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2巻
2-3
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店子の健康状態の確認と才能の芽吹き具合を見るため、という名目で始めた食事会だが、今では単純に娯楽になっている面も大きい。こうして食べ物を持ち寄ることも多くなった。
そしてそれらを調理するのは、もちろん食事会の責任者であるユーゼリカなのだが。
「ありがとう、イーサンさん。ではすぐに調理を」
「あ、僕がやりまーす」
ひょいと横から手が伸びてきて、紙袋を取り上げた。
見れば、フィルが中身を確認しながら厨房へ入ろうとしている。
「先に始めててください。すぐに切って焼いて持っていきますから」
「あー、それがいいぜ。姫さんがやると小一時間はかかるからな」
イーサンがにやにやしながら言い、ユーゼリカは紙袋を受け取った体勢のまま顔をあげた。
「なんですって?」
「いやいや。お昼から準備して疲れてるだろうから、労りたいだけですよ」
笑って振り向いたフィルがそのまま行ってしまう。そのさりげなさに礼を言う間もなかった。
「あいつ姫さんに何かっちゃ手ぇ貸してるけど、タダ働きするようなやつじゃねえよな。あとでまとめて請求されるんじゃねえの?」
意地の悪い笑みを浮かべて顔を近づけてきたイーサンを、ユーゼリカは冷静なまま見返す。
「小一時間は大げさだわ。皆さんの食事が終わるまでには切り終えるわよ」
「いや、根に持つなよ。冗談だろ冗談!」
行こうぜ、と促され、フィルの言葉にも甘えることにして、ユーゼリカは食卓へと向かった。確かに一息つきたかったところだ。
すでに料理の配膳は終わっていたので皆で先に食べようとしていると、どたばたと騒がしい足音が廊下から聞こえてきた。
何事かとそちらを見ていると、食堂の扉が開いて黒髪の青年が飛び込んできた。中性的で美しい顔が赤く染まり、はあはあと息を切らしている。外出中だったアンリ・インゲルだ。
「どうしたんだよ?」
イーサンが目を丸くして立ち上がる。普段は落ち着いているアンリしか見たことがないだけに、他の皆も驚いた顔で注目していた。
アンリはしばし口もきけない様子で膝に手を当ててうなだれていたが、やがてがばりと顔をあげた。その瞳は興奮と歓喜に満ちてきらめいている。
「これを見てよ! 合格したんだ! 青い百合歌劇団!」
ええっ、とどよめきが起きた。
彼は今日、最終選抜の結果発表のため、その劇団に呼ばれていたのだ。イーサンが慌てたようにアンリに歩み寄る。
「まじか! それ合格通知? ちょ、見せてみろ。一応冷静な第三者が確認しとかねえとっ」
「いや、間違ってないし勘違いでもないよ。劇団の主宰から渡されたんだからね」
「すごいじゃないですか~。帝都でも五本の指に入るくらいの有名どころですよね?」
「そう。ここが本命だったんだ。でもまさか本当に受かるなんて」
拍手するエリオットに答えたアンリは、頬を上気させ嬉しそうにしている。詐欺師として手配中といういわくつきの彼だが、そうしているとごく普通の青年に見えた。
煙に巻くような物言いをし、ふらふら遊んでいるようでありながら、一方では彼が様々な劇団の入団試験を受け続けていたことを思い出し、ユーゼリカの胸に感動の波が押し寄せた。
(素晴らしい……。努力が実る姿というのはこんなにも美しいのね)
シェリルやルカに祝いの言葉をかけられ、厨房から戻ったフィルやイーサンに酒を勧められて、アンリは照れたように笑っている。ユーゼリカはうなずきながらその光景を見守っていたが、ふと傍らの帳面に目をやった。
こんな時のために用意していたものがあったのを思い出したのだ。それを取り出し、輪の中心にいるアンリへとゆっくり近づいた。
「アンリさん……おめでとう。この日が来るのを待ちわびていたわ」
「あっ、リリカさん。ありがとうございます。でもまだやっと入団できたというだけですけどね」
謙遜したように答えながらも満更でもなさそうなアンリに、ユーゼリカは封書を差し出した。
「いずれあなたに渡そうと思っていたの。せっかくのおめでたい日だから餞にさせていただくわ」
「おや、まさか恋文ですか? みんなの前で渡すとは大胆ですね。リリカさんの思いにどうやって応えてさしあげようかな。ふふ、さて一体どんな熱烈な言葉が――」
にこにこしながら受け取って開いたアンリが、そのまま固まった。
便箋にびっしりと書かれているのは、愛の言葉からは程遠いものだった。
〈・発声練習……一日三回各三時間 ・表情の練習……喜怒哀楽その他四つまで自分で課題とし、各一時間 ・歩行練習……二時間 ・ダンス練習……三時間 ・静止練習……二時間 ・演技実践……六時間――〉
「……なんですか、これは?」
すっかり夢心地から覚めた顔で訊いてきたアンリに、ユーゼリカは真顔で応じた。
「国民的俳優となるための訓練計画表だけれど?」
「は……、あ、あははは、またまたぁ。これじゃ寝る時間がありませんよ。いやだなぁ」
冗談と思ったのか乾いた声で笑うアンリに、ぴしりと宣言する。
「一流を目指すのなら寝ている暇などないわ。私も付き合うからお気張りになって」
ぱさっ、とアンリの手から手紙が落ちた。彼はみるみる顔を青くし、震えだした。
「あなたは鬼だ……! こんなことしてたら寝不足でお肌が荒れる! そんなの耐えられない!」
「いや、その前に死ぬんじゃね?」
隣から便箋をのぞいたイーサンが顔を引きつらせている。フィルも「早速しごきとは厳しいなぁ」と苦笑気味だ。
張り切って応援するつもりが、どうやらやり方を間違えてしまったらしい。「絶対に嫌だ、無理無理」と嘆いているアンリを見守りつつ、ユーゼリカは考え込む。
(ここまでこぎ着けたのだから才能があるのは間違いない。一刻も早く世間に認めさせたいと思ったのだけど……)
どうやって支援するかと思案していると、アンリをなだめて食卓につかせたイーサンが思い出したように言った。
