暮らしていた。

 「フィッツロイ家の『娘』がこんなで、ご先祖さまに顔向けできないわ!」

 まただ、とネルは思った。母、ヘンリエッタの怒声が階段の踊り場にまで響いてくる。
 壁の大理石は冷たく、床のカーペットは高級だが踏みしめる音すら息を殺している。ネルは手すりに肘をつき、そっと目を閉じた。
 フィッツロイ家。伝統ある英国貴族の末裔。今は名目上の爵位を掲げつつ、病弱な長男、エドワードの療養も兼ねて新天地での「再起」を図る一家。だが、その名に恥じぬとされる荘厳な屋敷の中は、すでにひび割れはじめていた。
 
 「何が『セイジニン』よ! ただの錯覚! 気の迷い! 俗悪なものばかり見て、クラリッサに甘やかされて育ったからそんな妄言が出るのよ! ちゃんとワンピースを着て学校に行きなさい!! エレン・アデレード!!」

 ――エレン・アデレード・シャーロット・オブ・フィッツロイ。

 それは貴族の娘として生まれたネルの正式名称だった。母は絶対ネルを愛称で呼ぶことはなかった。病的なまでにヒステリックで、世間体に異様な執着をもつ女。そして家名と血統に取り憑かれた古代の亡霊のような女。それが、自分の母親。

 おまけに母は
「うちの娘は美しいでしょう」
「フィッツロイの遺伝子は世界一素晴らしい」
と言わんばかりに幼いネルを人前へ連れ出し、モデル事務所に放り込んだ。

 母はかつて、ロンドンの社交界で「カンブリアの薔薇」と呼ばれた美女だった。陽光を反射する金糸の髪、透き通るような碧眼、細い首筋――。

 だが今はその面影も薄れ、見るからに頑固で神経質そうな中年女になっていた。頬はこけ、骨ばった肩と腕は、緊張と節制のあまり削ぎ落とされたように細い。薄い唇はいつも固く結ばれ、笑顔は滅多に見せない。

 「まあまあ母さん。ネルはスカートを履いていると勉強の能率が下がるって言ってたろ?」
 ときどき庇ってくれるのは、兄のエドワードだった。
 彼もまた、フィッツロイ家の典型――透き通るような金髪と碧眼、黄金比めいた整った骨格をしていた。
 けれどネルを遥かに上回る190センチ近い長身は、威圧感よりもひょろりとした繊細さを漂わせていた。
 穏やかで理知的、そして時折天然な発言で人を笑わせるところまで、ネルとよく似ている。
 だが――兄は病気だった。生まれつき心臓が弱く、顔色の青白さは家の大理石の壁よりも淡い。階段を上るだけでも息が上がり、胸を押さえてうずくまることが多かった。
 「ありがとう、兄さん」
 「うん、ごめんな。……ネルのそういうところ、母さんに少し分けてやれたらいいのにね」
 ――兄上、また顔色悪いな。あまり無理させたらいけない。
 やさしく笑う兄を見て、ネルは彼の体調を伺う。本来であれば、兄が妹(弟)であるネルの面倒を見るはずだ。だがいつの間にか、役目は逆転していた。

 そんな兄にはクラリッサという妻がいた。
 彼女を初めて見た日のことを、ネルはいまだに鮮明に覚えている。婚約が決まったばかりの兄の隣に立つ彼女は、当時まだ17歳。陽の光を浴びて輝く栗色の髪に目を奪われた。家族の誰とも違う色――その一点だけで、異国から舞い降りた鳥のように思えた。

 クラリッサはネルにとって、最初の恋だった。琥珀の瞳に覗き込まれた瞬間、胸がぎゅっと詰まった。秋の午後をそのまま閉じ込めたような、あたたかい光を宿していたから。金髪碧眼ばかりのフィッツロイ家にいると、彼女の温かな琥珀色の瞳が余計に心を引き寄せたのだろう。

 政略だのなんだの、大人たちは勝手に囁いていたけれど、ネルには関係なかった。兄がクラリッサに向ける穏やかな微笑みを見るだけで、二人は仲がいいのだと感じていた。実際、クラリッサも柔らかく兄の腕に寄り添っていたし、子どもだったネルにはそれだけで十分だったのだ。
 その日から、クラリッサはネルにとって「憧れの人」になった。
 だが、今の彼女は――ただの影だった。
 エドワードの看病と、ヘンリエッタの壮絶な嫁いびり。毎日のように「女腹の役立たず」と怒鳴られ、身も心もすり減らしている。
 「ごめんね……私たちがこんなだから、ネルまで病んでしまったのね……。私も女に生まれて辛かったわ。だからネルが男になりたくなるのもわかるわよ」
 そう言って、涙を浮かべる彼女に、ネルは何も返せなかった。
ーー違う。わかってほしいのは、そこじゃない。
 胸の奥に大切にしまっていた初恋は、その瞬間、ひとひらの花びらのように崩れ落ちてしまった。
 クラリッサはもう、憧れの人ではなかった。目の前にいるのはただ、哀れで傷ついた大人だった。



