山の子ども

小貝川リン子

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3 大学編

5 晩夏‐②

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 射的の後、ぬいぐるみを抱っこしてホテルに戻った。値段のわりに豪華なホテルだった。建物は高層で、広いエントランスは一面絨毯が敷いてある。フロントからロビーにかけて開放的な吹き抜けになっており、ロビーにはふかふかのソファが並び、パイプオルガンが自動で演奏している。
 
 旅館というよりはホテルという趣だが、女性スタッフは揃って和服を着ている。瑞季の着物について、華やかで良いですねと褒めてくれた。貸し浴衣の店が近くにあるそうで、そこで借りたのかと尋ねられたが、普段からこういう恰好なんですと俺が答えたら珍しがられた。
 
 客室は純粋な和室だった。広い部屋の中央に座椅子と座卓、縁側にも安楽椅子とテーブルが備えてある。床の間には掛け軸と行灯が置かれ、テレビや冷蔵庫も完備だ。戸棚を開くと、パリッと糊の利いた浴衣が綺麗に畳んである。
 
「うわ、えー、すっごいいい部屋じゃん。もう住みたいわ」
 
 窓の障子を開けると、街を囲む山々が見える。八階なので眺望が良い。
 
「おー、よくわかんないけどすげぇ。あそこ、スキー場かなぁ。お前もこっち来て見てみろよ」
「ん? あぁ……」
 
 瑞季はぬいぐるみをふかふか座布団に座らせ、自身も座椅子に腰掛けて、すっかり休息モードに入っている。
 
「こいつがいたら俺が座れねぇじゃん」
「こいつじゃない。くまちゃんだ」
「名前つけたの?」
「ああ。名無しじゃかわいそうだろう」
 
 得意げに言うので、おかしくって笑いそうになった。なんて捻りのない名前なんだろう。
 
「じゃあくまちゃんはこっちにどいてもらって……」
「あーあ、せっかく座らせたのに」
「お茶でも飲もうかね。お茶菓子もあるし」
 
 座卓のそばにお茶セットが置いてあった。もう散々食べたけど、温泉饅頭はやっぱりうまい。淹れ立てのお茶と一緒だともっとおいしい。
 
「この後どうしようか。飯にはまだ早いし、ホテルの中探検する? 卓球できるらしいよ。カラオケとかゲーセンもあるって」
「うん。いや……」
 
 俺が言っても瑞季は生返事を返すだけ。おもむろに立ち上がってぬいぐるみを抱き上げたかと思うと、そのままぽすんと俺の膝に頭を乗せた。いきなりすぎてびっくりして、心臓止まるかと思った。
 
「な……どうしたの、急に」
 
 平静を装っているけど内心狼狽えまくりである。
 
「別に……ここに枕があったから」
「登山家かよお前は」
「? 違うけど」
「俺の膝も枕と違うんですけど」
「でもちょうどいい高さだし、まぁちょっと固いけど、お前の匂いするし……」
 
 目を閉じて深呼吸する。
 
「うん、お前の匂いだ」
 
 ぬいぐるみを大事そうに抱っこしたり名前を付けたり、やっていることは基本的に子供っぽいのに、唐突に艶めいた表情をするから困る。何か込み上げてくるものがある。まずい、勃ちそう。
 
「……どんな匂いがするの」
 
 馬鹿、会話を膨らますな。ますます我慢できなくなるだろ。
 
「うーん、味噌よりは醤油っぽい匂い」
「例えがわかりにくい」
「わかんない? ずっと昔から、お前はこういう匂いがする。懐かしくて好きだ」
 
 その一言でもうたまらなくなって、うかうかしていたら衝動的に手を出してしまいそうで危ないので、どうにか気を紛らわせるためにテレビをつけた。普段あまり目にすることのない、刑事ドラマの再放送がやっている。見たこともないローカルCMが流れる。
 
「テレビ見たかったのか」
「うん……」
 
 違うけど。しょうがない。今はまだ我慢したいんだ。楽しみは夜に取って置きたい。どっちみち、今はゆっくりする時間もないし。
 
 瑞季は膝枕したまま、時々寝返りを打ってあっち向いたりこっち向いたり、うつ伏せになったりする。内側を向かれると視覚的にクるものがあるが、心頭滅却すれば火もまた涼し。瑞季の方はなるべく見ないようにして、途中からつけたせいで内容のわからないドラマをぼんやり眺めた。
 
 しばらくして瑞季が起き上がる。
 
「夕飯。六時からだろ」
「もうそんな時間か」
「早く行こう。お前ずっと腹鳴ってるぞ」
「うそぉ、気づかなかった」
 
 夕食はホテルの食事処で取った。会席料理というのだろうか。刺身や天ぷら、しゃぶしゃぶ鍋、なんだかよくわからない料理もあった。最後にデザートとお茶をもらったら仕舞いである。こういう体験は普段しないので貴重だと思う。特に肉がおいしかった。
 
 食事の後風呂に直行してもよかったが、夜の湯畑も綺麗ですよと仲居さんに勧められ、腹ごなしに散歩に出た。風情ある街並みも湯畑も美しくライトアップされ、昼間とは全く違う雰囲気を醸し出している。朦々と立ち込める湯煙が青や緑や紫にライトアップされてより存在感を増し、まるで異世界へ迷い込んだみたいに幻想的だった。
 
「綺麗だな」
「うん」
「お前と来られてよかった。この思い出だけであと百年は生きられる」
 
 暗いせいか湯煙のせいか視界が霞んで、瑞季の姿が酷く儚げに見える。消えてしまいそうで不安になって、人目も憚らず手を握った。といっても周囲にいるのはカップルばかりで、どうせみんな自分の恋人のことしか眼中にないだろうから、誰にどう見られようが構わない。
 
「どうした?」
「いや……好きだなって思って」
「……温泉が?」
「ばか、違ぇよ」
 
 馬鹿なのは俺の方だ。瑞季がどこかへ消えてしまうかもなんて馬鹿な想像をした。そんなのありえないってわかってるのに。
 
「キスしていい?」
「ここ外だぞ」
「うん、でも」
 
 唇を寄せると、掌でガードされた。
 
「そういうのは帰ってからだ。人前でみっともないだろ」
「えー、手繋ぐのはいいのに」
「それとこれとは別だ。それにお前、すぐ舌入れようとするから」
「さ、さすがにしねぇよ、こんなとこで」
 
 蔓のように腕を絡ませ、じゃれ合いながらホテルへ戻った。部屋には既にふかふかの布団が敷かれていて思わず飛び込みたくなったけど、その前にやることがある。せっかく温泉地に来たのだから、温泉に入らなくては。
 
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