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Chapter II Side Nell & Lucien Family Tide
Side Nell & Lucien Family Tide VI 境界の子
しおりを挟む白い砂丘を模したセット。逆光の中、黒髪の中性的な青年が薄布をまとい、カメラに向かってゆっくりと歩み寄る。
ルシアンの肌は照明を受けて青白く光り、唇の赤がひどく際立っていた。男か女か、見る者の感覚を惑わせる完璧な造形。
「カット!……いいね、ルシアン、その表情、まるで罪の化身だ」
監督がモニター越しに呟く。スタッフたちはざわめきながらも拍手を送った。
その背後で、照明助手が小声で言う。
「信じられるか? あれで父親だってさ」
「嘘だろ。相手は?」
「あのネイサニエル・フィッツロイだ。妊娠してるらしい」
「えっ、マジかよ……フィッツロイって以前モデルだった……」
「そうだ。元々は『エレン』・フィッツロイだ。モデル業を休止してからずっと男として生活してるらしい」
「うわぁ……『そういう』カップルなのか。子供はどう育つんだろうな」
笑いをこらえるような囁き声が重なる中、ルシアンはそんな陰口など気にも止めない。
彼の視線はカメラの奥、見えない誰かに向けられていた。
身体の奥に、唐突に走る痛み——まるで腹の底を掴まれたような、灼けるような熱。
「……っ」
脚がふらつく。
モニター前で撮影の様子を伺っていたヴァネッサが立ち上がった。
「ルシアン? どうしたの」
ルシアンは両腕で腹を抱え、息を荒げる。視界が白く滲み、遠くで誰かの叫びが聞こえた気がした。
「……これは……俺の痛みじゃない」
「え? 何言ってるの、座って——」
「ネルの痛みだ……!」
照明が落ち、スタッフがざわつく。監督が何事か叫ぶ声。
ルシアンの意識は、白い砂のように崩れていった。
**
夕方のカリフォルニア、オレンジ色の夕焼けが空を染める。
ネルを病院に連れてきたサマンサは、受付で「ご家族の方ですか?」と問われ、詰まった。
「……友人です。でも、誰もいないので私が——」
「すみません、患者さんのプライバシー保護のため、陣痛室には近親者のみになります」
丁寧だが事務的な笑顔に押し返され、サマンサは結局、待合室のソファに座るしかなかった。
壁の時計がやけに遅く進む。
サマンサは膝を抱えて、何度もスマホを見ては画面を消し、立ち上がってはまた座る。
看護師が通るたびに反応して、「あの、フィッツロイさんは——」と訊ね、
「まだです」と返されて、しょんぼりと縮こまる。
周囲の妊婦の家族たちは落ち着いた様子で、紙コップのコーヒーを飲みながら談笑している。
その中でひとり、サマンサだけが「遠足前夜の子供の顔」でソワソワしていた。
周りが赤ん坊の名前を話し合っている中で、サマンサだけがひとり、手のひらに爪を立てているのだ。自分は何をしているんだろう——友人の出産を待つなんて。家族でも、恋人でもない。けれど、彼を一人で戦わせるのは間違っている気がした。その理由は、まだ自分でも言葉にできないままだった。
**
ネルはすでにベッドに横たえられ、酸素チューブ越しに荒く息をしていた。
眉間に刻まれた皺が、いつもの冷静な彼からは想像できないほど深い。
看護師が声をかける。「フィッツロイさん、もうすぐご家族が来ますからね」
その直後、クラリッサ、エリザベス、キャロラインが駆け込んでくる。
「ネル!」
「ネル姉様、しっかりして!」
クラリッサが手を握ると、ネルはうっすらと目を開けた。
「……クラリッサ、来たのか」
「当たり前でしょう。来ないわけがないわ!」
「……相変わらずだね」
ネルがかすかに笑うと、クラリッサは唇を噛み、泣きそうな目でその手を握り締めた。
痛みの波がひとつ引いた瞬間、ネルは一瞬だけ彼女の瞳を見た。あの頃、彼女に見せたかった自分は——こんな姿ではなかった。それでもクラリッサは、昔と同じ目で自分を見ている。それが、痛みよりも苦しかった。
モニターの心拍音がリズムを速めていく。
ネルの腹部が波打ち、痛みの波が押し寄せるたび、身体が弓のように反った。
クラリッサがネルの背中を摩る。「ネル、呼吸よ。息を吐いて、吸って」
エリザベスとキャロラインは震える手でタオルを絞り、額の汗を拭う。