 「ネル姉様ー! 宿題教えてー!」
 「本読んでーー!」
 廊下の向こうから、小さな影が駆けてくる。エリザベスとキャロライン。兄夫婦の娘たち。
 二人ともネルを本当に慕ってくれていた。それだけが救いだった。
 ただ、「姉様」と呼ばれるのは、正直つらい。だが、母がいると「兄様」は許してもらえない。
 家では「姉様」、学校では「ネルくん」。
 髪は短く、中性的な標準服を着こなした美少年として過ごしているけれど――心は、ずっと引き裂かれていた。
 通っている高校はハーバードウエストレイク高校。このロサンゼルスでは一、二を争う名門。しかし、ネルが自ら選んだ高校ではなかった。ヘンリエッタが「フィッツロイの人間として恥ずかしくない学校しか許さない。ここにしなさい」と譲らなかったのだ。ネル自身は近くの公立の高校でよいと思っていたのに。
 他人から見れば、理想的な家庭。歴史ある名門、よく躾けられた美しい子供たち、上品で教養のある母親。

 ――この家はまるで牢獄だ。

 誰にも助けを求められない。誰にも、家の中を見せられない。そして今日もまた、ネルは静かに笑って「演じる」。名門フィッツロイ家の、完璧な「令嬢」として。


 ネルは標準服のジャケットの前を留め、自室の鏡に向かって立った。鏡の中の少年は、どこか現実感のないほど整っている。アッシュブロンドの髪は肩にかかる前に整然と切り揃えられ、僅かな光を受けて白金に近い艶を放っていた。
 瞳は曇りのない澄んだ碧色。目鼻立ちは整いすぎて、逆に印象を削ぎ落とされたかのように特徴がない――彫刻家が黄金比だけを頼りに彫り上げた仮面のようだった。

 肩幅に沿って落ちる濃紺のジャケット、細身のズボンのライン――いずれも仕立ての精巧さを物語っている。ネルは立ち姿さえも、代々フィッツロイ家の者が当然のように受け継いできた「完璧さ」を体現していた。
 間違った性で生まれたのは不幸だが、この背丈だけは不幸中の幸いだった。もし自分がもっと小柄だったなら、こうして男子の服を自然に着こなすことはできなかっただろう。

 フィッツロイ家の人間はほぼ全員、金髪碧眼で長身――それはもはや家名と同義の外見的特徴であり、長い年月と濃すぎる血の繋がりがその均整を保たせてきた。ネルの両親もはとこ同士で結婚している。

 だが、アッシュブロンドを持つ者は一族の中でもネルだけだ。その淡い色は、他の家族の鮮やかな金とは違い、冷たい陽光を閉じ込めたような色合いで、彼の顔立ちをより際立たせていた。
 ネルは鏡の中の自分を、しばし無言で見つめた。男の服に身を包み、ネクタイを締め、ポケットに手を入れてみても、鏡の中の人物は完全に「少年」だった。少女の面影はない。しかし、どれだけ外見を作り込んでも、服の下に潜むものは消えないのだった。


 コンコン、とドアが小さく叩かれた。
“My Lady… I mean, Young Sir.”
(「お嬢様……いえ、お坊ちゃま」)

 執事アシュトンの低い声が、廊下から柔らかく響いた。ネルは鏡から目を離し、短く息を吐いた。
 アシュトンが銀盆に載せた封筒を恭しく差し出す。
「今朝届きました」
 ネルは受け取り、封を切る。厚手のカードに金文字で刷られた招待状。送り主の名前を目にした瞬間、彼の指先がわずかに震えた。

 Vanessa Kingsley――ヴァネッサ・キングスリー

 その名を目にした瞬間、ネルはわずかに息を呑んだ。視界の端で文字が滲む。
 忘れられるはずがない。まだ「令嬢」として生きていた彼を救った人の名だった。
 あの頃、母に言われるままドレスを着て、髪を巻かれ、笑顔を作ってカメラの前に立っていた。