「そういや俺もこの前、小説を送ってさ。結構有名な懸賞のやつなんだけど、そこで三次選考まで行ってんだ」
心なしか得意げな彼に、フィルが感心したように目を見開く。
「すごいじゃないですか。三次を突破したら受賞?」
「いや、もう一つ、最終審査ってのがある。今までも三次までは残ったことあんだけど、そっから先が大きな山なんだよな」
「懸賞ということは賞金が出るんですね。でもそれだと競争が激しそうですけど」
「そうなんだよ。今度のは百万クラインあんだよ。そこまででかい懸賞小説ってなかなかねえから……つかそれの情報教えてきたのっておまえだよな? 銭ゲバの情報網すげえな」
「ああ、あれですか。頑張ってくださいね。情報提供料は請求しませんからご心配なく」
「言われなくてもやらねえよ!」
和気藹々とやりあっているのを聞いていたユーゼリカの目が、ぎらりと光った。
アンリが名門劇団に合格し、イーサンの小説ももう少しで世に花開こうとしている。これはいい流れだ。なんとしても後押ししなければ。
「イーサンさん。その懸賞小説はどちらの新聞社が主催しているの? それとも出版社かしら?」
「あ? 北ヴィルド出版だけど」
「北ヴィルド出版。皇都にあるのね? 住所を教えていただける? 担当者のお名前は?」
矢継ぎ早に問うユーゼリカと、すっと取り出されたメモを、イーサンが面食らったように交互に見る。
「な、なんだよ? 聞いてどうするつもりだ?」
「懸賞担当者に賄賂を送ってあなたの小説を受賞させるつもりだけど?」
真顔での答えにイーサンは一瞬絶句し、目をむいた。
「黒ッ! なんつう黒いことを堂々と宣言してんだよ!? 本気で度肝抜かれたわ!」
「賄賂とは言葉が悪かったわね。要はお金と引き換えにあなたの才能を世に出すだけのことよ」
「うるせえんだよドラ娘が! なんでも金で解決しようとすんじゃねー!」
肩で息をしながら、びしっとイーサンが指を突きつける。
「俺は自分の力で世間に認めさせるって決めてんだ。賄賂なんか送りやがったら絶交するからな!」
(絶交?)
聞き慣れないが、そうなっては嫌だなと本能的に感じる言葉に、ユーゼリカは口をつぐむ。
宮廷では心付けを送るのはごく普通のことだ。貴族とあまり関わらない自分ですら交わすことがあるのだが、街に暮らす彼らから見たらおかしなことなのか。
まあまあとイーサンをなだめたフィルが、微笑んでこちらを見た。
「イーサンもこう言ってますし、賄賂作戦はまた今度ということで。ね?」
「今度っていつだよ。永遠にねえよ」
「それに世の中悪い人も多いですよ。賄賂だけもらって知らん顔して落選させるとかね。だからもし送る場合は嫌がられても一筆書かせとかないとだめです。後々それを材料に仲良くできるしね」
「指南してんじゃねえよ! つかおまえのほうがやっぱ黒いわ!」
材料って脅迫材料かよと突っ込むイーサンは、もうユーゼリカの提案など忘れてしまったかのようだ。フィルにがみがみ怒りながらシチューをぱくついている。
せっかくの好機にまた支援できないのかと落胆していると、隣にいたシェリルがそっと話しかけてきた。
「お二人を想ってのことだと、わかっていますわ。怒ってはいらっしゃらないと思いますわ」
「……え?」
「そうそう。ちょーっとずれてはいましたけどね~。ま、他に方法がありますよ」
エリオットものほほんと同意する。ずっと無言だった画家のレンは何度もうなずいていた。
慰めてくれたのだと気づき、驚きながらも胸がじんわり温かくなった。ユーゼリカは三人に小さく頭を下げた。
「……ありがとう」
三人が微笑を返してくれたのを見ると、ふつふつとやる気が出てきた。
落ち込む暇などない。うまくいかないことのほうが多いに決まっている。だったら他にやれることを探すのだ。
シチューを口に運びながら考えをめぐらせていたが、ふと思い出した。
「そういえば、十二番街に小さな店舗を借りたの。どなたかお使いにならない?」
カフェの店舗を借りるついでにそこもラウルに契約させていたのだ。立地は申し分ないし、建具を揃えればどんな職種にも対応できる。店子たちの才能を生かせる場があればと思ってのことだった。
「十二番街って、まあまあ高級街じゃん」
「そうね。客層もそういった階級が多いでしょう。レンさん、個展をなさってはいかが?」
彼の絵を貴族階級に広めようと画策している途中だが、これもよい機会だ。しかし話を向けた途端、レンはぶんぶん首を横に振って拒否の意を表した。ほぼ言葉を発することもない大人しすぎる彼には高い壁のようだ。
「シェリル姉さんは? 昔、菓子屋だったんだろ?」
イーサンの提案に内心どきりとする。その店舗と近い場所で、彼女のレシピを使った菓子を置くカフェをやっているのだ。他の街ならともかく、あれほど近いと客の間で噂になるかもしれない。
ユーゼリカの懸念をよそに、シェリルは曖昧に笑って頭を振った。
「わたしは……、子どもの世話もありますし、内職もしていますから。それで手一杯ですわ」
「でも一日中ここに閉じこもってるのもつまらないでしょう? その店で内職をするとか」
「そんな。立派なお店でしょうに、そんなことに使うのはもったいないですから」
アンリの言葉に慌てたように両手を振ると、躊躇いがちに息子のルカに目をやる。大人たちの話はわかっていないようで、ルカは首から提げたペンダントを片手でいじっていた。その様子を見守る横顔は、気乗りしないという理由以外にも何かありそうに見えた。
「じゃあ、私が使ってもいいですかぁ?」
首をかしげてシェリルを見ていたユーゼリカは、のんびりとした声につられてそちらを見た。
エリオットが肘を折って右手を挙げている。緊張感のないその顔に全員の目が集まった。
「そろそろ発明品も溜まってきましたし、展示も兼ねて販売しちゃおうかな~と思ってまして。客から注文があればそれを受けたりしてね。何もしないよりは、いくらかは収入があったほうがいいですしね~」
まさかの人物の挙手に虚をつかれ、ユーゼリカはまじまじと彼を見つめてしまった。
