夜の帳が降りるとき

泉 沙羅

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Prologue Side Samantha

Side Samantha VI この命に名前を

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「検査薬の結果は……どうだったの?」

 数日後、昼下がりの大学の構内。稽古の合間にそう聞くと、ネルは目を伏せて首を振った。

「……曖昧だった。線が薄くて……でも、たぶん陽性に近い」

 声はひどくかすれていた。

「病院行こう?」

 サマンサがそう言うと、ネルは即座にかぶりを振った。

「ひとりで行くよ……大丈夫」

 けれど、数日後、サマンサのスマホが震えた。

《……一緒に来てくれないか》

 その文字は、とても静かで――でも助けを求める人の声だった。

***

 産婦人科の受付で、空気が変わったのがわかった。ネルは帽子を目深に被り、低い声で名前を告げたが、カルテと本人の容姿が一致しないらしい。受付の女性がちらちらと彼を見ている。背が高く、声も低く、明らかに“普通の女性患者”とは違って見えるのだ。

「……フィッツロイさん、こちらへ」

 ようやく案内された診察室。医師は初老の女性だった。カルテを一瞥し、ネルの目を見て問う。

「……妊娠の可能性があると?」

「……はい」

 超音波の準備が始まったとき、ネルの身体が目に見えて強張った。サマンサは黙って椅子に座り、その手をそっと膝の上で握りしめた。

「……これですね。胎嚢があります。既に16週を超えてます。5ヶ月目に入った頃でしょう。中絶は……おそらく法律上も、医学的にも、非常に難しい段階です」

 ネルは、口を開いたが、言葉にならなかった。肩が小さく震え、冷たい汗が首筋を伝っている。

「……そんな、馬鹿な……。悪阻もなかったし……お腹も、出てないし……」

「まれに、症状がほとんど出ない方もいます。あなたのように体格の良い方だと、胎児のスペースにも余裕があるのでしょう」

 ネルの指が震え出した。隣にいたサマンサが、黙ってそっと手を握った。ネルの手は、ひどく冷たかった。

***

 病院を出た帰り道。人通りの少ない並木道を歩きながら、ネルはぽつりと言った。

「僕は……母親になんて、なれない。……僕は、男だよ」

 その声には、抗えない現実への拒絶が滲んでいた。サマンサは言葉を返せなかった。ただ、黙って隣を歩いた。

***

 その夜。誰もいない部屋。灯りはついていなかった。ネルは鏡の前に立って、自分の腹に手を当てた。まだ目立たないその腹を睨みつけるように、ぽつりと呟く。

「ふざけるなよ……こんなの、僕の身体には、いらない……!」

 その言葉と同時に、お腹の中で何かが動いた。ごく僅かに、しかしはっきりと――「生きている」感触。ネルは、はっとして口を塞いだ。

 「……ごめん、ごめんね」

 震える手で、お腹をそっと撫でた。

***

 夜も更けた頃、ルシアンがリビングのソファでくつろいでいた。
    ネルがおずおずとそんな彼に近づく。後方のキッチンには「ルシアンに妊娠のことを言いたいけど、一人では不安だから着いてきて」と頼まれたサマンサがいた。
   ネルが小さく口を開く。

