夜の帳が降りるとき

泉 沙羅

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Chapter II Side Nell & Lucien Family Tide

Side Nell & Lucien Family Tide V 生まれるという呪い

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 ネルはサマンサと並んで、UCLA近くのカフェのテーブルに向かっていた。
 店内には秋の午後の光が入り、ページの上で金色に揺れている。

「僕はね、君と勉強してる時間が一番落ち着く」
 ネルはノートを閉じ、微笑んだ。その笑みは少し疲れているが、穏やかだった。
「そう言えば、僕の事は散々聞いてもらったけど、君のことはほとんど何も聞いてなかったね。君は一人で寮暮らししているようだけど、実家はカリフォルニアなのかい?」
 サマンサはペンを弄びながら、小さく息を吐く。
「私? 私はモントリオール生まれよ」
 ネルの碧い目が見開く。
「モントリオール? なぜカリフォルニアに……」
 サマンサは少し話すことを躊躇うような素振りを見せ、ポツリポツリと、語り出した。
「……私ね、モントリオールにいたらずっと親の顔色を伺って、閉ざされた世界で生きていかなきゃいけない気がしてたの。それは絶対嫌でね。誰も自分のことを知らない世界に行きたかった」
 ネルは目を伏せた。訊いてはいけないことを訊いてしまったか、と言うように。
「奨学金を三つも使って、バイトして……それでも、あの家にいるよりはマシだと思ったの。生活は大変だけど、今私は自由だからそれが何より嬉しいわ」
「逃げることも、生きる選択のひとつだよ。」
 ネルの声は静かだった。
「僕も、そうやってここまで来た」
 サマンサが笑うと、ネルもつられて笑った。
その瞬間、まるで永遠に続くような午後だと思った。
……だが次の瞬間、ネルの笑みが凍った。手が腹へと伸びる。
「……っ、サム……」
「ネル!? どうしたの、まさか——!」

 サマンサは椅子を蹴って立ち上がり、慌ててバッグを掴んだ。
 店の外では夕陽が傾き、ガラスの向こうを金色の風が流れていく。
 彼女はフィッツロイ家へ電話をかけながら、ネルを支え、車へと連れ出した。

「Hello? フィッツロイさんのお宅ですか? ネルが産気づいたみたいです! 今から病院へ向かいます!」
 サマンサは慌ただしく電話を切ると、ネルの身体を支え、車まで導いた。
「ネル、安心して。後でお義姉さんたちが来てくれるらしいわ。私もついてる」

 車が発進する。夕暮れの光が、街を赤く染めていった。



**


 ロサンゼルスのフィッツロイ邸。
 真昼の陽光が遮光カーテンの隙間から細く差し込み、埃がその中を漂っている。
 重苦しい沈黙のなか、磨き上げられたマホガニーのテーブルを囲むのは、フィッツロイ家の保守派一族だった。
 レジナルド・フィッツロイが椅子の背にもたれ、杖の先で床を小さく叩く。

「まったく……我が一族の血統をなんだと思っているのかね。穢れた血が混じるなど、不名誉以外の何ものでもない。それになんなんだあの写真は! ロバート宛に送られてきたものを見たんだが、本当におぞましかった。悪魔の儀式としか思えない」

 レジナルドが言っているのはおそらく、ネルとルシアンの結婚式の写真のことであろう。


 その声に、部屋の空気がさらに冷え込む。ヘンリエッタは唇をきつく結び、答えなかった。隣でミリセント・カーレン侯爵夫人が鼻を鳴らす。

「ルシアン・モロー……あの男は確か、ジプシーの女の腹から生まれたんでしょう? なんておぞましい。見なさいよ、姉さん。そんな男の血が、未来の公爵家を引き継ぐだなんて。いくらアメリカでも通用しないわよ」

「それを承知で黙っているからこそ、余計に恥なのだ。」
 レジナルドがヘンリエッタを睨みつけた。
「義姉上、あなたがしっかりしていれば、こんな醜聞など起こらなかった」

「……言われなくてもわかっているわよ!」
 ヘンリエッタの声は低く、かすかに震えていた。
「生まれてくる子が女の子なら、跡継ぎとは関係ない。早いうちに良家と婚約させて、血を薄めればいいだけのこと。あの男が父親なのは癪だけど、器量だけは確か。きっと将来嫁入り先には困らないわ」

