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Chapter I Side Nell & Lucien Youth
Side Nell & Lucien Youth VI 壊れるまで、一緒に
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⚠️吐瀉物を飲む描写あり
家を飛び出した夜のことは、夢のように遠かった。気づけばネルはまた、この屋敷に戻っている。戻らざるを得ないのだ。
そして、戻れば――待っているのはいつも通りの「フィッツロイ家」だった。
「あーあ。またやってるわよ。エリザベス様とキャロライン様」
使用人がシルバーの盆を片手に通り過ぎる廊下に、子どもたちの甲高い声が響いていた。
「あなたがエレン・アデレードを甘やかすから、あの子が『自分は男だ』なんて訳の分からないことを言い出すのよ!」
エリザベスの声だった。8歳にしてはよく通る、演技がかった口調だ。
ふり袖のように垂れた布を翻しながら、彼女は椅子をバンと叩きつける。目はやや伏せられ、演技に酔っているのがわかる。
「ただでさえ女腹の穀潰しなのに! この家をこれ以上、腐らせないで……!」
部屋の隅で、キャロラインが俯きながら震えていた。
「ごめんなさい、お義母さま……ごめんなさい……」
小さな手で顔を覆い、泣いている『ふり』をしている。……そう、『ふり』だけのはずだった。
「……どこで覚えてくるのかしら。ああいうの」
「覚えてくるも何も、あれが日常なんでしょ」
「うちも子供の教育、考えないとね。子供って何でも覚えちゃうんだから怖いわ」
使用人たちはエリザベスたちのおままごとを横目で見ながらヒソヒソとささやきあっていた。
――こういうのどうすればいいんだ? 叱るのか? 笑うのか? 嘆けばいいのか?
ドアの前で立ち尽くしていたネルは、使い込まれた茶だんすの傍で見守るメイド長、オリビアに声をかけた。
「……あれ、いつから?」
オリビアは一瞬だけネルを見て、乾いた笑みを浮かべる。
「さあ。気づいたら、ですわ。……お嬢さまたち、耳が良いですから」
ネルはそれ以上なにも言わなかった。
おままごとは続いている。だけど、そこにあるのは単なる「遊び」じゃない。二人は台詞を知っているのだ。どこかで、誰かが、実際に口にした言葉を。
「……あのときね、ほんとうにお母様、可哀想だったよ」
唐突に、キャロラインが言った。
「窓のとこで泣いてた。ネル姉様が『僕は男です』って言った日の夜……お母様、泣いてたもん。『私たちのせいでネルがおかしくなった』って」
エリザベスがわずかに顔を引きつらせた。
「キャロライン、それ『ごっこ』じゃなくて……」
「ほんとだもん!!」
キャロラインが叫ぶ。声が震え、頬を涙が伝った。
「お母様、ネル姉様のこと大事に思ってたから……!」
ネルは視線を落とした。何かが喉元で引っかかるのを感じながら、それでも何も言えなかった。彼女たちの言葉が嘘だとは思わなかった。
ただ、その言葉が「真実」であって欲しくなかった。自分の行動が誰かを壊したのだということを、改めて突きつけられた気がした。
どこかで犬が吠えた。遠く、通りを車が走っていく音がする。
キャロラインのすすり泣きが続いていた。エリザベスが困ったようにネルを見たが、ネルはただ、部屋の片隅に視線を向けただけだった。そのまま、静かに踵を返す。
二階の廊下に出ると、家全体の静けさが身に沁みた。
重たい空気をまとったまま、ネルは自室へと戻る。ドアを閉め、厚手のカーテンを払い、窓を開けた。
白いレースが風に揺れる。ロサンゼルスの空は、午後の強い日差しを含んで青白く光っていた。その明るさのなかに立つと、目が少し痛い。
――壊したくて壊したわけじゃない。けれど、自分は確かに「壊す側」にいる。この家にいても、いなくても。やっぱり、自分はルシアンのそばにいなければ。自分と同じように壊れてくれるのは、あいつしかいない。
