君のいない八月

小貝川リン子

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第五章 風邪引きとバレンタインデー

第五章 風邪引きとバレンタインデー②

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 歩の体調は完全に快復した。バレンタインデー当日は過ぎてしまったが、チョコレートケーキを手作りしてくれると言う。俺は浮足立って帰宅した。
 
「ただい……まぁ?」
 
 部屋の中はチョコレートの甘い匂いでいっぱいだったが、歩は居間で気怠げにテレビを眺めていた。言葉にできないが、ただならぬ気配を感じる。
 
「あ、歩さん? どうかしました……?」
「……」
 
 歩は俺に見向きもしない。テーブルに置かれた小さな箱を、指でとんとんと叩く。
 
「あっ」
 
 間の抜けた声が出た。あれは、何とかというブランドのチョコレートアソート。バレンタインデー当日に職場で貰ったものだ。戸棚に仕舞い込んだまま、すっかり忘れていた。
 
「……いい度胸じゃねぇか。おれが熱で苦しんでる間に」
「いや、いや違うよ? 全然そういうのじゃないし」
「女か?」
「ええっとぉ……」
「正直に答えろ。どこで誰に貰ったんだ」
「しょ、職場の……事務やってる子に……」
「女か」
「う……はい……」
「若い?」
「ちょい年上……。な、なぁ、もういいだろ? ホント、天に誓って浮気とかじゃないんだって。なんか高そうなチョコだし、お前と食えればいいと思って貰ってきただけなんだよ……」
 
 歩が全然こちらを向いてくれないから、怒っているのか泣いているのか分からない。きっとその両方が入り混じっているのだろう。今更ながら、己の不誠実を恥じる。
 
「……ごめん。あんま深く考えないで、気軽に貰ってきちまったんだ。お前の気持ちも考えるべきだったよな」
「ケーキを作ろうとして戸棚を開けたら、こいつが転げ落ちてきたんだ」
「ウン。ゴメン……」
「良さげな箱だし、伊勢丹だの三越だのの催事場で売られてるようなブランド品だろ? おれ達みてぇな貧乏人が、おいそれと手の出していい代物じゃねぇ。まさかてめェが、おれに知られず二股三股掛けられるほど器用な奴だとは毛ほども思っちゃいねぇが、一生一途に思い続けてくれる保証もねぇわけだし、今回ばかりは最悪の結末も覚悟したぜ」
 
 やっぱり怒っているらしい。言葉の端々が胸にチクチク突き刺さる。
 
「……だが、これをくれた女とは、一切何もないんだよな?」
「な、ないない! マジでない! マジで白紙!」
「これからどうこうなる可能性は?」
「一ミリもないです! 天に誓って、可能性はゼロパーセントですっ!」
「ふん……だったら、いいよな?」
 
 歩は真紅のリボンを解き、ベビーピンクの蓋を開けた。たった四粒のチョコレートが、まるで宝石のように整列していた。
 赤いハートのボンボンショコラ。歩はそれを唇に挟み、「ん」とこちらを振り向いた。
 
「えっ、なに……?」
 
 俺はおずおずと歩のそばへ腰を下ろす。歩は、口に銜えたチョコレートを指し示し、目を瞑った。俺が動けずにいると、早くしろと急かす。
 俺は、チョコレートを銜えたままの唇にキスをした。赤いハートのボンボンショコラが唇に触れる。艶々のコーティングに歯を立てて、カリッと齧る。とろりと溢れ出た甘酸っぱいラズベリーソースを絡ませて、歩の舌が入ってくる。
 
「んっ……」
 
 甘ったるいチョコレートと甘酸っぱいラズベリー。それらを纏った歩の舌は、さながら極上のスイーツだ。混ぜ合う唾液さえ甘く、舌が蕩ける。これ以上に甘美なものなんて、この世に存在しないだろう。
 
「は、……」
 
 チョコレートが溶け切って、歩の唇が離れていく。ちらりと覗く歩の舌が、チョコレート色に溶けている。もっと食べたいと思った。
 歩はもう一粒チョコレートを銜え、口移しで俺に渡した。舌の上でほろ苦さが溶けていく。溶けかけのチョコレートを、俺は歩の口に送り返し、歩の舌で溶かされたチョコレートは、再び俺の口に戻ってくる。二人の熱でゆっくりと蕩かしながら、チョコレートを口移しで送り合う。
 いつの間にか、歩が馬乗りになっていた。チョコレートは溶けてなくなり、ただ互いの舌を味わっていた。
 チョコレートには催淫効果があると、どこかで聞いたことがある。眉唾物と思っていたが、案外本当なのかもしれない。歩は、うっとりと蕩けたような表情で俺を見下ろした。
 俺が歩の腰に手を伸ばすのと、歩が残りのチョコレートを一気に頬張ったのは、ほとんど同時のことだった。再び、チョコレート味のキスが降ってくる。
 
