夜の帳が降りるとき

泉 沙羅

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Chapter I Side Nell & Lucien Youth

Side Nell&Lucien Youth V 血と菓子と僕

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 ネルが目を覚ましたとき、まだ部屋の空気は夜の名残を引きずっていた。
 絡み合った手足の温もり。重なる呼吸。まるで番の猫のように互いに体を寄せ合って眠っていたが、先に瞼を持ち上げたのはネルだった。
 パジャマの代わりに羽織っているのは、ルシアンのガウンだ。昨夜、そのまま身につけたまま眠り込んでしまった。
 ベッド脇のスマートフォンを手に取る。点滅する通知がいやに多い。WhatsAppを開くと、画面いっぱいに埋め尽くす文字列。 

 ――母からのヒステリックな連打。
 ――兄エドワードからの短くも切実な問いかけ。
 ――クラリッサからは涙ぐんだ絵文字が並ぶ。
 ――さらにヴァネッサからも。冷静でビジネスライクな彼女まで動いたことに胸がざわつく。

 昨夜はルシアンとの行為に溺れ、世界のすべてを忘れていた。その代償のように現実が襲いかかってくる。
 喉が重くなる。今日もまた学校で「完璧な優等生」を演じなければならない。息苦しい仮面をかぶる自分を想像すると、胸の奥がしんと冷えた。

「……学校、行きたくない」

 かすかな呟きに応じるように、背中へ温もりが伸びてきた。いつの間にか目を覚ましていたルシアンが、後ろから腕を回して抱きしめる。

「いいじゃん。たまにはさぼろーぜ」
 耳元にかかる声は、甘く堕落を誘う囁きだった。
 ――そのとき、マンションのエントランスのベルが鳴り響いた。
 ルシアンが身を起こし、カメラを覗き込む。映ったのはヴァネッサの姿。
「やれやれ……」と肩を竦め、エントランスのロックを解除する。ほどなくして玄関のチャイムが鳴った。
 ドアを開けると、スーツ姿のヴァネッサが立っている。

「ここにネルがいるんじゃないの?」
 ヴァネッサは単刀直入に問いかけた。
「いたらなんだってんだよ」
 ルシアンは肩を竦めて曖昧に返す。
 ――これ以上彼に迷惑はかけられない。
 そう思ったネルは、自らドア口へ進み出た。すると、ヴァネッサは「やっぱり」と言わんばかりの目をした。

「貴方たち、パーティでやたら仲良くなってたからもしやと思ったら……全く。ネル、お兄さんが心配してるわ。知り合いにあなたの行方を聞いて回ってるみたい。あとお義姉さん……クラリッサだっけ? 心配して泣いてるですって」

 ネルは言葉を失い、視線を落とす。罪悪感が重く胸を押し潰した。

「お兄さんには『週末までうちで預かる』ってことにして話を通しておくから、WhatsAppの返信くらいしてあげなさい。黙ったまんまじゃ余計に心配させるだけ。もう少しで警察に捜索願出されるところだったのよ、あなた」

