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Chapter II Side Nell & Lucien Family Tide
Side Nell & Lucien Family Tide IV 闇に祈る人
しおりを挟む夜のフィッツロイ邸。磨き上げられた大理石の玄関ホールに、異質な気配が漂った。
黒いシャツの胸元を大きく開け、鎖骨に光る銀のアクセサリー。艶やかな香水の匂いが、重厚な屋敷の空気に甘く溶け込む。
ルシアン・モローが姿を現した瞬間、ホールに居合わせた使用人たちの背筋がぴくりと硬直する。
視線を逸らし、銀盆を持つ手をわざと忙しげに動かす者。影に隠れて舌打ちする者。
小声がひそりと走った。
――あの方が、坊ちゃんの……。
しかし、老執事アシュトンは微動だにしなかった。白髪を後ろへ撫でつけ、凛とした姿勢のまま歩み寄る。
「……ご機嫌麗しゅう。ご用件は既にネイサニエル様から伺っております」
声は揺るがず礼節を守っている。だがその響きには、わずかに硬さが混じっていた。
続いて現れたのはメイド長オリビア。漆黒の制服に身を包み、冷静に一礼する。
「お足元にお気をつけくださいませ」
その口調もまた完璧だった。だが完璧であるがゆえに、心からの歓迎ではないことが透けて見える。
彼女にとって、ルシアンは公爵家の格式を乱す存在にほかならなかった。
そこへ、気まずげな足取りでエドワードが現れる。
「ルシアンくん、よく来たね」
口元を引きつらせながらも笑顔を作り、「ネルが待ってるよ」と声を掛ける。
彼自身に偏見はない。だが、この場の冷え切った空気を痛いほどに感じ取り、自然な態度を取ることができないのだ。
その重苦しい空気を、弾ける声が破った。
「――まあ!坊ちゃんのパートナーの方ですね!」
ぱたぱたと小走りでやって来たのは、若いメイドのルビーである。赤みを帯びた髪が揺れ、にこやかな笑みがホールを明るく照らした。
「ようこそいらっしゃいました!どうぞこちらへ! 坊ちゃんがお待ちです!」
無邪気な歓迎に、ルシアンの唇がわずかに緩む。
二人は並んで廊下の奥へと消えていった。
エドワードも気まずげに苦笑を残し、自室へと立ち去る。
残されたのは、中立派と排除派の使用人たち。
数秒の沈黙ののち、誰かが小声で吐き捨てる。
「……なによ、あの生き物。人の形をしていながらおぞましいわ」
「フィッツロイ家の敷居を跨ぐなんて、穢れそのものよ」
「エレン様もすっかりアレよ、『逆さの王子様』ってやつね」
「『赤い皇女様』とも言うわね」
くすくすと忍び笑いが広がる。
「ネイサニエル様たちのことをそんな風に言うんじゃないよ」
ここで口を挟んだのは洗濯場担当の女中だった。
「あの人も、ネイサニエル様にとっては必要な方なんだ」
だが、メイドたちは鼻で笑う。
「なにそれ、擁護のつもり?」
女中は目を細めてしばし黙り、腕に着いていた石鹸の泡を拭った。
「あんたら愛したことないだろ?」
「鬱陶しいわね。あなたそうやってしゃしゃり出てくるからヘンリエッタ様やミリセント様に『洗濯場の臭いを持ち込むな』って言われるのよ」
その瞬間――氷のような声が響いた。
「――口を慎みなさい」
メイド長オリビアだった。背筋をぴんと伸ばし、冷たい視線を鋭く走らせる。
「ここは公爵家。あなたたちの下世話な噂話をする場ではありません」
空気が一気に凍りつく。ルシアン排除派の女中たちは顔を伏せ、ひそひそ声もぴたりと止んだ。
アシュトンは無言で頷き、オリビアの言葉を後押しする。洗濯場担当の女中は顔を伏せたまま、小さく口の端を吊り上げた。
重苦しい沈黙ののち、使用人たちは散り散りに作業へ戻っていった。
**
ルビーに案内され、ルシアンはフィッツロイ邸の奥へと足を踏み入れた。
廊下は異様に長く、空気が冷たい。重厚な絨毯を踏むたび、微かに埃の匂いが立ち上る。
両側の壁には無数の肖像画が並び、どれもがこちらを見つめているようだった。
額縁の隙間には埃が舞い、石膏の彫刻は薄暗がりの中で人影のように浮かび上がる。
ルシアンは思わず肩をすくめる。
「……なんだこの屋敷。映画のホラーセットかよ」
