螺旋階段

小貝川リン子

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2 懐の猫③

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 八月に入ってから、成瀬はとんとうちに泊まりに来なくなった。どこでどうしているのか、正直なところ気になって仕方ないのだが、携帯の番号を知らないので連絡の取りようがない。実家に帰っているならいいのだが、もしも不埒な輩の家に転がり込んでいたらと思うと気が気でない。
 
 とはいえ個人的な事情にはお構いなく、仕事はある。今日はもう盆休みの直前。のどかな、とは言い難い、茹だるように暑い昼下がりだった。通常通り学校で仕事をしていたら、突然成瀬が顔を見せた。
 
「よ、先生」
 
 一陣の爽やかな風が吹いたような気がした。
 
「お、前……」
 
 俺は国語科資料室の整理を年配の先生から押し付けられ――いや、自主的に行なっていた。エアコンのない埃っぽい部屋で、作業は遅々として進まない。そんなところへ、いるはずのない成瀬がひょっこり現れたのである。制服は夏服だが、襟のあるワイシャツってのはどうしても暑苦しく見える。
 
「な、何だよ、急に……何しに来た?」
「別に。七海先生ならここにいるって、他の先生に聞いて来た」
 
 俺は動揺したが、成瀬は平然とした様子だった。しかし要領を得ない回答しかせず、この部屋クソみたいに暑いなぁとぼやきながら窓辺に立つ。
 
「いや、ほんとに何しに来たんだよ。勉強? 自習室使いに来た? 鍵ならここにはないけど」
「違ぇよ。理由がなきゃ、来ちゃいけないのか?」
 
 成瀬は棘のある声音で言う。
 
「どこにいたって暇なんだ。邪魔しないから、いいだろ」
 
 まぁ、そう言うなら、追い出しはしないけど。
 
 俺は作業を再開した。残すもの、捨てるもの、他へ移すもの、リサイクルに出すもの。資料を分別し、山にして床や机に重ねていく。動く度に埃が舞う。パイプ椅子に腰掛け、成瀬はぼーっとその様子を眺めている。
 
 本当に訊きたいのは何をしに来たのかってことじゃない。どうして今まで来なかったのかってことだ。ここ十日ほど、どこで何をしていたのか、そればっかりが気になる。でも訊けなかった。口うるさくプライベートを掘り下げるのは気が引ける。
 
 暑いな、と成瀬が呟いた。
 
「エアコンねぇからなぁ」
「先生は暑くないのか?」
「暑いに決まってんだろ。汗だくだよ」
「……暇だなぁ」
 
 暇なら家にいりゃいいのに。俺のアパートなんか、勝手に上がり込んでくれて構わないのに。エアコンをつけたって怒らない。でなければ図書館にでも行って勉強すればいいのに。
 
「なんか手伝う?」
「いいよ別に。俺だってこれで給料もらってんだから。生徒に雑用させらんねぇって」
「でも、早く終わったら早く帰れるだろ」
「帰れねぇの。これが終わったら別の仕事やんなきゃいけないからね。五時までは学校いねぇと」
「なんだ、つまんねぇ。じゃあ手伝うのやめる」
 
 成瀬は俺への興味を失い、窓の外へと視線を移した。頬杖を突いてぼんやりと空を眺める。陽が当たって暑いのだろう。玉のような汗が太陽を浴びて煌めいている。額に張り付いた前髪を鬱陶しそうに掻き分ける。退屈そうに溜め息を吐く。その吐息にすら熱を感じる。
 