「んっ、……んん、っ……」
 
 甘くて、酸っぱくて、ほろ苦い。まるで大人の恋の味だ。俺は初恋しか知らず、今もその延長線上にいるから、大人の恋ってのがどんなものか、本当の意味では分かっていないのかもしれないが。
 
「な、ぁ……歩、……」
 
 喋ろうとしても、舌ごと絡め取られてチョコレートの味しかしない。交わる吐息もチョコレート色だ。
 全てがチョコレートに支配されている。これをくれた事務の女の子のことなんて、とっくに忘却の彼方へ消え去ってしまった。チョコレートにお酒は入っていないはずなのに、俺は歩に酔っている。
 
「ん、なぁ……もうっ……」
 
 服の裾から手を忍ばせる。突然の侵入に、歩は身を竦ませた。
 その時、オーブンレンジのタイマーが鳴り響いた。俺の気のせいなんかではなく、部屋全体にチョコレートの焼ける香ばしい匂いが充満していた。
 歩はぱっと立ち上がり、台所へ急いだ。オーブンを開け、両手にミトンを填めて、焼き上がったケーキを取り出す。一瞬のうちに、甘く香ばしい匂いが広がった。歩はケーキに竹串を刺し、焼き加減を確かめる。
 
「できたの?」
「たぶんな」
「食いてぇ」
「冷ましてからだ。お前、その間に風呂入ってこい」
「ウソだろ、まだ焦らされんのかよ」
「飯の用意もしといてやる。お前、待ては得意だろ」
「得意じゃねぇ」
「そう拗ねるな。限界まで焦らされてからイクのは、最高に気持ちのいいものだろ? それと同じだよ」
「っ……何だよ、その喩えは」
「ダメか? 伝わりやすいと思ったんだが」
「あーもう、分かりましたよ。ただしデザートはお前だからな」
「いや、デザートはケーキだぞ?」
「じゃなくて! デザートのデザート! なんっで伝わんねぇんだ」
 
 諸々の欲望を燻ぶらせたまま、俺は浴室に引っ込んだ。
 
 
 食後のデザート。一皿目はチョコレートケーキ。ガトーショコラというらしい。丸い型から外して六等分に切り分けて、生クリームを添えて粉砂糖を振る。小洒落た喫茶店で売られていてもおかしくないくらい、完成度が高すぎる。
 
「ほら、食え。お待ちかねだぞ」
「い、いただきます」
 
 何だか緊張してきた。美しく切られたケーキに、ゆっくりとフォークを入れていく。
 
「……旨い」
 
 俺の反応を見て、歩はほっと胸を撫で下ろした。
 
「よかった。旨いか」
「旨いに決まってんだろ。なに、心配してたの」
「料理作りは慣れてるが、菓子作りは素人だからな」
「素人とは思えない出来栄えですけど」
「まぁ、材料混ぜて焼くだけだしな」
「そんな簡単なもんとは思えねぇけど」
 
 しっとりとして濃厚なケーキだ。チョコレートの風味をダイレクトに感じる。生クリームを載せるとまろやかな味わいになり、一度で二度おいしい。
 というか、歩が俺のために慣れないながらもケーキを焼いてくれたという、その事実だけで腹が膨れる。ちょっと贅沢すぎないか?ってくらい贅沢だ。
 
「お前も食えよ」
 
 フォークに一口分載せて、歩の口元に運んだ。
 
「ほら、あーん」
「ガキじゃねぇんだぞ」
 
 照れ隠しにむっとした顔をしながら、歩は口を開けた。
 
「もっと食うか? お前が作ったもんだし」
「いや、もういい。後はてめェで食え」
「甘いの苦手だっけ」
「好きでも嫌いでもねぇよ。おれは、てめェの食ってる姿が好きなんだ」
「そんな面白い食い方してる?」
「まぁ、大口開けた面は笑えるな」
「おい」
「おれの作ったモンがてめェの体に入って、細胞になって血肉になって、お前という人間を作っていくのかと思うと、堪らねぇ気持ちになるんだ」
 
 歩は、俺の唇を指先で拭う。生クリームがついていたらしく、舐めると甘かった。
 
「お前それ、結構やべぇこと言ってるけど、自覚ある?」
「さぁな」
 
 歩は小悪魔じみた微笑みを浮かべ、和らぐ瞳で俺を見つめた。
 
「お前はおれのものだ。准」
「っ……」
 
 もうこれ誘ってるよね!? ここまでだいぶ焦らされたし、もう我慢しなくていいってことだよね!? 俺は歩に抱きついて、そのまま床に組み敷いた。
 
「まだケーキが残ってるぞ」
「先にこっちのケーキが食いてぇの」
「ふふ。バカなやつ」
「お前のせいだろ。責任は取ってもらうからな」
 
 食後のデザート。一皿目はチョコレートケーキ。二皿目はもちろん……
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