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連載
270.
しおりを挟む エトワが去ったアリエル侯爵家の屋敷。その一室にスリゼルはいた。
エトワが屋敷にいた間は、誰も中に入っていくことのなかった部屋だ。スリゼルの母親の部屋。
アリエル侯爵家の屋敷の中でも特に薄暗いその場所では、ベッドの上で一人の女がいた。
風の派閥の中でも珍しい緑色の髪、長年陽の光をろくに浴びてないのだろうと感じさせる青白い肌、しかし何よりも特徴的なのはスリゼルから見えないようにしている顔の右半分だった。その女性の顔の右半分は、黒い毛皮でびっしりと覆われていた。
それだけではない。よく見ると、右目だけがカーテンから漏れる隙間の明かりに金色に輝き、緑の髪の間からはツノのようものがのぞいている。
明らかに人間ではないモノの特徴をその女性は有していた。
しかし、その姿を見ても、スリゼルに動揺する気配はない。
それも当たり前だった。
スリゼルにとって、それは見慣れた母の姿だったからだ。
「ダリアの娘は帰ったの?」
「はい、ついさきほど」
スリゼルは見ていたのだ、エトワが飛行船で旅立つのを。
見送りにはこなかったくせに。
スリゼルの母はそれを聞いて、エトワをバカにするように嗤った。
「みじめな娘だったわ。せっかく最も高貴なシルフィール公爵家の血筋に生まれたのに、魔力のかけらすら持たずに生まれてくるなんて。あの女にはお似合いの娘ね。きっと私を嵌めた天罰が下ったんだわ」
「はい、その通りです」
スリゼルの母親の名前はエレメンタ、ザルフィード家のエレメンタ、エトワの母ダリアの学生時代に、ダリアがエトワの父クロスウェルに近づくのを妨害しようとして、逆に嵌められて、クロスウェルから嫌われてしまった少女だった。彼女はその後アリエル侯爵家へと嫁いだのだった。
しばらく引き攣るような高い声で笑っていたエレメンタだが、その笑い声は突然スンとおさまった。
濁った瞳で、虚に宙を見つめる。
「まあそんなことはどうでもいいの……。そう、もうどうでもいいことなのよ」
ギョロリとその瞳が、はじめてスリゼルの姿をおさめた。
「スリゼル、あなた成績が落ちているそうね」
「いえ……はい……」
実際のところ、スリゼルの成績は落ちていなかった。学年があがって課題が難しくなっていっても、現状を維持しているといっていい。
ただ他の四人の成績があがっているだけなのだ。
それをエレメンタは成績が落ちていると認識していた。
「どうしてがんばらないの! なんでもっと努力しないの⁉︎ 成績が落ちれば、公爵家の後継者として他の子が選ばれてしまうのよ! せっかくあの女を見返してやれるチャンスなのに! ザルフィード家から公爵家の当主を輩出するチャンスなのに! それでなくとも、他の家の子より成績が劣るとなったら、私の、ザルフィード家の血筋がバカにされるのよ⁉︎」
「すみません……」
実際のところ、スリゼルは努力していた。
この家にいる間も、ひたすら勉強をしていたのだ。
スリゼルの中でも、仮の当主でしかないエトワの護衛にかまけたり、彼女の起こす騒動に右往左往している他の子友達の方が、よっぽど努力を放棄している、そういう認識だった。しかし、スリゼルは母親の前でそれを言葉にすることはできなかった。
なぜか、結果が伴わないのだから。少しずつ、スリゼルの成績は『彼らに』追い抜かされ、置いてかれはじめていた。
ベッドの上から手が伸びて、スリゼルを引き寄せる。
伸びてきた母親の手はスリゼルを抱き締めることはなかった。スリゼルのシャツの袖をまくりあげて、注意深くスリゼルの肌を観察しはじめる。
スリゼルの腕を掴む右手は黒い毛皮に覆われ、目を皿のようにして肌を凝視する右目は金色だった。
