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第二章 剣を求めて
第二節 英雄
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医療用の天幕を訪れたのは、夕方近くになってからのことだった。
コレットを落ち着かせるのにしばらく時間が掛かったというのもあるが、怪我の痛みよりも蓄積した疲労が深く、動く気にもなれなかったのだ。
しかし夜には医師達も一度引き上げるというので、リュヌは仕方なく重い腰を上げた。天幕の中では先ほどの女性に加えてもう一人、眼帯をした医者らしい男が忙しなく怪我人の処置に当たっていた。
「あの」
現場の慌しさに気後れしつつ、少年は発した。するとすぐに先程の女性が気付き、同僚らしい男性と何事か打ち合わせた後、足早にこちらへやって来た。
「リュヌさん、でしたね。少しはお休みになれましたか?」
「ええ、大分楽になりました」
本音を言えば楽とは程遠い状態ではあるのだが、この誠実そうな女医に気を遣わせても仕方がない。もっとも彼女自身、それが意味のない問いであることは自覚しているようで、申し訳なさそうに苦笑した。
「では手当をしてしまいましょうか」
天幕の中には何人か先客がいたが、知っている顔はやはりなかった。みな、怪我をしているという風でもなく、恐らくはサリエットからの避難民が慣れない移動で体調を崩したのだろう。
女医――名前は、ミレーヌというらしい――は手際よく少年の足を清拭すると、薬を塗って包帯を巻き、あっという間に処置を終えた。だからと言ってすぐによくなるはずもないのだが、気分の問題なのか、痛みは大分楽になったように思われた。
「捻挫でしょうね。骨には異常ないようですし、普通に歩く分には問題ないと思いますが……できるだけ安静にしていて下さい。明日になったら包帯を取り替えますから、またここへ来て頂ければ」
「ありがとうございます」
謝意を込めて頭を下げると、いいえと笑ってミレーヌは言った。
「私達にはこれくらいのことしか出来ませんから。……あの、難しいとは思いますが……」
どうかお気を落とさずに。
そういうより他にないのだろう言葉は、なんともすっきりしない響きで耳に残った。
仮に前を向いたとして、この目には何が見えるのか。
自分はこれから、何をすべきなのか?
視界は暗澹としていると言わざるを得なかった。
「ミレーヌ、ルートヴィヒ、ちょっといいかな?」
「!」
不意に、天幕の空気が動いた。物理的な意味でなく、その場にいた者達がぴんと背筋を伸ばすような、ある種の緊張が走ったのだ。
何が起きたのか分からずに状況を見守っていると、声の主が入り口の布を押して天幕の中を覗き込んだ。
それは一人の騎士だった。
首の後ろで一つに束ねた長い髪に、透き通るようなブルーの瞳。纏うマントの純白には一点の穢れもない――まるで作り物のような騎士を一目見て、避難民の一人が口にした。
「セレスタン様だ」
手当を受けていた他の者達までもが、俄かにざわつく。ちょっと待っていて下さいと言い置いて、ミレーヌはもう一人の医師と連れ立ち、天幕の外へ出て行った。しかし人々のざわめきは収まらない。
「あの人は……?」
余り大きな声で尋ねるのも憚られて、リュヌはそっと、近くにいた難民の男に耳打ちした。するとわざわざ声をひそめて訊いたのに、男はええっと頓狂な声を上げる。
「お前、ブリュイエール卿を知らないのか?」
セレスタン=ブリュイエール。弱冠二十八歳にして皇国軍団長の座についた、救国の英雄。そういえば名前くらいは、エーレルの田舎でも聞いたことがあったかもしれない。
しかし余り外の世界に興味を持って来なかったリュヌには、まだ理解が及ばなかった。
「凄い人なんですか?」
「凄いも何も……英雄だよ、あの人は。スプリングがイヴェールにちょっかいを掛けてくるのは今に始まったことじゃないが、それを全部あの人が跳ね返して来たんだぞ!」
