山の子ども

小貝川リン子

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3 大学編

6 仲秋‐① 嫉妬とホテルと文化祭

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 他の大学と同様、うちの大学でももちろん学園祭が開催される。後期の授業が始まって一か月が経った頃だ。金曜に前夜祭、土日が本祭で、日曜の夕方には後夜祭、というスケジュールらしい。おそらく全ての学生がこの日を楽しみに辛い授業を乗り越えてきたことだろう。
 
 が、サークルに属していない俺は予定を正確に把握できておらず、金曜も土曜も――特に金曜は授業がないのをいいことに――バイトを入れてしまったため、当然学園祭を楽しむ余裕はなかった。日程を知ったのが一週間前だったので、シフトを変えてもらうわけにもいかなかった。
 
 しかし、このままではいくら何でもつまらない。学園祭はまだあと一日残っている。せっかくのイベントなんだから楽しまなきゃもったいない。
 
 というわけで、日曜日は瑞季を誘って午前中から大学に赴き、学園祭の雰囲気をたっぷり味わっているというわけだ。祭りの実行委員や企画を出している学生は大変だろうけど、俺達は客として買い食いしたりステージを見たりすればいいだけなので気楽なものだ。
 
 どこもかしこもわいわい盛り上がっていてなかなか楽しい。心が浮き立つ。通常よりも染髪率が高く、やはりみんなどこか浮足立っているのだとわかる。青空の下、白いテントがずらっと並び、各々商品を売ったり買ったりしている。看板を持ったり、あるいは被り物をしたりコスプレをしたりして、呼び込みを頑張る学生がいる。
 
 瑞季が元いた高校では文化祭がなかったらしく、中学でもそれらしい行事はなかったそうだから、こういう体験は初めてらしい。独特の空気感、熱気、そして人混みに最初は怯んでいたけど、だんだん慣れてきたみたいだ。今では一人で買い物もできる。
 
「買ってきたぞ。ふるーつかくてるだ」
 
 という名の色付きサイダーである。いやよく見たらフルーツも一応入っている。色もグラデーションになっていて綺麗だ。この見た目に惹かれて飲みたいと言い出したのだろう。
 
「ところでかくてるって何だ?」
 
 ストローを吸いながら言う。
 
「お酒の一種」
「酒!? これが?」
「違う違う、これはカクテルを名乗ってるだけでただのジュース。うちの大学、アルコールは禁止らしいから」
「これ、ただ甘くてシュワシュワするだけだ」
「そりゃそうだよ。ねぇ、俺にも一口」
 
 自然に間接キスを交わす。付き合い始めた頃は意識しすぎてできなくなってたけど、最近はまたできるようになってきた。何てったって、間接キスなんかよりもっと過激なことしてますからね。今さら怖気づいたりしない。
 
「それにしても、なんでお前今日は着流しじゃないの」
「なんでって、学校にはいつも洋装で来てるだろ」
「そうだけどさ」
 
 別に今日くらいはそんなこと気にしなくてもいいのに。どうせ、何かのコスプレか? とか、茶華道部の学生か? とか思われるだけで、大した不都合もないのに。もっと目立つ恰好の人達はいっぱいいるし。
 
「着物の方がずっと似合うのに。もったいない」
「お前がそう言ってくれるのは嬉しいけど、他の人に見られると恥ずかしいから……あ、次あそこ行きたい」
 
 広島県人会のお好み焼き屋か。結構おいしいという評判を聞いたことがある。とりあえず一個頼んで、小銭がないから千円札を出した。
 
「……あれ、水野じゃん、来てくれたの」
 
 厨房の――テントの奥にそれっぽいスペースが作ってあるだけだが――厨房の方から声がする。どうも瑞季に話しかけているらしい。
 
「うん。店出すって言ってただろ。お好み焼きって食べたことなかったから」
「えー、マジで? 嬉しいわ、ありがとな。あ、一緒にいるのは――」
 
 俺もそいつに挨拶をする。ほとんど話したことはないが、満更知らない仲でもない。一目見ただけでは気づかなかったが、同じ学科の学生だ。確か瑞季と同じクラスで、実験のグループも同じだったような気がする。こっちは向こうのことを知らないが、あっちは俺のことを少し知っているようだった。たぶん、瑞季から聞いたのだと思う。
 
「いつもはお好み焼きだけなんだけど、今年はたませんも売ってみることにしたんだよねー。よかったら一個どう? おまけするよ」
「たませんって何だ?」
「えびせんに玉子挟んだやつ。結構うまいぜ。あー、あと前山のやつがさ、後夜祭でステージ出るから見に来てほしいって」
 
 何だこいつ。さっきから俺の方は全く見向きもしないで、瑞季にばっかりしつこくしつこく話しかけやがって。あと前山って誰だよ、知らないやつの名前を出すなよ。そんでさっさと仕事に戻れよ。レジ係の人が困ってるだろうが。
 
