2 / 4
第二話 漁村
しおりを挟む
「これが…漁村……。」
あたりには奇妙な臭いが立ち込めている。
これが海というものなのか……。
神社を後にしてから数ヶ月もの間あてもなく彷徨い歩いていた結果、地の果てまで来てしまったのだった。大昔にお供え物としての魚は見たことがあるが、海や船を見るのは初めてである。
「そこで何してんだい?」
「……!!?」
物陰に身を潜めていたはずが、一人の老人に声をかけられてしまった。
『まずい、化け物だってばれる……!』
彼女は人を殺している。警察が調べようにも証拠がないので捕まることはないだろうが、噂は広がっているのかもしれない。
もしばれてしまったら……。
「どうした?腹が減ってるんじゃないのか?」
老人は動じない。動じないどころか、耳と尻尾を丸出しにした彼女に対し何やら白い物体を差し出している。
「おにぎりさ、食え。何事もまず食ってからじゃ。」
おそらく彼女が人間でないことには気がついているのだろう。
「おにぎ…り?」
米ならば神社で見たことがある。よくお供え物の中に入っていた。
これを水で炊くと本当に美味いのだと、昔の参拝客は口を揃えて言うのだった。しかし、彼女は今まで一度も食べ物を口にしたことがない。
化け物に食事は必要無いのだ。
しかし、そのおにぎりとやらからはやたらと美味そうな匂いがする…。思わず手を伸ばすと、老人はそっとその手の中におにぎりを入れてくれた。
「……!!!」
初めての食事に若干戸惑いながらも、それでもそのおにぎりはたまらなく美味かった。
「ここの海で採れた塩と魚が入ってんだ、美味いだろう?」
塩、米、魚……。どれもお供え物でしか見たことがないが、実際にはこんなにも美味いのか……。彼女はすぐにおにぎりが気に入った。
「さて……わしの名前はトヨじゃ。ここで六〇年漁師をしている。お前さんは何者だい?見たところ、人間では無いようだが……。」
彼女にとっては地獄の質問だった。本当は逃げ出したいところだが、これ程の恩を受けて無視する訳にもいかないだろう。彼女は真面目な化け物だった。
「私は……神社を捨てた罪深き狛犬です。貴方はなぜ私のような化け物にこのような事をして下さるのですか?確かに……とても美味しかったのですが……。」
「いや、丁度漁から帰って来たら物陰に誰かいるもんだから気になってしまったんだ。そうか狛犬か……。いや、気にする事はない、こんな古い漁村、化け物の一匹や二匹、ざらにいるもんさ。ところでお前さん、名前はなんていうんだ?」
名前……。
彼女に名前などない。強いて言うなら吽形の狛犬である。
「名前……ですか……ありません、多分。」
「そうか、まあ家にこい。その様子じゃ帰るあてもないんだろう?安心しな、家にはわし以外だれもおらんから。」
家に着くと、トヨと名乗るその老人はすぐにありとあらゆるご馳走をふるまってくれた。刺身、塩焼き、煮付け……。漁村らしく魚ばかりであるが、どれも本当に美味だった。
「いや…わしも長いこと独り身でな……。お前さんが来てくれて正直嬉しいと思ってしまう自分が情けない。お前さんは帰る場所がないだけなのにな……。わしだけいい気分になりおって。」
「そんな事ないです、嬉しいです。」
「そうか、お前さんは本当に優しいな。」
優しい……か。彼女は数ヶ月前神社で人を殺したことを思い出した。神社を守るためとはいえ殺人を犯すような者は果たして優しいと言えるのか……。
「ところで、さっきの名前の件だがな。お前さん、ここに住むってんなら、わしが名前をつけてやろうか?」
なんとも不思議な老人だ。
いくら独り身で寂しいからといって、今日知りあったばかりの身寄りのない化け物と同居を許すというのは謎である。
「ここに住む……!?それは嬉しいのですが……。こんな奇妙な化け物など家に置いて平気なのですか?」
「さっきも言ったろう、わしは独り身で寂しいんじゃ。それに、外を見てみろ。わし以外に人間が見えるか?」
はたして外には誰もいなかった。海と船とがあるばかりで全く生物の気配というものがない。
「他の漁師は全員遠洋で漁をしててな、わしも昔はそうだったんだが……。今は近所でしか漁をしないもんだから、いつもこうして一人なんだ。」
完全に一人……。ならば、ここに厄介になっても騒ぎにはならないだろう。
「それなら……是非よろしくお願いします。私、こう見えても力はあるんです。それから……掃除も得意です。」
「そうか、それは頼もしい。」