スリゼルはふと幼かった頃の記憶を思い出した。
小さい頃、自分を抱き寄せたその右腕は白い肌をしていた。
エレメンタはスリゼルの腕をチェックした後は、首筋、顔など、肌の見える部分をチェックしていく。
そして全てをチェックし終えて、何も変化がないことを確認すると、心の底からホッとした表情で胸を撫で下ろした。
「よかった。あなたは私と違って化け物にはなっていないわね」
エレメンタは化け物と自ら表現した黒い毛皮に覆われた右腕を伸ばし、スリゼルの頬を撫でる。
「なら勝てるはずよ。あなたはアリエル侯爵家とザルフィール家の高貴な血を継いでいる子供なのよ。それに……」
そこでエレメンタは一度言葉を止めた。
「あなたは他の子たちより、2年も早く生まれているのよ……?」
スリゼルの肩がピクリと動いた。
「こんな有利な条件で負けるはずがないわ? いえ、ちゃんと努力していれば勝てるのよ。絶対に勝てる。あなたが公爵家の当主になってくれれば、私の人生は報われるの。病気でこんな化け物の体になってしまったことも、あの女からバカにされた過去さえも、あなたさえ、あなたさえ成功してくれたら……! ぜんぶ、報われるの……」
「うん、わかった。もっと努力するよ、母さま……」
その答えを聞いて頷いたエレメンタは、薄暗い部屋の中を両手で探ると、引き出しから紙の包みを取り出した。その中に入っていたのは、不気味な色をした粉だった。それをエレメンタはスリゼルに差し出す。
「さあ、飲んで、あなたの成長を抑える薬よ」
その正体のわからない薬を見て、スリゼルの表情がはじめて歪んだ。
握りしめられた両手は、その正体もわからぬ薬を受け取りたくなさそうだった。
するとエレメンタの金色と黒色の瞳をしたその目から、涙がこぼれる。
「知っているでしょ? 五侯家の子供は公爵家の子供より早く産まれてはいけないの。私があなたを2年早く産んだことがばれたら、あなたの不名誉になるの。それだけじゃない、後継者争いにも不利になるわ。そんなことになったら、私……私、もう自ら命を絶つしか……」
「わかった。わかった、飲むよ」
スリゼルは薬を母親の手から受け取ると飲み下した。
どんな味がするのだろう、その顔が苦痛に歪む。
その表情を見て、エレメンタは安心した顔をした。
「よかった。あなたなら絶対になれるわ。公爵家の当主に。そしてこのザルフィール家の血に名誉をもたらすの」
薄暗い屋敷の中、エレメンタだけが幸せそうに笑っていた。
***
スリゼルの父ラザラスは一人、食卓に座りため息をついた。
テーブルの前には残された食事が置かれている。
ラザラスとエレメンタが婚約したのは12歳のときだった。
もともとエレメンタはクロスウェルさまの花嫁候補だった。だが、ダリアとの一件以来、クロスウェルさまとの関係に溝ができてしまい、周囲から候補として外されてしまったのだ。それでも家柄がよい彼女だったから、家同士の話し合いでラザラスと婚約することになった。
エレメンタはダリアのことを恨んでいるのか、桜貴会には近づかなくなってしまった。
そんな彼女が学校にこなくなったのは15歳になったときのことだった。
さすがに心配して五侯家の子供たちも、クロスウェルもお見舞いにいった。
しかし、彼女は誰とも会わなかった、婚約者であったラザラスを除いて。
ザルフィール家の屋敷で面会した彼女の右目は金色に染まり、その周囲は動物のような黒い毛皮で覆われていた。彼女の話によると、ある日突然、目の周りから変化し始めたんだという。信頼できる医者に見せたが、原因はわからず、治療法もわからなかったという。彼女とその両親に、風の派閥の人間たちに知らせて治療法を探るべきだと提案したが、それは彼女に拒否された。彼女の両親からもどうか秘密にしてほしいと懇願された。