 ヴァネッサの言葉は冷たくも優しい刃だった。彼女は視線をルシアンへ移し、人差し指をぴしりと立てる。

「それとルシアン。ネルに変なこと教えないでよね」

「は? 俺、家庭教師じゃないんだけど」
 反発しながらも、彼女の眼差しに押されて肩をすくめる。

 ネルは小さく「ごめん、ヴァネッサ」と呟いた。しかしヴァネッサは首を振り、短く言い残す。

「謝る相手は私じゃないでしょ」

 それだけを残し、踵を返して去っていった。静まり返った玄関先。しゅんと項垂れるネルの肩を、ルシアンが抱き寄せる。

「お前みたいないい子ぶりっ子優等生が逃げるって、相当だろ? ちょっとくらい逃げたってよくね?」

 その声は、甘やかしと共犯の匂いを纏っていた。ルシアンの笑顔は、いつも通り狂っていて優しかった。ネルは何も言わず、ただ彼の胸に顔をうずめた。
「家を、壊したい」
 そう呟いた声は、ルシアンだけに届いた。
 無言で俯くネルにルシアンは、何も聞かずに笑った。
「……何かあったんだね。嫌なこと、忘れる方法、教えてあげよっか」
 ルシアンはキッチンの冷蔵庫にまっすぐ向かうと、ためらいなく扉を開けた。
 棚の奥には――びっしりと並んだ、アイス、冷えたプリン、冷凍ケーキ。
「寝室のクローゼットにはLaysとHershey'sと缶詰があるよ」
「……っ」
 ネルは言葉を失った。
「いろいろ詰め込むと、ちょっと楽になる。ね?」
 ルシアンは嬉しそうに笑って、袋菓子を片手に座り込んだ。
 これは慰め? あるいは――共犯の誘い?――そんなはず、あるわけない。
 だが、ネルの手は、ルシアンが差し出したスナック菓子を、そっと受け取っていた。
 ソファの上、ルシアンはクローゼットから取り出した袋菓子を次々と開封し、まるで噛まずに飲み込むような勢いで食べていた。一方で少食のネルはちびちびと上品にしか食べられなかった。そもそもヘンリエッタが「卑しい人間が食べる下品な食べ物」と、スナック菓子やジャンクフードなど食べさせてもらえなかったので、食べることに罪悪感があった。
「……君、そんなに細いのに……そんなに食べて、大丈夫なの?」
 ネルは思わず言ってしまった。育ちの良さというより、純粋な驚きだった。
 ルシアンはぱちりと瞬きをして、口元をぬぐった。
 そして――あっけらかんと笑う。
「うん、大丈夫。だって、後で吐けばいいもん」
 それは、何の感情もこもっていない、ただの「当たり前」としての宣言だった。
 ルシアンの細い喉が動く。口の中の菓子を飲み込んだ音が、ネルの耳にやけに鮮明に響いた。

 ネルは一瞬、意味がわからなかった。まばたきを二回したあと、口を開いた。
「……は?」
 ルシアンは笑っていた。無邪気な笑顔で。
「だ・か・らー、全部吐くの。トイレで。詰め込んだあと、指突っ込んでゲーって。簡単だよ?」
 その言葉に、ネルの全身が強張った。
「……ドラマとかで見たことあるけど……本当に、やってる人……いるんだ」
 ルシアンは肩をすくめた。
「やだ、俺伝説になっちゃう? ほら、ロイヤルファミリーの誰かもやってたじゃん? ダイアナだっけ」
 ネルは答えなかった。言葉を失っていた。それが病気だと、頭ではわかっていた。
 でも今、この目の前の人間は――楽しそうに、それをまるでライフスタイルみたいに語っている。
 おかしい。気持ちが悪いとさえ思った。
 ――でも。
 じゃあ、自分はおかしくないのか?
 ネルは、袋の口を静かに閉じた。甘ったるい香りが、もう耐えられなかった。
「……僕、従兄と婚約させられてたんだ」
 抑揚のない声だった。
「勝手に、ね。高校出たら、たぶん即結婚させれる。姉さんもそうだったから。フランスの、よく知らない金持ちと」
 ネルには5つ上の姉、ジュリアナもいた。彼女は母、ヘンリエッタの駒としての役割を真っ当しようと、誇りに満ちた表情でフランスへ嫁いでいった。だが、ネルは姉のようになれる自信はなかった。

 ネルはルシアンを見なかった。ただ、机の上の袋菓子だけを見つめていた。
「嫌って言ったって、意味ないよ。そういう家なんだ」
 その声には、怒りも悲しみもなかった。ただ、諦めがあった。
 ルシアンは、わざとらしく目を見開いた。
「やっっっっっば、中世かよ。貴族ってすげー」
 唇の端が笑っていた。冷たい笑みだ。