「さすが姉さん、ようやく話がわかってきたじゃない。」
 ミリセントが満足げに笑う。
「女の価値は結婚と跡継ぎ出産にあるのよ。良家の御曹司と結婚して跡継ぎを産めれば、父親が誰かなんてほとんど関係ないわ」
 ミリセントは扇を優雅に広げる。テーブルの隅でクラリッサは指先をきつく組み、唇を噛んだ。

 そんなクラリッサの隣でエドワードも拳を握りしめた。夫のその仕草を見逃さなかったクラリッサがここで切り出す。
「まだ生まれてもいないのに、何を言ってるんですか」
 クラリッサの声は震えていた。
「その子に罪はないでしょう。ネルだって、あの人を――ルシアンを――愛しているだけで……」

「愛?」ミリセントの口元が歪む。
「滑稽だわね。あなた、自分がどうしてこの家に嫁いだのか、もうお忘れ?」

 クラリッサは息をのんだ。
 ヘンリエッタが眉をひそめたが、ミリセントは止まらない。

「エドワードには本来ヴァイオレット嬢という婚約者がいた。けれど彼女は血が濃すぎて、病を抱えておられたの。だから、代わりにあなたが選ばれたのよ。健康で、多産の家の娘だから。――それだけの理由でね」

 クラリッサの脳裏にかつての婚約の経緯が蘇る。
 エドワードには本来、従妹のヴァイオレットがいた。しかし、ヴァイオレットが血友病のキャリアであることが発覚し、破談になったのだ。
 そこで健康でそこそこ美しく、気立ても良いクラリッサに新たな婚約者として白羽の矢が立ったのだった。
――表向きは。実際は「多産の家の娘」という理由でクラリッサが選ばれた。彼女の母は10人きょうだいで、クラリッサ自身も8人きょうだいだったのだから。

「なのに結果は? 二人産んだきり。しかも両方とも女の子! それも医療の力を借りてのこと! 間に合わせで選んだとはいえ、まさかここまで役に立たないとは思わなかったわ」

「叔母上!」
 エドワードが椅子を鳴らして立ち上がった。
「クラリッサを責めるのはやめてください! 悪いのは僕です。僕が――」

「私の言うことに逆らうんじゃないわよ!」ミリセントが怒声を上げた。
「こんな嫁に看病されるしか能がないくせに! まったく、誰の息子かしらねえ?」
 その視線が、ヘンリエッタへとゆっくり滑る。

「……あんたに言われる筋合いないわよ!」
 ヘンリエッタがテーブルを叩き、紅茶の入ったティーカップが床に落ちた。ティーカップが割れる音が響きわたるが、ヘンリエッタは気にとめず叫んだ。
「姉の家の事情にこれ以上口を出すんじゃないわ!」
 ヒステリーを起こすヘンリエッタの足元で、ルビーがこそこそ身を屈め駆け寄り、割れたティーカップをササッと処理した。

「やかましい!」
 低く響いたのはミリセントの夫、カーレン侯爵の声だった。
「女の甲高い声は耳障りだ。さっさと結論を出せ。――その子の扱いをどうするか、だ」
 カーレン侯爵は新聞をばさりと置き、うんざりしたように言った。
「どうせ騒ぐなら、決めるところまでいってからにしてくれ。お前たちは無駄話が多くてならん」

 レジナルドがゆっくりとうなずき、そして誇らしげに主張した。
「婚約先は我が母の実家、ウィンダム侯爵家が相応しい。家柄はフィッツロイには劣るが財力は申し分ない。さらに王室奉仕者を数多く輩出している。互いに汚点を消すには都合がいい。既に跡取りのセオドアとエリザベスが婚約しているだろう? ウィンダム侯爵は近いうち後妻を迎えるようだし、期待できそうじゃないか」


重い沈黙が落ちた。誰もが言葉を探せずにいた、そのとき――扉が勢いよく開いた。メイド長オリビアが息を切らせて立っていた。
「坊っちゃまが——エレンお嬢様が産気づいたそうです! 今、ご友人と共に病院へ向かったそうです!」

 一瞬、室内の空気が凍った。しかし、エドワードとクラリッサは即座に立ち上がった。だが、ミリセントが扇をゆっくり閉じ、冷ややかに言う。

「女の子でしょ? わざわざ行くほどのことかしら」
「その通りだ」と、レジナルド。
「出産してからで十分だろう」

 クラリッサは蒼白になり、ヘンリエッタを見つめた。
「お義母さま……あなたまで、行かないのですか?」

 ヘンリエッタは短く息を呑み、視線を落とした。
「男の子なら行くけど、女の子だったら生まれてからでいいわ。医者とあなたたちだけいれば十分じゃない」

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