螺旋階段

小貝川リン子

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6 葬式①

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 紅葉真っ盛りの霜月下旬、田舎の吉永先生から電話があった。
 
「啓一くん、心して聞いてください」
 
 父が死んだ。十九で俺を産んだ母を捨てた男。母の葬式にさえ顔を見せなかった男。考えるだけで胸騒ぎがする。
 
「施設へ手紙が届いたんですが、お葬式が明後日だというので取り急ぎ電話を。啓一くん? 聞いていますか?」
「……あ、いえ……はい、ありがとうございます」
 
 顔も知らない男の葬式になど行く気がしなかったが、吉永先生が是非にと言うので参列することにした。わざわざ手紙を寄越すくらいだから、先方にも何かしらの意図があるのだろうということだった。
 
 そういうわけで、週のど真ん中にも関わらず仕事を休み、父の実家があるという茨城の山間部に向かった。片道三時間もかかるので、朝早くに家を出た。空は鉛色の厚い雲に覆われ、指先から凍り付くような冷たい霧雨が降っていた。俺は喪服に透明のビニール傘を差して出かけた。
 
 途中までなら新幹線も通っているが、新幹線を使うほどの距離でもない。鈍行列車に揺られ、だんだん侘しくなる車窓をぼんやり眺めていた。枯れた切り株と干し草だけが残る田んぼに、冷たい雨が降り注ぐ。北風に吹かれて落ち葉が舞う。
 
 駅前は閑散としていて不安になったが、幸い斎場までは歩いて行けた。相場より安い香典を包み、帳簿に記名をする。死んだ父より十は若いであろう奥さんが出てきて挨拶をする。女の陰に隠れて、小学生の男の子がこちらを覗く。
 
「どうも、この度はご愁傷様で……」
「いいえ、いいえ、こちらこそ本当に、何と言ったらいいのか……今まで、二十年以上ですか、連絡もできずに本当に……あなたにもお母様にもご不便をおかけして、本当に……」
 
 終始ハンカチを握りしめ、女は頭を下げた。長いことほったらかしにして申し訳なかったと言いたいのだろう。今更そんなことを言われたって母は帰らないし、謝罪されたくてこんな僻地へのこのこやってきたわけでもない。
 
「でもどうか、主人を恨まないでやってください」
「いえ、いいんです。気にしないでください」
 
 恨むほどの熱量がない。何しろ顔も知らない相手だ。奥さんはほっとしたように溜め息を吐く。
 
「そちらはお子さんですか」
 
 背後に隠れている男の子を指して俺は言った。小学校低学年くらいの子供だ。女は子供に挨拶をさせる。
 
「ええ。ですが前の夫との子で……」
 
 短い世間話の後、会場内に入った。白い椅子がずらーっと並んでいて、右前方には親族が二十人ほど集まり、左前方には地元の人や仕事関係の人が大勢集まっている。母の葬式と比べて格段に参列者が多い。
 
 奥さんに促され、棺の窓から死に顔を拝んだ。母の記憶では、俺の父は背が高くて歯の白いイケメンだったはずだが、そこに横たわる中年男には、母の言っていた面影は何一つ残っていなかった。皺が多く、白髪も多く、前髪は心許なく、背丈はよくわからない。知らないおっさんの死に顔を拝んだだけであった。
 
 父の名前は、五十嵐一という。式の始めに司会が故人の人となりを話すので、生前の様子をある程度知ることができた。
 
 親から受け継いだ商店を経営しつつ、消防団員としても働き、町内会の役員でもあり、地元では頼りにされていたとか何とか。数年前に今の奥さんと結婚し、奥さんの連れ子である健太くんのことを実の息子のようにかわいがり、学校の行事にも積極的に参加する良いパパであったとか何とか。
 
 出産間もないうら若き母を捨てた酷い男だが、時と場所が違えば良い夫たり得たのだ。俺の母はともかく運が悪かった。仕方ないと諦める他ない。
 
 地元からの信頼が厚かったというのも、家族から愛されていたというのも事実だろう。息子はめそめそ泣いていたし、妻はハンカチで目頭を押さえ、年老いた母親は腫れた目を隠そうともせず、おじおば、いとこ、兄弟姉妹、甥姪、妻側の家族、地元の年寄りなども、泣きはしないが皆しんみりとした面持ちで最後の別れを惜しんでいた。
 
 一般的には涙の多い良いお葬式となるのだろうが、俺にとっては無であった。母の死に様と葬式を思い返してみては虚脱感を覚える。今あの棺に眠っている男に捨てられたせいで母は狂ってしまったというのに、一体ここに集う何人が母のために泣いてくれただろうかと思うと、やるせない気持ちになる。
 
 俺だけがこの場で異質で、ふさわしくなくて、いてもいなくてもいい存在だ。泣けばいいのか怒ればいいのか嘆けばいいのか、しかしそのようなエネルギーさえなく、どんな表情をするべきかもわからず、ただただ無心で坊さんの読経を聞いていた。
 
 出棺を終え、遺体は霊柩車に載せられて火葬場へ運ばれる。これで葬儀は一応終了であるが、親族はマイクロバスに乗って火葬場へ向かうことになる。同行するかどうか尋ねられたが、俺は丁重に断った。これ以上の疎外感を進んで味わいに行けるほど物好きではない。
 
「でしたら、帰る前にちょっといいですか」
 
 親族の控室に呼ばれたかと思うと、故人の姉を名乗る人物が金一封を手渡してきた。かなり厚みのある袋だ。
 
「……返礼品ならもう頂きましたが」
「いえね、ですから、私どもの気持ちですよ」
「気持ち……?」
「ええ。弟を恨まないでやってちょうだいね。昔はちょっと奔放なところがあって……今ではすっかり落ち着いてましたがね。あなた方には苦労をかけて申し訳なかったと、弟も生前言っていたんですよ。だからこれで、ね? 受け取ってくださいよ」
 