「でさ、後夜祭ン時はオレも暇だからさ、よかったら――」
「なぁ、せっかく買ったのに冷めちまうぜ。早く食おう」
 
 無性にイライラして仕方なく、ついそいつの言葉を遮った。語気も荒かったように思う。さっさと立ち去りたくて、瑞季の腕を強引に引っ張って歩き出す。俺に引きずられながら、瑞季は律儀に別れの挨拶をしていた。
 
「柊也? 何を怒ってるんだよ」
「別に、怒ってないけど」
 
 手を放しても、瑞季は俺の後をついてくる。
 
「怒ってるだろ。あ、そこ座れる……」
「もっと遠く行こう。噴水池の方に休憩所があったはず」
 
 俺の記憶の通り確かに休憩所はあったが、満席で座れなかった。やむを得ず近くの花壇に腰掛ける。高さがちょうどよく、他にも座っている人はいる。
 
「さて、食うか」
 
 透明パックを開いて膝に乗せ、割り箸を割る。焼けたソースの香りが香ばしい。一口大に切ろうとしても麺が絡まって難しい。諦めて犬のように齧り付いた。
 
「噂通り美味い。はい、お前も食えよ」
「うん……」
「じゃあその煎餅ちょうだい」
 
 瑞季は何だかすっきりしない顔をしている。俺もだけど、わざわざ蒸し返すことでもないような気がして、黙った。
 すぐそばの芝生でブラスバンドが演奏している。きらきらの金管楽器が光を反射する。ステージでも何かやっているらしい。少し遠いのでよくわからないけど音だけ聞こえる。
 
「なぁ」
 
 お好み焼きを三分の二ほど食べ終えたところで、瑞季が不意に口を開いた。
 
「お前、さっきやっぱり不機嫌だったろう。おれが何かしたか?」
 
 瑞季は瞳を潤ませて、困ったような顔をする。悪いことをした。そんな顔をさせたいわけではないのだ。あの時はただ、自分では制御できないくらいむしゃくしゃしてしょうがなくて、一刻も早くあの場を去りたかっただけだ。
 
「ごめん。怒ったわけじゃないんだ。ただなんかイライラして」
「やっぱり怒ったんじゃないか」
「違うんだよ。だってあいつ、いやに馴れ馴れしいっていうか」
「? 堀くんのこと嫌いなのか?」
「いや、そういうことでもなくて……」
 
 じゃあどういうことなんだろうか。俺は慎重に言葉を選ぶ。手慰みに、煎餅の袋を丁寧に折り畳む。
 
「つまり……嫉妬したんだ。お前が俺の知らないやつと親しげに話してたから」
 
 それだけ? と言ったきり瑞季は黙る。呆れたようにぽかんと口を開けている。俺だって自分で自分に呆れている。これほどまでに心の狭い人間だとは夢にも思わなかった。
 
「それだけって言うけど、俺にとっては大問題だ。いつの間に、俺以外のやつとも普通に喋れるようになったんだよ。そりゃ友達がいるのはいいことだけど、あんな風に愛想よくしたら、みんなお前のこと好きになっちゃうじゃん」
「な、ならないだろ……」
「なるだろ。お前ただでさえかわいいんだから。みんながお前の魅力に気づいたら困るよ。俺だけが知ってればいいことなのに」
 
 瑞季は自分では気づいていないみたいだけど、実は結構モテる。高校の時も男子の間で密かに人気があったらしいし、さっきの堀ってやつも絶対瑞季に気があると思う。どさくさに紛れて後夜祭に誘おうとしていたのを俺は聞き逃さなかった。それにあの目がよくない。チャンスがあれば食ってやろうっていう、飢えた獣の目をしていた。
 
「お、お前は……何もわかってない」
 
 瑞季が呟く。なぜか頬を赤らめ、うつむいている。
 
「おれが好きなのはお前だけなんだぞ。もうずっとずっと昔から、おれにはお前だけなんだ。お前さえいればいいんだ。他の人間なんて目にも入らない」
 
 不意打ちの告白。熱い熱い愛の告白。周囲の気温が急上昇する。今度は俺が頬を赤らめる番だ。
 
「……その……ごめん。お前のこと、信用してないみたいな言い方した」
「うん」
「腕、強く引っ張っちゃってごめん。痛かった?」
「ううん」
「あと、キスしてもいい?」
「うん……は?」
 
 俺は瑞季の手首を掴んで顔を寄せたが、瑞季が慌てて立ち上がったので届かなかった。
 
「ばっ、ばか! 何考えて……」
「いや今のはお前が悪いでしょ。あんなこと言われたら欲しくなる」
「なっ……」
 
 瑞季はもじもじと口元を隠す。悩む間もなく、俺は二口ばかり残っていたお好み焼きを一気に頬張り、ペットボトルの水で流し込んだ。強引に瑞季の手を取り、人気のない校舎に連れ込む。
 
