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Chapter I Side Nell & Lucien Youth
Side Nell & Lucien Youth II もう一人の自分
しおりを挟むロサンゼルスの夜は、いつもどこか芝居じみている。高級ホテルのペントハウスに一歩足を踏み入れた瞬間から、ネルはそれを痛感していた。
ガラス張りの壁越しに海の光が揺れ、シャンデリアの下ではいつもメディアを彩っている顔ぶれが笑い声を響かせている。
先週アカデミー賞を受賞したばかりの映画監督。
雑誌の表紙を独占しているトップモデル。
ネットフリックスの話題作で主演を務めた若手俳優。
レコードチャートを席巻している歌姫。
――これがハリウッドの「社交場」なのだろう。
きらめくドレス、派手なスーツ、カメラのフラッシュ。
DJブースからは流行りのビートが響き、プールサイドのネオンが水面にゆらめいている。
映画監督がシャンパンを傾け、ロックスターがモデルの腰に手を回し、インフルエンサーたちはスマートフォンを掲げて瞬間を切り取っていた。
窓の向こうにはマリブの海が広がり、遠くにハリウッドサインの光が浮かんでいる。ロサンゼルス特有の乾いた夜風がカーテンを揺らし、香水と潮の香りが入り混じる。
すべてが眩しく、どこか作り物めいている――だがこの街では、その虚飾こそが現実だった。
「落ち着かないな、ここ」
ネルは胸元のタイを指先で整えた。濃紺の三つ揃いは、格式を重んじるフィッツロイ家の血を物語っている。
だがこの場にあっては、逆に異様なほど地味で浮いていた。誰もが煌びやかに着飾り、過剰なほど自己を主張しているなかで、ネルだけが別世界から切り取られたように浮かんでいた。
「ヴァネッサに誘われたから来たけど……やっぱり僕は『この世界』の住人じゃないよ」
雑誌の見出しから抜け出したような人々が笑い合う会場で、ネルはグラスを手にしながら、どこか所在なげに視線をさまよわせていた。
貴族の家に生まれ育ったとはいえ、こうした華やかなハリウッド式の祝祭は肌に馴染まない。
「どう?楽しんでる?」
ヴァネッサが背後から声をかけてくる。問いかけというより、ソワソワしているのを見抜いた調子だった。
ネルは一瞬だけ言葉を選び、すぐに笑みを浮かべて返した。
「相変わらずすごいところだね。……でも、ここにいる誰と並んでも見劣りしないあなたは素晴らしいよ、ヴァネッサ」
ヴァネッサは片眉を上げ、ふっと笑った。
「口がうまいわね。――そういうところ、貴族の子息らしいわ」
ネルは肩をすくめるしかなかった
そのとき――ふと視界の隅に影が映った。深紅のドレスを身にまとった長い黒髪の少女。身長はネルと同じほどだった。ここにいるということはモデルか女優とみた。
しかし。その痩せぎすの体は、モデル特有の線の細さではなく、どこか不健康な空虚さを漂わせていた。
魅力的なはずの長い手足も、まるで操り人形のようにだらりと垂れ下がり、瞳には生気がなかった。
「ヴァネッサ。あの子は……?」
ネルが声を潜めると、ヴァネッサは視線を追い、すぐに「あぁ」と小さく頷いた。
「うちのモデルよ。……まあ、まともに活動できてないけどね」
その声音には、苛立ちよりも苦さが滲んでいた。
「実は私と同じ児童養護施設の出身なの。家にいるとすぐにクスリだの過食だの、めちゃくちゃなことをするから……目の届くところに置いてるのよ」
ネルは思わず彼女を見つめ直した。どうしてだろう――目を逸らせばいいのに、逸らせなかった。
「確か、あんたと同い歳だったと思うわ」
ヴァネッサの言葉が、ネルの胸に妙な重さで沈んでいった。
少女はシャンパンのグラスを手に取ると、一息にあおった。ガラスの脚が指の間で危うげに揺れる。そのままふらりと身を翻し、バルコニーへ出ていった。
――危ない。
気がつけばネルの足は動いていた。夜景を背に、少女は欄干に凭れかかっている。緩やかに波打つ黒髪が風に煽られ、今にも闇に呑まれそうだった。
「……危ないよ」