 つまりこれで手打ちにしてくれということか。守るべき大切な財産や、奪われたくない土地があるのだろうか。俺がそれらを狙っているとでも思ったのだろうか。後から裁判でも起こされたら面倒だと、そう思ったのだろうか。全く心外である。そんなつもりでやってきたのではない。俺はただ、母が狂うほど愛した男の葬式に来ただけなのに。
 
 金は受け取らなかった。俺は独りでひっそりと斎場を後にした。傘を差すのも忘れ、冷たい雨に肩を濡らした。
 
「……先生?」
 
 耳慣れた声が俺を呼び止めた。駅前ロータリー――とはいえバスもタクシーも停まっていないが――の縁石に腰掛ける一人の少年。透明なビニール傘を差している。
 
「先生、なんでこんなとこにいるんだ? 傘も差さないで。頭濡れてるぜ」
 
 少年は立ち上がり、背伸びをして俺を傘に入れてくれた。
 
「何だよ、ぼーっとして。てかその恰好なに?」
「そりゃお前、こっちの台詞……」
 
 今日は普通に学校があるはずなのに、どうしてこんな僻地にお前がいるんだ。学校をサボっているくせに、どうしてわざわざ制服を着ているんだ。黒の詰襟、白いスニーカー、スクールバッグまで持っている。
 
「……帰るのか?」
 
 俺の服装をしげしげと眺めた後、悠月は言った。
 
「帰る」
「じゃあ駅行こうぜ」
「お前、何か用事あるんじゃねぇの」
「……いいんだ。帰ろう」
 
 悠月が歩き始める。俺も隣を歩く。ICカードで入場してホームに立つ。屋根がない吹き曝しのホームに相合傘をしたまま突っ立って電車を待った。
 
「せんせー」
 
 ぼんやりしていたら、悠月が不満そうな声を上げた。唇を尖らせてこっちを見上げている。
 
「何」
「何じゃねぇ。腕疲れた」
 
 ん、と傘の持ち手を押し付けてくる。
 
「……え、何」
「ボケてんのか? あんたのがでかいんだから傘持てって言ってんだよ」
 
 とぼけたわけではなく本気でわからなかっただけだが、悠月は怒って傘を上下に激しく揺らす。受け骨がガツガツと脳天に突き刺さる。
 
「いてっ、いてぇ」
「あんたがでかいせいで、おれの腕が疲れんだよ。わかったらこれ持て」
「わーったよ。ったく、乱暴だなぁ」
 
 俺がでかいのではなくこいつがチビなのが悪いのだが、俺は傘を受け取った。悠月の握っていた部分だけが仄かに温かい。隙間を埋めるように、悠月はこちらへ一歩歩み寄る。ぎゅっと腕を絡めてくるのでどうしたのかと問うと、寒いとだけ答える。
 
 雨足は弱まらず容赦なく傘を叩き、傘からはみ出した肩や足下を濡らす。まるで世界に二人きり、取り残されたみたいだ。実際、ホームには俺達以外誰もいない。
 
「おれ、本当は今日行くところがあったんだ」
 
 悠月がおもむろに口を開いた。
 
「おれはあんまり気乗りしなかったんだけど、お袋が行けってうるさくて。でも、入口まで行って尻込みしちまった。おれみたいなのがいきなり出ていって、向こうの家族はどう思うんだろうとか、大体、顔も声も記憶にない男が死んだからって今更……」
「……誰か亡くなったの」
「たぶん。お袋が言うんだから、たぶんそうなんだろ。生まれる前のことなんか知らねぇし、おれはお袋の言うことを信じるだけだ。でももし死ぬ前に一度会えてたら、おれはきっと一目で父親だってわかったと思うぜ」
「……さぁな。案外、会わなくて正解かも」
 
 棺の中に横たわるあの男の姿を思い出し、俺は言った。
 
「覚えてないっつっても一応……遺伝? 同じ場所にほくろがあるって、お袋がよく言ってたんだ。おれがあの人の息子だっていう証拠だって」
「どこにあるの」
「左足。小指の裏。あと、右の耳たぶの裏。大きさとか色の濃さもそっくりだって。自分じゃわかんねぇけど」
「へぇ。そりゃまたずいぶんと特徴的なほくろだな」
 
 雨はますます強く降りしきり、傘の中にあっても相手の声が聞き取りにくい。むしろ傘の中にいるせいで雨音が反響して余計にうるさい。
 
「先生も葬式行ってきたんだろ? どんなだった」
「どんなも何も、眠っちまうくらいつまらねぇ式だったよ」
 
 俺が言うと、くくっと声を抑えて悠月は笑う。それから、死んだやつがよっぽどつまらねぇ人間だったんだな、と言った。
 
 一時間弱待ち、ようやく電車がホームに入ってきた。傘を畳んで乗り込む。隣の車両にはちらりと人影が見えたが、この車両には俺達しか乗っていない。発車して二駅過ぎても誰も乗ってこない。
 
「今日、あの駅の近くだけでどれだけの数の葬式が挙げられてたと思う?」
 
 話しかけるも返事が返ってこず、独り言みたいになった。曇天の鈍い光に包まれて、悠月は眠りについてしまった。
 
 雨は止むところを知らず、車窓に激しく打ち付ける。丸い雫が風に吹かれて後方へと流れていく。風景は相変わらず枯れた田んぼと山林ばかりで、世界から色が失われたように感じた。一体誰に向けてのものなのか、頭の中でぐるぐると坊さんの読経が巡る。それをBGMに、俺も一眠りした。
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