夜の帳が降りるとき

泉 沙羅

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Chapter I Side Nell & Lucien Youth

Side Nell & Lucien Youth XI 途切れない糸

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 室内の空気は暗く、重たかった。ネルは衰弱し、水を飲みに行く気力さえなかった。目は開いているが焦点は合っておらず、窓のほうをぼんやり見ている。
「このまま死ぬんだろうか。それでいい。ルシアンにもう触れられないのなら、生きている意味なんてない。ルシアン、ごめん。何も言えなくて。君の声、聞こえてたよ。君のこと、まだ……」

 その頃、ヘンリエッタはリビングの椅子に腰を下ろし、ひと息ついていた。額に浮かぶ皺は深い。苛立ちを抑えきれず、ひとりごとのように呟く。
「なんて頑固な子……あの子は昔から、甘やかすとすぐに付け上がるのよ。クラリッサが散々甘やかしたせいね。変に同情心なんて持たせるから……それに、あの淫売。あの浮浪児みたいな男が、何かおかしなこと吹き込んだからこんなことになるのよ。心が曲がったのよ、あの子は。きっとあの男のせいで」
 ヘンリエッタは紅茶に口をつけるが、気分に合わないのかすぐにカップを置き、乱暴にナプキンで唇を拭った。

 エリザベスとキャロラインは、庭の植え込みの陰に身を寄せ、そっと見上げる。
 視線の先には、屋敷の2階、ネルの部屋の窓。カーテンは引かれたまま、わずかに揺れているだけ。
「……窓、開いてない。ずっと、あのままだよ」
「何日になるの? 姉様……出てこないまま」
「一週間くらい……かな。でも、中の様子は全然わかんない。カメラがあるから、私たちも近づけないし……」
「ねえ……姉様ずっと食べてないよね? ずっとベッドで、動けないとか……」
「……死んじゃうよ、ねえ、姉様、本当に死んじゃうよ?」
 エリザベスは妹を安心させようと強がるように笑みをつくるが、目は潤んでいた。
「……大丈夫だよ、きっと。ネル姉様は、そんなに弱くないよ」
 だが、まだ8歳のキャロラインは耐え切れず涙をこぼした。
「おばあさまは……殺す気なんだ。姉様のこと……」
 エリザベスは珍しく強い言葉を使った妹にギョッとした表情を見せた。
「まさか、さすがのおばあさまもそんなことするわけ……」
 エリザベスの声は本人の意に反して震えていた。
「だってこのままじゃ絶対ネル姉様死ぬもん!! おばあさまは殺す気としか思えないもん!!」
 キャロラインはそう叫ぶとわっと火がついたように泣き出した。
 エリザベスはもう何も言えず妹が泣く姿をただ呆然と眺めていることしかできなかった。
 空には雲が広がり、遠くでカラスの鳴く声が聞こえた。
 彼女たちの祈りは、部屋の主には届かない――。