「あなたがそこまでやる気を出していらしたなんて……。感動したわ」
「いやぁ、お二人の活躍に触発されちゃいましたかね~」
手で示されたイーサンとアンリが驚いた顔で目を合わせる。彼らも意外だったようだ。
「いいんじゃね? 展示しながら販売して、暇な時は機械いじりして。向いてるんじゃねえの」
「そうだね。客層が良いそうだし、もしかしたら大きな仕事が舞い込むかもしれないよ」
「だといいですね~。というわけで、よろしいですかぁ? リリカさん?」
ユーゼリカはあらたまってうなずいた。反対する理由などあるはずがない。
「もちろんよ。必要なものがあれば仰って。後ほどあなたを後押しする支援策を講じるわ」
「いや、それはやめとけよ」
イーサンが恐ろしげに言い、笑いが起こった。それがけして嫌な笑いではないことに、ユーゼリカも思わず微笑む。
皇太子指名選を勝ち抜くため、そして店子たちの夢を叶える一歩がまた進んだ気がした。
***
二週間おきに滞在している下宿館では、最終日の食事会が終わると城へ戻ることにしている。
今回も名残惜しいながらも帰城し、また雑事に追われる日々が始まった。
「姫様、ご機嫌よさそうですね」
書簡の詰まった籠を運んできたキースに言われ、ユーゼリカは小首をかしげる。
「そう見える? 実のところは半々なのだけど」
「と仰いますと?」
「店子の皆さんが活躍されて嬉しい反面、それを見守る道半ばでこうして埒もない手紙の返事をしたためることになって、面倒なことこの上ないわ」
いつものことだが、この二週間でまたもや書簡と贈り物が山のように来ていた。返事を書くかわりに愚痴くらいこぼしても罰は当たらないだろう。
キースが苦笑して籠の中身を検分し始める。
「そんなところに次のお手紙集を持ってきてしまって恐縮です。――でも、そうですか、そんなにみんな活躍してるんですね」
「ええ。最初に比べたら見違えるくらい。アンリさんは練習生として励んでいらっしゃるし、イーサンさんの懸賞小説も期待できそうだし。エリオットさんは早速店を開いてらしたわ」
あの食事会から一週間あまり。エリオットは早くも発明品を店舗に運び込み、展示を始めた。店子たちも暇を見て開店準備を手伝ってくれたらしい。
城へ戻る途中、馬車の中からカフェを偵察したついでに彼の店も隠れて見てみた。まだ客の姿はなかったが、下宿館にいる時よりも気のせいか頼もしく思えたものだった。
(いいのよ。初めから繁盛するとは思っていない。頑張っていらっしゃるだけで素晴らしいわ)
思い出してうなずいていると、機械的に書簡を仕分けしていたキースがふと手を止めた。
「へえぇ……? 珍しい。ナターリア妃殿下からですよ。茶会に招待したいと」
そう言って彼は、クリーム色にベージュの装飾がされた封筒を掲げた。
落ち着いて品があり好感が持てる書簡。こういうものにも差出人の人格が表れるものだ。観察したユーゼリカは一瞬考えた。
「エレンティウス殿下のお母君ね」
第一皇子エレンティウスの母は、数多いる妃の中でも最古参に入る。皇后のいない後宮において、嫁いだ順が早い妃はそれだけで敬われる存在だ。妃も皇子皇女も序列はないと皇帝が宣言しているとはいえ、それくらいの礼儀は誰しもわきまえている。
もちろんユーゼリカもその意味では敬愛を抱いているが、逆に言えば長兄の母親であるということしか接点はない。言葉を交わしたこともないのではというくらいの人から茶会の招待状が来るのは確かに珍しいことだった。
「エレンティウス殿下のために探りを入れようってところですかね。どうなさいます?」
キースから封筒を受け取り、中身に目を走らせると、ユーゼリカは顎に手を当てる。
あの人畜無害な第一皇子の母なのだから、権力欲にまみれたぎらぎらした人だとは考えにくい。キースの言うように、息子のために何かやらねばと動き出したのだろう。現に彼女から書簡が来たのはこれが初めてだ。
「応じるわ。エレンティウス殿下の母君なら無闇に物騒なことを仕掛けたりはしないでしょう」
「よろしいので?」
個人の茶会の招待に応じるのも、実は初めてだった。キースが驚いた顔をしている。
「近頃は面会希望もますます増えたでしょう。以前のようにまったく無視していてはあやしまれるし、ある程度はお付き合いに乗るようにするわ。その最初のお相手としては最適だと思うのだけど、どうかしら」
「確かにそうですね。妃殿下の中では古参の方で、第一皇子殿下のお母君ですし。それに、失礼ですが、あまりご実家がうるさくないですしね。そういう意味では無難かと」
とそこで彼は便箋をのぞき込み、なんともいえない顔つきになった。
「でもこれ、茶会の日付は今日の午後になってますよ。さすがに急すぎますよね」
よく見ると確かにそう記してある。届くまでに手違いがあって遅くなってしまったのか、それとも急いで招待したい理由でもあるのか。
少し引っかかったが、しばし考えた末、ユーゼリカは心を決めた。
「構わないわ。二週間しかいられないのだから、その間に済むのなら大歓迎よ」
自分がどこぞの茶会に出かけていけば、どうせ宮廷中に話がもれるに決まっている。会話の内容を知ることで安心する人たちも中にはいるだろう。ずっと注目され警戒され続けるのなら、早めにこちらも仕掛けたほうがいい。
「ナターリア妃殿下には申し訳ないけれど、情報戦に一役買っていただきましょう」
キースが用意したペンにインクをつけながら、表情も変えずつぶやく。
この時は、後にとんでもない騒動に巻き込まれるとは予想もしていなかった。
城の本宮殿には、皇族や貴族が使用するサロンと呼ばれる部屋が数多く存在する。趣味の集まりや仲間内の舞踏会、夜会などが行われ、貴人たちの社交場としてなくてはならない場所だ。
ユーゼリカが呼び出されたのもそんなサロンの一室だった。貴婦人たちの間では茶会が催されることもあり、それ自体は珍しくはないらしい。
(私宮に招く方がほとんどなのに。あえてこちらで催すのには何か理由が?)