「で、そいつさ……………… キス上手いの?」
 唐突なルシアンの言葉に、ネルは一瞬、時が止まったような気がした。
「……は?」
「婚約者でしょ?そーいうの、練習したりするんじゃないの?貴族の伝統儀式みたいな」
「……っ!」
 ネルは立ち上がった。手に持っていた菓子袋を力任せに握り潰しながら、ルシアンに食ってかかる。
「あいつとキスなんて、死んでもやだ!!」
 怒鳴るというより、叫んだ。肺の奥から言葉を吐き出すように。
 ルシアンが思わず目を見開く。だが、ネルの顔は怒っていない。ただ青白く、何かに怯えるようだった。
「……全部、見せたんだ、あいつに」
 その言葉は、自分でも思っていなかったほど静かだった。
「……それで僕に失望してくれればよかったのに。あいつ……あいつは……」


 脳裏に浮かぶのは二年前の光景だった。

 親戚の集まりがあった夜、ネルはエドウィンを自身の部屋へ呼びつけた。赤いカーテン越しの月光に染まる、異様な静けさ。
 傷口からにじむ血は、白いレースのシーツにゆっくり広がっていく。ネルは真っ白なスリップ一枚で、その中央に膝を立てていた。左手にはカッターナイフ、右手は股間に突っ込んだまま。
「……見ろよ」
 掠れた声でネルは言う。
「僕はな、毎晩クラリッサの体に欲情してこんなことをしてるんだ。しかも自分が男の体になって彼女を壊すことを妄想してるんだ。よりにもよって兄の奥さん相手にさ。ほら、貴様好みの『病的な女』がここにいるぞ……!」
 笑っているのか泣いているのかわからない顔。その視線の先で、エドウィンは椅子に座って頬杖をついていた。
「……なんてドラマチックなんだ」
 エドウィンはうっとりとした声でつぶやいた。
「まるで、精神の終末期に咲いた最後の華だ。オフィーリアの最期を見ているかのようだ。ねえエレン、君は自分の血の色を、こんなにも美しいと思ったことがあるかい?」
「……殺すぞ」
「できるなら、是非。芸術の殉教者というやつだ」
 目の前の狂気に動じるどころか、芝居でも見るような様子で恍惚としている婚約者。ネルの脳内で何かが切れた。気がつくとシュミーズを脱ぎ捨て、床に叩きつけて叫んでいた。
「犯せよ! もう!! 思いっきりいたぶれよ!!」
 だが、エドウィンは気まぐれな猫を見るような顔をするだけだった。
「犯せって言われてその通りにするような、そんな芸のない男に見えるのかい? 君から見た僕は。いやだなあ」


 あれは「見せた」んじゃない。「見せつけた」んだ。
 僕はただ、どうでもよくなってた。
 肌を裂いて、血を垂らして、指を突っ込んで。
 そこまですればあいつは僕を嫌悪してくれると思ったのに。婚約を破棄してくれると思ったのに。
 なのに……あいつは僕が狂気の儀式をしている横でにやにや笑ってた。手も伸ばさず、ただ見てた。
 あいつの中で僕はどこまでも「芸術品」でしかないんだ。

 
 ネルは膝を抱えて座り込んでいた。ルシアンは菓子の包装紙を丸めながら、何も言わずにネルの横に座った。
「……それから、『女の子』でいるのが……ほんとに、無理になった」
「……」
 ルシアンは答えなかった。ただ、そっと自分の肩をネルの肩にぶつけた。それが彼なりの慰めだと感じて、ネルはふっと笑った。
「でも、ルシアンには最初から『男の子』に見えたんだよね、僕」
「ああ。俺みたいな淫売を助けちゃう変な王子様だと思ってた」
「ありがと、変なやつ」
 風がそっとカーテンを揺らした。彼らの世界は、音もなくひび割れていた。でもその亀裂に、どこか温かい風が吹きぬけたようだった。


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