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1巻
1-1
しおりを挟む第一章
ツェルバキア帝国は、建国以来四百年、中央大陸に君臨する大帝国である。
遠大な国土を治める第二十九代皇帝レオナルダス二世のもと、国は栄え、皇都は大いに賑わい、大陸中の富が集まると言われる。
皇都を見下ろす小高い丘に建つ皇宮は、この世の奇跡とも呼ぶべき豪奢な造りと壮麗な美で彩られ、まさに天上の宮殿のごとき絢爛さであった。二十余りもの妃、十一人の皇子、六人の皇女らをそれぞれ主人とする私宮そして宮廷の全機関が集められた、一つの都市ほどもある広大な城である。
麗しき皇宮の北西。どことなく寂れた印象のある片隅に、その館は建っていた。
元はまぶしい白亜だった外壁は年月を経て薄墨のような色に変わり、修繕した痕跡もない。庭園の立派な噴水は涸れ、宮殿には当然あるはずの美麗な彫像や宝石をちりばめた四阿も見当たらない。
紙で塞いだあとのある割れたガラス窓。古ぼけた屋根や雨戸。苔の生した石畳。
荘厳華麗な皇宮において、そこだけが異様な雰囲気をただよわせていた。
昼下がり。薄暗い館内に、カツーン、カツーン……と不気味な靴音が響いている。
陰鬱さすら感じる静けさの中、廊下を歩いてきたのは若い娘だった。
そこだけきらめいているかのような銀色の髪に、湖水に似た翠の瞳。控えめな濃紺のドレスをまとい、髪にも首や指にも装飾品はない。あたりを監察するかのように見やるまなざしは真剣だ。
「この時間だとこのあたりには陽がさすのね。もう少し明かりを減らしてよさそうだわ」
一見すると熱心に業務点検中の女官にも思える。が、実は彼女こそ、この森緑の宮の主人である第五皇女ユーゼリカだった。氷のようだと評される端麗だがやや冷たい面立ちに、心なしか満足げな表情をうかべてつぶやく。
「ここのロウソクを二本分なくせば、年に八千クラインは浮くはず。なんて素晴らしい」
すっ、と帳面を取り出し、すかさず書き付けた。皇女の倹約検討メモである。
彼女は倹約が趣味だった。いや、使命にしていると言っていいかもしれない。
この森緑の宮が寂れているのにはそれなりの理由があるが、一つはユーゼリカの意向が大きい。
外壁を磨くにも高価な薬液が必要と聞き、磨かせるのをやめた。庭園の噴水を止めたのは観賞するだけの水がもったいないから。炊事洗濯や馬の世話に使うほうがはるかに有意義だ。割れた窓ガラスは紙でふさげば何の問題もない。冬は時々風邪をひいてしまうが。
他の箇所も修繕しないのは言わずもがなだ。特に不自由はない。仮にも皇族の私宮なのにと、白い目で見られることもあるが、ほとんどの人々は気にかけてもいないだろう。
皇宮のはずれにある忘れられた館。宮廷のきらびやかさに無縁の皇女と、皇太子争いに無関係の弟皇子――皇帝に見捨てられた子らが住む場所なんて。
「あと二本……いえ、三本減らせないかしら。さらに一万クラインは浮かせたいわ」
勢いに乗って経費削減すべくあたりを見やっていたユーゼリカは、ふと目を留めた。
廊下の先で、一人の女官が燭台に火を入れている。なぜか怯えた様子できょろきょろしながら。
気になったのは、彼女が規定外の場所にまで明かりを点けていることだ。この館の者ならまずやらないはずである。
(新入りの女官かしら? きっとまだ教わっていないのね)
挙動不審なのは慣れていないせいだろう。ユーゼリカは親切心から女官に歩み寄った。
カツーン、カツーン……
足音に気づいたのか、女官がびくっと身じろぎする。
「あなた」
驚かせまいと、そっと耳元に声をかけると、女官は飛びあがるように振り向いた。
こちらを見た彼女の顔が、なぜなのか恐怖にゆがんでいる。
「そこはつけなくていいわ。明かりの数が多すぎる」
「……ひっ……」
「廊下の燭台は六つおきよ。ちなみに玄関は三つおき、食堂は卓上だけ、私と弟の寝室は二つだけ。お客様がある夜は二倍に増やしていいわ」
丁寧に説明したというのに、女官は凍り付いたように目を見開き、口をぱくぱくさせている。
そんなに緊張しているのかと不憫に思い、ユーゼリカは気持ちをほぐしてやろうと、うっすらと唇をほころばせた。