面識は欲しいが私的な場には踏み込まれたくないというところか。それなら気持ちはわからなくはないし、こちらも公の場での面会のほうが気が楽だ。もとよりそんなに親しくなるつもりはない。
あれこれ考えながら指定されたサロンへ向かうと、扉の前に控えていた侍女が待ちかねたように中へ入れてくれた。
「ユーゼリカ殿下! お待ちしていましたわ。さあ、こちらへいらして」
一歩足を踏み入れた途端、すぐ横で声がして、思わずびくりとする。
扉の傍に女性が笑みをたたえて立っていた。金糸の刺繍があざやかになされた深いベージュ色のドレスをまとい、結い上げた茶色の髪には深紅石をあしらった飾りをつけている。目尻にはいくらか皺があったがそれすらも彼女の品と穏やかな内面を表しているような、美しい人だった。
「来てくださって本当に嬉しいわ。まさか応じてくださるとは思っていなかったものだから、こんな急ごしらえの場になってしまって。ごめんなさいね」
すまなそうに眉をひそめた彼女に、虚をつかれていたユーゼリカは表情を整えた。
「とんでもない。こちらのお返事が遅くなり、ご迷惑をおかけしました。本日はお招きいただきありがとうございます」
「まあ……。若いのに落ち着いていらっしゃるわね」
丁寧に会釈をしたのを見て、彼女は感じ入ったようにうなずいている。
ナターリア妃。二十代も半ばを過ぎた息子がいるとは思えぬ若々しさがある。それでいて派手に着飾ったり化粧を塗り重ねたりということはなく、表情や声にも険が感じられなかった。
ひそかに観察したユーゼリカに気づいたふうでもなく、ナターリアは自らテーブルに案内した。侍女たちがさりげなく集まり、茶を淹れたり菓子を取り分けたりしてくれる。飾り気のない茶器や食器だがどれも上質なものだ。菓子も森緑の宮では見ないような洒落たものばかりだった。
(まあ、そもそも森緑の宮では華やかな茶会なんてしたことがないものね)
皇帝の茶会で見かけるものに比べたらきらびやかさでは敵わないが、それなりのものを用意してくれたのだろう。少なくとも冷やかしの面会申請ではなく、もてなす気持ちはあるようだ。
いざ向かい合うと、ナターリアは話題を探すようにしながら、ぎこちなく口を開いた。
「あまりこうしてお話ししたことはなかったけれど……。確か、十八歳におなりだったわね。シグルス殿下とは、そんなに年が離れておいでではなかったと思うけれど……」
「一つ違いです。今年で十七になります」
「そうだったわね。月日の経つのは早いものだわ。エルルーシュカ妃殿下がお亡くなりになった時は、まだ……」
ユーゼリカは口に運んでいたカップを離し、一拍置いてから答えた。
「十二歳と十一歳でした」
そう、とナターリアが目を伏せる。
「お小さいのに、お気の毒だったわね。エルルーシュカ妃殿下はとてもお優しくて良い方で……。あなた方を遺していかれるのはさぞ無念だったでしょう。察するに余りあるわ」
「恐れ入ります」
「陛下も気落ちなさったことでしょうね。エルルーシュカ妃殿下は一番の寵妃でいらしたから」
同情したようにしみじみ言われたが、ユーゼリカは無言で礼をするにとどめた。
あれからもう六年以上が経つ。当時、父帝は北部へ親征しており、一時は敗走して戦死したとの誤報が流れた。城中が混乱の激流に呑まれる中、幼かった妹が亡くなり、妹の看病で弱っていた母も後を追うように逝った。しかし無事帰城した父帝は一番の寵妃だったはずの母と妹を満足に弔いもせず、森緑の宮を訪れることもなくなった。以来、ユーゼリカと弟のシグルスは顧みられることなく、皇帝に見捨てられた子として宮廷で侮蔑される存在になっている。
そこにはおそらく、生前寵妃だった母へのやっかみのようなものもあるのだろう。そう気づいた時に、それだけ母が羨まれていた証だと前向きに捉えることにした。そして、蔑まれ嘲られる自分たちの境遇を嘆くのをやめた。
目の前にいる皇女のそんな現状を思い出したのか、ナターリアが気まずげに目を泳がせた。
「あ……、それで、その……、今もご苦労をなさっているわよね。お母上が亡くなって後ろ盾がないのだもの」
「さほどでは。華やかな身分ではありませんが、弟と楽しくやっておりますわ」
「いいえ! 今はよくてもこれからもそうとは限らないわ。やはり確固とした後ろ盾は必要よ」
当たり障りのない返答に、なぜか彼女は力強く反論してきた。何事かと見つめたユーゼリカに、意を決したようなまなざしを向けてくる。
「思えばあなたもお年頃だわ。お母上の代わりに誰かがお世話をせねばと思っていたのよ。今日の茶会に応じてくださって本当に良かった。これはシグルス殿下のためにもなるわ。聡いあなたならおわかりでしょう?」
「……はい?」
急に勢いづいてまくしたてたナターリアが、侍女に向かって目配せする。すかさず近づいてきた侍女から冊子のようなものを受け取ると、彼女は緊張の面持ちでそれを開いて見せた。
そしてそれらを調理するのは、もちろん食事会の責任者であるユーゼリカなのだが。
「ありがとう、イーサンさん。ではすぐに調理を」
「あ、僕がやりまーす」
ひょいと横から手が伸びてきて、紙袋を取り上げた。
見れば、フィルが中身を確認しながら厨房へ入ろうとしている。
「先に始めててください。すぐに切って焼いて持っていきますから」
「あー、それがいいぜ。姫さんがやると小一時間はかかるからな」
イーサンがにやにやしながら言い、ユーゼリカは紙袋を受け取った体勢のまま顔をあげた。
「なんですって?」
「いやいや。お昼から準備して疲れてるだろうから、労りたいだけですよ」
笑って振り向いたフィルがそのまま行ってしまう。そのさりげなさに礼を言う間もなかった。