週末、またネルの足はルシアンのマンションへ向かっていた。合鍵を差し込んで、扉を開ける。部屋の中は、しんと静まり返っていた。カーテンは閉め切られ、空気は生ぬるく、どこか甘く、重い。足元には菓子の袋がいくつも潰れて落ちていた。ソファの前、ルシアンが床に座っていた。
ただ黙って、袋菓子を次から次へと口に押し込んでいた。
その顔を見て、ネルは言葉を失う。その細い腕にはアザ。筋の目立つ首元には、赤く残る手形。肉がほとんど着いてない太ももには服からはみ出すように、青黒い痕が浮いていた。
シャツの前がゆがんでいて、首のボタンはひとつ引きちぎられている。
ネルは無言のまま部屋に入り、ドアをそっと閉じた。
「……ルシアン」
返事はない。ルシアンはポテトチップスの残りを喉に流し込みながら、ようやく気づいたように目を上げた。
「……ネル。やだ、見ないでよ」
声はかすれて、笑っていた。けれど、笑顔は貼りついたようで空っぽだった。
「どうして、そんな……」
「わかんない。でも……今日はちょっと、運が悪かったのかも。久しぶりに『長居』されたから。ほら、俺こういうの好きなやつに好かれやすくてさ。拒めないの、わかっててやるの、ほんとずるい」
ネルの喉が焼けるように痛んだ。ルシアンの声はあまりに日常的だった。狂気すれすれの平常。嘘みたいに軽くて、それが一番、怖かった。
「……何も、できなかったの?」
ルシアンは肩をすくめた。アイスクリームの溶けたカップをつかみ、手のひらでぬるく温めながら。
「できたら、こんなことなってないよ。抵抗なんてしたって無駄だし、ますます酷くされるだけ。だからこうやって食べてるの。俺、こういうとき、いつもこう」
「……」
「でね、今日もひとりで吐くつもりだったけど――……せっかく来てくれたからさ」
そう言って、ルシアンはネルに微笑みかけた。
「一緒に吐こうよ」
その言い方があまりに優しくて、ネルは一瞬、自分が「誘われた」ことに気づかなかった。
「……なんで?」
「だって。誰かと一緒なら、怖くないじゃん。全部出して、からっぽにして、ちょっとだけ……静かになれる。俺、それしか感情の落とし方わかんないの。ネルもそうでしょ?」
ネルの胸がざわついた。まるで胸の奥にしまい込んだ何かを掘り返されるような感覚だった。
「……僕は」
ネルは言いかけて、やめた。自分もまた、ルシアンと同じくらい壊れているのだと改めて自覚されられた。
『一緒に吐こうよ』
その言葉が、鼓膜の内側で反響する。ネルは視線を逸らし、壁の時計を見つめた。何かを探すように、思考をめぐらせる。けれど頭は回らない。代わりに胸が、ざらざらと軋んだ。
「さすがに、それは……」
言葉が喉の奥に張りついた。ルシアンは笑っている。愛に飢えた猫みたいな目で、どこか哀れに、どこか楽しげに。
「大丈夫。やさしくするから」
冗談みたいな言い方だった。ルシアンが袋菓子を差し出す。ネルはほんの一瞬、躊躇った。けれど指は自然と動いていた。口に放り込んだ塩味の強いスナックが、喉を刺した。
静かに、ふたりでただ食べ続けた。甘いもの、しょっぱいもの、冷たいもの、温いもの。ルシアンの部屋の中には、「食べてすぐ吐くため」の軽食が常備されていた。そして、頃合いを見てルシアンが立ち上がる。
キッチンから持ってきたのは、ガラス製の大きな器だった。
深く、丸く、美しい――けれどその用途を知った瞬間、ネルは一歩後ずさった。
「『パパ』の一人がくれたやつ。……これに一緒に吐いてみない? ね、ネル」
「……」
ルシアンが一歩近づく。ネルは逃げるように後ずさる。そのまま距離を取ろうとした――けれど、次の瞬間。
ルシアンの指が、ネルの口の中に入ってきた。
細く、冷たく、ためらいのない指先が、喉の奥をくすぐった。
「……っ、やめっ……」