彼女の体に現れている変化は、明らかに魔族由来のものだった。
魔族たちの領域である北へと遠征し、知識を蓄えている風の派閥に相談することが解決の唯一の足掛かりであることは明らかだった。だが、同時にその行動が危険を伴うことは彼女の両親がいう通りだった。治療不可能な異形のものと判断されてしまえば、処分されてしまうかもしれない。
悩んだ末に、ラザラスはエレメンタの願いを受け入れた。
それからも、彼女の体に起きた変化はもどることはなく、ゆっくりと進行をしていき、彼女の精神はどんどん不安定になっていった。
『いつか自分は完全に化け物に変わってしまう』そう怯える彼女と、ラザラスは結婚することにした。
どうしてそんな判断をしたのか、理由は自分でもわからない。彼女との関係は、別に心を通わせた恋人同士というわけではなかった。
むしろ家同士の事務的な繋がりの方が比率としては大きかったはずだ。それでもクロスウェルさまや他の五侯家の子供たちのように小さい頃から顔見知りとして育ってきた相手だったからなのか、それともお互いの家を介した婚約関係だとはいえ、自分にだけ正直に打ち明けてくれた彼女の信頼に応えたかったからなのか。
結婚して、しばらく、彼女は子供を産みたいと言ってきた。
『もっと病気が進行してから子供を産んだら、子供まで化け物になってしまうかもしれない』
そういって泣き叫ぶ彼女の求めに応じて、子供を作った……
子供は正常な姿で生まれて、彼女は落ち着いたように見えた。
『もしかしたら私のような病気にかかってるかもしれない。この子が本当に正常かわかるまで、しばらくは生まれたことを隠していましょう』
彼女の要求もそれなりに筋が通ってるように思えた。だから、受け入れた。
彼女が妙な薬を子供に飲ませていることに気づいたのは一年後だった。
問い詰めたら、彼女は『子どもの成長を抑える薬』だと言った。信頼できる使用人に、遠国から取り寄せさせたのだという。
そんな正体のわからない薬を子供に飲ませるのをやめるように言った。だが彼女はそういうと、狂ったように泣き叫んだ。
公爵家の子供より早く生まれてしまったことは、この子の不名誉になる。だから隠す通すのだと言う。
実際、それは解釈の分かれる問題だった。
シルフィール公爵家と五侯爵家との結束を強めるために、子供を近い年齢にしようとする暗黙の空気みたいなものは確かに存在した。
そのため五侯家はシルフィール公爵家に通う医師にそれぞれがコネクションをもっていて、懐妊の時期をそれとなく知ることができる。
ただ明文化されているのはそこまでだ。
後の判断は、その時の五侯家の当主に委ねられる。
公爵家の子供と同じ世代の子供を産めなければ成功ではないと考える当主もいたかもしれない、そんなの関係ないと投げ捨てた当主もいたかもしれない、絶対守らなければいけないほどではない努力目標程度にとらえた当主もいただろう。
ただ結果として、自分達もクロスウェルさまと同年代として生まれている。
五侯家の外部にいたエレメンタは、それを見て絶対のルールと解釈してしまったのかもしれない。それは内部にいる当主ですら、そう判断するときがあるのだから。
なんとか説得しようと話し合いを繰り返した。だが、彼女の妄執を解くとことは叶わず、彼女は泣いてそれを拒絶して、ついには『この子が二年早く生まれたのがバレたら自分は命を絶つ』そう仄めかすようになった。
幸いと言っていいのだろうか、あの怪しげな薬が本当に効果があるのか、スリゼルが他の子たちより歳上であることはバレていない……
だが、クロスウェルさまの娘が魔力を持たずに生まれてきたことで、彼女はスリゼルをこのまま公爵家の当主にするのだと言い始めた。自分が何か意見を言おうとしても彼女は発狂し、自分に向かって自死を仄めかし、息子のスリゼルまで囲い込んでしまった。