老人は満面の笑みを浮かべた。
「それならまずは名前だな。そうだ、その服…。古いようだが美しい衣……。そうだな、衣珠なんてどうだ?」
「いず……!嬉しい、ありがとうございます。」
「本当に素直で良い子だな、衣珠よ。」
こうして彼女は衣珠という名を付けられた。
衣珠は本当によく働いた。
老人が漁に出ている間、真面目に家の掃除をこなし、暇があれば干物作りの手伝いもした。
老人が帰宅すると、一緒に魚を調理し、心ゆくまで二人で味わった。夜になると、共に夜の海を眺めた。
トヨは加齢のためになかなか寝付くことができず、
また衣珠はそもそも睡眠をとる必要がないのだった。
そんなある晩、衣珠はトヨにたずねた。
「そういえば、どうしてトヨさんはほかの漁師さんと一緒に遠洋へ行かないのですか?」
「そりゃ衣珠、誰かが留守番していないと何かあった時にこの村を守れないだろう?」
トヨもまた、漁村を守る守護者だったのだ。衣珠は、その言葉に親近感をおぼえた。
「トヨさんが遠洋へ行かずにこの村を守ろうとしたきっかけってなんですか?」
衣珠は、トヨが遠洋へ行くのを辞めたのは歳のせいだろうと思い込んでいた。ほかの漁師を見たことはないが、きっともっと若いのだろう。しかし、トヨの答えは衝撃的なものだった。
「わしは、海で妻子を死なせているんだ。」
「昔、息子が遠洋漁業に一緒に行きたいとせがんでな。子供が行くものではないからと漁師の皆と反対したんだが、妻も同行するならと結局許可したんだ。」
そう話しながら、トヨの表情は少しづつ暗くなっていった。
「遠洋漁業ってのは何ヶ月もかかるものなんだ。
小さな子供が船の中ですくすくと育っていくのは、見ていてそりゃ楽しかった……。だが、それと同時にトラブルも起こる。なにせ海の上だ。子供のほんのいたずらでも、それがきっかけで船が壊れて船員が皆死ぬ可能性だってあったんだ。」
衣珠は言葉を返せなかった。
「そうさ、ほんのトラブルさ。」
トヨは、沈んでいく船の中で必死に仲間を助けた。多くの船員は助かったが、海の水は冷たく、ベテランの船員でも体力を消耗した。
数時間後に隣町から救助が来たことでようやく助かったが、トヨの妻子を含めた数名の船員が亡くなったのだった。
「ごめんなさい、辛い記憶を思い出させてしまって。」
「気にする事はない。いつかはわしもこの海に還ることになるんだ。」
高齢のトヨは、いつしか自らの死を意識していた。そして、もしその日が来たならば、できれば妻子と共に海の底で眠りたいと願うのだった。
それから長い月日がたったある夏の日のことだった。数日前から台風が近づいてきており、その日も激しい雨が降っていた。轟々と鳴り響く風雨の音……。雷雨によって神社を失った彼女にはトラウマでしかない。しかしトヨは雨を全く気にすることなく、日課の船の手入れに出かけてゆく。
「あの……、今日は二人で家でのんびりしましょう…?こんな雨の中……怖いですよ、雷でも落ちたら全て粉々になって消えてしまうんですよ……?」
「なに、恐れることはない。なにせ何十年も一人で漁をしてきたんだからな。流石に今日は漁には出らんが……手入れなら心配ないだろう?」
「いえ、雷は……本当に恐ろしいものです。」
「面倒な奴だな。だが、そこまで心配なら一緒に見に来るがいい。お前さんがなんと言おうと手入れだけは欠かされないんでな。」
雨の中合羽を被って二人で海まで歩いていく。
道中にも衣珠がしきりに帰ろうと勧めるが、結局トヨが応じることはなかった。
そして愛用の船に乗り込み、点検をしていく。一箇所ずつ……丁寧に。衣珠には初めて見るトヨの姿であった。
その時、雷鳴が鳴り響いた。
「トヨさん……!雷が落ちました、早くしないと危険です。早く家に帰りましょう!まだ雷は遠い、今なら間に合う筈です。」
「何を言っとるんだか。雷がそうそうこんな所に落ちてくる訳がなかろう?ここは海なんだ。低い土地に雷は落ちにくいもんだ。安心せい。」
ところが…そう、雷は彼らのすぐそばに落ちた。
雷の衝撃で船は壊され、地面にもひびが入った。
「トヨさん……!!!」
みるみるうちに沈んでゆく船に向かって叫んだ。
衣珠の小さな身体では、トヨはあまりに大きすぎてとても救い出せない。
衰えた身体で必死に船につかまろうとするが、激しい波の中では思うように動けない。体力だけがどんどん奪われていく。
「衣珠よ……。悪かったな、お前さん一人を残すなんて。だが、あんたならもう一人で生きてゆけるだろう?
