夜の帳が降りるとき

泉 沙羅

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Prologue Side Samantha

Side Samantha V この体ならあなたを抱けると思ったのに

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 朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。サマンサは目を覚ますと、ひそかに安堵する。静かだった。誰も何も、起きていなかった。夜の記憶は、現実とは思えないほど曖昧で――けれど確かに、身体の奥に残っていた。

 「サム、起きた?」

 ネルがひょっこり顔を出す。いつもの柔らかい声。だが、その優しさすら今のサマンサには痛かった。

 「……うん、起きてる。ありがとう。もう帰るね」

 そう言って荷物をまとめ始めると、ネルが慌てて言葉を継いだ。

 「ちょっと待って。せめて朝ごはんくらい食べていってよ。……すぐ作るから」

 サマンサは一瞬、迷った。帰りたかった。けれど、ネルの声にどこか無理をしているような響きがあって、結局断れなかった。ネルが冷蔵庫を覗き込む。

 「卵、切れてた。ごめん、買ってくる。すぐ戻るから、待ってて」

 ネルはそう言い残して、財布だけを持って出ていった。サマンサは、リビングの椅子にちょこんと座ったまま、玄関が閉まる音を聞いた。
 ――帰った方がよくないか? 今なら、何も言わずに。
 けれど身体が動く前に、背後から、微かに足音が近づいてくる。気づいたときにはもう遅かった。

 「サム」

 名前を呼ばれた瞬間、壁に押しつけられていた。背中が硬い面にぶつかる音が、やけに響いた。すぐ目の前に、ルシアンがいた。
 至近距離で見る「彼」は、昨夜の印象とまるで違って見えた。黒く艶のある長髪が肩を滑り、首筋にかかっている。黒曜石のような瞳は獣のように情熱的で、睫毛は濡れたように長く、瞬きのたびに視線を撫でてくる。真紅の唇は、まるで血で染められたかのように濃く、形が美しすぎて、どこか現実離れしていた。

 「……昨日、覗いたよね?」

 ルシアンの声は低く、甘やかで、耳の奥に落ちてくる。逃げ場のない距離。目を逸らすことしかできなかった。否定は無意味だった――昨夜、確かに目が合った。

 「……見てたよね。俺たちのこと」

 呼吸が浅くなる。体温が変に上がって、でも身体は冷たくなる。鼓動が喉に詰まる。
 ルシアンが唇の端を微かに吊り上げた。笑っていた。いや、見透かしていた。

 「俺さ、ネルに昔言ったんだ。『お前が女の子と付き合いだしたら、俺もその子を口説く』って」

 顔が、近づく。睫毛が触れるほどの距離。息が、混じる。

 「……なんのこと? 私とネルは、そんなじゃない」

 声が震えた。喉から絞り出したような言葉。ルシアンの唇が、サマンサの唇のすぐ手前まで降りてくる。まるで、呼吸ごと奪うように。彼の指が、そっとサマンサの顎を持ち上げた。
 そのとき――

 《この体なら、貴方を抱けると思ったのに……》

 声が聞こえた。女の声。甘く、苦く、どこか切ない響き。どこからともなく、けれど確かに――自分の頭の奥から聞こえた。
 誰? 誰の声……? いや、知ってる。知ってるのに、思い出せない。

 「おいっ、ルシアン!」

 声が跳ねた。玄関の扉が閉まる音と、同時だった。ネルがいた。買い物袋を片手に、驚きと怒りの混じった声で、ルシアンの肩を掴もうとしていた。
 ルシアンは舌打ちもせず、ただふっと微笑んで身を引く。

 「何を騒いでるの。ただの……挨拶じゃん?」

 そのまま踵を返し、黒髪を揺らしながら、廊下の奥の部屋へと消えていく。裸足の足音が、ゆっくりと遠ざかっていった。サマンサは、肩で息をしていた。ネルが駆け寄ってくる。

 「……ごめん、あいつ、昔からそうでさ。キス魔の抱きつき魔なんだよ。でも、まさか……サムにまで、とは思わなかった」

 その言い方が、ひどく情けなくて、申し訳なさそうで――でも、サマンサにはそれが少し痛かった。

 「……何もされてないよね?」

 サマンサは頷こうとしたが、喉が詰まって、声が出なかった。ようやく絞り出すように、か細く答えた。

 「ううん、大丈夫……」

 だけど、ネルの顔をまっすぐに見ることは、最後までできなかった。



 またいつもの稽古が始まり、短い昼休みになった。撮影機材の脇に腰を下ろして、サマンサは自分のサンドイッチにかぶりついた。
 隣に座るネルは、透明なタッパーを開けていた。中にはグレープフルーツ、プラム、ピクルス、そしてカットしたレモンがぎっしりと詰められている。

 (うわ……すっぱいのオンパレード)

 ネルは表情ひとつ変えず、それらを口に運んでいく。まるで水を飲むかのように、当たり前の仕草で。

 「……それ、全部、今日のお昼?」

 思わず尋ねてしまう。ネルは小さく頷いた。

 「最近、こういうのばっかり食べたくなるんだ。味覚、ちょっとおかしくなってるのかも」

 冗談めかして笑うけれど、手は止まらない。サマンサはふと、ある出来事を思い出していた。

 「ねえ、そういえば――高校のとき、クラスメイトに妊娠した子がいたんだけど」

 唐突な切り出しに、ネルが手を止めた。サマンサは気に留めないふりをして、話を続ける。

 「その子、急にすっぱいものばかり食べるようになってね。グレープフルーツとか、酢漬けとかバリバリ食べてて。最初はダイエットかと思ったんだけど、あとで『あ、そういうことか』って」

 静かだった。ネルはフォークを持ったまま、やや間を置いて、こちらを向いた。

 「……僕が、妊娠してるとでも?」

 トーンは淡々としていた。けれど、どこか、声の奥が揺れていた。

 「まさか、とは思ってる。でもさ。最近、倒れたりしてたし……」

 サマンサは一歩踏み込むつもりはなかった。ただ、ぽつりと呟いただけだった。でも、ネルの反応は、どこか過敏だった。

 「そんなわけないだろ。僕は……男だ」

 けれど、言い切ったその言葉に、自信はなかった。サマンサは、そこで初めて思い至った。「可能性」があるのだ、と。

 ルシアンのこと、夜のこと。あの、肌と肌を繋げるような行為を――ネルは拒んでいなかった。いや、むしろ望んでさえいたように思えた。

 そう思ったとき、喉の奥がひどく乾いた。稽古場の熱気とは別に、奇妙な沈黙がふたりの間に落ちた。


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