「あいつ姫さんに何かっちゃ手ぇ貸してるけど、タダ働きするようなやつじゃねえよな。あとでまとめて請求されるんじゃねえの?」
意地の悪い笑みを浮かべて顔を近づけてきたイーサンを、ユーゼリカは冷静なまま見返す。
「小一時間は大げさだわ。皆さんの食事が終わるまでには切り終えるわよ」
「いや、根に持つなよ。冗談だろ冗談!」
行こうぜ、と促され、フィルの言葉にも甘えることにして、ユーゼリカは食卓へと向かった。確かに一息つきたかったところだ。
すでに料理の配膳は終わっていたので皆で先に食べようとしていると、どたばたと騒がしい足音が廊下から聞こえてきた。
何事かとそちらを見ていると、食堂の扉が開いて黒髪の青年が飛び込んできた。中性的で美しい顔が赤く染まり、はあはあと息を切らしている。外出中だったアンリ・インゲルだ。
「どうしたんだよ?」
イーサンが目を丸くして立ち上がる。普段は落ち着いているアンリしか見たことがないだけに、他の皆も驚いた顔で注目していた。
アンリはしばし口もきけない様子で膝に手を当ててうなだれていたが、やがてがばりと顔をあげた。その瞳は興奮と歓喜に満ちてきらめいている。
「これを見てよ! 合格したんだ! 青い百合歌劇団!」
ええっ、とどよめきが起きた。
彼は今日、最終選抜の結果発表のため、その劇団に呼ばれていたのだ。イーサンが慌てたようにアンリに歩み寄る。
「まじか! それ合格通知? ちょ、見せてみろ。一応冷静な第三者が確認しとかねえとっ」
「いや、間違ってないし勘違いでもないよ。劇団の主宰から渡されたんだからね」
「すごいじゃないですか~。帝都でも五本の指に入るくらいの有名どころですよね?」
「そう。ここが本命だったんだ。でもまさか本当に受かるなんて」
拍手するエリオットに答えたアンリは、頬を上気させ嬉しそうにしている。詐欺師として手配中といういわくつきの彼だが、そうしているとごく普通の青年に見えた。
煙に巻くような物言いをし、ふらふら遊んでいるようでありながら、一方では彼が様々な劇団の入団試験を受け続けていたことを思い出し、ユーゼリカの胸に感動の波が押し寄せた。
(素晴らしい……。努力が実る姿というのはこんなにも美しいのね)
シェリルやルカに祝いの言葉をかけられ、厨房から戻ったフィルやイーサンに酒を勧められて、アンリは照れたように笑っている。ユーゼリカはうなずきながらその光景を見守っていたが、ふと傍らの帳面に目をやった。
こんな時のために用意していたものがあったのを思い出したのだ。それを取り出し、輪の中心にいるアンリへとゆっくり近づいた。
「アンリさん……おめでとう。この日が来るのを待ちわびていたわ」
「あっ、リリカさん。ありがとうございます。でもまだやっと入団できたというだけですけどね」
謙遜したように答えながらも満更でもなさそうなアンリに、ユーゼリカは封書を差し出した。
「いずれあなたに渡そうと思っていたの。せっかくのおめでたい日だから餞にさせていただくわ」
「おや、まさか恋文ですか? みんなの前で渡すとは大胆ですね。リリカさんの思いにどうやって応えてさしあげようかな。ふふ、さて一体どんな熱烈な言葉が――」
にこにこしながら受け取って開いたアンリが、そのまま固まった。
便箋にびっしりと書かれているのは、愛の言葉からは程遠いものだった。
〈・発声練習……一日三回各三時間 ・表情の練習……喜怒哀楽その他四つまで自分で課題とし、各一時間 ・歩行練習……二時間 ・ダンス練習……三時間 ・静止練習……二時間 ・演技実践……六時間――〉
「……なんですか、これは?」
すっかり夢心地から覚めた顔で訊いてきたアンリに、ユーゼリカは真顔で応じた。
「国民的俳優となるための訓練計画表だけれど?」
「は……、あ、あははは、またまたぁ。これじゃ寝る時間がありませんよ。いやだなぁ」
冗談と思ったのか乾いた声で笑うアンリに、ぴしりと宣言する。
「一流を目指すのなら寝ている暇などないわ。私も付き合うからお気張りになって」
ぱさっ、とアンリの手から手紙が落ちた。彼はみるみる顔を青くし、震えだした。
「あなたは鬼だ……! こんなことしてたら寝不足でお肌が荒れる! そんなの耐えられない!」
「いや、その前に死ぬんじゃね?」
隣から便箋をのぞいたイーサンが顔を引きつらせている。フィルも「早速しごきとは厳しいなぁ」と苦笑気味だ。
張り切って応援するつもりが、どうやらやり方を間違えてしまったらしい。「絶対に嫌だ、無理無理」と嘆いているアンリを見守りつつ、ユーゼリカは考え込む。
(ここまでこぎ着けたのだから才能があるのは間違いない。一刻も早く世間に認めさせたいと思ったのだけど……)
どうやって支援するかと思案していると、アンリをなだめて食卓につかせたイーサンが思い出したように言った。
「そういや俺もこの前、小説を送ってさ。結構有名な懸賞のやつなんだけど、そこで三次選考まで行ってんだ」
心なしか得意げな彼に、フィルが感心したように目を見開く。
「すごいじゃないですか。三次を突破したら受賞?」
「いや、もう一つ、最終審査ってのがある。今までも三次までは残ったことあんだけど、そっから先が大きな山なんだよな」
「懸賞ということは賞金が出るんですね。でもそれだと競争が激しそうですけど」
「そうなんだよ。今度のは百万クラインあんだよ。そこまででかい懸賞小説ってなかなかねえから……つかそれの情報教えてきたのっておまえだよな? 銭ゲバの情報網すげえな」
「ああ、あれですか。頑張ってくださいね。情報提供料は請求しませんからご心配なく」