彼女と結婚したのは間違だったのだろうか。
アリエル家の当主として判断するなら、彼女を見捨てるべきだったのだろう。
だが、それすらもできず、その判断の理由が愛だったのかすらわからず、ラザラスは薄暗い屋敷でこの家族と暮らしていた。
「申し訳ありません、クロスウェルさま」
裏切ってしまっている風の派閥の主(あるじ)への、罪悪感を抱えながら
***
○○年○月○日
誕生日に彼から日記帳をもらった。
早速だけど、今日から日記をつけてみようと思う。
でも、この日記のはじまりは今日ではなく、五年前のできごとからはじめようと思っている。
その日、私はシルフィール公爵と公爵夫人、ううん、この日記の中でぐらいお父様、お母様と呼んでいいと思う。
お父様とお母様のいいつけで、私はエリデ男爵の屋敷を訪れることになった。
飛行船を降りると、そこには美しい景色が広がっていた。
小さな屋敷の前に、一面に広がる麦畑。
その周囲には自然が広がり、小さな家がポツポツと経っている。
穏やかや優しくきれいな場所。
麦畑を越えると、一人の青年が家の前で私を迎えてくれた。
彼こそがエリデ男爵。
私は五年後、この人と結婚することになる。
※追記
読者さんをちょびっとだけドキッとさせたいと叙述トリックみたいに書いたんですけど、最後の日記を書いてるのはエトワではありません。ちょっと更新に間が開くので、ドキドキさせすぎたかなと反省。
※あとがき
明日からバイトなのと書き溜めも尽きたので、明日から更新止まるかも知れません。
書き溜めしつつ更新がんばりたいと思います。読んでくださってありがとうございます。
エトワが屋敷にいた間は、誰も中に入っていくことのなかった部屋だ。スリゼルの母親の部屋。
アリエル侯爵家の屋敷の中でも特に薄暗いその場所では、ベッドの上で一人の女がいた。
風の派閥の中でも珍しい緑色の髪、長年陽の光をろくに浴びてないのだろうと感じさせる青白い肌、しかし何よりも特徴的なのはスリゼルから見えないようにしている顔の右半分だった。その女性の顔の右半分は、黒い毛皮でびっしりと覆われていた。
それだけではない。よく見ると、右目だけがカーテンから漏れる隙間の明かりに金色に輝き、緑の髪の間からはツノのようものがのぞいている。
明らかに人間ではないモノの特徴をその女性は有していた。
しかし、その姿を見ても、スリゼルに動揺する気配はない。
それも当たり前だった。
スリゼルにとって、それは見慣れた母の姿だったからだ。
「ダリアの娘は帰ったの?」
「はい、ついさきほど」
スリゼルは見ていたのだ、エトワが飛行船で旅立つのを。
見送りにはこなかったくせに。
スリゼルの母はそれを聞いて、エトワをバカにするように嗤った。
「みじめな娘だったわ。せっかく最も高貴なシルフィール公爵家の血筋に生まれたのに、魔力のかけらすら持たずに生まれてくるなんて。あの女にはお似合いの娘ね。きっと私を嵌めた天罰が下ったんだわ」
「はい、その通りです」
スリゼルの母親の名前はエレメンタ、ザルフィード家のエレメンタ、エトワの母ダリアの学生時代に、ダリアがエトワの父クロスウェルに近づくのを妨害しようとして、逆に嵌められて、クロスウェルから嫌われてしまった少女だった。彼女はその後アリエル侯爵家へと嫁いだのだった。
しばらく引き攣るような高い声で笑っていたエレメンタだが、その笑い声は突然スンとおさまった。
濁った瞳で、虚に宙を見つめる。
「まあそんなことはどうでもいいの……。そう、もうどうでもいいことなのよ」
ギョロリとその瞳が、はじめてスリゼルの姿をおさめた。
「スリゼル、あなた成績が落ちているそうね」