「何見てんだよ」
 
 成瀬がこちらを振り返り目を細める。水滴が顎からぽたりと滴った。
 
「……アイス」
 
 俺はぽつりと呟いた。
 
「は?」 
「アイス! 食うか?」
「うん? 食いたいけど、そんなもんどこにも……」
 
 大職員室の冷凍庫に入ってるから持ってきてやる、と言い終わらないうちに俺は教室を飛び出していた。資料室のある三階から職員室のある一階へと階段を駆け下りる。
 
「七海先生。慌ててどうしました?」
「いや、喉が渇いて……」
 
 盆に合わせて夏季休暇を取る場合が多いので、今日出勤している教員はあまりいない。同じ国語科で出勤しているのは、俺以外には一人だけだ。
 
「そういえば一年生の……何て言いましたかね」
「九条ですか?」
「ああそうそう。九条くんが、七海先生を探してまして」
「ついさっき会いましたよ」
「勉強熱心な生徒さんですねぇ。問題集で解答を見てもわからないからって、わざわざ学校まで来て教えてもらいたいだなんて」
 
 あいつめ、そんな嘘を言って俺の居場所を突き止めたのか。
 
「ええ全く、真面目な生徒を持って誇らしいですよ」
 
 冷凍庫にあるフルーツバーを二本選ぶ。何味がいいか聞いてくるのを忘れた。少し悩んで、巨峰と白桃を手に取った。涼しい職員室を出、階段を駆け上がる。
 
「ぶどうともも、どっちがいい」
 
 三階の資料室に戻り、ぜーぜーと息を切らして成瀬に尋ねた。成瀬はきょとんと首を傾げる。
 
「そんなに慌ててどうしたんだよ?」
「うるせぇ、急に食いたくなったんだよ。いらねぇならどっちも俺が食う」
「えっ、おれもほしい。もも」
 
 袋ごと渡そうとするが、やはり遠慮するような手ぶりをする。いらないのかと言うと、ほしいけど、と口籠る。
 
「けど、いいのか? おれ……」
「いいんだよ。どうせ俺が買ってきて置いといたやつだし。早くしねぇと溶けるぞ」
 
 すると成瀬はようやく受け取って、アイスを口に含んだ。俺も溶けかけのそれを口に入れる。甘い。冷たい。内臓から冷えていく。生き返る。
 
「おいしい」
 
 その後は何も言わない。二人並んで、黙々とアイスキャンデーを舐めた。
 
 炎天下のグラウンドで、運動部が活動している。ランニングをする掛け声、足音、審判の笛の音、バットがボールを打つ音、ラケットでボールを叩く音などが聞こえてくる。体育館からも微かに音が漏れている。ボールを叩き付ける音、シューズの擦れる音、そしてやっぱり笛の音、掛け声。北校舎の四階からは吹奏楽部の合奏が聞こえる。
 
「あ」
 
 成瀬が不意に声を上げた。アイスが溶けて、手首まで垂れてしまったらしい。食べるのが下手なせいだ。俺みたいに齧ってしまえばいいのに、口の中で溶かして食べようとするからだ。成瀬は一所懸命垂れたものを舐め取る。そっちに集中しすぎて、手の甲にまでアイスが垂れようとしていることに気づかない。
 
 俺は成瀬の手を取り、今まさに零れようとしているアイスキャンデーを自らの舌で受け止めた。熱い吐息を直に感じる至近距離で、成瀬と目が合う。ラピスラズリをそのままはめ込んだような、濃い藍色の瞳が俺を捉える。自分から迫っておいて、狼狽えた。
 
 やっぱり似ている。そっくりというほどではない。しかし何となく似ている。俺の死んだお袋に。
 
 お袋も、こんな風な目をしていたような気がする。最後に会ったのは小五の頃だろうか。その次に会ったのは葬式の時だが、死体がめちゃくちゃだったので顔の確認はしていない。だから正直なところあまり自信はない。しかし似ているような気がする。
 
「せんせ……」
 
 成瀬はアイスキャンデー越しに俺の舌を吸った。冷たくて甘い。だけど蕩けるほど熱い。
 
「……バカ、何して……」
「いいじゃん。会うの久しぶりだから、なんか……ねぇ、おれがいなくて、寂しかった?」
 
 これでもかってくらい甘えた声で成瀬は囁く。俺は己の軽率さを悔いる。
 
「別に、寂しいとかは……」
「本当に?」
 
 棒だけになったアイスを床に放り、成瀬は本格的に唇を合わせる。俺の後頭部に手を回して引き寄せる。前までなら突き飛ばしてでも拒否したはずなのに、どうしてだろう、今日はなんだか、流されてしまってもいいような気がして。
 