「まあ、来客なんてもう何年もないのだけれど」
しかし、皇女渾身の微笑と軽口に、女官は一気に青ざめて涙目になり――
「いやあああ! 首がっ、生首がしゃべったぁ――!」
いきなり絶叫され、ユーゼリカは驚きのあまり二拍ほど黙り込んだ。
「生首ではないわ。私はこの館の……」
「いやっ、いやああ! だから嫌だったのよ、こんな亡霊屋敷ーっ!」
止める間もなく、泣きわめきながら女官はすごい勢いで走り去ってしまった。
咄嗟に対応できず取り残されたユーゼリカは、しばし沈黙の後、ぽつりと感想をのべた。
「……斬新だわ」
兄弟姉妹たちからいろんな悪口雑言をくらった経験はあるが、生首呼ばわりは初めてだ。
ともかく、主人である皇女の顔も認識していないくらいの新入りなのだろう。優しく指導するように担当の者に伝えねば――と考えたところで、はたと思いだした。
(いけない。教授がお待ちなのだった)
客が訪れたとの言伝を聞いて、そちらに向かっていた途中だったのだ。あまりに珍しいことなので逆にうっかり忘れそうになってしまった。
ユーゼリカは表情をあらため、足早に客人の待つ応接間へと向かう。
件の新入り女官が新しい勤め先の古めかしさを揶揄した知人たちに〝亡霊屋敷〟だと脅かされながらやってきたことも、たまたま着ていた濃い色のドレスが薄暗がりになじみ、白い顔がまるで浮いているように見えたことも、知る由もなかった。
応接間には、中年の男が一人で待っていた。
ユーゼリカはすみやかに歩み寄り、姿勢を正して会釈する。
「お待たせしました、サンダース教授。わざわざお越しいただき恐縮です」
教授と呼ばれた男が立ち上がり、少し落ち着かない様子で一礼した。
「これは皇女殿下。こちらこそ、お時間を作っていただいて申し訳ございません」
知的で人の好さそうな微笑。しかし浮かない表情がのぞくまなざしからして、楽しいだけの話をしにきたのではなさそうだ。ユーゼリカは一瞥で観察すると、席を勧めた。
「お話というのは、弟のことですわね?」
世間話もなしに本題に入ったのは早く内容を知りたいからだったが、教授は多忙のユーゼリカが謁見を早く済ませようとしていると考えたのか、急いたようにうなずいた。
「いや本当に、お忙しいのに申し訳ないことです。ええ、シグルス殿下の――成績といいますか、アカデメイア卒業後のことについてでして」
アカデメイアとは帝国大学院の通称である。初等学校卒業後に入学できる総合教育研究機関で、皇族や貴族の子弟はもちろんのこと、試験を突破した者は十八歳まで等しく高等教育を受けられるという場だ。卒業後の進路は進学や留学、就職、研究など多岐にわたるという。
ユーゼリカより一つ下の十七歳、第九皇子である弟シグルスはそこで自国であるツェルバキアの歴史研究をしている。ただ、それが具体的にどんな研究であるのか弟から聞いたことはない。
もちろん担当教官がこうして訪ねてくるのも初めてで、ユーゼリカは思わず身構えた。
「勉強が至らず、落第するということでしょうか?」
教授が慌てたように両手を振る。
「いえいえ、まさか。その逆です。彼の成績は本当にすばらしい。これが前期の成績表です」
差し出された冊子を受け取り、ユーゼリカはすばやく目を走らせる。優良を表す記号がずらりと並んだそれをしばし見つめ、表情を変えず顔を上げた。
「ということは、つまりどういうことでしょう?」
成績が良いのはわかったが、わざわざそれを教えにきてくれるほど彼も暇ではないはずだ。訪問の真意を測りかねていると、教授がなんともいえない顔つきでため息をついた。
「先日、学生全員に卒業後の進路について訊ねました。アカデメイアに残るにしろ、他の大学に進むにしろ、仕事に就くにしろ、こちらも準備をすることがありますので。ところがシグルス殿下だけは進路希望表を白紙で提出されたのです」
「――白紙」
「シグルス殿下ほど優秀ならば、望めばどの研究機関にも進めます。留学されてもいい。爵位を継がれるのであればそれもよろしいでしょう。しかし彼はそのどれも御免だと――ごほん、本意ではないと言うのです」