「いえ……はい……」
実際のところ、スリゼルの成績は落ちていなかった。学年があがって課題が難しくなっていっても、現状を維持しているといっていい。
ただ他の四人の成績があがっているだけなのだ。
それをエレメンタは成績が落ちていると認識していた。
「どうしてがんばらないの! なんでもっと努力しないの⁉︎ 成績が落ちれば、公爵家の後継者として他の子が選ばれてしまうのよ! せっかくあの女を見返してやれるチャンスなのに! ザルフィード家から公爵家の当主を輩出するチャンスなのに! それでなくとも、他の家の子より成績が劣るとなったら、私の、ザルフィード家の血筋がバカにされるのよ⁉︎」
「すみません……」
実際のところ、スリゼルは努力していた。
この家にいる間も、ひたすら勉強をしていたのだ。
スリゼルの中でも、仮の当主でしかないエトワの護衛にかまけたり、彼女の起こす騒動に右往左往している他の子友達の方が、よっぽど努力を放棄している、そういう認識だった。しかし、スリゼルは母親の前でそれを言葉にすることはできなかった。
なぜか、結果が伴わないのだから。少しずつ、スリゼルの成績は『彼らに』追い抜かされ、置いてかれはじめていた。
ベッドの上から手が伸びて、スリゼルを引き寄せる。
伸びてきた母親の手はスリゼルを抱き締めることはなかった。スリゼルのシャツの袖をまくりあげて、注意深くスリゼルの肌を観察しはじめる。
スリゼルの腕を掴む右手は黒い毛皮に覆われ、目を皿のようにして肌を凝視する右目は金色だった。
スリゼルはふと幼かった頃の記憶を思い出した。
小さい頃、自分を抱き寄せたその右腕は白い肌をしていた。
エレメンタはスリゼルの腕をチェックした後は、首筋、顔など、肌の見える部分をチェックしていく。
そして全てをチェックし終えて、何も変化がないことを確認すると、心の底からホッとした表情で胸を撫で下ろした。
「よかった。あなたは私と違って化け物にはなっていないわね」
エレメンタは化け物と自ら表現した黒い毛皮に覆われた右腕を伸ばし、スリゼルの頬を撫でる。
「なら勝てるはずよ。あなたはアリエル侯爵家とザルフィール家の高貴な血を継いでいる子供なのよ。それに……」
そこでエレメンタは一度言葉を止めた。
「あなたは他の子たちより、2年も早く生まれているのよ……?」
スリゼルの肩がピクリと動いた。
「こんな有利な条件で負けるはずがないわ? いえ、ちゃんと努力していれば勝てるのよ。絶対に勝てる。あなたが公爵家の当主になってくれれば、私の人生は報われるの。病気でこんな化け物の体になってしまったことも、あの女からバカにされた過去さえも、あなたさえ、あなたさえ成功してくれたら……! ぜんぶ、報われるの……」
「うん、わかった。もっと努力するよ、母さま……」
その答えを聞いて頷いたエレメンタは、薄暗い部屋の中を両手で探ると、引き出しから紙の包みを取り出した。その中に入っていたのは、不気味な色をした粉だった。それをエレメンタはスリゼルに差し出す。
「さあ、飲んで、あなたの成長を抑える薬よ」
その正体のわからない薬を見て、スリゼルの表情がはじめて歪んだ。
握りしめられた両手は、その正体もわからぬ薬を受け取りたくなさそうだった。
するとエレメンタの金色と黒色の瞳をしたその目から、涙がこぼれる。
「知っているでしょ? 五侯家の子供は公爵家の子供より早く産まれてはいけないの。私があなたを2年早く産んだことがばれたら、あなたの不名誉になるの。それだけじゃない、後継者争いにも不利になるわ。そんなことになったら、私……私、もう自ら命を絶つしか……」
「わかった。わかった、飲むよ」
スリゼルは薬を母親の手から受け取ると飲み下した。
どんな味がするのだろう、その顔が苦痛に歪む。