その言葉に、ルビーは振り返って笑った。
「築150年ですからね。まあ『古き良き』ってやつですよ」
そう言いながら、彼女は持っていた真鍮のランタンに火を灯した。彼女の笑みは明るいが、どこか諦めの影を含んでいた。
薄い炎がぱちりと跳ね、橙の光が壁を揺らす。
「おいおい……今どきオイルランタン? フィッツロイって金持ちのくせに、LEDのひとつもないのか?」
ルシアンが呆れたように眉を上げる。
ルビーは楽しげに首を振った。
「奥様が工事を嫌がるんですよ。『文明の灯りは魂の安息を乱す』って」
「は? 中世の話かよ」
「……それに停電も多いんですよ。原因不明の」
「電気系統に霊障まであるのかよ。最悪だな」
軽口を交わしながらも、ルシアンの表情は次第に曇っていく。
――寒い。
屋敷に入ってからというもの、肌にまとわりつくような冷気が離れない。
そして時おり、誰かの視線を感じる。
廊下の奥、階段の影、古い肖像画の裏――どこかから、囁き声のようなものが聞こえた。
「見える者」には、分かる。
この屋敷には、あまりにも多くのものが棲みついている。
彼らはルシアンの存在を感じ取り、喜んでいるのか、あるいは怨んでいるのか――。
その一瞬、ランタンの炎がふっと揺らいだ。ルビーがちらりと彼を振り返り、目を細める。
「……ルシアン様、もしかして『見える』方ですか?」
ルシアンは眉をひそめた。
「『見える』って、何が?」
ルビーは意味ありげにランプの光を顔の下から当て、にやりと笑った。
「――この屋敷はね、昔から『そういった方』にはちょっと刺激が強いんですよ」
「はあ?」
「だってここ、元はネイサニエル坊っちゃまの高祖父に当たる方の様の別荘でしてね」
声を落とし、彼女は楽しそうに囁く。
「黒人の庭師の方が当時のご令嬢のお気に入りの薔薇を枯らしてしまい、折檻の末に亡くなったとか、白人のメイドの方が当時、次男坊…つまりネイサニエル坊ちゃまの曾祖父様の弟君に当たる方に乱暴されて証拠隠滅のために殺されたあげく……そのまま庭に埋められたとか……」
ランタンの光がまた揺れ、廊下の彫像が一瞬、歪んで見えた。
「見える使用人は三日と持ちません。気味が悪いって、すぐに辞めてしまうんです」
ルシアンは無言のまま立ち止まった。壁の奥から、かすかな嗚咽のような音がした。その声の主が何者かどうか、もう判断できない。
「……でも、奥様にそんな話をしても」
ルビーは肩をすくめ、やや芝居がかった声で言った。
「『うちにそんなたちの悪い霊なんかいるわけがない! フィッツロイの名誉を汚すようなこと言わないで!』――って、怒られてしまうんです」
にこりと笑うルビーの顔が、ランプの光に赤く照らされた。ルシアンは眉間に皺を寄せながら、ぼそりと呟く。
「……洒落にならねえな」
「――こちらです、ネル様のお部屋」
ルビーが最後のランタンを掲げ、扉のノブを軽く回した。中から、勉強机に向かっていたネルが顔を上げる。
ルシアンの姿を見た瞬間、彼の表情が一気にほどける。
「おい、ルシアン!」
小さく駆け寄るより早く、ルシアンの方が大股で距離を詰め、ためらいもなく彼を腕の中に引き寄せた。
「……会いたかった」
その声は低く、甘く、ひどく切実だった。
ネルは顔を真っ赤にして、慌てて彼の胸を押す。
「ちょ、ちょっと! ルビーが……!」
振り返ると、ルビーはすでに扉の前で手を振り、
「ではごゆっくり~~」
と陽気に笑って、するりと退室していった。
バタン、と扉が閉まる。残された二人の間に、しんとした沈黙。
ランタンの明かりが揺れ、影が壁を撫でる。
ルシアンはネルの髪に指を通しながら、低く息を吐いた。
「……やっぱり、ここ、落ち着かねえ」
「落ち着かないって?」
「……人間以外の気配が、多すぎる」
「何の話をしてるの?」
ネルは首をかしげた。
ルシアンの顔には、普段の軽薄な笑みが消えている。黒い瞳が窓の一点をじっと見つめていた。
「……あそこだ」
ルシアンが低くつぶやく。ネルの視線がその先を追うが、彼にはただの夜の窓しか見えない。
しかし、ルシアンの目には張りつくようにして覗き込む女の影がはっきり映っていた。
