夜の帳が降りるとき

泉 沙羅

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Chapter II Side Nell & Lucien Family Tide

Side Nell & Lucien Family Tide VII 公の裁き

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 煌びやかな夜景が窓から見渡せるリビング。
 ルシアンは配信用のマイクをセットし、ネルはその隣で紅茶をいれていた。
 コメント欄には「今日も素敵なふたり!」「ネルくんの声落ち着く~」と和やかなメッセージが流れる。
 ルシアンは軽く笑って返す。
 
「ありがとな。ネル、なんか一言」

「え、僕?……えっと、こんにちは」

 柔らかい声に、コメント欄が再びハートと拍手で埋まった。ほんの一瞬、世界が優しく包まれているように見えた。
 だが、どこからともなくノイズが混ざり始める。

「子供は誰の腹から出たの?」
「子供がお前らみたいな変態にならないことを祈るよ」
「俺が子供だったらグレるわw」
「子供が気の毒」

 最初、ルシアンは苦笑して無視した。ネルも画面を見ないふりをしていた。
 けれど、心無いコメントの数は増えていく。罵倒と嘲笑が、ガラス越しに冷たく打ちつけられる。

「……なんなん、お前ら」
 ルシアンの声が低くなった。
 視聴者のひとりが煽るように返す。

「図星か?」「お前らが何をして子供作ったか、本人に説明できんの?」「親失格」

「お前らに何がわかる!」
 とうとうルシアンが叫んだ。
 その瞬間、コメント欄は一気に火を噴いた。ファンがアンチに反論し、罵倒の応酬が始まる。
 流れる文字はもはや言葉ではなく、凶器だった。

「ルシアン、やめて、もう……!」
 ネルが慌ててマイクをオフにしようとする。しかし、ルシアンは泣き出しそうな顔で首を振る。

「だって、エヴァまで……!あいつら、エヴァまで……!」

「わかってる。――すみません、今日はここで終わります! すみません!」
 ネルはタブレットを掴み、震える指で配信を切った。最後の映像は、焦りと不安に満ちたネルの顔だった。

 静寂。
 リビングの時計の音が、やけに大きく響いた。
 配信を切ったあと、ルシアンは両手で顔を覆い、しばらく何も言わなかった。
 スクリーンの向こうには、もう誰もいないのに、まだ言葉の残響が漂っているようだった。

「……ごめん、ネル。俺、また……」
「いいんだ」
 ネルはルシアンを抱きしめた。彼の胸の奥に残る震えを、自分の体温で包み込むように。

「……俺たち、間違ってるのかな」
 呟くように言うルシアンに、ネルは小さく首を振った。
「間違ってなんかない。ただ、世界が追いついてないだけだよ」
 ルシアンはその言葉を聞いても、すぐには顔を上げなかった。だが、ネルの手がそっと肩に触れると、かすかに息をついた。
 部屋の隅では、ベビーベッドの中のエヴァが小さく寝返りを打った。
 その柔らかな音だけが、現実に引き戻す。ネルはルシアンの頭を抱き寄せ、低く囁いた

「大丈夫。僕らでエヴァを幸せにするって、言ったじゃないか」

 その声は、か細いながらも確かな光を帯びていた。ルシアンはただ頷き、ネルの肩に顔を埋める。
 外では、まだ誰かが騒いでいるのだろう。
 けれどこの部屋の中には、ふたりと、守るべき小さな命の気配だけがあった。

**

 夜の2時。
 ネルが目を覚ますと、ルシアンの姿がなかった。寝室の扉の向こうから、かすかな子守唄が聞こえる。

 音のする方へ歩くと、リビングの灯がひとつだけ点いていた。
 ルシアンがソファに腰かけ、エヴァを抱いていた。
 裸足のまま、髪はほどけていて、眠っている赤ん坊を指先で撫でている。
 その仕草があまりに繊細で、ネルは声をかけるのをためらった。

 「……起こした?」
 気づかれた。ルシアンは振り向かずに、静かに言った。

 「いや、たまたま目が覚めただけ」
 ネルがそう言って、2人に歩み寄る。
 ルシアンは薄い笑みを浮かべながら、エヴァの頬をなぞっていた。
 その指先には、まるで壊れものを扱う人形師のような集中があった。

 「なあ、ネル。やっぱりお前に似てるよな、この子」
 「そうか? 目も髪も真っ黒で、顔立ちも君そっくりじゃないか」
 「……目の光り方。泣く前の顔。——全部、お前と同じ」
 「……それはいいことなのか?」
 「うん。だから可愛い。けど、それだけじゃない」

 ルシアンはエヴァを胸に寄せ、耳元で囁いた。
 「この子を見てると、俺は自分の欠けたところが埋まる気がする。俺は自分を愛せないけど……お前の一部なら愛せる。だから、お前とこの子は俺の生きてる証拠なんだよ」