皇女の手前言い直してくれたようだが、おそらくはシグルスの発言そのままを口走ったのだろう。ようやく訪問の理由がわかり、ユーゼリカは渋い顔で成績表に目を落とす。
「できれば私のもとで研究を続けてくれたら嬉しいのですが、彼が望むならばいくらでも紹介状を書くつもりでいます。国史学で有名な他大学の教授もいくらか知り合いがいますし、きっと彼なら歓迎されるはずです。前々から何度もそう言ってきたのですが、興味がないというのですよ。白紙の意味を聞こうと呼び出した時にも、どうでもいいのだから書きようがないとその一点張りで。それ以来、なかなかアカデメイアにも顔を出さなくなってきましてね……」
(……あの子ったら……)
教授の嘆きを聞いただけで、弟の言動がありありと想像できる。
仮にも皇族である弟のことを〝彼〟と呼ぶ教授は、心の底から教え子として想い、案じてくれているのだろう。そんな恩師にここまで心配をかけ、家庭訪問までさせるとは。
ユーゼリカはため息をつき、あらたまって教授を見た。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。最近少しひねくれていまして。私も手を焼いているのです」
「皇女殿下にご相談してよいものか、迷ったのですが……」
「構いません。親代わりですから」
「その若さで、しっかりしておいでですね」
終始冷静な皇女の態度に感心したように教授はうなずいている。
そこへ執事のトマスが入ってきた。彼は教授に一礼してから主である皇女に向き直る。
「殿下。フォレストリアから代官が参っております。火急の用だと申しておりますが」
フォレストリアはユーゼリカの母の出身地であり、今はユーゼリカが領主の役割を務めている地である。時折様子を伝えに来させているが、火急というのが気になった。
「教授、お話し中に申し訳ありません。ここへ呼んでもよろしいでしょうか?」
「それはもちろん。私は外しましょう」
「いえ、お気遣いなく。すぐに済みます」
トマスに目をやると、彼がすぐに出て行く。間もなく、よく見知った男を連れて戻ってきた。
皇都に暮らすユーゼリカに代わり、現地で采配を振るっているのが彼だった。ユーゼリカの母の遠い親戚筋にあたり、一応は貴族階級にありながら偉ぶったところはなく、領民の代表という感じの気さくな男である。その彼が珍しく深刻な顔をしていた。
「――先週の大雨で橋が壊れましてね、人も荷物も領内を行き来できずに不自由しています。そのせいで流された家の復旧もなかなか進まなくて」
領地での業務はユーゼリカも内容を把握しているし、基本的に代官に一任して動いてもらっているが、こうして災害が起きたり大きな予算が動く時は意見を仰ぎにくるのだ。型どおりの挨拶をして早速話に入った彼に、無駄に問い返すことなく傍らの執事に指示をした。
「トマス、すぐに橋の修繕を手配して。――他の被害状況は?」
代官が差し出した紙束を受け取り、目を通す。最後まで見ると、いくつか紙を入れ替えた。
「家をなくした者は宿屋に?」
「はい、いつもどおりに。この村だと宿屋は三軒ですが、それで事足りましたんで」
「そう。なるべく急いで家を建ててあげて。宿屋には特別給金を。避難している人が不自由しないようにね。麦畑の被害をもう少し詳しく調べて。税率を決め直すわ。場合によっては今年は免除にして。その分は補填をするから」
「はい、ただちに」
「そもそも川の上流に問題はなかったのかしら。確か以前も大雨で決壊した被害があったでしょう。今後のためにも調べておいて。関連はあるのかどうか」
「はい、上流の調査と、ええと、決壊被害との関連ですね」
紙束を返された代官はその順番を確認しながら繰り返す。報告書が優先順位をつけて入れ替えてあるのだ。そこに指示されたことを必死に書き付けている。
「それから」
「はいっ」
「ヨアヒムとアナに子どもが生まれたそうだけど、祝いの品は贈ったのかしら? まだならそれもお願い」
「はい、祝いの品…………えっ?」
急に違う方向の指示が来て、ぽかんとしたように代官が顔をあげる。
ユーゼリカは彼が持つ紙束を指さした。
「最後の頁に書いてあったわ。大雨の中大変だったわね」