わしはこのままで良いんだ、むしろ本望さ……。」
衣珠はトヨとの別れを悟った。
「衣珠……最期にひとつだけな、あの家はお前さんにくれてやる。今まで通りきっちり手入れして、真面目に暮らすんだぞ……!わしの骨なんか後で探して拾おうなんて冗談でも考えるなよ?」
そう言って、彼は海の底へ沈んでいった。
辺りが騒がしい。
遠洋漁業に出ていた漁師達が戻ってきたのだ。
トヨを亡くしてからもずっと家にこもっていた衣珠は、窓から彼らの様子を見守った。
「トヨはどこにおるんだー?いつも岸まで迎えに来てくれたじゃないか。」
漁師の一人がトヨの不在に気がついた。
それから瞬く間に、姿を消したトヨについて騒ぎになった。
「いつもなら岸で手を振って迎えてくれるんだがなあ…?」
「もしや体調を崩してるんじゃないのか?」
そう口々に言いながら、彼らはどんどん家に向かってくる。
彼らに姿を見られてはいけない。村中で騒ぎになる前にここを離れよう……。
衣珠は漁村との別れを決意した。
彼が生前衣珠に買い与えた服を遺品のリュックに詰め込み、手早く最後の掃除を済ませた。
「トヨさん…今まで本当にありがとうございました。このご恩は一生忘れません。またいつか…この海に戻って来ますから。」
そう言うと彼女は静かに家から出ていった。
あたりには奇妙な臭いが立ち込めている。
これが海というものなのか……。
神社を後にしてから数ヶ月もの間あてもなく彷徨い歩いていた結果、地の果てまで来てしまったのだった。大昔にお供え物としての魚は見たことがあるが、海や船を見るのは初めてである。
「そこで何してんだい?」
「……!!?」
物陰に身を潜めていたはずが、一人の老人に声をかけられてしまった。
『まずい、化け物だってばれる……!』
彼女は人を殺している。警察が調べようにも証拠がないので捕まることはないだろうが、噂は広がっているのかもしれない。
もしばれてしまったら……。
「どうした?腹が減ってるんじゃないのか?」
老人は動じない。動じないどころか、耳と尻尾を丸出しにした彼女に対し何やら白い物体を差し出している。
「おにぎりさ、食え。何事もまず食ってからじゃ。」
おそらく彼女が人間でないことには気がついているのだろう。
「おにぎ…り?」
米ならば神社で見たことがある。よくお供え物の中に入っていた。
これを水で炊くと本当に美味いのだと、昔の参拝客は口を揃えて言うのだった。しかし、彼女は今まで一度も食べ物を口にしたことがない。
化け物に食事は必要無いのだ。
しかし、そのおにぎりとやらからはやたらと美味そうな匂いがする…。思わず手を伸ばすと、老人はそっとその手の中におにぎりを入れてくれた。
「……!!!」
初めての食事に若干戸惑いながらも、それでもそのおにぎりはたまらなく美味かった。
「ここの海で採れた塩と魚が入ってんだ、美味いだろう?」
塩、米、魚……。どれもお供え物でしか見たことがないが、実際にはこんなにも美味いのか……。彼女はすぐにおにぎりが気に入った。
「さて……わしの名前はトヨじゃ。ここで六〇年漁師をしている。お前さんは何者だい?見たところ、人間では無いようだが……。」
彼女にとっては地獄の質問だった。本当は逃げ出したいところだが、これ程の恩を受けて無視する訳にもいかないだろう。彼女は真面目な化け物だった。
「私は……神社を捨てた罪深き狛犬です。貴方はなぜ私のような化け物にこのような事をして下さるのですか?確かに……とても美味しかったのですが……。」
「いや、丁度漁から帰って来たら物陰に誰かいるもんだから気になってしまったんだ。そうか狛犬か……。いや、気にする事はない、こんな古い漁村、化け物の一匹や二匹、ざらにいるもんさ。ところでお前さん、名前はなんていうんだ?」
名前……。
彼女に名前などない。強いて言うなら吽形の狛犬である。
「名前……ですか……ありません、多分。」