「言われなくてもやらねえよ!」
和気藹々とやりあっているのを聞いていたユーゼリカの目が、ぎらりと光った。
アンリが名門劇団に合格し、イーサンの小説ももう少しで世に花開こうとしている。これはいい流れだ。なんとしても後押ししなければ。
「イーサンさん。その懸賞小説はどちらの新聞社が主催しているの? それとも出版社かしら?」
「あ? 北ヴィルド出版だけど」
「北ヴィルド出版。皇都にあるのね? 住所を教えていただける? 担当者のお名前は?」
矢継ぎ早に問うユーゼリカと、すっと取り出されたメモを、イーサンが面食らったように交互に見る。
「な、なんだよ? 聞いてどうするつもりだ?」
「懸賞担当者に賄賂を送ってあなたの小説を受賞させるつもりだけど?」
真顔での答えにイーサンは一瞬絶句し、目をむいた。
「黒ッ! なんつう黒いことを堂々と宣言してんだよ!? 本気で度肝抜かれたわ!」
「賄賂とは言葉が悪かったわね。要はお金と引き換えにあなたの才能を世に出すだけのことよ」
「うるせえんだよドラ娘が! なんでも金で解決しようとすんじゃねー!」
肩で息をしながら、びしっとイーサンが指を突きつける。
「俺は自分の力で世間に認めさせるって決めてんだ。賄賂なんか送りやがったら絶交するからな!」
(絶交?)
聞き慣れないが、そうなっては嫌だなと本能的に感じる言葉に、ユーゼリカは口をつぐむ。
宮廷では心付けを送るのはごく普通のことだ。貴族とあまり関わらない自分ですら交わすことがあるのだが、街に暮らす彼らから見たらおかしなことなのか。
まあまあとイーサンをなだめたフィルが、微笑んでこちらを見た。
「イーサンもこう言ってますし、賄賂作戦はまた今度ということで。ね?」
「今度っていつだよ。永遠にねえよ」
「それに世の中悪い人も多いですよ。賄賂だけもらって知らん顔して落選させるとかね。だからもし送る場合は嫌がられても一筆書かせとかないとだめです。後々それを材料に仲良くできるしね」
「指南してんじゃねえよ! つかおまえのほうがやっぱ黒いわ!」
材料って脅迫材料かよと突っ込むイーサンは、もうユーゼリカの提案など忘れてしまったかのようだ。フィルにがみがみ怒りながらシチューをぱくついている。
せっかくの好機にまた支援できないのかと落胆していると、隣にいたシェリルがそっと話しかけてきた。
「お二人を想ってのことだと、わかっていますわ。怒ってはいらっしゃらないと思いますわ」
「……え?」
「そうそう。ちょーっとずれてはいましたけどね~。ま、他に方法がありますよ」
エリオットものほほんと同意する。ずっと無言だった画家のレンは何度もうなずいていた。
慰めてくれたのだと気づき、驚きながらも胸がじんわり温かくなった。ユーゼリカは三人に小さく頭を下げた。
「……ありがとう」
三人が微笑を返してくれたのを見ると、ふつふつとやる気が出てきた。
落ち込む暇などない。うまくいかないことのほうが多いに決まっている。だったら他にやれることを探すのだ。
シチューを口に運びながら考えをめぐらせていたが、ふと思い出した。
「そういえば、十二番街に小さな店舗を借りたの。どなたかお使いにならない?」
カフェの店舗を借りるついでにそこもラウルに契約させていたのだ。立地は申し分ないし、建具を揃えればどんな職種にも対応できる。店子たちの才能を生かせる場があればと思ってのことだった。
「十二番街って、まあまあ高級街じゃん」
「そうね。客層もそういった階級が多いでしょう。レンさん、個展をなさってはいかが?」
彼の絵を貴族階級に広めようと画策している途中だが、これもよい機会だ。しかし話を向けた途端、レンはぶんぶん首を横に振って拒否の意を表した。ほぼ言葉を発することもない大人しすぎる彼には高い壁のようだ。
「シェリル姉さんは? 昔、菓子屋だったんだろ?」
イーサンの提案に内心どきりとする。その店舗と近い場所で、彼女のレシピを使った菓子を置くカフェをやっているのだ。他の街ならともかく、あれほど近いと客の間で噂になるかもしれない。
ユーゼリカの懸念をよそに、シェリルは曖昧に笑って頭を振った。
「わたしは……、子どもの世話もありますし、内職もしていますから。それで手一杯ですわ」
「でも一日中ここに閉じこもってるのもつまらないでしょう? その店で内職をするとか」
「そんな。立派なお店でしょうに、そんなことに使うのはもったいないですから」
アンリの言葉に慌てたように両手を振ると、躊躇いがちに息子のルカに目をやる。大人たちの話はわかっていないようで、ルカは首から提げたペンダントを片手でいじっていた。その様子を見守る横顔は、気乗りしないという理由以外にも何かありそうに見えた。
「じゃあ、私が使ってもいいですかぁ?」
首をかしげてシェリルを見ていたユーゼリカは、のんびりとした声につられてそちらを見た。
エリオットが肘を折って右手を挙げている。緊張感のないその顔に全員の目が集まった。
「そろそろ発明品も溜まってきましたし、展示も兼ねて販売しちゃおうかな~と思ってまして。客から注文があればそれを受けたりしてね。何もしないよりは、いくらかは収入があったほうがいいですしね~」
まさかの人物の挙手に虚をつかれ、ユーゼリカはまじまじと彼を見つめてしまった。
「あなたがそこまでやる気を出していらしたなんて……。感動したわ」
「いやぁ、お二人の活躍に触発されちゃいましたかね~」
手で示されたイーサンとアンリが驚いた顔で目を合わせる。彼らも意外だったようだ。
「いいんじゃね? 展示しながら販売して、暇な時は機械いじりして。向いてるんじゃねえの」