**


 リビングの時計がチクタクと音を立てる。静まり返った部屋で、エドワードはテーブル越しに母を見つめていた。彼の顔色は悪く、こめかみの血管が浮いている。
「母さん……このままでは、ネルが……死んでしまう」
 エドワードの声は怒気を含まず、ただ深く苦しげだった。だがその静かな声は、かえって部屋の空気を凍りつかせる。
 対するヘンリエッタは涼しい顔でカップを置き、吐き捨てるように言った。
「人間、たかが一週間何も食べなかったくらいで死にはしないわ。あの子は昔から食が細かったじゃない。大げさなのよ、あなたも」
「ちがう……今回はちがうんだ、母さん」
 エドワードは拳を震わせた。その手がテーブルを強く打ちつける。
「僕にはわかる! 今のネルは、もう何も残ってない。心も体も――」
 ヘンリエッタはふんと鼻で笑うと、唐突に話題を変えた。
「それよりエドワード、こないだあの淫売と話してたわね。あれはどういうつもりなの? まさか、あんな浮浪児崩れと繋がってるわけじゃないでしょうね?」
「それがどうしたというんですか…………っ!」
 エドワードの中で何かが切れた。
「……あんたはネルを殺す気か!!」
 怒号がリビングに響く。エドワードが怒鳴った瞬間、ヘンリエッタは目を見開いた。この息子が声を荒げるなど、生まれてこのかた一度もなかったからだ。
「本当に――ネルが死ぬまで、この茶番を続けるつもりか!? 自分の娘を、この家で殺す気か!!」
 言い終わらぬうちに、エドワードの顔色がさっと青ざめた。彼は胸を押さえ、その場に膝をついた。
「あなた!? あなた、大丈夫……!?」
 クラリッサが悲鳴のような声を上げて駆け寄る。夫を抱きしめ、涙声で訴えた。
「もうやめてください……お願いです、お義母様。エドワードとネルが死んでも……あなた、平気なんですか……?」
 ヘンリエッタはエドワードの剣幕とクラリッサの本気の訴えにたじろぎ、思わず後ずさる。自分の言動が、最愛の息子を殺しかけているという現実が、ようやく彼女の耳に届いた。
「……あーもう! 好きになさい!!」
 彼女は頭を振り、椅子を乱暴に引いて立ち上がる。
「好きになさいよ! でもね、私は、あの淫売を認める気はこれっぽっちもないから!」
 そう叫び、ハイヒールの音を響かせて去っていく。
 リビングには、クラリッサのすすり泣きと、うずくまるエドワードの荒い息だけが残された。


**


「ネル……入っても、いいかしら」
 返事はない。それでもクラリッサは静かにドアを開ける。
 室内はカーテンが閉じ切ったまま。陰鬱な空気が漂うなか、ベッドに横たわるネルの姿がある。部屋着から伸びる骨ばった手足と、青白い顔。まるで今にも消えそうなほど、静かだ。
 クラリッサは、棚の上にそっと経口補水液のボトルとスープの入った器を置く。
 それから、おそるおそる近づき、座る。
「ごめんなさい……何もしてあげられなくて……」
 ネルは反応しない。だが、ボトルに視線をやると、ゆっくりと体を起こす。腕は震えている。けれど、黙ってそれを手に取り、蓋を開けて口に運んだ。
 口に触れた液体はほんのりと塩気があった。ネルは一度だけ、小さく眉をしかめたが、そのまま作業のように、淡々と飲み続けた。まるで命を繋ぐことが、「与えられた作業」に過ぎないかのように。
 クラリッサの頬に、ぼろぼろと涙が落ちる。ネルは顔を上げず、ただ一言だけ呟いた。
「……ありがとう、クラリッサ。置いてって」
 その声はかすれていたが、確かに意志を持っていた。
 クラリッサが部屋を出ようとしたそのとき、エドワードが静かに近づいてくる。
 彼の手には、一台のスマートフォン。差し出した画面には何十件という未読通知の数が、端に小さく表示されている。
「これ……彼からだ。ずっと預かってた。母さんには見せなかった。お前が……落ち着いたときにって、思って」
 ネルはスマホを受け取り、目を落とす。そこには、ルシアンからの狂ったようなメッセージの洪水。
『出てこい』
『お前が死ぬなら俺を殺してからにしろ』
『お前に触らせろ。触らせないなら殺すぞ』
『俺をひとりにするな』
『おい おい おい おい』
 ネルの瞳が、ほんのわずかに潤んだ。でも涙は落ちない。ただ、じっとスマホの画面を見つめたまま、目を見開いていた。
 ネルが着替えを終え、扉の前まで歩く。まだ足元はおぼつかないが、意志ははっきりしていた。すると、扉の向こうから控えめなノック音。
「……姉様?」
 エリザベスの声だった。ネルは返事をしない。すると、間を置いて続けられる。
「ずっと来てたんだよ。ルシアン。ここに。……最初は叫んでたけど、お父様が説得してからは、黙って、ずっと……姉様の部屋の窓を見上げてた」
 ネルはドアノブに手をかけた。カチリ。鍵が外れる音。扉がゆっくり開く。
 そこにいたエリザベスとキャロラインは、目を見開いて息を呑んだ。やつれた姿。だけど、ネルの瞳だけは、はっきりと燃えていた。
 ネルは何も言わず、二人をすり抜けるように歩き出す。