小競り合いとは言っても、勝って当然の戦ばかりではない。しかし戦況が劣勢を極める中、わずかな手勢を率いて前線に赴き、大勢を引っくり返したことも一度や二度ではないらしい。
会話が耳に入ったのか、中年の女性が加わった。
「ご本人も素晴らしい方だけど、それより凄いのはあの剣よ!」
彼女の言うことには、セレスタンが腰に帯びる剣の名は『聖剣』ルクシス。
嘘か誠かその剣は、『創世の神話』で原初の闇を裂いたとされる二振りの剣の片割れだというのである――もっともそれが嘘か真かを知る術は、今のリュヌにはないのだが。
「そんなに凄い人なんだ……」
救国の英雄。何気なく口にした言葉が、棘のように胸に刺さった。
何が英雄だ。そんな昏い感情が胸に込み上げる。稀代の騎士と謳われようと、神話の剣を掲げようと、彼は村ひとつ守ってくれなかったではないか。
次の瞬間、思わず天幕を飛び出していた。怪我をしていることも忘れて、そのままキャンプの中を突き抜けた。セレスタンと二人の医師が、街路の手前で何やら話しているのが見えた。駆け寄る足音に気付いたのか、ミレーヌがこちらを振り返る。
「リュヌさん………!?」
少年の行動は、ミレーヌ達にとって予想外だっただろう。止められることはなかった。話し合う三人の輪の中に飛び込むや否や、リュヌは騎士に掴みかかった。セルリアンブルーの軍服に皺が寄るのも構わずに、両手にありったけの力を込める。
セレスタンは呆気にとられたように少年を見下ろしていたが、特に咎めようとはしなかった。とんでもないことをしでかしている自覚はおぼろげにあったが、この程度の行為は彼にとって乱暴の内にも入らないのだと思うと、妙に悔しくて涙が零れた。
「どうして、ですか」
絞り出すような声で、少年は言った。
「どうして、助けてくれなかったんですか!!」
貴方は、英雄のはずなのに。
無茶を言っているということは、後になれば解るだろう。そして己を恥じただろう。しかし今の少年には、ひとかけらの冷静さも残されてはいなかった。
悔しい。
悲しい。
どうして?
積もりに積もった想いが爆発して、自分ではもう止めることができない。やり場のない思いを乗せて叩きつけた拳が、白い手袋にそっと包まれた。
「彼は?」
「えっ? あ……は、はい。エーレルの村から逃げて来られた方で……」
セレスタンが問うと、ミレーヌははっと我に返ったように応えた。突然の出来事に動揺し、身動きが取れずにいたようだった。やれやれと頭を掻いて、眼帯の医師が肩を竦める。
エーレルの、と繰り返して、セレスタンは悔しげに眉を寄せた。
「……すまなかった。君達の村を救えなかったことは、本当に申し訳なく思っている」
固めた拳を包む手に、力がこもる。それと同時に、リュヌもまた我に返った。
怒りを向けるべき相手は、この人ではない。
「…………すみません」
それだけ言うのでやっとだった。一国の軍のトップに対し、狼藉を働いたと言われても致し方ない状況であったが、セレスタンは首を横に振った。
「私達はこの国を守るために存在している。それを果たせなかった我々に、君が腹を立てるのは当然だよ」
でも、と、騎士はその手に力を込めた。硬く握り締められた右手は動かすこともできず、リュヌは恐々と顔を上げる。見詰める青い瞳は悔恨を湛えてなお曇りなく、図らずも心臓が跳ね上がった。
「これ以上、彼らの好きにはさせない。亡くなった人達のためにも……このイヴェールを守るためにも、私達は力を尽くす所存だ。だから、どうか――君達のために戦うことを、許して欲しい」
そう言って、セレスタンはようやくその手の力を緩めた。急に申し訳ない気持ちになって、リュヌは黒い頭を垂れる。ありがとうと微笑んで、セレスタンは言った。
「じゃあ、私はこれで。二人とも、こっちは宜しく頼むよ」
「はい。お任せ下さい」
頭を下げるミレーヌに背を向けて、セレスタンは優雅に去って行った。行きましょうと促す女医の声に従って、来た道をとぼとぼと引き返して行く。
酷く惨めな気分だった。
八つ当たりをするだけの自分には、あの人の指の先程の力もありはしないのだ。そう思うと、情けなくて消えてしまいたかった。