 けれどその笑顔がいかに空虚で、ぎこちなく引きつっていたかを、誰も気づかなかった。
 ただ一人、ヴァネッサを除いて。

 ヴァネッサと知り合ったあの日――。
 撮影が終わり、ネルは与えられたドレス姿のまま楽屋の鏡に腰掛けていた。金糸のレース、光を弾くサテン。完璧な「貴族の令嬢」を作り上げる衣装と化粧。それを纏った自分を、ネルはただ黙って見つめていた。
 ――これが……自分か。
 鏡の中で微笑んでいるのは、誰が見ても非の打ちどころのない『レディ』。だがその像は、自分の輪郭を奪っていく仮面にしか見えなかった。

「お疲れさま」

 背後から声がして、ネルは慌てて振り返る。そこに立っていたのは、事務所の代表であり撮影を取り仕切っていたヴァネッサ・キングスリー。

「ミス・キングスリー……お世話になりました」 

 淑女らしい笑顔を作り、礼儀正しく頭を下げる。

 ヴァネッサはしばらく黙ってネルを眺め、ふっと口元を緩めた。

「あなたはいつも完璧なレディね。姿勢も仕草も、笑顔も。ほんとうに絵になるわ」
「……ありがとうございます」

 ネルは胸の奥に苦いものを抱えながら、形だけの笑みを返した。
 ――またひとり、自分を「完璧なレディ」として扱う人間が増えた――

 ところがヴァネッサは、次の瞬間ふと声の調子を落とした。

「そうよ。その笑顔――最上級の作り物ね」
「……え?」

 ネルの指先が微かに震え、背筋に冷たいものが走った。
 ヴァネッサは鏡越しに彼の視線を捕らえたまま、ゆっくりと言葉を継ぐ。

「あなたを見ていると……そうね。男の子が無理やり女の子の服を着せられて、女の子を演じさせられているように感じるの」

 ネルは一瞬、呼吸を忘れた。耳の奥で血の音が響く。
 図星。誰にも言えず、誰にも知られてはいけないと思っていた秘密を、あっさり見透かされた。言葉が喉に張りつき、声が出ない。

 ヴァネッサはそんなネルの動揺を面白がるように、しかし慈しむように、ゆるやかに微笑んだ。

「安心して。私は男性モデルも取り扱っているの。男らしい振る舞いも、服装の着こなしも、舞台での所作も。必要なら、全部指導できるわ」

 声は淡々としているのに、その奥にはどこか挑発めいた響きがあった。

 ネルは呆然と鏡を見つめる。
 自分の姿は、金糸のドレスを纏った完璧なレディ――。けれど、その背後に立つヴァネッサの瞳は、「違うでしょ?」と告げていた。
 ヴァネッサは微笑んだまま、声を落とした。
「……ねえ、ネル。あなたはどうしたいの?」

 ネルは答えられなかった。喉が塞がったように音が出ない。目を逸らそうとしても、ヴァネッサの瞳に捕らえられ、身動きできなかった。
 沈黙の中、時計の秒針だけがやけに大きく響いた。

 やがてヴァネッサは口角を上げる。

「いいわ。答えは急がなくていいの。けどね――私にはわかるのよ」

 その言葉は、氷の壁をゆっくりと砕くように、ネルの胸に落ちていった。


 その日からだった。ヴァネッサは人目を盗んでネルに男のような立ち居振る舞いを教えはじめた。

 「背筋はこう。歩くとき、肩でリズムを取るの」
 「手は柔らかく使わない。もっと直線的に」
 「声は無理に低くしなくてもいい。ただ、語尾をはっきり切ること」

 まるで兄や年上の従兄弟がするように、彼女はネルに「少年」のふるまいを仕込んでくれた。

 ヴァネッサの事務所は男女両方のモデルを扱っていた。だからこそ彼女は、舞台裏の細かな所作を熟知していたのだろう。
 ――ネルが「ネル」として生きていける未来を、初めて想像させてくれたのも、ヴァネッサだった。

 高校生になったネルは学業に専念することを理由にモデル活動を無期限休止にした。だが、ヴァネッサはネルを気にかけてくれ、未だ連絡は取り合っていた。

 ネルは封筒を閉じ、深く息をついた。久しく会っていない彼女が、今、自分を呼んでいる。
 どんな顔で会えばいいのか、まだわからないままに。

 

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語

jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
 中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ  ★作品はマリーの語り、一人称で進行します。

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

処理中です...