 ネルは黙って立ち尽くした。愛の言葉なのに、どこか歪だ。それを口にしている本人も、どこか苦しそうだった。

 「……ルシアン」
 「なに?」
 「その子は僕じゃない」
 「わかってる。でも、俺の中では違うの。お前とこの子のあいだに、俺が溶けていける気がする」

 ルシアンはそう言って、エヴァを抱いたまま微笑んだ。その目はやさしいのに、どこか壊れそうだった。

 ネルは小さく息をつき、そっと隣に腰を下ろした。
 ルシアンの肩に自分の肩を寄せ、二人の間で眠る子を見下ろす。

 「……君ってさ、ほんとにめんどくさい」
 「知ってる。お前を好きになるくらい、めんどくさいんだ」

 ルシアンが笑う。その笑顔は夜よりも脆く、美しかった。外では雨が降り始めていた。その音が、三人だけの世界を包み込む。


**


 嵐のような配信から、一晩が明けた。
 ネルは眠れぬまま、リビングのカーテン越しに淡い光を見つめていた。
 隣のベビーベッドでは、エヴァが静かに寝息を立てている。小さな胸が上下するたびに、ネルの胸の奥がほのかに痛んだ。
 ——この子を、守り抜かなくては。

 チャイムが鳴った。
 ドアを開けると、サマンサが立っていた。片手にPCバッグ、もう片方に小さな紙袋。

「おはよう、ネル。差し入れ。マフィン焼いてきたの。一緒に卒論やろうと思って」
 彼女はいつものように笑う。サマンサも昨日の配信を見ていたはずなのに。
「ありがとう……サマンサ。入って」

 ルシアンは仕事で外出していた。部屋には穏やかな音楽と、淹れたての紅茶の香りだけが漂っている。
 エヴァが泣き出すと、サマンサは自然に抱き上げ、揺らしながら子守唄を口ずさんだ。
 エヴァはたちまち泣きやみ、サマンサの指を握った。

「上手だね……まるでお母さんみたいだ」
「親戚の子の面倒をよく見てたから」
 サマンサは笑いながら、ネルに視線を向けた。その笑顔に、一瞬ネルは救われた気がした。
 だが、胸の奥に昨夜の痛みが残っていた。

 卒論の資料を広げながら、サマンサはちらりとネルを見た。
 ペンを持つ手が、何度も止まっている。ネルは視線に気づき、「ごめん、集中できなくて」と微笑もうとしたが、その表情はどこかぎこちなかった。

「昨日のこと、気にしてるのね」
「……見てたの?」
「うん。途中まで。コメント欄がひどくて、胸が痛くなった」

 ネルは視線を落とした。ルシアンの泣き顔が脳裏にちらつく。

「……ねえ、サム」
「なに?」
「……僕がどういう人間か、知ってるよね」
「うん、知ってるわ」

 ネルは少し間を置いた。
「男を名乗って男の格好して男と同じように振舞っておいて、結局子どもを産んだ僕を……気持ち悪いと思わないのかい?」

 部屋に一瞬、沈黙が落ちた。
 サマンサは驚いたように瞬きをしたが、すぐに小さく息をつき、ネルの目を見つめた。

「……ネル。私ね、子どものころ、よく言われたの。
 『日本人の顔をしてるくせに、英語話してカナダ人同然に振る舞うなんて気取ってるし図々しい』『日本人なら日本に帰って日本語話してろ』って。
 カナダ生まれなのに、『どこ出身?』って、何度も聞かれたわ。カナダにも日本にも居場所がなかった」

 ネルは息をのんだ。サマンサの声は静かだったが、確かな痛みがあった。

「あなたを否定したら、私も自分自身を否定することになる。私はあなたを、男とか白人とかイングランド人とかではなくて、ただ『ネル』として見てる。あなたの言葉はいつも真っ直ぐだから尊敬してるの」

 ネルは何も言えなかった。
 目の前のサマンサの瞳は、優しさと同じくらいの強さを帯びていた。
 その瞬間、ネルの中で何かがほどけていくのを感じた。

「……ありがとう」
「お礼なんていらないわ。あなたも、エヴァも、私の大事な人だから」

 ネルは小さく頷いた。そして、静かに言った。

「サマンサ。僕ね……お願いがある。少し迷っていたけれど、今なら言える気がするんだ」
「……なに?」
「……エヴァのナニーになってくれないか? 正式に、君を雇いたい。君も、今までのバイトよりは稼げると思う」

 サマンサの目が見開かれた。
 驚きと喜びが混ざり合った表情で、彼女はエヴァを抱き直した。

「いいの?私なんかで」
「君だからいいんだよ。僕ら、支え合えると思うから」

 エヴァが小さくあくびをした。その仕草にふたりは思わず笑った。昨日までのざらついた世界が、少しだけ優しく見えた。




 
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