「そうだね。客層が良いそうだし、もしかしたら大きな仕事が舞い込むかもしれないよ」
「だといいですね~。というわけで、よろしいですかぁ? リリカさん?」
ユーゼリカはあらたまってうなずいた。反対する理由などあるはずがない。
「もちろんよ。必要なものがあれば仰って。後ほどあなたを後押しする支援策を講じるわ」
「いや、それはやめとけよ」
イーサンが恐ろしげに言い、笑いが起こった。それがけして嫌な笑いではないことに、ユーゼリカも思わず微笑む。
皇太子指名選を勝ち抜くため、そして店子たちの夢を叶える一歩がまた進んだ気がした。
***
二週間おきに滞在している下宿館では、最終日の食事会が終わると城へ戻ることにしている。
今回も名残惜しいながらも帰城し、また雑事に追われる日々が始まった。
「姫様、ご機嫌よさそうですね」
書簡の詰まった籠を運んできたキースに言われ、ユーゼリカは小首をかしげる。
「そう見える? 実のところは半々なのだけど」
「と仰いますと?」
「店子の皆さんが活躍されて嬉しい反面、それを見守る道半ばでこうして埒もない手紙の返事をしたためることになって、面倒なことこの上ないわ」
いつものことだが、この二週間でまたもや書簡と贈り物が山のように来ていた。返事を書くかわりに愚痴くらいこぼしても罰は当たらないだろう。
キースが苦笑して籠の中身を検分し始める。
「そんなところに次のお手紙集を持ってきてしまって恐縮です。――でも、そうですか、そんなにみんな活躍してるんですね」
「ええ。最初に比べたら見違えるくらい。アンリさんは練習生として励んでいらっしゃるし、イーサンさんの懸賞小説も期待できそうだし。エリオットさんは早速店を開いてらしたわ」
あの食事会から一週間あまり。エリオットは早くも発明品を店舗に運び込み、展示を始めた。店子たちも暇を見て開店準備を手伝ってくれたらしい。
城へ戻る途中、馬車の中からカフェを偵察したついでに彼の店も隠れて見てみた。まだ客の姿はなかったが、下宿館にいる時よりも気のせいか頼もしく思えたものだった。
(いいのよ。初めから繁盛するとは思っていない。頑張っていらっしゃるだけで素晴らしいわ)
思い出してうなずいていると、機械的に書簡を仕分けしていたキースがふと手を止めた。
「へえぇ……? 珍しい。ナターリア妃殿下からですよ。茶会に招待したいと」
そう言って彼は、クリーム色にベージュの装飾がされた封筒を掲げた。
落ち着いて品があり好感が持てる書簡。こういうものにも差出人の人格が表れるものだ。観察したユーゼリカは一瞬考えた。
「エレンティウス殿下のお母君ね」
第一皇子エレンティウスの母は、数多いる妃の中でも最古参に入る。皇后のいない後宮において、嫁いだ順が早い妃はそれだけで敬われる存在だ。妃も皇子皇女も序列はないと皇帝が宣言しているとはいえ、それくらいの礼儀は誰しもわきまえている。
もちろんユーゼリカもその意味では敬愛を抱いているが、逆に言えば長兄の母親であるということしか接点はない。言葉を交わしたこともないのではというくらいの人から茶会の招待状が来るのは確かに珍しいことだった。
「エレンティウス殿下のために探りを入れようってところですかね。どうなさいます?」
キースから封筒を受け取り、中身に目を走らせると、ユーゼリカは顎に手を当てる。
あの人畜無害な第一皇子の母なのだから、権力欲にまみれたぎらぎらした人だとは考えにくい。キースの言うように、息子のために何かやらねばと動き出したのだろう。現に彼女から書簡が来たのはこれが初めてだ。
「応じるわ。エレンティウス殿下の母君なら無闇に物騒なことを仕掛けたりはしないでしょう」
「よろしいので?」
個人の茶会の招待に応じるのも、実は初めてだった。キースが驚いた顔をしている。
「近頃は面会希望もますます増えたでしょう。以前のようにまったく無視していてはあやしまれるし、ある程度はお付き合いに乗るようにするわ。その最初のお相手としては最適だと思うのだけど、どうかしら」
「確かにそうですね。妃殿下の中では古参の方で、第一皇子殿下のお母君ですし。それに、失礼ですが、あまりご実家がうるさくないですしね。そういう意味では無難かと」
とそこで彼は便箋をのぞき込み、なんともいえない顔つきになった。
「でもこれ、茶会の日付は今日の午後になってますよ。さすがに急すぎますよね」
よく見ると確かにそう記してある。届くまでに手違いがあって遅くなってしまったのか、それとも急いで招待したい理由でもあるのか。
少し引っかかったが、しばし考えた末、ユーゼリカは心を決めた。
「構わないわ。二週間しかいられないのだから、その間に済むのなら大歓迎よ」
自分がどこぞの茶会に出かけていけば、どうせ宮廷中に話がもれるに決まっている。会話の内容を知ることで安心する人たちも中にはいるだろう。ずっと注目され警戒され続けるのなら、早めにこちらも仕掛けたほうがいい。
「ナターリア妃殿下には申し訳ないけれど、情報戦に一役買っていただきましょう」
キースが用意したペンにインクをつけながら、表情も変えずつぶやく。
この時は、後にとんでもない騒動に巻き込まれるとは予想もしていなかった。
城の本宮殿には、皇族や貴族が使用するサロンと呼ばれる部屋が数多く存在する。趣味の集まりや仲間内の舞踏会、夜会などが行われ、貴人たちの社交場としてなくてはならない場所だ。
ユーゼリカが呼び出されたのもそんなサロンの一室だった。貴婦人たちの間では茶会が催されることもあり、それ自体は珍しくはないらしい。
(私宮に招く方がほとんどなのに。あえてこちらで催すのには何か理由が?)
