君のいない八月

小貝川リン子

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第四章 銭湯・炬燵・姫初め

第四章 銭湯・炬燵・姫初め①

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 自宅のガス給湯器が故障した。しかもこの年の瀬にだ。全くもってツイていないとしか言いようがない。真冬に冷水を浴びるわけにもいかないから、しばらくは銭湯通いである。
 
「悪りィ、遅れた」
「遅せェ」
「そこは、おれも今来たとこだから♡って言うところだろ」
「遅せェもんは遅せェ。何分待ったと思ってやがる」
「ごめんって。早く中入ろうぜ。鼻の頭真っ赤だぞ」
「誰のせいだと思ってんだ」
 
 俺は仕事終わりに直接銭湯へと向かい、歩とは銭湯の入口で落ち合うことにしている。「わざわざ待ち合わせなんて面倒なことをしなくても、別々で来ればいいだろ」と歩は言っていたが、そんな危険を冒させるわけにはいかない。歩の裸体を公衆の面前に晒すなどとは。
 
「おい、ちゃんとタオルで体隠せよ。いつも言ってんだろ」
「いちいちうるせェ野郎だな」
「お前ね、自分がどんだけエロい体してるか自覚した方がいいよ? 歩く猥褻物だから。下町のおじいちゃん達には刺激が強すぎるから!」
 
 俺はただ事実を述べただけだが、怒った歩に尻を蹴り飛ばされた。脱衣所で悶絶する俺を尻目に、歩は堂々と裸体を晒して洗い場へ入ってしまった。
 
「ちょ、タオル巻いてぇ?」
 
 俺の叫びも虚しく響くだけである。
 いつもは歩と隣同士でシャワーを使うのだが、今日は見知らぬ子供に歩の隣を奪われてしまった。仕方がないので、歩の姿が見える位置に場所取りをした。
 髪を洗い流してふと見ると、歩の姿がない。慌てて浴場内を見渡せば、湯船に浸かる後ろ姿が見えた。俺は大急ぎで泡を流し、歩のいる浴槽へと足を突っ込んだ。
 
「熱っちィ!」
「おい、そんなに急ぐな。ゆっくり入れ」
「だってお前が……」
 
 さっき歩の隣でシャワーを使っていた少年が、またもや歩の隣で湯に浸かっていた。俺を見て、軽く会釈をする。
 
「えっ、誰。俺との子?」
 
 そう言うや否や、バシンと叩かれた。俺は足を滑らせて、盛大に水飛沫を上げながら湯船の中に落っこちた。
 
「歩先生、そんな風にしちゃ危ないよ」
「ああ、悪い。こいつの冗談があんまりにも笑えなくて、つい。ごめんな、准」
 
 全く悪いとは思っていない血走った目で、歩は俺に謝った。
 
「この人が准さん? こんばんは」
「そうだ。准、お前も挨拶しろ」
 
 少年は、歩の働く学童クラブに通う小学生で、悠太くんというそうだ。歩によく懐いているようで、俺のことも話には聞いていたらしい。
 
「けど、まさかこんなとこで会えるなんて思わなかったぁ。歩先生もお風呂好きなの?」
「いや、うちの風呂が壊れたんで、仕方なくここに通ってるだけだ」
「そうなんだ。僕はね、お母さんがお風呂好きだから、結構ここ来るよ。たまのごほうびなんだって」
「そうか。デカい風呂は気持ちいいからな」
「だよね。あーあ、人がいなければ泳げるのにな」
 
 学童のスタッフと子供って、こんな距離感なんだっけ? ちょっと近すぎないか? 親密すぎない? お互い一糸纏わぬ素っ裸なのに、子供は遠慮もなしに歩にくっついてくる。俺としては気が気でない。小学生相手に馬鹿らしいとも思うが。
 
「歩先生と准さんって、一緒のお家に住んでるんだよね? 家族なの?」
「ううん、まぁ、そんなもんだな」
「そんなもんってなに? 家族じゃないの? 一緒に住んでるのに?」
 