「や、やっぱだめだ」
 
 見つかったら大変なことになる。良くて懲戒免職、悪いと刑務所行きだぞ。そんなのごめんだ。
 
「お互いのためによくない。俺は教師でお前は生徒なんだぞ」
「だったらなに。そんなのどうだっていいよ。こないだは手ぇ出したくせに、なんで今更だめなの」
「人聞きの悪いことを……」
 
 成瀬は諦めず舌を絡めようとする。舌が歯の間を割って入ってくる。窓の外から見えそうで怖く、成瀬を抱き寄せて俺は床に腰を下ろした。
 
「せんせぇ……」
 
 窓の下に隠れたはいいが、完全にマウントを取られてしまう。騒いだり怒鳴ったりして事を荒立てたくはない。手を上げるなどもってのほかだ。しかしこのまま組み伏せられたままというのもまずい。成瀬はいつの間にか自身のベルトを外し、スラックスを膝まで下ろしている。
 
「おいこら、やめろって馬鹿。パンツ脱ごうとすんな馬鹿」
「だって脱がなきゃできねぇじゃん」
「しねぇから! ドア鍵かけてねぇし、誰が入ってくるかわかんねぇだろ」
「見つかってもいい。先生がいけないんだ、キスなんかするから……ねぇえ、触ってよぉ……」
 
 キスしたのはお前の方だろ、と思いつつ、成瀬の手に誘なわれてその後孔へ指を挿し入れてしまう。柔らかい。濡れている。どうしてだ。男の体って、こんなにも都合よくできているんだっけ。
 
「もっとおく、突いて……あっ……」
 
 成瀬は俺の胸にしがみつく。あの縋るような目、声、雰囲気、こいつの全てに俺は逆らえない。断れない。
 
 俺はぐるりと体を反転させる。二人の立場が入れ替わる。成瀬は床に仰向けに、俺はその上へ覆い被さる。成瀬の瞳が不安そうに揺れる。
 
「してやるから、さっさとイけよな」
 
 これは慈善事業だ。こいつが色狂いだから。楽にしてやるだけだ。仕方のないことだ。俺は誰にともなく言い訳をし、二本の指で中を掻き回す。
 
「あぁっ、あ、あっ、せんせ、せんせぇ」
「静かにしろ」
「ぁう、ご、ごめんなさ……」
 
 押し殺そうと頑張っても声が漏れるらしい。俺は掌で成瀬の口を覆った。ぐっと強く押さえ付ける。生温い唾液が掌に纏わり付く。成瀬は鼻だけで苦しそうに息をする。
 
 さっきまではアイスのおかげでせっかく涼しかったのに、今また汗だくに逆戻りだ。汗だくよりももっと悪い。頭から背中から汗がどっと噴き出して止まらない。水分取らないと熱中症になる。
 
 成瀬も暑いらしく、汗で濡れて張り付いたシャツを脱ぎ去ろうと藻掻いている。ボタンを外すという細かい作業ができなくて、胸の辺りを闇雲に引き毟っている。
 
 相変わらず、窓の外からは色々な部が活動している音や声が聞こえる。全くもって普通。普通の高等学校の風景。この空間で唯一異質なのは俺だけ。いや、俺だけじゃない。たぶん、成瀬もそうだ。
 
 俺達はまるで、世界という整った球体からはみ出した歪なコブだ。俺は世界に入れない。世界の方も俺を必要としていない。俺達はお互い何かが欠けていて、足りなくて、だからそれを埋めるために出会ったのだろう。こいつに触れているとそんな気がしてきてならない。まるで、過去に置いてきた己の一部と再会したかのような錯覚。
 
「んんんっ! んっ、んんっ」
 
 成瀬が何かを訴えるように目を見開く。嫌々とかぶりを振る。息遣いが一層激しくなる。足を目一杯開いて突き出した腰がゆるゆると揺れる。肉壁が小刻みに痙攣する。これってもしかして、と思った時には既に絶頂していた。悩ましげに顔を歪めて、声も出せずに成瀬は達した。手を離して口を解放してやると、咳き込みながら夢中で息を吸う。
 