その表情を見て、エレメンタは安心した顔をした。
「よかった。あなたなら絶対になれるわ。公爵家の当主に。そしてこのザルフィール家の血に名誉をもたらすの」
薄暗い屋敷の中、エレメンタだけが幸せそうに笑っていた。
***
スリゼルの父ラザラスは一人、食卓に座りため息をついた。
テーブルの前には残された食事が置かれている。
ラザラスとエレメンタが婚約したのは12歳のときだった。
もともとエレメンタはクロスウェルさまの花嫁候補だった。だが、ダリアとの一件以来、クロスウェルさまとの関係に溝ができてしまい、周囲から候補として外されてしまったのだ。それでも家柄がよい彼女だったから、家同士の話し合いでラザラスと婚約することになった。
エレメンタはダリアのことを恨んでいるのか、桜貴会には近づかなくなってしまった。
そんな彼女が学校にこなくなったのは15歳になったときのことだった。
さすがに心配して五侯家の子供たちも、クロスウェルもお見舞いにいった。
しかし、彼女は誰とも会わなかった、婚約者であったラザラスを除いて。
ザルフィール家の屋敷で面会した彼女の右目は金色に染まり、その周囲は動物のような黒い毛皮で覆われていた。彼女の話によると、ある日突然、目の周りから変化し始めたんだという。信頼できる医者に見せたが、原因はわからず、治療法もわからなかったという。彼女とその両親に、風の派閥の人間たちに知らせて治療法を探るべきだと提案したが、それは彼女に拒否された。彼女の両親からもどうか秘密にしてほしいと懇願された。
彼女の体に現れている変化は、明らかに魔族由来のものだった。
魔族たちの領域である北へと遠征し、知識を蓄えている風の派閥に相談することが解決の唯一の足掛かりであることは明らかだった。だが、同時にその行動が危険を伴うことは彼女の両親がいう通りだった。治療不可能な異形のものと判断されてしまえば、処分されてしまうかもしれない。
悩んだ末に、ラザラスはエレメンタの願いを受け入れた。
それからも、彼女の体に起きた変化はもどることはなく、ゆっくりと進行をしていき、彼女の精神はどんどん不安定になっていった。
『いつか自分は完全に化け物に変わってしまう』そう怯える彼女と、ラザラスは結婚することにした。
どうしてそんな判断をしたのか、理由は自分でもわからない。彼女との関係は、別に心を通わせた恋人同士というわけではなかった。
むしろ家同士の事務的な繋がりの方が比率としては大きかったはずだ。それでもクロスウェルさまや他の五侯家の子供たちのように小さい頃から顔見知りとして育ってきた相手だったからなのか、それともお互いの家を介した婚約関係だとはいえ、自分にだけ正直に打ち明けてくれた彼女の信頼に応えたかったからなのか。
結婚して、しばらく、彼女は子供を産みたいと言ってきた。
『もっと病気が進行してから子供を産んだら、子供まで化け物になってしまうかもしれない』
そういって泣き叫ぶ彼女の求めに応じて、子供を作った……
子供は正常な姿で生まれて、彼女は落ち着いたように見えた。
『もしかしたら私のような病気にかかってるかもしれない。この子が本当に正常かわかるまで、しばらくは生まれたことを隠していましょう』
彼女の要求もそれなりに筋が通ってるように思えた。だから、受け入れた。
彼女が妙な薬を子供に飲ませていることに気づいたのは一年後だった。
問い詰めたら、彼女は『子どもの成長を抑える薬』だと言った。信頼できる使用人に、遠国から取り寄せさせたのだという。
そんな正体のわからない薬を子供に飲ませるのをやめるように言った。だが彼女はそういうと、狂ったように泣き叫んだ。
公爵家の子供より早く生まれてしまったことは、この子の不名誉になる。だから隠す通すのだと言う。