――苦しい。死ぬほど苦しいはずなのに抵抗できなかった。涙と涎を垂れ流しにしながらネルはえづいた。やがて胃の中のものがぐるりと方向転換してネルの品のいい口から迸った。
胃液と食べかすと、泣きそうなほどの羞恥心と絶望が、全部いっしょにガラスの器の中に落ちていった。
「……気持ち悪い……」
涙、鼻水、唾液。顔中がぐちゃぐちゃになったまま、ネルは口元を抑えてうずくまった。
ルシアンはその横顔をうっとりと見つめながら、言った。
「可愛い、ネル。……ネルは、吐いてても綺麗だね。もっと吐こうよ」
「……やめて、もう無理」
「じゃあ、見てて」
そう言ってルシアンは自分の喉の奥に指を入れた。先程長い嗚咽ともがきを繰り返した末に吐いたネルとは違って、ルシアンは慣れている。簡単に、何の躊躇いもなく、喉が収縮し、同じ器の中に自分の吐瀉物を重ねた。
――もう見るに堪えない。ネルは視線を逸らし、洗面所へ駆け込んだ。水道をひねり、手を、顔を、何度も何度も洗った。口も濯いだ。けれど指先の感触が、まだ喉に残っていた。
恐る恐る部屋に戻ったネルは、衝撃の光景に硬直した。ルシアンが――あのガラスの器を両手で抱え、スープのように中身をすすっていた。
「ネルの味がする」
静かに、陶酔したように、ルシアンは言った。ネルは、言葉を失って立ち尽くした。ルシアンが自分たちの吐いたものを――あろうことか、すすっている。音を立てていた。小さく、けれど確かに。
「……何やってんだよ、お前……」
喉からこぼれた声は震えていた。驚愕、恐怖、嫌悪。何に一番近いのか、自分でもわからなかった。
けれどルシアンは、まるでそれが「いつものこと」のように、振り返って笑った。ガラスの器をそっと置いて、ルシアンは言った。
「ネルは俺のこと、好きなんでしょ?」
ネルは瞬きをした。言葉が見つからなかった。
「だから、ここに来るんでしょ? 俺のこと好きだから俺の部屋に入ってきて、俺のものに触って、俺のこと見るんでしょ?」
ルシアンは床を滑るように歩き、ネルの足元まで近づいた。そのまま、見上げるようにして言った。
「俺のこと、好きだったら……ネルも、飲んでよ」
一拍、時が止まった。部屋の時計の針が、重たい音を立てて一秒を刻んだ。
ネルは、答えられなかった。ルシアンの黒い目が、潤んだままこちらを見上げていた。まるで甘えるように。まるで「愛してる」と囁くように。
「……飲んでよ。ね、ネル」
吐瀉物の入ったガラスの器は、ほのかに温かい。さっき自分が吐いたもの、そしてルシアンが重ねたもの。それを、愛の印のように差し出されている。喉がひりつく。胃の奥が逆流しそうになる。――でも、手はほんの少し――震えながらも、伸びかけた。
「……なんで、だよ」
飲めるはずがない。吐いたものを飲むなんて発想がまず自分にはない。なのに、ルシアンの視線が、声が、息が、肌に触れた時の温度が、何かを狂わせる。
「ネル。大丈夫だよ。俺たち共犯だよ。俺たち、いつも一緒じゃん。ほら、ほかの誰でもない、ネルだからさ」
ルシアンの言葉は甘やかで、毒のようだった。ネルはふっと視線を落とし、震える指でガラスの器を撫でるように触れた。口まで運びかけた、その時。
――ダメだ、ここで一線を引かなければ、本当に壊れる。
ネルは目を閉じた。そして、器をそっとテーブルの上に戻した。
「……ごめん、無理だ。飲めない」
声は震えていた。でも、その震えには確かな線があった。
ルシアンの目が、一瞬だけ驚いたように見開かれる。
「そっか……」
ルシアンは静かに言った。でもその笑みは変わらなかった。どこか安心したようにすら見えた。
「大丈夫。ネルが無理でも、俺が飲むから」
言いながら、また器を手に取り、舌を這わせようとする。
「……やめろ」
ネルの声は、先ほどよりも強かった。
「それ、僕のこと好きだからじゃない。ただ、壊したいだけだろ。僕のことも自分のことも」
ルシアンは、器を持ったまま微笑んだ。
「壊したいのかもね。でも、それって愛とどう違うの?」
