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1.地縛霊のサクラさん

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 部屋のカギと大きなスーツケースを片手に、俺はマンションの階段を勢いよく駆け上がった。なにせ今日から俺はここに一人暮らし、子供の頃からの夢を追いかけながらバイトをして過ごすことができるのだ。胸が躍るのも仕方がないことだろう。
 俺の親は、昔からルールに関して厳しく、その規律から抜け出した存在になれるということだけでも、十分に喜ぶべきことなのだが、定職に就かずこうして自由な生活をすることを三年間だけ認められた以上、サボってばかりはいられない。この与えられた時間の間に、絶対に俺はやりたいことで成功して、「お前、才能無いな」なんて抜かしやがった父さんを見返してやらなければならないのだ。
 カギに書かれた番号を確認する。810号室……ここか。八階ともなると結構高いな。良い眺めだが、さぶいさぶい。
 扉を開けると、部屋の空気が外と同じく冷え切っていることが分かった。特に変な匂いとかはしなくて良かったぜ。どうやら不動産会社によると、ここは「いわくつきの物件」らしいからな。あんまり詳しくは教えてくれなかったが、こりゃ早くオフトゥンを敷いて中に潜り込んだ方が良さそうだ。
カギをコートのポケットにしまい、スーツケースを抱えて部屋に入った俺。その目に映ったのは、大の字に四肢を広げて、天井をぼーっと見つめる女性の姿だった。

「すっ、すいませんっ!部屋を間違えましたァッ!」

 慌てて言うと、女性は顔を俺の方へ向け、微笑みながらゆっくりと体を起こした。
 あ、あれ?待てよ、部屋を間違えたんならなんでこのカギで扉が開いたんだ?元々開いてたのか? いや、そうだとするとカギはまず穴に入らないだろうし…………。

「自分、ウチのこと見えるん?」

 彼女は明るい笑みを浮かべながら、気がつくと俺の目の前に立っていた。
 自分のことが見えるかって……まさか……いわくつきの物件って……。いやいや、そんなはずはない。幽霊がこんなにハッキリ見えるはず無いじゃないか。顔色も悪くなさそうだし。

「冗談はやめてください。ここ、俺の部屋なんで、申し訳ないんですけど、出て行ってもらっても良いですかね?」
「何言うてんねや、ウチの方がずっとここにおんねんから、出て行く必要なんて無いやんか。そんなことより、久しぶりに生きてるヤツでウチと会話できるんが来たんやから、仲良くしたいねん。ウチはサクラ。生きとった頃のことはあんまし覚えとらんのやけど、新しく誰かがこの部屋に越してくるって幽霊仲間から聞いて、心躍らして待っとったんやで。自分、名前はなんて言うん?」

 やべぇなこの人。隣人か誰かなのかもしれないし、仲良くしようとしてくれてるのは嬉しいけど、しばらくは荷物広げたり休んだりしたいな……ちょっと強めに言わせてもらうか。あとで謝ればいいだろう。

「あの、本当ちょっと疲れてるんで、出て行ってもらってもいいですか?不法侵入で警察に通報しますよ?」
「えー、そんなんやめてえや!ごめんごめん!謝るから!」

 彼女は慌てて俺に近寄り、肩に手を置いた……と思ったのだが、そこに何も触れた感じはせず、むしろ彼女の手は、俺の方をすり抜けて、心臓のあたりまで胸に深く食い込んでいた。
 驚きに、思わずスーツケースを取り落とす。コマが左足の小指に直撃した。痛みに悶絶してそのまま俺はしゃがみこんでしまった。
 サクラさんもしゃがんで、ニヤニヤと笑いながら俺の方を見つめる。

「大丈夫かいな?言っとくけど、ウチは絶対呪いとかかけたりする類の幽霊やないし、なんでまだ成仏でけてへんのかも分からへんねん。でも、アンタに悪いことはせえへんって誓ったるわ。寂しい一人暮らしに、ウチみたいなウルトラキュートでスーパーエッチな女の子がついてきたって思えば、結構ラッキーやと思うで?自分、どうせ彼女なんていてへんのやろ」
「ううう…………悔しいがなぜ分かったんだ……。分かったよサクラさん、本当に悪いことはしないでくれよ……」
「おっけーおっけー。話の早い人間は好きやねん。ほな、ウチ人間には触られへんけど結構物とか動かせるみたいやから、そのえらい重そうなスーツケース中に運んだるわ。小指の痛み引いたらはよ入っといでや、ウチの城へようこそ!」

 ……霊感強かった覚えなんて少しも無いんだけどな……どうしたものか。
 とにかくこうして、フリーターの俺と地縛霊のサクラさんの、奇妙な同居生活が始まったのだった。
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