「……あっ、はい、そうなんでさ! 産婆さんもなかなか来ないしみんな大わらわで、無事生まれてほっとしましたよ。で、何を送りましょう?」
記していたのを自分で忘れていたのか代官が少し照れくさそうに頭をかく。領地では子が生まれると領主に報告することになっているのだ。
「祝い金と、肌着を多めに、あとは母親の滋養になるものを……そうね、とりあえず半年分」
「はい、畏まりました!」
急いで書き付けた代官は、照れ隠しもあってなのか少し大げさな調子で続けた。
「いやあ、さすが殿下です。ヨアヒムもアナも喜びますよ。よその領主様じゃこうはいかない。生まれたばかりの赤ん坊がいるってのに、綺麗な晴れ着や記念品なんかもらったってしょうがないですからねえ。いや、いただけるだけでもよその国よりはましですけど、殿下の贈り物は格別です。みんなの欲しいものをわかっていらっしゃるし、何よりお心がこもってますから」
おだてられたというのに、ユーゼリカはにこりともせず椅子の背に身体を預けている。
「あなたが以前教えてくれたのよ。何を贈れば喜ばれるかを」
「……へ?」
「残念ながら私には出産直後の家族に必要なものがわからないけれど、毎月出産報告をしてくれるあなたならよく知っているものね。助言をくれて助かったわ」
出産報告をしてくるということは、そのぶん赤子を持った家族と接しているということだ。当然いろんな話をしているだろう。何が必要か、何に不便を感じているか、ならばどうしてほしいか、などなど。
代官の頬が徐々に赤くなっていく。覚えていてくれたのかと、喜びに染まっているのが傍目からもわかった。
「いっ……いやいやぁ! そんなんでよかったらなんでも聞いてください。自分にできることならなんでもお役に立ちますんで! わははは」
「よろしく頼むわ」
「はい! では、自分はこれで!」
失礼します、と頭を下げてから代官は弾んだ足取りで部屋を出ていった。入ってきた時とは別人のような明るい表情をしていた。
見送ったユーゼリカは、待たせていた人へとあらためて向き直る。
「お話し中に失礼しました、教授」
「いえいえ。お忙しいことですなあ。それに素晴らしい手腕だ。感服しましたよ」
一部始終を見ていた教授は、感じ入ったように何度もうなずいている。
「素早い指示、的確な判断、領民を労る優しさ、それに代官の顔を立てる姿勢。なかなかどうして、そのお若さでできるものではありませんよ。先ほどの彼など完全に殿下に心を掌握されている」
「お褒めにあずかり恐縮です。やれることをしているだけですわ」
「またそんな、ご謙遜を。フォレストリアの民は殿下が領主でいらっしゃって幸せですね」
なぜか彼まで、ほくほくと嬉しそうな顔で微笑んでいる。
対するユーゼリカは無表情といえるほどに冷静な顔をくずさなかった。
壁にかかる小さな絵画を一瞥し、つぶやく。
「……皇族としての義務ですから」
誰にも奪われないために、必死でやっているだけだ。
六年前の、あの時のように。
***
教授との面会を終えて送り出すと、ユーゼリカは西の館へと向かった。
森緑の宮は主に三つの館から成っており、それぞれ渡り廊下で繋がれている。中央の館は応接間や客間などの公的な場、東の館はユーゼリカの居館、西の館はシグルスの居館となっていた。
一つ一つはさほど大きな建物ではないが、そうして離れて寝起きしているため、顔を合わせるのは夕食の時くらいだ。だが実のところ、シグルスとは一週間ほど会っていなかった。こちらは領地の経営やその他もろもろで忙しく、弟は勉学に勤しんでいるとのことだったからだ。
そう。だから邪魔をしないよう、夕食の席に現れずともとやかく言わずにきた。「最近アカデメイアのほうはどう?」なんて鬱陶しく探りを入れるのも控えていた。「勉強は大事だけどほどほどにね。友人や恋人を作るのも良い経験よ」などと余計な世話と罵倒されそうな説法だって一度たりともしたことがない。しかし、それが逆にいけなかったのか――
「邪魔するわ」
バターン、と扉を開けていきなり登場した姉を、長椅子に寝そべっていたシグルスは眉をひそめて迎えた。
「ノックくらいしろよ。唐突だな」
ユーゼリカは開けたままの扉を軽く拳で叩き、繰り返す。