ネルは答えなかった。答えられなかった。そのまま黙って、ルシアンの隣に腰を下ろした。壊れた器のような沈黙だけが、ふたりの間に落ちていた。
家を飛び出した夜のことは、夢のように遠かった。気づけばネルはまた、この屋敷に戻っている。戻らざるを得ないのだ。
そして、戻れば――待っているのはいつも通りの「フィッツロイ家」だった。
「あーあ。またやってるわよ。エリザベス様とキャロライン様」
使用人がシルバーの盆を片手に通り過ぎる廊下に、子どもたちの甲高い声が響いていた。
「あなたがエレン・アデレードを甘やかすから、あの子が『自分は男だ』なんて訳の分からないことを言い出すのよ!」
エリザベスの声だった。8歳にしてはよく通る、演技がかった口調だ。
ふり袖のように垂れた布を翻しながら、彼女は椅子をバンと叩きつける。目はやや伏せられ、演技に酔っているのがわかる。
「ただでさえ女腹の穀潰しなのに! この家をこれ以上、腐らせないで……!」
部屋の隅で、キャロラインが俯きながら震えていた。
「ごめんなさい、お義母さま……ごめんなさい……」
小さな手で顔を覆い、泣いている『ふり』をしている。……そう、『ふり』だけのはずだった。
「……どこで覚えてくるのかしら。ああいうの」
「覚えてくるも何も、あれが日常なんでしょ」
「うちも子供の教育、考えないとね。子供って何でも覚えちゃうんだから怖いわ」
使用人たちはエリザベスたちのおままごとを横目で見ながらヒソヒソとささやきあっていた。
――こういうのどうすればいいんだ? 叱るのか? 笑うのか? 嘆けばいいのか?
ドアの前で立ち尽くしていたネルは、使い込まれた茶だんすの傍で見守るメイド長、オリビアに声をかけた。
「……あれ、いつから?」
オリビアは一瞬だけネルを見て、乾いた笑みを浮かべる。
「さあ。気づいたら、ですわ。……お嬢さまたち、耳が良いですから」
ネルはそれ以上なにも言わなかった。
おままごとは続いている。だけど、そこにあるのは単なる「遊び」じゃない。二人は台詞を知っているのだ。どこかで、誰かが、実際に口にした言葉を。
「……あのときね、ほんとうにお母様、可哀想だったよ」
唐突に、キャロラインが言った。
「窓のとこで泣いてた。ネル姉様が『僕は男です』って言った日の夜……お母様、泣いてたもん。『私たちのせいでネルがおかしくなった』って」
エリザベスがわずかに顔を引きつらせた。
「キャロライン、それ『ごっこ』じゃなくて……」
「ほんとだもん!!」
キャロラインが叫ぶ。声が震え、頬を涙が伝った。
「お母様、ネル姉様のこと大事に思ってたから……!」
ネルは視線を落とした。何かが喉元で引っかかるのを感じながら、それでも何も言えなかった。彼女たちの言葉が嘘だとは思わなかった。
ただ、その言葉が「真実」であって欲しくなかった。自分の行動が誰かを壊したのだということを、改めて突きつけられた気がした。
どこかで犬が吠えた。遠く、通りを車が走っていく音がする。
キャロラインのすすり泣きが続いていた。エリザベスが困ったようにネルを見たが、ネルはただ、部屋の片隅に視線を向けただけだった。そのまま、静かに踵を返す。
二階の廊下に出ると、家全体の静けさが身に沁みた。
重たい空気をまとったまま、ネルは自室へと戻る。ドアを閉め、厚手のカーテンを払い、窓を開けた。
白いレースが風に揺れる。ロサンゼルスの空は、午後の強い日差しを含んで青白く光っていた。その明るさのなかに立つと、目が少し痛い。
――壊したくて壊したわけじゃない。けれど、自分は確かに「壊す側」にいる。この家にいても、いなくても。やっぱり、自分はルシアンのそばにいなければ。自分と同じように壊れてくれるのは、あいつしかいない。
週末、またネルの足はルシアンのマンションへ向かっていた。合鍵を差し込んで、扉を開ける。部屋の中は、しんと静まり返っていた。カーテンは閉め切られ、空気は生ぬるく、どこか甘く、重い。足元には菓子の袋がいくつも潰れて落ちていた。ソファの前、ルシアンが床に座っていた。