「柊也? どこまで……」
「もっと奥」
 
 ここは学園祭の会場に使われていない建物らしい。たぶん、教授や院生の研究棟だろう。太陽の光がほとんど入らず、薄暗い上に肌寒い。寂しいくらいにしんと静まり返っている。隔絶された世界で、外の喧騒は遥かに遠い。
 
 階段の陰に隠れ、壁際に瑞季を追い詰め、俺はキスを迫る。もう逃げられないところまで来ておいてなお、瑞季は周りの様子を気にしていたが、誰か来たら足音ですぐわかるからと俺が言うと、静かに目を瞑った。
 
 性急に唇を重ねる。舌を捻じ込み、食らい尽くすように口内を掻き回す。飢えた獣などと他人を揶揄したが、今の俺こそが真のそれだ。瑞季の時折漏らす甘い吐息が官能的でたまらない。
 
「んっ……ん……」
 
 足に力が入らなくなって、瑞季の体がだんだんずり落ちていく。縋り付く両手を絡め取って押さえ付け、股の間に足を入れて体を支えてやる。それでも力は抜けたままなので、少しずつ腰が落ちてきてしまう。すると兆し始めたあそこを膝で刺激することになるので、瑞季は無理やりにでも背筋を伸ばそうと頑張る。
 
 俺の方ももちろん反応し始めている。厚いデニム生地が邪魔をするので痛い。ジッパーを下ろして中のものを放り出したい。直接触ってほしい。いや、どちらかというと触りたい。瑞季をもっと感じたい。
 
 頂上から突き落とされたジェットコースターのごとく、一旦火のついた性衝動は収まるどころか加速し続ける一方だ。こんなところで、もしも誰かに見られたら一巻の終わりだっていうのに。深夜の温泉なんか比じゃないくらいまずい。知っている人が通りかかる可能性だってあるのに。わかっているけどやめられない。
 
「ん……しゅ、しゅう……」
「なに、もっと……」
「ぁ、ちが……う、うえ、足音……」
 
 そこでようやく気づいた。誰かが階段を下りてくる。急いでその場にうずくまり、小さく縮こまって息を潜める。
 
 瑞季が不安そうに俺の手を握る。自分の鼓動ばかりがうるさい。こういうの、吊り橋効果っていうんだっけ。そんなものなくてもとっくに恋に落ちてるけど……。ってそんなことより、もし見つかった場合の言い訳を考えよう。かくれんぼしてましたと言って通るだろうか。
 
 色々と思案したのだが、足音の主は姿を見せないままどこかへ行ってしまった。とりあえず一安心だ。突然行為を中断されてその後も緊張状態が続いたため、気分は多少落ち着いた。冷静に考えて、大学でこんなのリスキーすぎる。もうしない。
 
「立てる?」
 
 うずくまったままの瑞季に手を差し延べる。瑞季は俺の手を取って立ち上がろうとしたが、ふらついて尻餅をついた。
 
「ご、ごめ……腰が……」
「そんなに怖かった? 腰抜けるくらい?」
「ちがう。お前の接吻がねちっこいからだ」
「あ、そっちね」
 
 俺も再度瑞季の隣に座り込む。床も壁も冷たいが、不思議と寒さは感じなかった。
 
「なぁ、今のキスさ」
「そーすの味がした」
「だよな。あとは……とにかくソースの味だったな」
「でも途中からお前の味になった」
 
 悩ましげに溜め息を吐き、瑞季は俺の肩にもたれる。そんなに密着されたら、そういう気分になってしまう。でもここで続きをするわけにもいかない。
 
「……ねぇ、この後さ……」
「?」
「あ、えっと……」
 
 自分から話しかけたのに、恥ずかしくなって口籠る。
 
「……こ、この後さ……ほ、ホテル、とか、どう?」
 
 緊張と羞恥で言葉を途切れさせながら、俺は言った。この場合のホテルはラブホテルを指している。お世辞にもスマートとは言い難い、むしろ無様な誘い方だけど仕方ない。何しろ俺はつい最近まで童貞だった男だ。ラブホテルなんか一度も行ったことがない。
 
 明るいうちから不健全だとか、倫理観がどうのこうの、学園祭はどうするんだとか、後夜祭は見ないのかとか、他の学生は真面目に参加してるのに等々、一応思うところはあるが、背に腹は代えられない。学園祭なら来年だってあるのだし。
 
「ホテル? また温泉入るのか?」
 
 しかし瑞季には一発で正しい意図が伝わらない。天然で、どこか抜けている。そんなところも好きだ。
 
「そうじゃなくて……つまり、エッチなことをするためだけのホテルがあるんだよ。これからそこに行って続きしない? って誘ってるわけなんだけど……」
 
 途端に瑞季は赤面する。忙しなく髪の毛を弄る。
 
「あ、そ……待合茶屋ってやつ……?」
「いや、普通にラブホテル……知らない?」
 
 瑞季は赤面したまま首を横に振る。
 
「けど、いいよ。行こう。おれも、その……したいし……」
 
 そんなことを言われたらますます高まる。俺は即座にスマホを取り出し、近所のホテルについて検索をかけた。
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