「邪魔するわよ」
「もうしてるだろ、さっきから」
一体なんなんだと言いたげにこちらを見つつも、起き上がろうとはしない。長い足を椅子の手すりからはみ出させたまま、分厚い本を開いて胸に置いている。
ユーゼリカはつかつかと歩みより、横になったままの彼を見下ろした。
はかない光をまぶしたような銀色の髪。宝石のごとき紫の瞳。そのどちらも母と同じ特徴を継いでいる。青年になりかけの今、端整な顔立ちに精悍さがそなわってきたせいか、母の面影は薄れつつあった。それが少し、寂しいように思える。
(……ううん。母上はもっと優しいお顔だった)
こんなひねくれた表情、母とは似ても似つかない。たとえ可愛い弟だろうと言うことは言わねば。
「サンダース教授が見えたわ。白紙の件も聞いたわよ」
ずばり本題に入ると、シグルスは目をそらした。胸に置いていた本を持ち上げ、わざとらしく顔の前に持っていく。聞こえないふりでもするつもりらしい。
「成績は優秀で授業態度も熱心なのに、将来どうするか決めていないのはどういうことかと先生も戸惑っていらしたわ。いえ、決めかねているのが悪いわけじゃない。それならそうと『まだ決めていません』と説明すればいいだけでしょう。その労を惜しんで白紙で出すなんて、怠慢にもほどがある。わざわざ教授に訪ねてこさせて、年配者に動いてもらうなんて恥ずかしいと思わないの?」
「あはは。まだ五十代の紳士に向かって年寄り扱いとは。怒られますよ、姉上」
「おだまり。もののたとえよ。あなたより四十も年上なのは事実でしょう」
まぜっかえす弟ににこりともせず応じ、さらに言い募る。
「しかもその件を追及されたらアカデメイアにも顔を出さなくなったんですってね。ご心配をおかけした上に失礼な振る舞いをするなんて。せめてもう少し真摯に対応をなさい。今からでも全然遅くはないわ。卒業後どうするのかちゃんと考えて――」
「じゃあ言わせてもらうけど」
がばりとシグルスが起き上がる。さらさらと銀髪が光を弾いて揺れ、険しい目見をのぞかせた。
「将来って一体なんなんだ? そんなものは金や、親なんかの確固とした後ろ盾のあるやつが夢見れるものじゃないの? だったら俺には呑気にそんなものを考える資格はないじゃないか」
「俺ですって? あなた、どこでそんな言葉使いを」
「姉上」
小言を言いかけたユーゼリカを、シグルスが苛立ったように遮る。
「……もう母上はいない。母上の生家の援助も期待できない。父上の寵愛だってとっくになくなった。何も持たない、なんの価値もない皇子が、どうやって明るい未来を描けっていうの? 肩書は皇子でも俺は他の兄弟たちと違う。ぺらっぺらの軽い存在なんだから」
「……」
「皇族の情けで入学させてもらったけど、アカデメイアを出たらそれもお終いだ。この上さらに他の大学で研究だとか留学だとか、どの面下げて言えっていうんだよ。周りに疎まれながら学者を目指すなんて、俺は御免だ」
皮肉げに吐き捨てた弟を、ユーゼリカは黙って見つめた。
年頃になって世間を知った彼が鬱屈を抱えるのも理解できる。けれど励ますことはできても根本を解消してやることはできない。自分も同じ、母を亡くし父の寵愛をなくした子なのだから。
「そんなふうに卑下するものじゃないわ」
静かに声をかけると、シグルスは拗ねたように顔を背けた。
「だって事実だろ」
「ええ、母上が亡くなったのも父上の寵愛がないのも事実ね。だけど他のことは変えられる」
「何が変わるっていうんだ。後ろ盾もないのに、俺なんかが――」
「おだまり。ないものに期待するなんて時間の無駄よ。欲しがったところでいつになっても手元には転がってこないわ」
ぴしりと弟の愚痴をはねつけ、ユーゼリカはようやく椅子に腰を下ろす。やりとりを見守りつつも一言も発することなく有能な侍女が茶を淹れてくれたので、それを手に取った。
「けれど、存在が重かろうと軽かろうと、あなたが皇子であるという事実に変わりはない。だったらそれを利用すればいい。よほど人の道に外れたことでなければ、誰も文句は言わないわ。皇子の名を大々的に出して論文を発表するなり、学会の権威の先生方に顔を売りまくって人脈を広げるなり、それくらいのことでは罰は当たらないでしょう。研究がしたいけど他のところでは嫌だというなら、自分で研究所や学校を作ってしまえばいいのよ。皇子の名のもとにお金を集めてね」