思わず声をかけ、少女の手首を掴む。ネルの指が余裕で着いてしまうほどか細く、冷たかった。
黒い瞳が、ゆっくりとこちらを向いた。生気のない虚ろな眼差し――だが、その奥にかすかな火がくすぶっている。
「……あんた」
かすれた声が、夜風に溶けた。
「業が深そうな目をしてるね。そんな綺麗な青い目をしてるのに」
フランス訛りの低い声が、夜風を震わせる。甘いのに刺のある響き。耳に絡みつくような妙な艶。
空気が一瞬、張りつめる。普通なら、なに言ってるんだと笑い飛ばすところだ。だがネルは微動だにせず、ただ彼女を見返し、静かに答える。
「……君もね」
その声音には驚きも戸惑いもなかった。まるで最初から、この会話が交わされるのを知っていたかのように。
その一瞬、ネルは悟った。この人は壊れているだけじゃない。もっと危うい、美しさと――何か「視えている」者の目を持っている。
遠目にはただの壊れかけの人形にしか見えなかった。黒髪は乱れ、頬はこけ、虚ろな眼差しはどこにも焦点を結んでいない。
会場の片隅に立つその姿は、きらびやかな照明の中でひときわ異質だった。
だが、ネルが手首を掴んだ瞬間――印象は裏返った。
骨ばっているはずの指先は不思議にしなやかで、体温は異様に熱い。
月光を浴びた黒髪は、漆を溶かしたように艶を放ち、瞳は深い闇の底で小さな炎を秘めていた。
二人の間を流れる空気は、もう「初対面」ではなかった。
――やっと出会えた。
それだけが、ネルの胸に確かにあった。
「ほら、立っているのがやっとじゃないか。家まで送るよ」
ふらつく彼女をすかさずネルが支える。
「なんであんたみたいなジェントルマンなおぼっちゃまがこんな売女を……。ジェントルマンっつうのはレディしか助けないんだろ」
「……心配しなくても僕はジェントルマンじゃない」
タクシーの窓越しに、ロサンゼルスの夜景が流れていった。丘を下るたびに光の海はますます濃くなり、まるで地上にひっくり返した星空のようだった。
フリーウェイには赤と白の光の筋が延々と続き、まるで都市そのものが巨大な心臓で、血流を絶えず送り出しているかのようだ。まるでSF映画のセットのように煌びやかなLAのネオン。だが、その下で暮らす人間たちの生活はけして煌びやかではないのだ。
「……まるで僕みたい」
思わず独り言が漏れる。窓ガラスに映り込んだ自分の顔もまた、その光景に似つかわしくなく、どこか所在なげだった。
タクシーが停まったのは、郊外の小さなマンションだった。外観はまだ新しく、内装もシンプルで清潔だ。
だが扉を開けた瞬間、ネルは息を呑んだ。
白い壁に、乱雑に投げ出された黒い服が影のようにへばりついている。テーブルには飲みかけのワインとつけっぱなしの灰皿、足もとには菓子袋と空き缶が転がっていた。
無機質な空間を、彼女自身の荒れた気配がじわじわと侵食している。
「……らしいね」
ネルが小さく呟くと、彼女は肩をすくめて笑った。その笑みは美しかったが、どこか危うい揺らぎを孕んでいた。
「ここまで来たんならさ、やることやろうよ」
そう言って、部屋のドアを閉めるなり、彼女はネルの胸元を押した。そのままベッドに倒れる。
「ちょ、ちょっと待って!」
「何? しないの? あんた綺麗だから、タダでいいのに」
「……そういうことじゃなくて……」
ネルは困惑して、必死に声を絞り出した。
「……女の子なら、もっと自分を大事にしたら?」
すると彼女は、一瞬目を見開き――
次の瞬間、吹き出すように笑った。
「あはは、何それ……最高。マジで、笑える……」
そして、立ち上がると、肩をすくめながらこう言った。
「女の子? 誰のこと?」
ネルが目を見張る前で、彼女は深紅のドレスを脱ぎ始めた。
そこには、白くて細い、華奢な胴体。肋骨が浮き出し、くびれた腰は女性のようだ。けれども――完璧な「男」の身体だった。
ネルは息を呑み、言葉を失った。その身体はあまりにも壊れそうで――どこまでも自分に似ていた。
彼女――いや「彼」は、下着一枚でベッドに腰かけて、首をかしげた。
「見たでしょ? 俺の身体。……次は、あんたの番」
