夜の帳が降りるとき

泉 沙羅

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Chapter I Side Nell & Lucien Youth

Side Nell & Lucien Youth III 壊れた王子と淫売

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 ハーバード・ウエストレイク高校の中庭は、いつも陽光に満ちていた。整然とした芝生、白い石畳、どこか映画のセットのように「完璧」に切り取られた空間。
 その真ん中を歩くだけで、人目を集める生徒がいる――ネイサニエル・フィッツロイ。またの名をネル。

 長身で端正な顔立ち、英国名家の血筋を感じさせる気品。教師たちは彼を「模範的な優等生」と讃え、同級生も皆、道を開けて視線を注ぐ。
 一見すれば、それは憧れと羨望の眼差しだった。

 ――けれど、ネルは知っている。
 その視線の奥にあるのが、敬意ではなく「利用価値」だということを。

「ネルとランチしたことあるんだ、すごくない?」
「うちらも写真撮っとこうよ、インスタに上げたらいいね稼げるし」
「ね、あの人と仲良くしてると、将来なにかのときコネになるかも」

 笑顔で肩を並べてくるクラスメイトの声は、明るいほど空虚だった。ネルの名前は、彼自身ではなく「ブランド」として消費されている。
 そしてその背後では、別の声がひそひそとささやいていた。

「……でもさ、本気で付き合おうとは思わないよね。あの子の家、マジで変だし」
「ネットに上がってるフィッツロイ家の画像見た? 大昔から全員揃って金髪で青い目で背高くて……揃いすぎてキモいよ」
「うんうん。聞いたことある? 近親婚繰り返してさ、人間味ない顔ばっかだって」
「フィッツロイ家ってね、中世時代は異母兄弟とか叔父さんと姪とかで結婚してたんだよ。気持ち悪いよね。だからみんなAIみたいな顔してるんじゃん」
「わかるー。ネルだってさ、完璧すぎて逆に気持ち悪いじゃん。なんか人間ぽくない」
「てか、アイツ、性別どうなってんの? いちおー男子扱いされてるけど」
「やめなよ、聞こえたらやばいって」
「いいじゃん、どうせ慣れてるでしょ、ああいうの」

 その「慣れてるでしょ」の一言で、ネルの胸が小さく軋んだ。けれど彼は、表情ひとつ変えずに歩き続ける。

 名家の子息としての微笑み、完璧な礼儀、涼やかな青い目。その仮面の裏で、心はもうとっくに荒野のように乾いていた。

――僕と同じところにいてくれる人間なんて、どこにもいない。


 学校はネルの心安らぐ場所ではない。だが、家にいるよりは幾分かマシに思えた。
「……聞いたわよ、朝帰りしたんですって?」
 帰宅するや否や、唐突に放たれた母の声。それはまるで冷水のようにネルの背中を打った。
「まさか、男なんか作ってないわよね?」
 ヘンリエッタの口調は、あくまで「品のある母親」のそれを装っていたが、声の奥には剃刀のような冷笑があった。
 ネルはうつむいたまま、答えなかった。「男」という言葉に、母は自分を全く理解してくれてない事実を改めて突きつけられる。
「あなたは、エドウィンと婚約してるんだから。変なことはしないでちょうだい」
 エドウィン・ブラックウッド・キャリ。
 ウェールズの名門貴族の末裔であり、家柄、血筋、財産申し分ない相手。ネルとも面識がある。エドウィンは母の甥――つまりネルにとっては従兄になる。もう既に「血が濃すぎる」と世間では問題視されてるフィッツロイ家。つまり、この婚約はさらに重なる近親婚となるのだ。
――エドウィン。あの「美しい牢屋」――ネルの中で、その名前はそう刻まれていた。
 暗緑色の瞳と完璧な骨格、絵画めいた微笑み。その美しさは檻だった。ネルを「人間」ではなく「芸術品」として眺める、おぞましいあの視線。

「……え?」
 最初に声を上げたのは、クラリッサだった。その声には、純粋な驚愕が混じっていた。
「ちょ、ちょっと待ってください、お義母さま。それって……」
「初耳なんだけど……母さん、何の話をしてるの?」
 エドワードの声は震えていた。顔は蒼白で、カップを持つ指が震えていた。
「何を今更。エレンが私のお腹にいるときから決められてたことよ。フィッツロイ家の高貴な青い血を絶やさないためよ。外部の下賎な血を入れるわけにはいかないでしょう?」
「今どき血族婚なんて非常識だ!それに、ネルは……っ!」
「黙らっしゃい!!」
 ヘンリエッタの叫びは、雷鳴のようだった。
「私は間違っていないわ!私の両親も、そのまた両親もいとこ同士で結婚してきたの。私とあなたたちの亡きお父様も又従兄妹でしょ! フィッツロイの血統のためには当然のことよ!」
 クラリッサが絶句し、エドワードは椅子を蹴って立ち上がった。だが、ネルだけは動けなかった。
 耳鳴りがした。視界が揺れる。手元のカップがガタガタと音を立て、落ちそうになった紅茶が白い皿布を汚した。
 何か言いたかった。でも、声が出なかった。
 胸が痛い。息が苦しい。
「僕は生きているのに、僕の人生はどこにもない」——その感覚が、全身を貫いていた。
 ネルは、言葉を持たずに立ち上がった。何も持たずに、食卓を離れる。
 誰かが何かを叫んだような気がしたが、耳には届かなかった。
 玄関を抜けて、門をくぐって、靴音を響かせて――気づけば、走っていた。
 走って、走って――だが、向かう先などなかった。