実際、それは解釈の分かれる問題だった。
シルフィール公爵家と五侯爵家との結束を強めるために、子供を近い年齢にしようとする暗黙の空気みたいなものは確かに存在した。
そのため五侯家はシルフィール公爵家に通う医師にそれぞれがコネクションをもっていて、懐妊の時期をそれとなく知ることができる。
ただ明文化されているのはそこまでだ。
後の判断は、その時の五侯家の当主に委ねられる。
公爵家の子供と同じ世代の子供を産めなければ成功ではないと考える当主もいたかもしれない、そんなの関係ないと投げ捨てた当主もいたかもしれない、絶対守らなければいけないほどではない努力目標程度にとらえた当主もいただろう。
ただ結果として、自分達もクロスウェルさまと同年代として生まれている。
五侯家の外部にいたエレメンタは、それを見て絶対のルールと解釈してしまったのかもしれない。それは内部にいる当主ですら、そう判断するときがあるのだから。
なんとか説得しようと話し合いを繰り返した。だが、彼女の妄執を解くとことは叶わず、彼女は泣いてそれを拒絶して、ついには『この子が二年早く生まれたのがバレたら自分は命を絶つ』そう仄めかすようになった。
幸いと言っていいのだろうか、あの怪しげな薬が本当に効果があるのか、スリゼルが他の子たちより歳上であることはバレていない……
だが、クロスウェルさまの娘が魔力を持たずに生まれてきたことで、彼女はスリゼルをこのまま公爵家の当主にするのだと言い始めた。自分が何か意見を言おうとしても彼女は発狂し、自分に向かって自死を仄めかし、息子のスリゼルまで囲い込んでしまった。
彼女と結婚したのは間違だったのだろうか。
アリエル家の当主として判断するなら、彼女を見捨てるべきだったのだろう。
だが、それすらもできず、その判断の理由が愛だったのかすらわからず、ラザラスは薄暗い屋敷でこの家族と暮らしていた。
「申し訳ありません、クロスウェルさま」
裏切ってしまっている風の派閥の主(あるじ)への、罪悪感を抱えながら
***
○○年○月○日
誕生日に彼から日記帳をもらった。
早速だけど、今日から日記をつけてみようと思う。
でも、この日記のはじまりは今日ではなく、五年前のできごとからはじめようと思っている。
その日、私はシルフィール公爵と公爵夫人、ううん、この日記の中でぐらいお父様、お母様と呼んでいいと思う。
お父様とお母様のいいつけで、私はエリデ男爵の屋敷を訪れることになった。
飛行船を降りると、そこには美しい景色が広がっていた。
小さな屋敷の前に、一面に広がる麦畑。
その周囲には自然が広がり、小さな家がポツポツと経っている。
穏やかや優しくきれいな場所。
麦畑を越えると、一人の青年が家の前で私を迎えてくれた。
彼こそがエリデ男爵。
私は五年後、この人と結婚することになる。
※追記
読者さんをちょびっとだけドキッとさせたいと叙述トリックみたいに書いたんですけど、最後の日記を書いてるのはエトワではありません。ちょっと更新に間が開くので、ドキドキさせすぎたかなと反省。
※あとがき
明日からバイトなのと書き溜めも尽きたので、明日から更新止まるかも知れません。
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そして、後継ぎ候補の子達のおうちの話が…!もっと感想を書きたいのですが、まだ読めていないのでこれからにさせていただきますね。
この時期、寒暖差のせいか眠気やだるさがすごいような…私だけでしょうか。でも0時より前に寝たら何とかなる気もします。
作者様も、エネルギーを充電しながらお過ごしください。
小リンクスくん、めっちゃ可愛い〜!
ありがとうございます。askさんに小リンクスが好評で嬉しいです。