ネルは眉をひそめ、反射的に一歩下がる。
「ちょっと、それは……」
「何、アンフェアじゃん。俺はさらけ出したんだよ。ね? 見せてよ。そんなガチガチの礼服なんか着てないでさ」
「……無理だ」
「何で? 恥ずかしいわけ? 自分の身体が? まさか――」
そう言いながら、「彼」は立ち上がり、ネルのネクタイを片手で緩めた。
ネルは抵抗したが、相手は慣れている。
シャツのボタンをするすると外し、ブレザーを脱がせるのにほとんど迷いがなかった。
「やめ――」
ネルの言葉を「彼」が遮る。
「俺だって、見せたじゃん。見せたから、見せろって。ね?」
そしてシャツが脱がされる――それはほんの一瞬のことだった。
その下から現れたのは、わずかな膨らみさえ押さえようとするサポーター。乳房の発育は遅く、痩せていて、骨張っている。でも、明らかに「男ではない」。
「彼」は動きを止めた。その黒い瞳が大きく見開かれ、唖然としたまま数秒、まばたきすらしない。ただ驚いていたというより――「辻褄があった」ような顔をしていた。
「……え?」
そしてさらに確信を得ようとしたのか、「彼」は動けずに立ち尽くしているネルの股間をズボンの上から擦った。
「おい……」
ネルは自分のシャツをかき寄せて身体を隠し、「彼」から逃げるように一歩後ろに下がった。その顔には、羞恥というよりも、諦めが浮かんでいた。
「だから、やめろって言ったのに」
「彼」の口が、しばらく閉じたまま動かない。言葉が出てこない。
「……あんた、女だったの?」
ネルは、小さく首を振った。
「……女じゃないよ。でも、男になりきれてもない」
「彼」は、それを聞いて、やっと口の端を吊り上げた。乾いた笑みをひとつ浮かべて、ネルに背を向ける。
「……へえ、やるじゃん。ちょっと気に入ったかも」
その声には、軽薄な演技が混じっていた。だが、震えていた。
ネルは手早くシャツを引き寄せ、ぎこちなくボタンをかけながら立ち上がる。
「……帰る」
そう言っても、声は弱々しい。怒っているというより、この気まずさから逃げたかった。
背を向けて、部屋のドアに手をかけた瞬間――
「ねえ、行かないで」
振り返ると、さっきまで軽薄に笑っていたはずの相手が、シーツの上で小さく膝を抱えていた。
「一人寝、寂しいの。……いいじゃん、何もしないから」
その声音は、年相応の少年のものだった。
媚びでも色気でもなく、素直に「独りが怖い」と訴えるような。
ネルはしばらく動かずにいた。けれど、結局――
「……はあ、ほんと、僕ってお人好し」
苦笑して、扉から手を離す。
ベッドの縁に腰を下ろすと、さっきの威圧感はどこへやら、「彼」は少し笑って言った。
「あんた見た目からして真面目そうだし、お人好しそうだよね」
ネルはベッドの上に仰向けになり、天井を見上げた。
「……ねえ、名前、教えてくれる?」
「彼」は黙っていた。少し考えてから、唐突に呟く。
「……ルシアン」
「ルシアン?」
「パリの児童養護施設で、神父につけられた名前。『清らかな光』だって」
「へえ……なんか皮肉だな」
「でしょ。似合わないよね。でも俺の可愛い顔に似合うって神父が言っててさ」
少し照れくさそうに笑って、それから続ける。
「本当の名前は、『ゾラ』。死んだ母ちゃんがつけてくれたんだ。ジプシーの言葉で『夜明け』って意味」
闇夜のような黒い瞳が、もう一度ネルを見つめる――まるで、影の輪郭を確かめるように。
ネルはその名前を、口の中で転がすように繰り返した。
「ゾラ……きれいな名前だね」
「彼」――ルシアンは、少しだけ目を見開いて、それから俯いた。
「……あんたが初めて言ってくれたよ、その名前、きれいって」
ネルは、何も言わなかった。ただ、隣にいた。
「あんたは?」
「僕は、ネル」
「それ、名前?」
「愛称だよ。本名は……長いし、あんまり好きじゃないから」
「そっか。……じゃあ、ネル」
ルシアンは、静かに笑った。
「よろしくね」
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