 ネルは走り続ける。どこへ行くあてもなく、ただ逃げたい一心で。
 気づけば、サンセット・ブールバードから坂を下り、街灯がまばらになっていく。
 ネオンの明滅、濃くなるマリファナの匂い。道端に立つ影――女か男かわからない人影が客待ちしている。

――なんでこんな場所に。

 理性ではそう思う。けれど足は止まらなかった。まるで見えない糸で、どこかへ導かれているように。
 ネルが夜道を歩いていると、車の窓から顔を出した男が声をかけてきた。
「おい、坊や。いくらで売ってんだ?」
 ネルは意味がわからず立ち止まる。すると男が下卑た笑みを浮かべて車から降り、ネルの腕を乱暴に掴んだ。
「なあ、坊や。夜中にここ歩いてるってことは、そういうことだろ? にしてもヨーロッパのアンティークドールみたいに綺麗だな、あんた。これほどの上玉には滅多にお目にかかれねぇだろうな」

 一瞬で血が凍る。振り払おうとしても、力では敵わない。そのとき。背後から低い声が割り込んだ。

「……待ちな」

 振り返れば、暗がりに一人の影が立っていた。女――そう錯覚したのは一瞬だけ。煙草の火がその貌を照らすと、そこには女でも男でもない、夜の幻のような存在がいた。

「……ルシアン」

 そう、――ルシアンだった。
 まだ客の体温を纏ったまま、シャツのボタンは乱れ、髪も濡れたように乱れている。その姿で、煙草を咥えたまま男を射抜くように見つめ――

「見ての通り、そいつは上物だからな。あんたの財布じゃ触れる値段じゃないよ」

 男は舌打ちして手を放した。悔しそうに車に戻り、エンジン音を残して走り去っていく。
 煙の向こうで、ルシアンがふっと笑った。
「……で、坊ちゃん。こんなとこで何してんの? 死にたいのか?」

 ネルは安堵するどころか、思わず食ってかかる。
「君こそ……何をしているんだ。こんなところで。こんなこと、ヴァネッサが知ったら――」
「は?」
 ルシアンは眉をひそめ、煙を吐いた。
「うっぜ。あんた俺にそんな口きいていいわけ? 坊ちゃんこそこんな時間にこんなとこで何してんだよ。どうせ家出だろ。俺の言うことききゃ泊めてやろうかと思ったのに」

 図星を突かれ、ネルは顔を赤くして睨み返す。
「……別に、君の世話になんかならない」
「あっそ。」
 ルシアンは肩を竦めて冷ややかに笑う。
「じゃあ、さっきみたいな安い客に拾われて、上物が台無しになっても知らねえけど?」

 ネルは言い返せず、喉がひゅっと鳴った。プライドは邪魔するのに、足は自然とルシアンの後についていく。
振り返りもしない背中に、どうしようもなく吸い寄せられるように。

 ネルは無言のまま、ルシアンの背に従った。雑居ビルの薄暗い階段を上りきると、煙草と香水と安酒の匂いが混ざったあの部屋に案内される。散らかったシーツ、床に転がる衣服。そこは「生活」ではなく「通過」だけの匂いがした。

「……そこでいい子にしてろ」
 ルシアンはネルを部屋の隅に押しやり、散らかった床へ直に座らせる。その仕草は、飼い犬を放り投げるのと大差ない。そして、光沢のあるバッグからスマホを取り出すと誰かに連絡をとるような素振りをした。
 ノックもなくドアが開き、筋張った体の男が顔を出した。
「おいルシアン、待たせやがって」
「悪ぃな。さっきの客、下手すぎてイラついたんだよ。お前と思い切りヤって、スッキリしたくてさ」
「ははっ……ったく、しょうがねぇ奴だな。――で? ……誰だこいつ。えらく可愛い坊ちゃんじゃねえ。お前のペットか?」

 男の視線が、部屋の隅に小さくうずくまるネルに突き刺さる。ルシアンは肩をすくめて笑った。
「気にすんな。ただのギャラリーだよ。お前も俺も見られると燃えるタイプだろ?」
「はは、変態め」

 次の瞬間には、ベッドが軋み、肉体と肉体が打ちつかる音が部屋に充満した。
 ルシアンはわざと大きな声で喘ぎ、背を反らせ、男の首に爪を立てる。快楽に溺れている――そう見せかけながら、横目でネルの表情を探っていた。

 ネルは呼吸を忘れていた。胸が焼けつくように苦しいのに、目を逸らせない。理性が「見るな」と命じるのに、身体は勝手に熱を帯びていく。
 ルシアンの香水と煙草、そしてマリファナの匂いが充満する部屋。
 その中で、ネルはふと――婚約者、エドウィンを思い出した。

――……どうしてだ?

 エドウィンと並んで座っていたときは、息が詰まるほどの嫌悪しかなかった。同じ空気を吸うだけで鳥肌が立ち、吐き気すら覚えたのに。
 なのに今は、ルシアンの視線ひとつで胸の奥が焼けつくように熱くなる。喉が渇いて、心臓が勝手に早鐘を打つ。

――なんで、気分が悪くならないんだ。僕は……狂ったのか?


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