 まだ本調子ではない足で、それでもネルは走った。風が金髪をなぶる。何日も閉ざしていた空気が、肺に痛いほどに入ってくる。
 ルシアンのマンションへ向かう。インターフォンを押し、扉が開く。泣き腫らした目と乱れた黒髪。対面した瞬間、その黒い目が見開かれる。言葉は、なかった。
 間に言葉はない。叫びも、涙もない。ただ、ぶつかるように抱き合う。荒く、激しい口付け。噛みつくような唇。引っかくような手。
 服をもどかしげに剥ぎ取り合う。どちらがどちらをリードしたのかさえ、記憶にない。
 これは恋ではない。慰めでも、優しさでも、希望でもない。ただ――渇いた者同士が、互いの体温を奪い合うように交わる。

生きていた。
まだ、生きていた。
それだけで、十分だった。

衣服が落ちる音。
肌と肌が触れる音。
誰のものとも知れぬ吐息と、どちらのものか判別できない熱が、狭い空間を満たしていく。

ネルは、ルシアンに抱きついたまま、目を閉じた。
心臓の音がうるさい。
自分のものか、ルシアンのものか、わからない。

首に、肩に、背中に。
ルシアンの唇が這う。噛みつく。舌を這わせる。
その手は、ネルの骨の奥にまで届くかのように、貪欲に探りを入れてくる。

「ルシアン……」

唇から漏れたその名は、懇願ではなく、確認だった。
まだ自分がここにいること。
ルシアンがここにいること。
それを確かめるための、祈りに近い呼吸。

指が奥まで触れてきたとき、ネルは息を詰めた。
痛い。
でも、不思議だった。

――異物じゃない。

全く拒絶感がなかった。
自分の中にあった空洞が、もともとルシアンの形をしていたかのように、ぴたりと嵌る。

「……まだ、足りない」

声にならない声で、ネルは呟いた。
それを聞いたルシアンが、彼の脚を強引に開かせた。
入り口を探る指先の動きは荒々しく、容赦がない。
けれど、ネルは抵抗しなかった。

――もっと近くに。
――もっと深くに。

目の前の存在は「他者」ではなかった。
鏡のように、もうひとりの自分だった。

そして、ルシアンがネルの中に入ってくる。

ネルは身体を仰け反らせて、シーツを強く握りしめた。
割けるような痛みとともに、涙がこぼれる。
だが、それは苦しみの涙ではなかった。

「……ルシアン……」

繋がった。
完全に。

自分の奥の奥にまで、ルシアンがいる。
内臓よりも深い場所。
心と魂のあいだ、他人が決して触れられない領域に、ルシアンだけが届いた。

「もっと、もっと……」

声が震える。喉が焼ける。
けれど欲望は止まらなかった。

ルシアンが律動を始めるたび、ネルは「自分を取り戻していく」感覚に襲われる。
抱かれているのではない。
奪われているのでもない。
ただ、ただ――同化していく。

魂の皮膚が剥がれ落ち、肉体の輪郭が曖昧になる。
どこまでがネルで、どこからがルシアンか、もう分からない。

「……ずっと、ここにいたんだね」

それは問いでも、感想でもなかった。
ただの事実だった。

ルシアンは、自分自身だった。

この夜の余韻は、やがて彼らが家族になるまで続く嵐の前の静けさだった。



Side Nell & Lucien Family Tideへ続く
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