(もっと僕に、力があったら)
ソレイユは、死なずに済んだだろうか。
答えの出るはずもない問いはその夜、キャンプに戻ってからも、少年の胸にわだかまり続けていた。
コレットを落ち着かせるのにしばらく時間が掛かったというのもあるが、怪我の痛みよりも蓄積した疲労が深く、動く気にもなれなかったのだ。
しかし夜には医師達も一度引き上げるというので、リュヌは仕方なく重い腰を上げた。天幕の中では先ほどの女性に加えてもう一人、眼帯をした医者らしい男が忙しなく怪我人の処置に当たっていた。
「あの」
現場の慌しさに気後れしつつ、少年は発した。するとすぐに先程の女性が気付き、同僚らしい男性と何事か打ち合わせた後、足早にこちらへやって来た。
「リュヌさん、でしたね。少しはお休みになれましたか?」
「ええ、大分楽になりました」
本音を言えば楽とは程遠い状態ではあるのだが、この誠実そうな女医に気を遣わせても仕方がない。もっとも彼女自身、それが意味のない問いであることは自覚しているようで、申し訳なさそうに苦笑した。
「では手当をしてしまいましょうか」
天幕の中には何人か先客がいたが、知っている顔はやはりなかった。みな、怪我をしているという風でもなく、恐らくはサリエットからの避難民が慣れない移動で体調を崩したのだろう。
女医――名前は、ミレーヌというらしい――は手際よく少年の足を清拭すると、薬を塗って包帯を巻き、あっという間に処置を終えた。だからと言ってすぐによくなるはずもないのだが、気分の問題なのか、痛みは大分楽になったように思われた。
「捻挫でしょうね。骨には異常ないようですし、普通に歩く分には問題ないと思いますが……できるだけ安静にしていて下さい。明日になったら包帯を取り替えますから、またここへ来て頂ければ」
「ありがとうございます」
謝意を込めて頭を下げると、いいえと笑ってミレーヌは言った。
「私達にはこれくらいのことしか出来ませんから。……あの、難しいとは思いますが……」
どうかお気を落とさずに。
そういうより他にないのだろう言葉は、なんともすっきりしない響きで耳に残った。
仮に前を向いたとして、この目には何が見えるのか。
自分はこれから、何をすべきなのか?
視界は暗澹としていると言わざるを得なかった。
「ミレーヌ、ルートヴィヒ、ちょっといいかな?」
「!」
不意に、天幕の空気が動いた。物理的な意味でなく、その場にいた者達がぴんと背筋を伸ばすような、ある種の緊張が走ったのだ。
何が起きたのか分からずに状況を見守っていると、声の主が入り口の布を押して天幕の中を覗き込んだ。
それは一人の騎士だった。
首の後ろで一つに束ねた長い髪に、透き通るようなブルーの瞳。纏うマントの純白には一点の穢れもない――まるで作り物のような騎士を一目見て、避難民の一人が口にした。
「セレスタン様だ」
手当を受けていた他の者達までもが、俄かにざわつく。ちょっと待っていて下さいと言い置いて、ミレーヌはもう一人の医師と連れ立ち、天幕の外へ出て行った。しかし人々のざわめきは収まらない。
「あの人は……?」
余り大きな声で尋ねるのも憚られて、リュヌはそっと、近くにいた難民の男に耳打ちした。するとわざわざ声をひそめて訊いたのに、男はええっと頓狂な声を上げる。
「お前、ブリュイエール卿を知らないのか?」
セレスタン=ブリュイエール。弱冠二十八歳にして皇国軍団長の座についた、救国の英雄。そういえば名前くらいは、エーレルの田舎でも聞いたことがあったかもしれない。
しかし余り外の世界に興味を持って来なかったリュヌには、まだ理解が及ばなかった。
「凄い人なんですか?」
「凄いも何も……英雄だよ、あの人は。スプリングがイヴェールにちょっかいを掛けてくるのは今に始まったことじゃないが、それを全部あの人が跳ね返して来たんだぞ!」
小競り合いとは言っても、勝って当然の戦ばかりではない。しかし戦況が劣勢を極める中、わずかな手勢を率いて前線に赴き、大勢を引っくり返したことも一度や二度ではないらしい。