**
その頃、同じ病院の別棟の救急外来では、ルシアンがベッドに倒れ込んでいた。
胸に心電図の電極、腕には点滴。だがモニターはすべて正常を示している。
「痛い……っ……冗談だろ、勘弁してくれ……俺に子宮はない……!」
腹を押さえ、苦悶の表情で呻くルシアンの額を、ヴァネッサが濡れタオルで拭った。
「落ち着いて、ルシアン。呼吸を整えて」
「……痛みが……腹の中で……波打ってる。これ全部ネルの痛みだ……」
医師が顔を見合わせ、声を潜めて言う。
「検査では異常なし。幻肢痛に似た症状ですね……」
「痛み止めは?」
「処方しても意味はないかと。心理的な連動によるものです」
ヴァネッサは息をついた。分かっていた。この痛みは、薬でも医療でもどうにもならない。それでも、放っておけなかった。
「ネルも、きっと同じように戦ってる。だから、あなたも耐えなさい」
ルシアンは血走った目でヴァネッサを見上げ、かすれた声で笑った。
「……ヴァネッサ、あんたは鬼だ……」
「そうよ。私も母親だからね」
外ではサイレンが遠ざかり、夜の闇がブラインドの向こうに広がっていた。
**
夜更けの病院に、赤ん坊の産声が響いた。
サマンサは立ち上がり、思わず胸に手を当てた。長い長い数時間だった。
誰かが「おめでとうございます」と言い、ほっとしたような笑い声が遠くから聞こえる。
**
麻酔が効きづらかったのか、ネルは最後まで苦しみながらエヴァを産んだ。
痛みが波のように押し寄せるたび、ネルは歯を食いしばる。
——そのたびに、胸の奥にもう一つの痛みが走る。自分のものではない、誰かの苦しみ。
「……ルシアン?」
思わず口の中でつぶやく。声にならない呼びかけが、どこか遠くで応えるように響いた気がした。
産後しばらくしても、指先が震えて止まらなかった。
看護師が「お母さん、よく頑張りましたよ」と声をかけると、ネルは一瞬だけ目を閉じた。
「母」という言葉が胸の奥にひっかかる。それでも、腕の中の赤ん坊の体温は確かだった。
痛みがようやく引いたとき、ネルは腕の中の赤ん坊を見下ろした。
エヴァはかすかに息を吸い、ぎゅっと目をつむる。その仕草があまりに人間らしくて、ネルは思わず微笑んだ。
――この子は、僕の分身なんだ。
だが同時に、心のどこかで感じていた。あの痛みの中で、確かに彼が自分の中にいた、と。
互いの境界が曖昧になるほどの痛みと、命の誕生。
それは祝福であると同時に、呪いのようにも感じられた。
**
その頃、ルシアンは隣の病棟で、ようやく痛みから解放されていた。
額には汗、頬はこけて、目の下にはくっきりと隈。
ヴァネッサが「まるで産んだのはあなたみたいね」と呆れながら言うと、
ルシアンはふらつきながら笑った。「……たぶん、半分はな」
外では雨が降っていた。
雨音が窓を叩くたびに、室内の静けさがより際立つ。
ネルはベッドの上で穏やかに眠っていた。腕の中の赤子――エヴァ――も、ようやく短い呼吸を整え、かすかに口を開けて夢の底に沈んでいる。
ルシアンはただ呆然と、虚空を見つめていた。顔色は青ざめ、唇の端がわずかに震えている。ネルの痛みが、どこか身体の奥底にまだ残っているのだ。
あの瞬間、彼は確かに感じた――ネルの苦しみを。
皮膚を裂くような痛みと、喉の奥でちぎれる悲鳴。
だが不思議なことに、いま胸の奥に残っているのは、痛みよりも――温かさだった。
「……終わったのね」
ヴァネッサが小さく息をつく。
手早く使い終えた器具を片づけ、静かにスマートフォンを取り出す。画面が淡く光り、着信が鳴った。
“Lucas”
ヴァネッサは受話器を耳にあてた。
「ええ、もう大丈夫よ。ふたりとも無事」
その声は、疲労と安堵と、わずかな涙に濡れていた。
「……神に感謝を」
受話器の向こうから、低く穏やかな声が返る。
少しの沈黙。やがてルーカスが静かに言った。
「ヴァネッサ……君がノーラを産んだ夜を、ふと思い出していたよ」
「ノーラを?」
「そう。あのとき、君が苦しむ声を聞きながら、何もできなかった。祈ることしか。
でも今回、二人のことを聞いて思ったんだ――僕も、もしあのとき、君の痛みを少しでも分けてもらえたらと。その痛みを、君と一緒に背負えたらって」
ヴァネッサは目を伏せ、無言で微笑んだ。その瞳の奥に、かつての夜が淡くよみがえる。灯りの落ちた病室、流れる汗、そしてルーカスの手が自分の髪を撫でていた記憶。
「ルーカス……」
彼女は小さく囁いた。
「あなたはもう、あの夜も、今も――私と同じ痛みを感じてくれているわ。祈ることで、見つめることで。あなたのやり方で」
電話の向こうで、ルーカスが短く息をつく音がした。
「……ありがとう。神の御心のままに」
「ええ。そうね」
ヴァネッサは電話を切り、しばらくスマートフォンを見つめた。画面が暗転し、彼女の顔だけが淡い光の中に浮かぶ。ぐったりと寝台に横たわるルシアンを見やりながら、彼女は胸の中で静かに呟いた。
「――神よ。これは、あなたの奇跡ですか。それとも、罰でしょうか」
答える者は、いなかった。ただ、雨の音だけが長く、夜の帳を叩いていた。
「ネル……」
点滴のチューブを外し、ルシアンがよろよろと病室を出る。ヴァネッサが「こら、まだ歩くんじゃない」と制したが、もう聞いていなかった。
**
病室の明かりは落とされ、静けさが戻っていた。
ネルの隣に立ったルシアンは、ベッドの上の小さな包みを見下ろす。
「……こいつか。俺に地獄みたいな痛みをくれたのは」
ネルがかすかに笑う。
「仕返しできないよ。まだ生まれたばかりなんだから」
互いに顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。
けれど心の奥では、まだ痛みの余韻が微かに共鳴していた。——まるでお互いの神経が、一本の糸でつながっているかのように。
ルシアンは無言のまま、エヴァの小さな手を指で包んだ。
その瞬間、涙が頬を伝う。幼くして親を亡くしたルシアンにとってエヴァは、この世で唯一の血縁だった。
「……こんなに小さいのに、もう生きようとしてる。……こいつ、俺たちの子なんだな」
ネルは黙って頷いた。けれどその瞳の奥には、安堵と同時に、どうしても拭えない影があった。
彼にとってこの子は「娘」で、自分にとっても「娘」だ。しかし、「娘」にとって自分は――。
言葉にできず、ネルはただ静かにエヴァを見つめ続けた。
**
そこへ、ドアがノックもなく開いた。受付のスタッフが慌てて後から追いかけてくる。
「お母様、面会時間は——」
「結構です」と押し切って入ってきたのはヘンリエッタだった。
高いヒールの音が床を打ち、部屋の空気が一瞬で冷たくなる。
母はベッドのネルを一瞥し、腕の中の赤ん坊に視線を落とした。
「……目も髪も、黒いのね」
そして、まるで興味を失ったかのように肩をすくめる。
「お大事に」
それだけ言うと踵を返し、ドアが静かに閉まった。
沈黙が落ちる。
ネルは唖然として言葉を失い、ルシアンはただその背中を見送った。
しばらくして、ルシアンが低く呟く。
「この子は、絶対に幸せにする」
その声には怒りでも悲しみでもなく、祈りのような決意がこもっていた。
ネルは彼を見上げ、何も言わず、ただエヴァを抱きしめた。
赤ん坊の小さな指が、ネルの服の端をぎゅっとつかんで離さなかった。
**
ネルの病室をあとにしたヘンリエッタは白い廊下を、ヒールの音を響かせながら進んでいた。
受付のスタッフが慌てて後を追いかけてくる。「お待ちください、お母様、次からは面会の手続きを踏んでいただいて——」
「結構です。もう必要ありません」と短く言い捨て、彼女は足を止めない。
ちょうどその時、反対側からサマンサが小走りにやってきた。
一つひとつ順番に病室のドアのプレートを見て息を整えながら、何かを確かめるように胸元を押さえる。
ヘンリエッタは一瞬立ち止まり、彼女を値踏みするように見た。
東洋系の顔立ち、Tシャツにデニムという簡素な装い。
その視線は露骨な軽蔑ではない。ただ——上流階級の人間が、博物館の展示物でも眺めるような、
「自分とは別世界の存在」に向ける淡い興味と距離感を帯びていた。
サマンサは、その視線の意味をすぐに悟った。こういう目には、何度も会ってきた。胸の奥にわずかな痛みが走ったが、顔には出さない。ただ軽く会釈し、ヘンリエッタの横をすれ違う。
すれ違いざま、かすかに漂う香水の匂いが残る。
彼女が去っていく背中を、サマンサは一瞬だけ見送った。
多分、ネルの母だ、と彼女は察する。
胸の奥が少しだけ重くなる。だが、病室にいるであろう友人の顔を思い出すと、迷いは消えた。
——いまは、ネルのところへ行かなきゃ。
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