 無垢な子供の容赦ない質問攻めに、歩はたじろぎ口籠った。俺は、そんな歩の肩を抱く。
 
「あのねぇ、悠太くんとやら? 大人には大人の事情ってモンがあんのよ。何でもかんでも質問すりゃあ答えてもらえるなんて思わねぇこったな」
 
 歩は小声で俺を諫めるが、俺は一層力強く歩を抱き寄せた。
 
「俺と歩先生はなぁ、血の繋がりこそねぇけど、もっとつよーい、ふかーい絆で結ばれてんのよ。ガキには分かんねぇかなぁ」
「わかるよ!」
「じゃあ、例えば誰と誰? 悠太くんの周りにもいるよね? そういう、深い絆で結ばれた二人がさぁ」
 
 寝ぼけたような面で俺の話を聞き流していた悠太くんが突然やる気を見せたので、俺もつい期待した。結婚だとか、夫婦だとか、そんな単語が飛び出すことに。しかし、
 
「わかる! お友達ってことだよね!」
 
 肩透かしもいいところである。俺は思わずズッコケそうになった。歩はほっとしたような顔をして、肩を抱く俺の手を振り払った。
 
「ああ、そうだ。こいつはただの友達だ。最近は珍しくもないからな。生活費は折半できるし、悪くないぞ」
「セッパン?」
「半分こできるってことだ」
「友達と住んでお金もかからないなんて、いいこと尽くしだね。いいなぁ、僕も友達と一緒に住みたい。毎日楽しそう」
「湊くんか。仲良いもんな」
「学童で一番仲良いのは湊だけど、学校にも仲良しの友達いっぱいいるからな~。選べないや」
 
 話題は俺の与り知らぬ方向へと流れていく。友達と何をして遊ぶのが好きとか、縄跳びで何回飛べたとか、クリスマス会がどうだこうだ、サッカーよりキックベースが好きだとか。
 歩は耳を傾けてあげていたが、俺としては「知らねぇよ」の一言である。もちろん声には出さないが。そんなことをしたら歩に怒られてしまう。歩を取られて面白くない気持ちと手持ち無沙汰を紛らわすため、俺は浴槽を泳ぐモザイクタイルの金魚を数えた。
 
「あのね、歩先生。ずっと気になってたの、聞いていい?」
 
 悠太くんは僅かに声のトーンを落とし、遠慮がちに尋ねた。
 
「歩先生の左目、なんでなくなっちゃったの?」
 
 子供らしいと言えば子供らしい率直な物言いだが、歩は慣れているらしく淡々と答えた。
 
「ああ、これか。悪いな。びっくりしたか」
「う、ううん! いつもはあれ、目にするやつしてるけど」
「眼帯な」
「うん、だから、眼帯の下がどうなってるのかって、みんなで時々話すんだ。歩先生に直接聞いちゃ悪いって、女子がうるさいし」
「それで、実際見た感想は?」
「うん、えと……思ったよりヒドくないけど、やっぱりちょっと痛そうだよ」
 
 歩は職場では眼帯を着けているらしい。遼二の描いた絵を見ても、眼帯をしたまま子供達とサッカーをしていた。だから、この少年が歩の素顔を見るのはこれが初めてなのだろう。
 そういえば、遼二は歩が隻眼であることについて何も言わなかった。元来大雑把な男だから、本当にただ気にならなかっただけという可能性も捨てきれないが、ああ見えても一番肝心なところでは気を遣えるタイプなのだ。
 
「前にも言ったが、怪我して見えなくなっただけだ」
「でも、その……痛くない? お風呂の水、沁みない? 僕、転んだりぶつけたりして怪我した時、お風呂入ると痛いからイヤなんだけど、歩先生は平気なの? 大人だから?」
「大人だろうが子供だろうが、怪我すりゃ痛いさ。ただ、おれのこれはうんと昔にできたものだから、もう痛くねぇよ。心配してくれてありがとうな」
「うんと昔? どれくらい?」
「昔っつっても、今の悠太よりは大きかったな」
「六年生とか?」
「中学生だ」
「歩先生も中学生だったんだね」
「そりゃそうだ。大人にも子供だった時期がある。その頃からこいつとは友達だった」
 