 今は真夏の昼下がり。太陽は若干傾いてはいるが、光は惜しみなく降り注ぐ。もちろん、普段は薄暗いこの教室にも。燦々とした太陽が、達したばかりの重たい体を横たえる成瀬の、真っ赤に火照った顔を照らす。ワイシャツの裾から延びる、この歳の男子にしてはほっそりと白い足を照らす。
 
「おとうさん……?」
 
 濡れた唇と睫毛を照らす。俺はお前のお父さんじゃない。
 
「……水買ってくる」
「せんせぇ……?」
「服、ちゃんと直しとけ」
 
 俺は教室を出た。胸がざわざわする。これ以上あの部屋にいたら俺まで気が狂うところだった。暑さのせいだ。
 
 廊下は涼しく、熱を持った体を冷ました。焦らずに一段一段踏みしめて階段を下った。一階の吹き抜けホールに自販機がある。ミネラルウォーターを一本買い、たった今下りてきた階段を上る。
 
 資料室に戻る。成瀬はきちんと服を着て待っていた。汗で湿ったシャツだけはどうにもならない。一口飲んでから、ペットボトルを成瀬に投げた。
 
「ありがと」
 
 成瀬は喉を鳴らして水を飲んだ。余程渇いていたらしい。
 
「もう終わり?」
「わかってて服着たんだろ」
「うん……先生は優しいけど、いつも半端だ」
 
 水を太陽に透かす。光が屈折して、成瀬の目元をキラキラと照らす。
 
「本当はもっと……全部、埋めてほしいのに。奥の方まで、隙間もできないくらいぴったりさ。先生となら、きっと綺麗に嵌まる気がするんだ」
 
 独り言なのか俺に喋りかけているのか判別がつかない。成瀬は淡々と、抑揚もなく呟く。
 
「先生、おれ、最近おかしいんだ。先生を見てると、気持ちが抑えられなくなる」
 
 憂鬱そうに溜め息を吐く。
 
「変だよな、こんなの」
「……お前、俺が好きなの?」
 
 俺が言うと、成瀬はようやくこちらを見た。
 
「好き?」
 
 しかしその言葉は疑問形だ。眉をしかめて首を傾げる。
 
「わからない。でも一人でいると孤独で耐えられなくなる。今までこんなことってなかったのに。いつからおれは、こんな弱虫になっちまったんだろう」
「でもお前、おれとしたいんだろ」
「したい。けど……」
 
 成瀬は何かもやもやしているらしい。それは俺にも伝播する。俺も、何もわからない。成瀬をそういう目で見るつもりなんてなかったのに、いつの間にか強く惹かれている。こいつの望みならなるべく叶えてやりたいし、こいつのことを深く知りたいと思う。でも、今抱いているこの気持ちが友愛や親愛の類ではないと言い切れるのかどうか、自信がない。
 
「お前さ、この十日くらいどこ行ってたの」
「何急に……普通に自分ちだけど」
「そ。ならいいや」
「だったら何だよ」
「別に、これからは遠慮しないでいつでもうち来ていいから」
 
 情けないが、俺が今してやれることはこれが精一杯だ。
 
「面倒がったり、追い出したりしねぇからさ。せっかく鍵渡してんだし、気軽に来いよ。朝だって、何も急いで帰らなくたっていいし」
「ふ、何だよそれ」
 
 成瀬の表情が緩む。笑った顔は幼くて少しかわいい。
 
 手始めに今日は一緒に帰ろうかと俺が誘うと、成瀬は何時間待たせる気だよと呆れたように言ったが、なんだかんだで大人しく定時まで待っていてくれた。他人の目を気にして校門で待ち合わせて帰った。普段は原付で通勤しているし今日もそうだったが、成瀬がいるのでバスで帰った。ヒグラシがやかましく鳴いていた。
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