逃避行~15の夏~

小貝川リン子

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第四章

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 今日こそは学校へ行こう。そう思い立ったのはいいが、校門が閉まっていた。今日は日曜日だったと、今頃になって気がついた。
 もう手持ちの金もない。ファミレスでコーヒーの一杯も飲めやしない。実家へは帰れない。他に行く当てがない。
 いつの間にか、見慣れた住宅地を歩いていた。次の角を曲がって路地に入れば、アパートが見えてくる。いつもの、あのアパートだ。
 伊槻は衝動的に駆け出した。赤錆の浮いた階段を駆け上がり、ポケットから鍵を取り出す。傷だらけの、小さな鍵だ。いつかのクレーンゲームで迅が取ってくれた、青いクラゲのマスコットがぶら下がっている。
 ぎい、と蝶番を軋ませてドアを開けた。日曜日のこの時間、迅はまだギリギリ眠っているかもしれない。そう思ったのに、扉を開けるや否や、薄暗い廊下から、迅が飛び出してきた。
 
「っ……!?」
 
 びっくりして動けずにいると、背後でドアがガチャンと閉まって、ぬっと伸びてきた腕に抱きしめられた。
 
「じ……んっ……」
 
 言葉を発することさえ許されずに、唇を奪われた。きつく抱きすくめられ、身動きできない。身動きできないというのに、さらにきつく抱きしめられる。玄関で、まだ靴も履いたまま、迅は裸足のままで土間に下りて、汚れるのも構わずに、伊槻の口内を蹂躙する。
 体の中心が熱を持つ。内側から炙られる感覚に、頭の中がぼんやりしてくる。迅の腕に縋り付き、意識して踏ん張っていなければ、もう立っていられない。腰がガクガク震えているのを、隠し通せそうにない。
 求められて嬉しい、だなんて。バカらしいと思うのに、一度そう感じてしまったら、気持ちいいのが止まらない。快楽と喜びと、そんなものが綯い交ぜになって、伊槻の胸を震わせる。
 
「んぅ、ンっ……、んん゛……っ」
 
 いよいよ腰が立たない。玄関ドアに押さえ付けられていた体が、ずるりとずり落ちた。糊で張り付けたみたいに密着していた唇が離れ、口内を満たしていた舌が抜けていく。迅の舌が追いかけてくるが、唾液が唇を濡らすばかりだ。
 ドアに背を預けたままへたり込んだ伊槻を、迅が見下ろしていた。切れ切れに喘ぎながら、伊槻も迅を見上げる。その目に、見覚えがあった。
 初めて会った時と同じ。切実なまでの熱を帯びた眼差し。溢れ出る感情を必死に押し殺し、それでも押し殺し切れずにいる、そんな表情。怒っているのか、泣きたいのか、伊槻にはまだ分からなかった。この数日、伊槻のいないこの部屋で、迅はこんな顔をして過ごしていたのだろうか。
 
「……遅かったじゃねぇの」
 
 ようやく迅が顔を上げた。口元を拭い、伊槻に手を貸す。すっかり、通常運転といった様子だ。
 伊槻は玄関回りを見回した。物が片付いた印象だった。
 
「……あの人は?」
「ああ」
 
 伊槻が言うと、迅はわざとらしく考える素振りを見せてから、「帰った」と答えた。
 
「何日かホテル暮らしとか言ってたけど、今はもう新居に落ち着いてんだろ。お前が心配することじゃねぇよ」
「別に、心配してるわけじゃ……」
 
 迅は何も言わないが、言いたいことがあるのは分かっていた。伊槻が、ここ数日どこで何をしていたのか。十中八九、ウリをしていたと思われているだろう。
 今回、結局ウリはせずに──というかできずに──ファミレスやネットカフェの世話になったのだが、わざわざ墓穴を掘るようなことを言っては余計に怪しまれる気がして、何も言えなかった。
 それに、伊槻にだって言いたいことはある。柳のような常識的な友人がいるくせに、なぜ伊槻との関係を切らないのか。危ない橋を渡っているのは明らかだ。十年来の友人にさえ、胸を張って本当のことを言えない。誰にも言えない秘密を抱えて、隠し事ばかりで、それで本当にいいのかと。
 考えられるとすれば、“あおい”の存在だ。伊槻にそっくりだという、迅の古い知り合い。柳も存在を知らないほどの、古い知人。それが“あおい”なのではないかと、伊槻は薄々感じていた。迅が伊槻を求めるのは、“あおい”の代わりとしてではないのだろうか。
 だが、それこそ藪蛇になる。伊槻はやっぱり何も言えない。
 
「……勃ってるぜ」
 
 緩いハーフパンツを押し上げて、股間が盛り上がっていた。伊槻が指摘すると、迅は動じた様子もなく、「疲れマラだな」と言った。
 
「抜いてやろうか」
「後でいいや。先にシャワー浴びてこいよ」
 
 先程の濃厚なキスで、伊槻はその気になっていたのに、迅は淡々と浴室を指す。
 
「……くせぇ?」
「んー、まぁ。ほどほどに」
「ほどほどって何だよ」
「夏だからフツーに汗くせぇの! 分かったら黙って行ってこい」
 
 背中を押され、浴室へ押し込まれる。
 
「待ってる間に飯作っとくから、ゆっくりしてろ」
 
 そう言って、足音は去っていった。
 ほんの数日ぶりだというのに、ひどく懐かしく感じられた。頼りないシャワーの水圧も、リンスインシャンプーのチープな香りも、柔軟剤を使っていない毛羽立ったタオルも、全てが懐かしい。耳を澄ませば、台所から包丁の音が聞こえてきた。
 ここが、伊槻の帰る場所だ。本来の帰るべき場所ではないが、帰れる場所はここしかなかった。たとえ誰かの代わりだとしても、伊槻はこの場所を捨てられない。
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