「……ルシアン」

 ルシアンが振り返る。ネルは顔を伏せたまま、蚊の鳴くような声で言う。

「ごめん……僕、……妊娠してるって」

 ルシアンは一瞬、ぽかんとした。

「は? 誰の子?」

 その瞬間、キッチンにいたサマンサがバンと机を叩いて怒鳴った。

「あなたしかいないでしょ!!」

 ルシアンは肩をびくっとさせたが、すぐに表情を曇らせ、ぽつりと呟いた。

 「……ああ、そっか。俺……『そう』だったんだっけ」

 その声には戸惑いと、微かな自己嫌悪が混じっていた。長い睫毛が伏せられ、黒曜石のような瞳が一瞬遠くを見る。

 
    ルシアンは小さく笑ったが、その笑みはどこか苦かった。
「普段はさ、自分が『どうできてるか』なんて、なるべく考えないようにしてんだよ。……ネルといると、特に」


 
「ごめん。……ただ、驚いただけだったんだ。いやでも……俺、どうしたらいいの? パパになるのか? それともママ?」

 冗談めかして笑うその姿に、ネルは少しだけ気が緩んだ。

「……産んでいいの?」

 怯えた声だった。目は揺れている。ルシアンはふと真顔になり、少し間を置いて――でもいつもの調子で言った。

「そりゃそうでしょ。……ネルが、俺の子を産むって、最高にエロいじゃん」

 呆れたように、でも微かに笑ったサマンサの顔を見て、ネルも、ほんの少しだけ笑った。


***


 診察室の照明は、どこまでも白かった。壁も天井も椅子も、何もかもが無機質な白に包まれていて、ネルは寝台に横たわっていた。隣にはサマンサ。手は握っていない。けれど、彼女の気配は、体温のようにすぐそばにあった。


 「じゃあ、超音波、見ていきましょうね」


 医師がそう言って機械のスイッチを入れると、ディスプレイにぼんやりと、まるくて小さな影が浮かび上がった。ノイズの中で、その小さな命が、確かに動いている。
 ネルは目を見開いた。液晶の中で、微かに手が動いた。足も動いている。想像よりもはるかに「人間らしい」。もう、ただの細胞の塊ではない。

 「順調に育ってますね。……あ、性別、知りたいですか?」

 ネルは一瞬だけ戸惑って、それから頷いた。医師は画面を少しズラし、画像の角度を調整しながら言った。

 「……女の子、ですね。きれいな子になりそうですよ」

 その瞬間、なぜか、サマンサの方が先に涙ぐんだ。
 ネルはただ黙って、画面を見つめ続けた。そこに映っているのは、自分の身体の中にいる「誰か」。まだ名前も持たない、けれど、確かに自分の分身である命。

 「女の子……」

 それだけで、胸が詰まるような気がした。いくつもいくつも、言葉にできない感情が胸の奥に溜まっていく。身体が重い。心が騒がしい。でも、どこか、温かかった。
 診察が終わったあと、2人は病院の敷地を出て、静かな公園のベンチに腰を下ろしていた。風が吹いて、木の葉がこすれあう音がする。ネルはぼんやりと、空を見上げる。

 「……名前、まだ考えてないんだ」

 ぽつりと呟いたネルに、サマンサは少しだけ顔を傾けた。

 「そっか」
 「何か、いい名前、あるかな。……女の子の名前って、正直ピンとこなくてさ。僕は……そういう感覚、たぶん他の人よりちょっと遠いんだと思う」

 それは、自分のことを「親」として想像できないということでもあった。自分の性別も、自分の体も、未だに違和感の塊でできている。けれど、我が子は確かにいる――それだけは、否定できない。
 沈黙が流れた。やがて、サマンサが静かに口を開いた。

 「……『エヴァ』って、どう?」

 その名を口にした瞬間、微かな息づかいが広がるような気がした。


 「旧約聖書の、イブから来てるの。『生命』『息』って意味。……この子に、ぴったりだと思う。この子がいるだけでまた朝が来る気がするわ」


 「また朝が来る」――その言葉が、ネルの胸に、そっと染み込んだ。

 「……いい名前だね」
 「でしょ」
 「サマンサが名付け親だね」

 そう言った瞬間、サマンサの目にまた涙が浮かんだ。風がそっと彼女の髪を揺らす。
 しばらく、2人は並んで座っていた。どちらも何も言わなかった。けれど、それでよかった。言葉よりも、いまはこの静けさが何よりの答えだった。
 やがて、遠くで子どもの笑い声がした。誰かがボールを追いかけて走っていく。ネルは目を細めて、それを見つめた。

――この世界に、もうすぐ、この子がやってくる

 その事実はまだ怖かった。戸惑いだって消えていない。でも、もう完全に否定することはできなかった。

 エヴァ――

 その名が、胸の奥に灯る。


Side Nell & Lucien へ続く

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