会話が耳に入ったのか、中年の女性が加わった。
「ご本人も素晴らしい方だけど、それより凄いのはあの剣よ!」
彼女の言うことには、セレスタンが腰に帯びる剣の名は『聖剣』ルクシス。
嘘か誠かその剣は、『創世の神話』で原初の闇を裂いたとされる二振りの剣の片割れだというのである――もっともそれが嘘か真かを知る術は、今のリュヌにはないのだが。
「そんなに凄い人なんだ……」
救国の英雄。何気なく口にした言葉が、棘のように胸に刺さった。
何が英雄だ。そんな昏い感情が胸に込み上げる。稀代の騎士と謳われようと、神話の剣を掲げようと、彼は村ひとつ守ってくれなかったではないか。
次の瞬間、思わず天幕を飛び出していた。怪我をしていることも忘れて、そのままキャンプの中を突き抜けた。セレスタンと二人の医師が、街路の手前で何やら話しているのが見えた。駆け寄る足音に気付いたのか、ミレーヌがこちらを振り返る。
「リュヌさん………!?」
少年の行動は、ミレーヌ達にとって予想外だっただろう。止められることはなかった。話し合う三人の輪の中に飛び込むや否や、リュヌは騎士に掴みかかった。セルリアンブルーの軍服に皺が寄るのも構わずに、両手にありったけの力を込める。
セレスタンは呆気にとられたように少年を見下ろしていたが、特に咎めようとはしなかった。とんでもないことをしでかしている自覚はおぼろげにあったが、この程度の行為は彼にとって乱暴の内にも入らないのだと思うと、妙に悔しくて涙が零れた。
「どうして、ですか」
絞り出すような声で、少年は言った。
「どうして、助けてくれなかったんですか!!」
貴方は、英雄のはずなのに。
無茶を言っているということは、後になれば解るだろう。そして己を恥じただろう。しかし今の少年には、ひとかけらの冷静さも残されてはいなかった。
悔しい。
悲しい。
どうして?
積もりに積もった想いが爆発して、自分ではもう止めることができない。やり場のない思いを乗せて叩きつけた拳が、白い手袋にそっと包まれた。
「彼は?」
「えっ? あ……は、はい。エーレルの村から逃げて来られた方で……」
セレスタンが問うと、ミレーヌははっと我に返ったように応えた。突然の出来事に動揺し、身動きが取れずにいたようだった。やれやれと頭を掻いて、眼帯の医師が肩を竦める。
エーレルの、と繰り返して、セレスタンは悔しげに眉を寄せた。
「……すまなかった。君達の村を救えなかったことは、本当に申し訳なく思っている」
固めた拳を包む手に、力がこもる。それと同時に、リュヌもまた我に返った。
怒りを向けるべき相手は、この人ではない。
「…………すみません」
それだけ言うのでやっとだった。一国の軍のトップに対し、狼藉を働いたと言われても致し方ない状況であったが、セレスタンは首を横に振った。
「私達はこの国を守るために存在している。それを果たせなかった我々に、君が腹を立てるのは当然だよ」
でも、と、騎士はその手に力を込めた。硬く握り締められた右手は動かすこともできず、リュヌは恐々と顔を上げる。見詰める青い瞳は悔恨を湛えてなお曇りなく、図らずも心臓が跳ね上がった。
「これ以上、彼らの好きにはさせない。亡くなった人達のためにも……このイヴェールを守るためにも、私達は力を尽くす所存だ。だから、どうか――君達のために戦うことを、許して欲しい」
そう言って、セレスタンはようやくその手の力を緩めた。急に申し訳ない気持ちになって、リュヌは黒い頭を垂れる。ありがとうと微笑んで、セレスタンは言った。
「じゃあ、私はこれで。二人とも、こっちは宜しく頼むよ」
「はい。お任せ下さい」
頭を下げるミレーヌに背を向けて、セレスタンは優雅に去って行った。行きましょうと促す女医の声に従って、来た道をとぼとぼと引き返して行く。
酷く惨めな気分だった。
八つ当たりをするだけの自分には、あの人の指の先程の力もありはしないのだ。そう思うと、情けなくて消えてしまいたかった。
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