夜の帳が降りるとき

泉 沙羅

文字の大きさ
25 / 26
Chapter II Side Nell & Lucien Family Tide

Side Nell & Lucien Family Tide VI 境界の子

しおりを挟む

 白い砂丘を模したセット。逆光の中、黒髪の中性的な青年が薄布をまとい、カメラに向かってゆっくりと歩み寄る。
 ルシアンの肌は照明を受けて青白く光り、唇の赤がひどく際立っていた。男か女か、見る者の感覚を惑わせる完璧な造形。

「カット!……いいね、ルシアン、その表情、まるで罪の化身だ」
 監督がモニター越しに呟く。スタッフたちはざわめきながらも拍手を送った。

 その背後で、照明助手が小声で言う。
「信じられるか? あれで父親だってさ」
「嘘だろ。相手は?」
「あのネイサニエル・フィッツロイだ。妊娠してるらしい」
「えっ、マジかよ……フィッツロイって以前モデルだった……」
「そうだ。元々は『エレン』・フィッツロイだ。モデル業を休止してからずっと男として生活してるらしい」
「うわぁ……『そういう』カップルなのか。子供はどう育つんだろうな」

 笑いをこらえるような囁き声が重なる中、ルシアンはそんな陰口など気にも止めない。
 彼の視線はカメラの奥、見えない誰かに向けられていた。
 身体の奥に、唐突に走る痛み——まるで腹の底を掴まれたような、灼けるような熱。

「……っ」
 脚がふらつく。
 モニター前で撮影の様子を伺っていたヴァネッサが立ち上がった。
「ルシアン? どうしたの」

 ルシアンは両腕で腹を抱え、息を荒げる。視界が白く滲み、遠くで誰かの叫びが聞こえた気がした。
「……これは……俺の痛みじゃない」
「え? 何言ってるの、座って——」
「ネルの痛みだ……!」

 照明が落ち、スタッフがざわつく。監督が何事か叫ぶ声。
 ルシアンの意識は、白い砂のように崩れていった。

**

 夕方のカリフォルニア、オレンジ色の夕焼けが空を染める。
 ネルを病院に連れてきたサマンサは、受付で「ご家族の方ですか?」と問われ、詰まった。
「……友人です。でも、誰もいないので私が——」
「すみません、患者さんのプライバシー保護のため、陣痛室には近親者のみになります」
 丁寧だが事務的な笑顔に押し返され、サマンサは結局、待合室のソファに座るしかなかった。

 壁の時計がやけに遅く進む。
 サマンサは膝を抱えて、何度もスマホを見ては画面を消し、立ち上がってはまた座る。
 看護師が通るたびに反応して、「あの、フィッツロイさんは——」と訊ね、
「まだです」と返されて、しょんぼりと縮こまる。

 周囲の妊婦の家族たちは落ち着いた様子で、紙コップのコーヒーを飲みながら談笑している。
 その中でひとり、サマンサだけが「遠足前夜の子供の顔」でソワソワしていた。
 周りが赤ん坊の名前を話し合っている中で、サマンサだけがひとり、手のひらに爪を立てているのだ。自分は何をしているんだろう——友人の出産を待つなんて。家族でも、恋人でもない。けれど、彼を一人で戦わせるのは間違っている気がした。その理由は、まだ自分でも言葉にできないままだった。

**

 ネルはすでにベッドに横たえられ、酸素チューブ越しに荒く息をしていた。
 眉間に刻まれた皺が、いつもの冷静な彼からは想像できないほど深い。
 看護師が声をかける。「フィッツロイさん、もうすぐご家族が来ますからね」
 その直後、クラリッサ、エリザベス、キャロラインが駆け込んでくる。

「ネル!」
「ネル姉様、しっかりして!」
 クラリッサが手を握ると、ネルはうっすらと目を開けた。
「……クラリッサ、来たのか」
「当たり前でしょう。来ないわけがないわ!」
「……相変わらずだね」
 ネルがかすかに笑うと、クラリッサは唇を噛み、泣きそうな目でその手を握り締めた。
 痛みの波がひとつ引いた瞬間、ネルは一瞬だけ彼女の瞳を見た。あの頃、彼女に見せたかった自分は——こんな姿ではなかった。それでもクラリッサは、昔と同じ目で自分を見ている。それが、痛みよりも苦しかった。

 モニターの心拍音がリズムを速めていく。
 ネルの腹部が波打ち、痛みの波が押し寄せるたび、身体が弓のように反った。
 クラリッサがネルの背中を摩る。「ネル、呼吸よ。息を吐いて、吸って」
 エリザベスとキャロラインは震える手でタオルを絞り、額の汗を拭う。

**

 その頃、同じ病院の別棟の救急外来では、ルシアンがベッドに倒れ込んでいた。
 胸に心電図の電極、腕には点滴。だがモニターはすべて正常を示している。

「痛い……っ……冗談だろ、勘弁してくれ……俺に子宮はない……!」
 腹を押さえ、苦悶の表情で呻くルシアンの額を、ヴァネッサが濡れタオルで拭った。
「落ち着いて、ルシアン。呼吸を整えて」
「……痛みが……腹の中で……波打ってる。これ全部ネルの痛みだ……」
 医師が顔を見合わせ、声を潜めて言う。
「検査では異常なし。幻肢痛に似た症状ですね……」
「痛み止めは?」
「処方しても意味はないかと。心理的な連動によるものです」

 ヴァネッサは息をついた。分かっていた。この痛みは、薬でも医療でもどうにもならない。それでも、放っておけなかった。
「ネルも、きっと同じように戦ってる。だから、あなたも耐えなさい」
 ルシアンは血走った目でヴァネッサを見上げ、かすれた声で笑った。
「……ヴァネッサ、あんたは鬼だ……」
「そうよ。私も母親だからね」

 外ではサイレンが遠ざかり、夜の闇がブラインドの向こうに広がっていた。

**

 夜更けの病院に、赤ん坊の産声が響いた。
 サマンサは立ち上がり、思わず胸に手を当てた。長い長い数時間だった。
 誰かが「おめでとうございます」と言い、ほっとしたような笑い声が遠くから聞こえる。

**

 麻酔が効きづらかったのか、ネルは最後まで苦しみながらエヴァを産んだ。
 痛みが波のように押し寄せるたび、ネルは歯を食いしばる。
 ——そのたびに、胸の奥にもう一つの痛みが走る。自分のものではない、誰かの苦しみ。
 「……ルシアン?」
 思わず口の中でつぶやく。声にならない呼びかけが、どこか遠くで応えるように響いた気がした。

 産後しばらくしても、指先が震えて止まらなかった。
 看護師が「お母さん、よく頑張りましたよ」と声をかけると、ネルは一瞬だけ目を閉じた。
 「母」という言葉が胸の奥にひっかかる。それでも、腕の中の赤ん坊の体温は確かだった。

  痛みがようやく引いたとき、ネルは腕の中の赤ん坊を見下ろした。
 エヴァはかすかに息を吸い、ぎゅっと目をつむる。その仕草があまりに人間らしくて、ネルは思わず微笑んだ。
 ――この子は、僕の分身なんだ。
 だが同時に、心のどこかで感じていた。あの痛みの中で、確かに彼が自分の中にいた、と。
 互いの境界が曖昧になるほどの痛みと、命の誕生。
 それは祝福であると同時に、呪いのようにも感じられた。

**

 その頃、ルシアンは隣の病棟で、ようやく痛みから解放されていた。
 額には汗、頬はこけて、目の下にはくっきりと隈。
 ヴァネッサが「まるで産んだのはあなたみたいね」と呆れながら言うと、
 ルシアンはふらつきながら笑った。「……たぶん、半分はな」

 外では雨が降っていた。
 雨音が窓を叩くたびに、室内の静けさがより際立つ。
 ネルはベッドの上で穏やかに眠っていた。腕の中の赤子――エヴァ――も、ようやく短い呼吸を整え、かすかに口を開けて夢の底に沈んでいる。

 ルシアンはただ呆然と、虚空を見つめていた。顔色は青ざめ、唇の端がわずかに震えている。ネルの痛みが、どこか身体の奥底にまだ残っているのだ。
 あの瞬間、彼は確かに感じた――ネルの苦しみを。
 皮膚を裂くような痛みと、喉の奥でちぎれる悲鳴。
 だが不思議なことに、いま胸の奥に残っているのは、痛みよりも――温かさだった。

 「……終わったのね」
 ヴァネッサが小さく息をつく。
 手早く使い終えた器具を片づけ、静かにスマートフォンを取り出す。画面が淡く光り、着信が鳴った。

 “Lucas”

 ヴァネッサは受話器を耳にあてた。
 「ええ、もう大丈夫よ。ふたりとも無事」
 その声は、疲労と安堵と、わずかな涙に濡れていた。

 「……神に感謝を」
 受話器の向こうから、低く穏やかな声が返る。
 少しの沈黙。やがてルーカスが静かに言った。

 「ヴァネッサ……君がノーラを産んだ夜を、ふと思い出していたよ」
 「ノーラを?」
 「そう。あのとき、君が苦しむ声を聞きながら、何もできなかった。祈ることしか。
 でも今回、二人のことを聞いて思ったんだ――僕も、もしあのとき、君の痛みを少しでも分けてもらえたらと。その痛みを、君と一緒に背負えたらって」

 ヴァネッサは目を伏せ、無言で微笑んだ。その瞳の奥に、かつての夜が淡くよみがえる。灯りの落ちた病室、流れる汗、そしてルーカスの手が自分の髪を撫でていた記憶。

 「ルーカス……」
 彼女は小さく囁いた。
 「あなたはもう、あの夜も、今も――私と同じ痛みを感じてくれているわ。祈ることで、見つめることで。あなたのやり方で」

 電話の向こうで、ルーカスが短く息をつく音がした。
 「……ありがとう。神の御心のままに」
 「ええ。そうね」

 ヴァネッサは電話を切り、しばらくスマートフォンを見つめた。画面が暗転し、彼女の顔だけが淡い光の中に浮かぶ。ぐったりと寝台に横たわるルシアンを見やりながら、彼女は胸の中で静かに呟いた。

 「――神よ。これは、あなたの奇跡ですか。それとも、罰でしょうか」

 答える者は、いなかった。ただ、雨の音だけが長く、夜の帳を叩いていた。

「ネル……」

 点滴のチューブを外し、ルシアンがよろよろと病室を出る。ヴァネッサが「こら、まだ歩くんじゃない」と制したが、もう聞いていなかった。


**
 

 病室の明かりは落とされ、静けさが戻っていた。
 ネルの隣に立ったルシアンは、ベッドの上の小さな包みを見下ろす。
 「……こいつか。俺に地獄みたいな痛みをくれたのは」
 ネルがかすかに笑う。
 「仕返しできないよ。まだ生まれたばかりなんだから」
 互いに顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。
 けれど心の奥では、まだ痛みの余韻が微かに共鳴していた。——まるでお互いの神経が、一本の糸でつながっているかのように。

 ルシアンは無言のまま、エヴァの小さな手を指で包んだ。
 その瞬間、涙が頬を伝う。幼くして親を亡くしたルシアンにとってエヴァは、この世で唯一の血縁だった。
 「……こんなに小さいのに、もう生きようとしてる。……こいつ、俺たちの子なんだな」

 ネルは黙って頷いた。けれどその瞳の奥には、安堵と同時に、どうしても拭えない影があった。
 彼にとってこの子は「娘」で、自分にとっても「娘」だ。しかし、「娘」にとって自分は――。
 言葉にできず、ネルはただ静かにエヴァを見つめ続けた。

**

 そこへ、ドアがノックもなく開いた。受付のスタッフが慌てて後から追いかけてくる。
 「お母様、面会時間は——」
 「結構です」と押し切って入ってきたのはヘンリエッタだった。

 高いヒールの音が床を打ち、部屋の空気が一瞬で冷たくなる。
 母はベッドのネルを一瞥し、腕の中の赤ん坊に視線を落とした。
 「……目も髪も、黒いのね」
 そして、まるで興味を失ったかのように肩をすくめる。
 「お大事に」

 それだけ言うと踵を返し、ドアが静かに閉まった。
 沈黙が落ちる。

 ネルは唖然として言葉を失い、ルシアンはただその背中を見送った。
 しばらくして、ルシアンが低く呟く。
 「この子は、絶対に幸せにする」
 その声には怒りでも悲しみでもなく、祈りのような決意がこもっていた。

 ネルは彼を見上げ、何も言わず、ただエヴァを抱きしめた。
 赤ん坊の小さな指が、ネルの服の端をぎゅっとつかんで離さなかった。

**

 ネルの病室をあとにしたヘンリエッタは白い廊下を、ヒールの音を響かせながら進んでいた。
 受付のスタッフが慌てて後を追いかけてくる。「お待ちください、お母様、次からは面会の手続きを踏んでいただいて——」
 「結構です。もう必要ありません」と短く言い捨て、彼女は足を止めない。

 ちょうどその時、反対側からサマンサが小走りにやってきた。
 一つひとつ順番に病室のドアのプレートを見て息を整えながら、何かを確かめるように胸元を押さえる。
 ヘンリエッタは一瞬立ち止まり、彼女を値踏みするように見た。

 東洋系の顔立ち、Tシャツにデニムという簡素な装い。
 その視線は露骨な軽蔑ではない。ただ——上流階級の人間が、博物館の展示物でも眺めるような、
 「自分とは別世界の存在」に向ける淡い興味と距離感を帯びていた。

 サマンサは、その視線の意味をすぐに悟った。こういう目には、何度も会ってきた。胸の奥にわずかな痛みが走ったが、顔には出さない。ただ軽く会釈し、ヘンリエッタの横をすれ違う。

 すれ違いざま、かすかに漂う香水の匂いが残る。
 彼女が去っていく背中を、サマンサは一瞬だけ見送った。
 多分、ネルの母だ、と彼女は察する。
 胸の奥が少しだけ重くなる。だが、病室にいるであろう友人の顔を思い出すと、迷いは消えた。
 ——いまは、ネルのところへ行かなきゃ。




しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語

jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
 中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ  ★作品はマリーの語り、一人称で進行します。

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

処理中です...