「そうか、まあ家にこい。その様子じゃ帰るあてもないんだろう?安心しな、家にはわし以外だれもおらんから。」
家に着くと、トヨと名乗るその老人はすぐにありとあらゆるご馳走をふるまってくれた。刺身、塩焼き、煮付け……。漁村らしく魚ばかりであるが、どれも本当に美味だった。
「いや…わしも長いこと独り身でな……。お前さんが来てくれて正直嬉しいと思ってしまう自分が情けない。お前さんは帰る場所がないだけなのにな……。わしだけいい気分になりおって。」
「そんな事ないです、嬉しいです。」
「そうか、お前さんは本当に優しいな。」
優しい……か。彼女は数ヶ月前神社で人を殺したことを思い出した。神社を守るためとはいえ殺人を犯すような者は果たして優しいと言えるのか……。
「ところで、さっきの名前の件だがな。お前さん、ここに住むってんなら、わしが名前をつけてやろうか?」
なんとも不思議な老人だ。
いくら独り身で寂しいからといって、今日知りあったばかりの身寄りのない化け物と同居を許すというのは謎である。
「ここに住む……!?それは嬉しいのですが……。こんな奇妙な化け物など家に置いて平気なのですか?」
「さっきも言ったろう、わしは独り身で寂しいんじゃ。それに、外を見てみろ。わし以外に人間が見えるか?」
はたして外には誰もいなかった。海と船とがあるばかりで全く生物の気配というものがない。
「他の漁師は全員遠洋で漁をしててな、わしも昔はそうだったんだが……。今は近所でしか漁をしないもんだから、いつもこうして一人なんだ。」
完全に一人……。ならば、ここに厄介になっても騒ぎにはならないだろう。
「それなら……是非よろしくお願いします。私、こう見えても力はあるんです。それから……掃除も得意です。」
「そうか、それは頼もしい。」
老人は満面の笑みを浮かべた。
「それならまずは名前だな。そうだ、その服…。古いようだが美しい衣……。そうだな、衣珠なんてどうだ?」
「いず……!嬉しい、ありがとうございます。」
「本当に素直で良い子だな、衣珠よ。」
こうして彼女は衣珠という名を付けられた。
衣珠は本当によく働いた。
老人が漁に出ている間、真面目に家の掃除をこなし、暇があれば干物作りの手伝いもした。
老人が帰宅すると、一緒に魚を調理し、心ゆくまで二人で味わった。夜になると、共に夜の海を眺めた。
トヨは加齢のためになかなか寝付くことができず、
また衣珠はそもそも睡眠をとる必要がないのだった。
そんなある晩、衣珠はトヨにたずねた。
「そういえば、どうしてトヨさんはほかの漁師さんと一緒に遠洋へ行かないのですか?」
「そりゃ衣珠、誰かが留守番していないと何かあった時にこの村を守れないだろう?」
トヨもまた、漁村を守る守護者だったのだ。衣珠は、その言葉に親近感をおぼえた。
「トヨさんが遠洋へ行かずにこの村を守ろうとしたきっかけってなんですか?」
衣珠は、トヨが遠洋へ行くのを辞めたのは歳のせいだろうと思い込んでいた。ほかの漁師を見たことはないが、きっともっと若いのだろう。しかし、トヨの答えは衝撃的なものだった。
「わしは、海で妻子を死なせているんだ。」
「昔、息子が遠洋漁業に一緒に行きたいとせがんでな。子供が行くものではないからと漁師の皆と反対したんだが、妻も同行するならと結局許可したんだ。」
そう話しながら、トヨの表情は少しづつ暗くなっていった。
「遠洋漁業ってのは何ヶ月もかかるものなんだ。
小さな子供が船の中ですくすくと育っていくのは、見ていてそりゃ楽しかった……。だが、それと同時にトラブルも起こる。なにせ海の上だ。子供のほんのいたずらでも、それがきっかけで船が壊れて船員が皆死ぬ可能性だってあったんだ。」
衣珠は言葉を返せなかった。
「そうさ、ほんのトラブルさ。」
トヨは、沈んでいく船の中で必死に仲間を助けた。多くの船員は助かったが、海の水は冷たく、ベテランの船員でも体力を消耗した。