ただ黙って、袋菓子を次から次へと口に押し込んでいた。
その顔を見て、ネルは言葉を失う。その細い腕にはアザ。筋の目立つ首元には、赤く残る手形。肉がほとんど着いてない太ももには服からはみ出すように、青黒い痕が浮いていた。
シャツの前がゆがんでいて、首のボタンはひとつ引きちぎられている。
ネルは無言のまま部屋に入り、ドアをそっと閉じた。
「……ルシアン」
返事はない。ルシアンはポテトチップスの残りを喉に流し込みながら、ようやく気づいたように目を上げた。
「……ネル。やだ、見ないでよ」
声はかすれて、笑っていた。けれど、笑顔は貼りついたようで空っぽだった。
「どうして、そんな……」
「わかんない。でも……今日はちょっと、運が悪かったのかも。久しぶりに『長居』されたから。ほら、俺こういうの好きなやつに好かれやすくてさ。拒めないの、わかっててやるの、ほんとずるい」
ネルの喉が焼けるように痛んだ。ルシアンの声はあまりに日常的だった。狂気すれすれの平常。嘘みたいに軽くて、それが一番、怖かった。
「……何も、できなかったの?」
ルシアンは肩をすくめた。アイスクリームの溶けたカップをつかみ、手のひらでぬるく温めながら。
「できたら、こんなことなってないよ。抵抗なんてしたって無駄だし、ますます酷くされるだけ。だからこうやって食べてるの。俺、こういうとき、いつもこう」
「……」
「でね、今日もひとりで吐くつもりだったけど――……せっかく来てくれたからさ」
そう言って、ルシアンはネルに微笑みかけた。
「一緒に吐こうよ」
その言い方があまりに優しくて、ネルは一瞬、自分が「誘われた」ことに気づかなかった。
「……なんで?」
「だって。誰かと一緒なら、怖くないじゃん。全部出して、からっぽにして、ちょっとだけ……静かになれる。俺、それしか感情の落とし方わかんないの。ネルもそうでしょ?」
ネルの胸がざわついた。まるで胸の奥にしまい込んだ何かを掘り返されるような感覚だった。
「……僕は」
ネルは言いかけて、やめた。自分もまた、ルシアンと同じくらい壊れているのだと改めて自覚されられた。
『一緒に吐こうよ』
その言葉が、鼓膜の内側で反響する。ネルは視線を逸らし、壁の時計を見つめた。何かを探すように、思考をめぐらせる。けれど頭は回らない。代わりに胸が、ざらざらと軋んだ。
「さすがに、それは……」
言葉が喉の奥に張りついた。ルシアンは笑っている。愛に飢えた猫みたいな目で、どこか哀れに、どこか楽しげに。
「大丈夫。やさしくするから」
冗談みたいな言い方だった。ルシアンが袋菓子を差し出す。ネルはほんの一瞬、躊躇った。けれど指は自然と動いていた。口に放り込んだ塩味の強いスナックが、喉を刺した。
静かに、ふたりでただ食べ続けた。甘いもの、しょっぱいもの、冷たいもの、温いもの。ルシアンの部屋の中には、「食べてすぐ吐くため」の軽食が常備されていた。そして、頃合いを見てルシアンが立ち上がる。
キッチンから持ってきたのは、ガラス製の大きな器だった。
深く、丸く、美しい――けれどその用途を知った瞬間、ネルは一歩後ずさった。
「『パパ』の一人がくれたやつ。……これに一緒に吐いてみない? ね、ネル」
「……」
ルシアンが一歩近づく。ネルは逃げるように後ずさる。そのまま距離を取ろうとした――けれど、次の瞬間。
ルシアンの指が、ネルの口の中に入ってきた。
細く、冷たく、ためらいのない指先が、喉の奥をくすぐった。
「……っ、やめっ……」
――苦しい。死ぬほど苦しいはずなのに抵抗できなかった。涙と涎を垂れ流しにしながらネルはえづいた。やがて胃の中のものがぐるりと方向転換してネルの品のいい口から迸った。
胃液と食べかすと、泣きそうなほどの羞恥心と絶望が、全部いっしょにガラスの器の中に落ちていった。
「……気持ち悪い……」
涙、鼻水、唾液。顔中がぐちゃぐちゃになったまま、ネルは口元を抑えてうずくまった。
ルシアンはその横顔をうっとりと見つめながら、言った。
「可愛い、ネル。……ネルは、吐いてても綺麗だね。もっと吐こうよ」
「……やめて、もう無理」
「じゃあ、見てて」
そう言ってルシアンは自分の喉の奥に指を入れた。先程長い嗚咽ともがきを繰り返した末に吐いたネルとは違って、ルシアンは慣れている。簡単に、何の躊躇いもなく、喉が収縮し、同じ器の中に自分の吐瀉物を重ねた。
――もう見るに堪えない。ネルは視線を逸らし、洗面所へ駆け込んだ。水道をひねり、手を、顔を、何度も何度も洗った。口も濯いだ。けれど指先の感触が、まだ喉に残っていた。
恐る恐る部屋に戻ったネルは、衝撃の光景に硬直した。ルシアンが――あのガラスの器を両手で抱え、スープのように中身をすすっていた。
「ネルの味がする」
静かに、陶酔したように、ルシアンは言った。ネルは、言葉を失って立ち尽くした。ルシアンが自分たちの吐いたものを――あろうことか、すすっている。音を立てていた。小さく、けれど確かに。
「……何やってんだよ、お前……」
喉からこぼれた声は震えていた。驚愕、恐怖、嫌悪。何に一番近いのか、自分でもわからなかった。
けれどルシアンは、まるでそれが「いつものこと」のように、振り返って笑った。ガラスの器をそっと置いて、ルシアンは言った。
「ネルは俺のこと、好きなんでしょ?」
ネルは瞬きをした。言葉が見つからなかった。
「だから、ここに来るんでしょ? 俺のこと好きだから俺の部屋に入ってきて、俺のものに触って、俺のこと見るんでしょ?」
ルシアンは床を滑るように歩き、ネルの足元まで近づいた。そのまま、見上げるようにして言った。
「俺のこと、好きだったら……ネルも、飲んでよ」
一拍、時が止まった。部屋の時計の針が、重たい音を立てて一秒を刻んだ。
ネルは、答えられなかった。ルシアンの黒い目が、潤んだままこちらを見上げていた。まるで甘えるように。まるで「愛してる」と囁くように。
「……飲んでよ。ね、ネル」
吐瀉物の入ったガラスの器は、ほのかに温かい。さっき自分が吐いたもの、そしてルシアンが重ねたもの。それを、愛の印のように差し出されている。喉がひりつく。胃の奥が逆流しそうになる。――でも、手はほんの少し――震えながらも、伸びかけた。
「……なんで、だよ」
飲めるはずがない。吐いたものを飲むなんて発想がまず自分にはない。なのに、ルシアンの視線が、声が、息が、肌に触れた時の温度が、何かを狂わせる。
「ネル。大丈夫だよ。俺たち共犯だよ。俺たち、いつも一緒じゃん。ほら、ほかの誰でもない、ネルだからさ」
ルシアンの言葉は甘やかで、毒のようだった。ネルはふっと視線を落とし、震える指でガラスの器を撫でるように触れた。口まで運びかけた、その時。
――ダメだ、ここで一線を引かなければ、本当に壊れる。
ネルは目を閉じた。そして、器をそっとテーブルの上に戻した。
「……ごめん、無理だ。飲めない」
声は震えていた。でも、その震えには確かな線があった。
ルシアンの目が、一瞬だけ驚いたように見開かれる。
「そっか……」
ルシアンは静かに言った。でもその笑みは変わらなかった。どこか安心したようにすら見えた。
「大丈夫。ネルが無理でも、俺が飲むから」
言いながら、また器を手に取り、舌を這わせようとする。
「……やめろ」
ネルの声は、先ほどよりも強かった。
「それ、僕のこと好きだからじゃない。ただ、壊したいだけだろ。僕のことも自分のことも」
ルシアンは、器を持ったまま微笑んだ。
「壊したいのかもね。でも、それって愛とどう違うの?」
ネルは答えなかった。答えられなかった。そのまま黙って、ルシアンの隣に腰を下ろした。壊れた器のような沈黙だけが、ふたりの間に落ちていた。
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