面識は欲しいが私的な場には踏み込まれたくないというところか。それなら気持ちはわからなくはないし、こちらも公の場での面会のほうが気が楽だ。もとよりそんなに親しくなるつもりはない。
あれこれ考えながら指定されたサロンへ向かうと、扉の前に控えていた侍女が待ちかねたように中へ入れてくれた。
「ユーゼリカ殿下! お待ちしていましたわ。さあ、こちらへいらして」
一歩足を踏み入れた途端、すぐ横で声がして、思わずびくりとする。
扉の傍に女性が笑みをたたえて立っていた。金糸の刺繍があざやかになされた深いベージュ色のドレスをまとい、結い上げた茶色の髪には深紅石をあしらった飾りをつけている。目尻にはいくらか皺があったがそれすらも彼女の品と穏やかな内面を表しているような、美しい人だった。
「来てくださって本当に嬉しいわ。まさか応じてくださるとは思っていなかったものだから、こんな急ごしらえの場になってしまって。ごめんなさいね」
すまなそうに眉をひそめた彼女に、虚をつかれていたユーゼリカは表情を整えた。
「とんでもない。こちらのお返事が遅くなり、ご迷惑をおかけしました。本日はお招きいただきありがとうございます」
「まあ……。若いのに落ち着いていらっしゃるわね」
丁寧に会釈をしたのを見て、彼女は感じ入ったようにうなずいている。
ナターリア妃。二十代も半ばを過ぎた息子がいるとは思えぬ若々しさがある。それでいて派手に着飾ったり化粧を塗り重ねたりということはなく、表情や声にも険が感じられなかった。
ひそかに観察したユーゼリカに気づいたふうでもなく、ナターリアは自らテーブルに案内した。侍女たちがさりげなく集まり、茶を淹れたり菓子を取り分けたりしてくれる。飾り気のない茶器や食器だがどれも上質なものだ。菓子も森緑の宮では見ないような洒落たものばかりだった。
(まあ、そもそも森緑の宮では華やかな茶会なんてしたことがないものね)
皇帝の茶会で見かけるものに比べたらきらびやかさでは敵わないが、それなりのものを用意してくれたのだろう。少なくとも冷やかしの面会申請ではなく、もてなす気持ちはあるようだ。
いざ向かい合うと、ナターリアは話題を探すようにしながら、ぎこちなく口を開いた。
「あまりこうしてお話ししたことはなかったけれど……。確か、十八歳におなりだったわね。シグルス殿下とは、そんなに年が離れておいでではなかったと思うけれど……」
「一つ違いです。今年で十七になります」
「そうだったわね。月日の経つのは早いものだわ。エルルーシュカ妃殿下がお亡くなりになった時は、まだ……」
ユーゼリカは口に運んでいたカップを離し、一拍置いてから答えた。
「十二歳と十一歳でした」
そう、とナターリアが目を伏せる。
「お小さいのに、お気の毒だったわね。エルルーシュカ妃殿下はとてもお優しくて良い方で……。あなた方を遺していかれるのはさぞ無念だったでしょう。察するに余りあるわ」
「恐れ入ります」
「陛下も気落ちなさったことでしょうね。エルルーシュカ妃殿下は一番の寵妃でいらしたから」
同情したようにしみじみ言われたが、ユーゼリカは無言で礼をするにとどめた。
あれからもう六年以上が経つ。当時、父帝は北部へ親征しており、一時は敗走して戦死したとの誤報が流れた。城中が混乱の激流に呑まれる中、幼かった妹が亡くなり、妹の看病で弱っていた母も後を追うように逝った。しかし無事帰城した父帝は一番の寵妃だったはずの母と妹を満足に弔いもせず、森緑の宮を訪れることもなくなった。以来、ユーゼリカと弟のシグルスは顧みられることなく、皇帝に見捨てられた子として宮廷で侮蔑される存在になっている。
そこにはおそらく、生前寵妃だった母へのやっかみのようなものもあるのだろう。そう気づいた時に、それだけ母が羨まれていた証だと前向きに捉えることにした。そして、蔑まれ嘲られる自分たちの境遇を嘆くのをやめた。
目の前にいる皇女のそんな現状を思い出したのか、ナターリアが気まずげに目を泳がせた。
「あ……、それで、その……、今もご苦労をなさっているわよね。お母上が亡くなって後ろ盾がないのだもの」
「さほどでは。華やかな身分ではありませんが、弟と楽しくやっておりますわ」
「いいえ! 今はよくてもこれからもそうとは限らないわ。やはり確固とした後ろ盾は必要よ」
当たり障りのない返答に、なぜか彼女は力強く反論してきた。何事かと見つめたユーゼリカに、意を決したようなまなざしを向けてくる。
「思えばあなたもお年頃だわ。お母上の代わりに誰かがお世話をせねばと思っていたのよ。今日の茶会に応じてくださって本当に良かった。これはシグルス殿下のためにもなるわ。聡いあなたならおわかりでしょう?」
「……はい?」
急に勢いづいてまくしたてたナターリアが、侍女に向かって目配せする。すかさず近づいてきた侍女から冊子のようなものを受け取ると、彼女は緊張の面持ちでそれを開いて見せた。
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