 歩は腕を絡めて俺を抱き寄せた。濡れて火照った肌がぴったりと密着する。俺はうっかりのぼせそうになった。「二人はずっと親友なんだね」と悠太くんが喜び、歩は軽く頷いて言葉を続けた。
 
「で、おれの左目はこいつにやられた」
 
 俺は耳を疑った。悠太くんも「えっ?」と目を丸くする。
 
「ちょっ、ちょっとぉ、歩センセ? 何言っちゃってくれてんのかなぁ??」
「事実だろ」
「そうだけど! そうだけどさぁ! 何も馬鹿正直に喋るこたないだろ!」
 
 書類上は、歩を灰皿で殴ったのは父親ということになっている。歩は命の危険を感じ、ビール瓶で父親を殴った。という筋書きになっている。あの事件に、俺は関わっていないことになっている。
 
「でも、こいつもおれを傷付けたかったわけじゃないんだ。どうしようもない事情ってのがあって……悪い奴からおれを守るために、そうせざるを得なかった。だから、左目がなくてもおれは何も不自由してない」
 
 悠太くんに、というよりは俺に聞かせるように歩は言った。
 
「あの時のこいつの勇敢さを、おれは生涯忘れないだろうよ」
「……それってさ、ヒーローみたいじゃない?」
 
 悠太くんの突拍子もない意見に、歩は優しく微笑んだ。
 
「ね? 准さん、歩先生のヒーローだったんだ」
「そうかもな。今も昔も」
「未来も? ずーっとね」
 
 悠太くんは安心したように笑い、ふと何かに気付いたように指差した。
 
「じゃあ、これも准さんがやったの?」
 
 悠太くんが指したのは、歩の背中。首の付け根の辺りだ。「なんか赤くなっててすごく痛そうだよ」と悠太くんが言うや否や、歩はその場所を手で押さえた。
 
「これは、あれだ。ぶつけたんだ」
「えー? そんなとこぶつける?」
「寝ようとしたらレゴが落ちてて」
「あはは、確かに痛そう~! 僕も気を付けようっと」
 
 何とか誤魔化し、歩は安堵の息を吐く。と同時に、般若の形相で俺を睨んだ。俺は口笛を吹きながら目を逸らすしかない。湯船の中で、ぎゅっと二の腕を抓られた。
 悠太くんが見つけた痕は、紛れもなく俺が歩につけたものだ。しかし怪我ではない。もちろんレゴブロックを踏んだのでもない。バックでした時に、歩に気付かれないようこっそりと残したキスマークだ。
 見える場所に痕を残そうとすると怒られるし、見えない場所であっても歩はあまりいい顔をしない。歩が前後不覚になる頃合いを見計らって、後ろ向きで抱いている時にだけ、キスマークを付けることができるのだ。
 
 
 湯上りにコーヒー牛乳を飲んだ。扇風機の風が火照った体を冷ます。これこそが銭湯の醍醐味だ。
 
「油断も隙もあったもんじゃねぇな、てめェは」
「何がぁ?」
 
 俺がとぼけると、歩は首筋を押さえて俺を睨んだ。
 
「二度とつけるなよ」
「いいじゃねぇかよ、これくらい」
「何もよくねぇ。一応子供と関わる仕事なんだぞ。大体、銭湯に行くのが分かってるのになんでこんなモンつけるんだ。何考えてやがる」
「歩センセェ~、そんな言葉遣いでいいんですかぁ~? もっとお上品にお喋りくださらない?」
「おれはてめェの先生になった覚えはねぇ」
 
 悠太くんが帰った途端、口も悪けりゃ目付きも悪い。これがいつもの歩の姿だ。俺は少しほっとした。
 
「俺は知られてもいいけどね」
「小学生にはまだ早いだろ」
「性教育は早い方がいいって言うし」
「こんなもんが性教育になるか」
「それで言ったら、お前の存在自体が歩く十八禁だしな」
 
 ちょっと揶揄っただけなのに、踵で思い切り脛を蹴られた。悶絶する俺に、歩は空のガラス瓶を押し付ける。捨ててこいということだろう。飲み口に触れていた湯上りの唇を思いながら、俺は黙ってそれを受け取った。
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