骨の浮き出た指が、ガラスを引っかきながら這う。
『その腹にいる子も呪ってやる……』
声にならない呻きが、ルシアンの頭の奥で直接響いた。
「……またかよ」
彼は舌打ちした。ルシアンの脳裏に、亡き母の声がよぎった。
〈恐れるな。影に飲まれたときは、火を掲げなさい〉
彼は胸元のペンダントを握りしめ、ゆっくりと息を吸った。
ネルは困惑したように眉を寄せる。
「ルシアン、どうした? 具合悪いのか?」
「いや。……おまえん家、マジで『住民』多すぎだ」
「……え?」
ネルがきょとんとする。その表情は本気で意味が分かっていないように見えた。
――見えねえのか。こんなに近くにいるのに。
ネルが何かを言おうとするより早く、ルシアンは胸元に下げていた母の形見のペンダントを握った。
銀の鎖が指のあいだから覗く。その先には、磨耗した小さな銀貨――裏に赤い糸が結ばれている。
彼はそれを唇に当て、低く、祈りのような呪文をつぶやいた。英語でもラテン語でもない。彼の母国語であるフランス語ですらなかった。どこか東欧の方言のような言葉。それはルシアンの母が子守唄のように唱えていた「護りの詩」だった。
ルシアンはペンダントを取り外し、窓の前に立った。そしてギラりと光る銀貨を窓の前に掲げる。
反対の手でズボンのポケットから小瓶を取り出す。中には灰と、黒い布片――母の遺髪を包んだ護符だ。
それを窓辺に置き、指先で空中に印を描く。十字でも、星でもない。円と線が交差する、ロマの呪除印。
窓に貼りついた女の顔が、ゆらりと歪んだ。
『そんなもので私を追い払えると思っているのか。この家を滅ぼすまで、ここを動かない』
ルシアンの手がわずかに震えた。
――だろうな。効く相手なら、とっくに消えてる。
窓辺のランタンの火がぱち、と音を立てた。
ルシアンはゆっくりとペンダントを胸元に戻すと、ネルの元へ戻り、彼の肩を抱き寄せた。
「……もういい。追い払うのは諦める」
「ルシアン?」
「俺がやるのはひとつだけだ。おまえと、子どもを守る」
ネルは不安げに彼の胸に顔を埋める。
その夜、屋敷は不気味なほど静まり返っていた。
廊下の奥にまで響いていたメイドたちの足音も止み、古い時計がひとつ、かちり、かちりと時を刻むだけ。
ネルの部屋には薄いランプの灯り。
カーテンの向こう、雨に濡れたガラスに黒い影が貼りついている。ルシアンにはそれがはっきり見えた。
骸骨のように痩せた女の霊が、変わらずガラスに額を押しつけながら、唇を動かし続けていた。
――その腹の子も呪ってやる。
ネルには見えない。聞こえない。何も知らないネルは微笑み、ルシアンの髪を撫でる。
「今夜は泊まっていくんだろう?……嬉しいよ」
ルシアンは黙って頷き、ネルの隣に横たわった。
ネルの少し膨らんだ腹を、そっと手のひらで包みこむ。温かい。生きている。それだけで、この屋敷のどんな呪いよりも確かな現実に思えた。
「なあ、ネル」
「うん?」
「この子、俺にそっくりな女の子になる」
「まだわからないだろ、それは……」
気だるげに笑うネル。けれどその笑いは、ルシアンの瞳の奥にある真剣さを見て、すぐに消えた。
「黒髪で、黒い目でさ……。それも俺よりずっと強い目、強い魂を持っている。」
ルシアンは言葉を選びながら続ける。
「見えてしまうものを、怖れずに見つめる子になる。
――この家に棲みついた影を、まっすぐ睨み返す子だ」
ネルは何のことか分からず、ただ静かに息を吸った。
その手がルシアンの頬に触れる。
「ねえ、ルシアン。僕、見えないけど……君がそう言うなら、きっとそうなるんだろうな」
ルシアンは目を閉じた。外では風が鳴き、ガラスの向こうで影が軋む。
「そう。――この子は、終わらせるために生まれてくる」
囁く声は祈りのようで、呪いのようでもあった。
ネルはその意味を知らぬまま、彼の胸に顔を埋め、静かに眠りに落ちていった。
ルシアンは目を閉じず、闇の中でガラス越しの女を見つめ続ける。
黒い影は何かを訴えかけるように蠢き、やがて霧のように消えた。
そのとき、ネルの腹の中で、かすかに命が動いた。
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