数時間後に隣町から救助が来たことでようやく助かったが、トヨの妻子を含めた数名の船員が亡くなったのだった。
「ごめんなさい、辛い記憶を思い出させてしまって。」
「気にする事はない。いつかはわしもこの海に還ることになるんだ。」
高齢のトヨは、いつしか自らの死を意識していた。そして、もしその日が来たならば、できれば妻子と共に海の底で眠りたいと願うのだった。
それから長い月日がたったある夏の日のことだった。数日前から台風が近づいてきており、その日も激しい雨が降っていた。轟々と鳴り響く風雨の音……。雷雨によって神社を失った彼女にはトラウマでしかない。しかしトヨは雨を全く気にすることなく、日課の船の手入れに出かけてゆく。
「あの……、今日は二人で家でのんびりしましょう…?こんな雨の中……怖いですよ、雷でも落ちたら全て粉々になって消えてしまうんですよ……?」
「なに、恐れることはない。なにせ何十年も一人で漁をしてきたんだからな。流石に今日は漁には出らんが……手入れなら心配ないだろう?」
「いえ、雷は……本当に恐ろしいものです。」
「面倒な奴だな。だが、そこまで心配なら一緒に見に来るがいい。お前さんがなんと言おうと手入れだけは欠かされないんでな。」
雨の中合羽を被って二人で海まで歩いていく。
道中にも衣珠がしきりに帰ろうと勧めるが、結局トヨが応じることはなかった。
そして愛用の船に乗り込み、点検をしていく。一箇所ずつ……丁寧に。衣珠には初めて見るトヨの姿であった。
その時、雷鳴が鳴り響いた。
「トヨさん……!雷が落ちました、早くしないと危険です。早く家に帰りましょう!まだ雷は遠い、今なら間に合う筈です。」
「何を言っとるんだか。雷がそうそうこんな所に落ちてくる訳がなかろう?ここは海なんだ。低い土地に雷は落ちにくいもんだ。安心せい。」
ところが…そう、雷は彼らのすぐそばに落ちた。
雷の衝撃で船は壊され、地面にもひびが入った。
「トヨさん……!!!」
みるみるうちに沈んでゆく船に向かって叫んだ。
衣珠の小さな身体では、トヨはあまりに大きすぎてとても救い出せない。
衰えた身体で必死に船につかまろうとするが、激しい波の中では思うように動けない。体力だけがどんどん奪われていく。
「衣珠よ……。悪かったな、お前さん一人を残すなんて。だが、あんたならもう一人で生きてゆけるだろう?
わしはこのままで良いんだ、むしろ本望さ……。」
衣珠はトヨとの別れを悟った。
「衣珠……最期にひとつだけな、あの家はお前さんにくれてやる。今まで通りきっちり手入れして、真面目に暮らすんだぞ……!わしの骨なんか後で探して拾おうなんて冗談でも考えるなよ?」
そう言って、彼は海の底へ沈んでいった。
辺りが騒がしい。
遠洋漁業に出ていた漁師達が戻ってきたのだ。
トヨを亡くしてからもずっと家にこもっていた衣珠は、窓から彼らの様子を見守った。
「トヨはどこにおるんだー?いつも岸まで迎えに来てくれたじゃないか。」
漁師の一人がトヨの不在に気がついた。
それから瞬く間に、姿を消したトヨについて騒ぎになった。
「いつもなら岸で手を振って迎えてくれるんだがなあ…?」
「もしや体調を崩してるんじゃないのか?」
そう口々に言いながら、彼らはどんどん家に向かってくる。
彼らに姿を見られてはいけない。村中で騒ぎになる前にここを離れよう……。
衣珠は漁村との別れを決意した。
彼が生前衣珠に買い与えた服を遺品のリュックに詰め込み、手早く最後の掃除を済ませた。
「トヨさん…今まで本当にありがとうございました。このご恩は一生忘れません。またいつか…この海に戻って来ますから。」
そう言うと彼女は静かに家から出ていった。
1
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる