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第三章 夏の盛り

海へ

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 いつも使っている最寄り駅の、いつもは使わないプラットホームから、いつもとは反対方面の列車に乗り込んだ。知らない駅で乗り換え、知らない駅で降り、知らない街を歩いた。白く光る入道雲が天高く昇り、真夏の太陽が赫々と照り輝き、アスファルトからの照り返しが網膜を焼く。まさに殺人級の暑さだ。海水浴日和といえばそうなのだろう。俺は、キャップを目深に被り直した。
 
「悠ちゃん、大丈夫? バテてないかい? こんなことなら、バスに乗っておけばよかったかな。ほら、ちゃんと水飲んで」
 
 駅から海まで歩いて行こうと提案したのは俺だ。何しろ、電車から吐き出された乗客がそのままバス停に押し寄せて、長蛇の列を作っていたのだ。バスは当然超満員。押し合い圧し合いしながら、旅行客が貨物のように運ばれていく。バスは次々やってくるが、需要と供給が見合っていない様子だった。
 
「あと半分だろ。お前こそ、途中でへばるなよ」
「オレは全然余裕だよ」
 
 鬱陶しい蝉時雨の中を、三十分近く歩いてようやく辿り着いた。風に乗って、海のにおいがする。あまり清潔でない、生命の漲るにおいだ。交差点から海岸に下りる。何キロも続く長い長い砂浜に、無数の人間がひしめき合っていた。「うわぁ」と思わず声に出る。
 
 システムがよく分からないが、とりあえず海の家で受付をすると、シャワーと更衣室が借りられるらしい。たった今買ったばかりの水着に着替えて、焼けたビーチを踏みしめた。サンダルの裏から熱が伝わってくるようだ。寄せる波が白く閃く。
 
「悠ちゃん! こっちこっち」
 
 家から水着を着てきた樹は一瞬で着替え終えて、今はビーチパラソルを立てているところだった。足下では浮き輪が丸く膨らんでいる。樹の向日葵色の水着は、薄暗い更衣室で見た時には派手だと感じたが、強い陽射しの下で見ると光に溶け込んで、案外いい感じだった。
 
「水着、かわいいね」
 
 パラソルを開き、樹が笑う。俺はいつしか、こいつにこんな風に褒められることに慣れ始めていた。
 
「やっぱり、オレの見立て通りだ。青い海には青い水着が映えるね」
 
 そういうものだろうか。青よりも赤や黄色の方が映えそうだが。
 
「……お前も……」
「何だい?」
「お前も、その……似合ってる、と思う」
 
 ぎこちないながら褒めてみると、樹は一瞬目を丸くして、それから満面の笑みを浮かべた。
 
「本当かい? 嬉しいな。これね、ちょっとしたブランド品で、でもそんなに高くないんだけど……ああ、そんなことより、早く海入ろっか」
 
 樹は、羽織っていた白いシャツを、パラソルの影に広げたレジャーシートに脱ぎ捨てた。明らかになったその体付きは、実に男らしかった。逞しい肩幅に、厚みのある胸囲、腹筋は割れてこそいないが引き締まっていて、腰周りもどっしりと安定感がある。もちろん上背もある。いつの間にこんなに成長したのだろう。とても同い年とは思えない。昔はもっとぷにぷにしていて、柔らかかったはずなのに。
 
「どうしたんだい。行こうぜ」
 
 俺の葛藤も露知らず、樹は浮き輪を担いで海に入った。
 
「……その浮き輪、他になかったのか」
「えぇー、かわいいだろう? これ」
 
 樹は俺の手を握って、浮き輪の取っ手に掴まらせた。
 
「かわいい、のか……?」
「かわいいよ。ほらほら、もっと深いところまで行こう」
 
 樹は浮かれて浮き輪を引っ張る。俺が何を気にしているのかって、浮き輪がファンシーすぎることだ。裏半分はスイカの皮をイメージした緑と黒のギザギザ縞模様で、表半分はスイカの果肉をイメージした赤地に黒い粒々模様だ。かわいいことはかわいいかもしれないが、男二人で使うのは悪目立ちするんじゃないか。ただでさえ、樹の存在自体が目立つというのに。
 
「悠ちゃん、海は初めてだっけ?」
「馬鹿にするな。海くらい入ったことある」
「ふぅん。いつさ」
「いつって、子供の頃」
 
 ささやかな嘘をついた。海に行ったことはある。確かにあるが、俺の知っている海は東京湾の整備された人工の砂浜で、水質もあまり良くなくて、浮き輪に掴まって泳いだ記憶もない。延々と砂遊びをしていたような気がする。
 
「お前は?」
「そりゃまぁ、人並みにはね」
 
 そうだろうな。でなきゃ、こんなにスムーズに海に入れていないだろう。浮き輪に空気を入れてくれるサービスがあることも、パラソルをレンタルできることも、海の家の使い方さえ、俺は今日初めて知った。海の水は意外と温かくて、肌にしっとり纏わり付くということも。チープなビニールの赤や緑の半透明は、独特の甘い香りがすることも。
 
「悠李」
 
 俺が黙っていたからか、樹が痺れを切らしたように口を開いた。
 
「……暑くないかい」
「いや? 海入ってるし」
「そう、だよね。気持ちいいね」
 
 樹は確かに俺を見て言ったが、その視線はなんだか安定しないように思えた。顔を見ているのか、体を見ているのか、それとも手か、あるいは浮き輪を見ていたのかもしれない。そこでふと気付いたが、樹の体は安定しているのに、俺ばかりが波に揺られてぷかぷかしている。樹の胸の辺りで、波が砕けてちゃぷちゃぷしている。
 
「お前、まだ足届いてるのか」
「へぁ? あ、ああ、足? 地面に? 全然届いてるよ?」
 
 樹は、ぴょんぴょんと軽く飛び跳ねて見せた。大分深いところまで来たと思うが、この余裕っぷり。実に腹立たしいことだ。俺はとっくに底を歩くのを諦めて、バタ足で推進していたというのに。これが身長の差か。測ったことはないが、脚の長さもたぶん倍近く違う。
 
 しかし、それはそれとして。何となく、どことなく、樹の様子が変な感じがする。焦っているというか、困っているというか。上の空な感じもする。心なしか顔が赤い気がして、俺はスイカの浮き輪に乗り上げて、その顔をよく見た。
 
「ちょぉっ、近いぜ……?!」
「お前こそ、暑いんじゃないのか」
「そ、そんなことないと思うけど」
「だって、顔赤くなってる。日焼けか?」
 
 それとも、スイカの赤が反射しているせいだろうか。触れて確認してみようとすると、肩を押された。あまり強い力ではなかったが、やんわりと拒絶された。俺は浮き輪を掴んでいた手を滑らせて、とぷん、と海に沈んだ。
 
「悠ちゃん!!」
 
 樹の声がくぐもって聞こえる。ゴボゴボ、ブクブク、空気の抜ける音がする。真珠のように丸い泡沫あぶくが、光の差し込む明るい水面に昇っていく。海は内側から見ても青くて、樹の水着はやっぱりすごく派手だった。
 
「悠ちゃん! 大丈夫?!」
 
 樹が、俺の腕を掴んで引き上げた。少し水を飲んでしまい、俺は咳き込んだ。
 
「しょっっぱ」
「ごめん、まさか落ちるなんて……。危ないから、浅い方に戻ろうか」
「大丈夫だ、今のはたまたま……。俺だって、まだ……」
 
 爪先立ちになり、顔面を上に向ければ、足が届かないことはない。
 
「ほらっ、俺だってまだ、立てる……!」
 
 だが、飛び散る飛沫は容赦なく目に入るし、大きな波が来れば口にまで入ってくる。これでは溺れてしまう。
 
「うぇっ、しょっぱ」
「悠ちゃん、無理はよくないよ」
 
 樹は眉をハの字にして笑い、浮き輪を引っ張った。
 
「一旦上がろうぜ。オレ、喉渇いちゃった」
 
 俺は浮き輪に引っ張られ、結局ぷかぷか浮かんでいた。
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