すらすらと言うと、カップを口へ運ぶ。温かい茶が喉を潤し、花の香りが鼻腔を通り過ぎていく。
涼しい顔で茶を飲む彼女をシグルスは唖然として眺めたが、やがて眉をひそめた。
「本気で言ってるの? 俺にそんなみっともないことをしろって?」
ユーゼリカはカップを傾ける手を止め、二拍ほど黙ってから傍らの侍女に目をやる。
「私はみっともないことを言ったかしら?」
「めっそうもない。姫様のお言葉は大変勇ましくかっこいい限りですわ!」
侍女のリラがにこやかに答える。皇女付きの彼女はユーゼリカの熱烈な信奉者だった。
それをよく知るシグルスは、また始まったと言いたげに、がしがしと髪をかき回した。息をつき、横を向きながら椅子の背にもたれる。
「姉上はいつもそうだ。にこりともせず好戦的なことばかり言う。いっそ男に生まれてたら皇太子争いに加われたかもしれないな」
「私は好戦的なことを言ったかしら?」
「めっそうもない。でも姫様がもし皇子でいらしたらと思うととっても燃えますわ!」
「ちょっと黙ってろ」
繰り返す主従のやりとりに顔をしかめて突っ込むと、シグルスは呆れたようにまた嘆息した。
「そんなことしたってうまくいくとは思えないね。皇子としても価値がないと思い知らされるだけだよ」
「そうかしら。自分の価値というのは自分で作るものよ。確かに、少しは恥をかくこともあるでしょうけれど」
カップを戻し、ユーゼリカはゆっくりと弟を見つめる。
「でもそれが何? どれだけ恥ずかしい思いをしようと、最後に笑う者が勝ちなのよ。馬鹿にする者たちを恐れて実力を出さないなんて、もったいないことをしないで」
「……」
「あなた、アカデメイアで優秀な成績を修めているのならそれなりの知恵は持っているでしょう?こんなところで無駄にくだを巻いているなら、もっと建設的なことを考えなさい。サンダース教授が無能な人間のためにわざわざ訪ねてくるような暇な方じゃないのはわかっているはずよ」
シグルスは黙り込む。反論するべく考えているようだったが、それも諦めたらしい。
リラが淹れた茶に仏頂面で手を伸ばし、彼はふと思いついたように意地悪な笑みを浮かべた。
「そんな氷みたいな冷たい顔してるくせに、兄弟の中で一番勝ち気なのは姉上かもな。知ってる? 宮廷じゃ、あいつら姉上のことを『氷柱の皇女』って呼んでるらしい。言い得て妙だよな」
二杯目の茶を飲もうとしていたユーゼリカは、手を止めて侍女を見る。
「センスのない二つ名に思えるけれど、褒められているのかしら?」
「もちろんですとも。他を寄せ付けない高貴な佇まい、そして切れ味鋭い舌鋒で心を突き刺し打ち砕き、皆をひれ伏させる……。褒め言葉に決まってますわ!」
「悪口なんだよどう考えても。おまえはもういい」
皮肉が通じず、シグルスはむすりとしてカップをあおった。ずれたやりとりに毒気を抜かれたのか、その顔からは先ほどのようなとげとげしさが薄れている。それを見てとり、ユーゼリカもまたカップを口へ運んだ。
「資金が必要なら早めに言いなさい。どんなことにどれくらいかかるか、明細も添えて」
「……は?」
「あなたの将来のための蓄えがあるから、それを使って好きにやればいいわ。ただし、お金にあかせて下手を打たないこと。努力と綿密な作戦あってこその資金ですからね」
無駄遣いはしないでちょうだい、と言い結んだ姉を、シグルスはしばし見つめていた。
何か言おうとしたようだが、結局は口をつぐみ、決まり悪げに菓子をぱくつき出す。
ユーゼリカもそれ以上返事を求めたりはしなかった。何事もなかったように窓の外に目をやり、今日は天気がいいわね、なんてことを考える。
しかし無言のお茶会はそう長くは続かなかった。音もなく現れた執事のトマスが、うやうやしく一礼して告げたからだ。
「そろそろお時間でございます。御支度を、両殿下」
菓子を頬張っていたシグルスが、怪訝そうに目をやる。
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