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11.桜と……

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 学校から家までの道のりを駆け足に近い速度で歩く。バシャバシャと水たまりがローファーを汚すのも気にせず。午後の授業の途中から降り始めた雨はまだ止まない。
 田植えが終わったばかりの若い緑の香りが雨の匂いと混ざり合う。頭上で揺れるのは、美月センパイに直してもらった折り畳み傘。美月センパイの魔法がなくなったら、これは壊れてしまうのだろう。
 魔法が解けるということは、時間が戻るのに似ている。この傘にとっては、転校初日の壊れた状態に戻る、ということ。でも今の私を雨から守っていることは変わらない。美月センパイと一緒に帰ったこともなくなったりしない。
 美月センパイに電話しよう。ちゃんと伝えよう。私は美月センパイが好きですって。たとえこれが魔法でも、私は必ず美月センパイをまた好きになる。だって忘れてしまっても、一緒に過ごした時間が消えるわけじゃないから。
 だから――私とキスしてくださいって。
 家の前に車はない。母は買い物に出ているのだろう。すりガラスの引き戸を開ければ、静けさとともにひやりとした空気が流れてくる。折り畳み傘を立てかけ、広々とした土間を抜ける。自室の襖を開く。畳の上に置かれた家具も見慣れてしまえば何も思わない。窮屈だった場所も今では馴染んでしまった。美月センパイと出会ってからの時間の分だけ、私は変わっている。魔法にかかったあの日からもきっと変わり続けているはずだ。
「……美月センパイ」
 そっと呼んだ名前が耳から戻ってくる。自分の声なのに、美月センパイの名前だというだけでおかしなくらいに胸が震える。私の体はこんなにも美月センパイでいっぱいだ。
 スカートの裾が雨を吸い込み、色を変えていた。私は構うことなく、カバンのポケットからスマートフォンを取り出す。時刻は十六時すぎ。美月センパイはまだ授業中だろう。
 そっと息を吐き出し、カバンを置こうと顔を上げた瞬間。小さな紙袋の存在に気づいた。机の上に載ったそれは、今朝はなかったものだ。母が置いたのだろうか。私が出たあとこの家には母しかいなかったはず。
 トクン、と鼓動がひとつ滑り落ちる。
 微かに届いた香りは、今の時期の花ではない。過ぎ去った淡いピンク色が頭に浮かぶ。紙袋を開けば、透明の袋でラッピングされた練り香水が入っていた。――美月センパイだ。そういえば「みのりの分も買ったから」と言われたのに受け取るのを忘れていた。小さな丸い容器の表面には桜の花が描かれている。一昨日、美月センパイが付けていたのと同じ。
 いつ来たのだろう。もう帰ってしまっただろうか。とにかく連絡しないと。焦った私の手が紙袋にぶつかる。空になったと思っていたが、畳に落ちた袋からコロコロと細い筒状の物が転がった。
「え」
 急いで拾い上げる。ラッピングも何もない。一瞬自分が落としたのかを思ったが、スカートのポケットを上から押さえれば確かな感触が返ってくる。これは美月センパイの袋から出てきたものだ。ピンクの蓋。白地に花のイラスト。
「バニラ……?」
 リップクリームに描かれていたのはバニラの花。私がいつも使っているものと同じ。
 ――美月センパイが私と『キスしてもいい』って思ったら、私が付けている香りと同じリップを選ぶっていうのはどうですか?
 同じ香りを選んだなら。それは私が美月センパイに言ったこと。選ぶのは美月センパイだから。許すのは美月センパイだから。
 これはどういう意味だろう。単純に私がいつも使っているものを渡してくれただけだろうか。でも練り香水と違ってラッピングはされていない。桜の方は私にくれたのだと、わかるけど。
「あれ……?」
 ラッピングされた袋から香りは漏れていない。先ほど微かに感じたのは紙袋から。つまり、この桜の香りは美月センパイのものだ。
 リップクリームからも微かに同じ香りがする。
 このリップクリームは――美月センパイのもの?
 美月センパイがジャスミンの香りを手放した意味。バニラの香りを選んだ意味。勘違いかもしれない。勝手な想像かもしれない。でも、私は生まれてしまった期待から目を逸らすことなんてできない。
 スマートフォンを手に部屋を飛び出す。玄関で「みのり? さっきね」と母に呼び止められたが、足は止まらなかった。
「ちょっと出てくる」
 とだけ伝え、ローファーを履いて駆けていく。耳にあてた端末からは呼び出し音が続いている。もう帰ってしまっただろうか。今日はもう会えないだろうか。湧き上がる不安を掻き消すようにひたすら走った。止むことのない雨が全身を包み込む。セーラー服も靴下も色を変えていく。傘は持っていない。カバンも置いてきた。あるのはスマートフォンと、スカートのポケットに入れた二本のリップクリームだけ。
 息を切らしたまま、コンビニを抜け、美月センパイの家へと向かう。何度と通った道だから、間違えようがない。頭で考える必要がないくらい自然と足が向かう。
 ――ねえ、美月センパイ。
 今こうして走っている私も、美月センパイの魔法のせいなのかな。息が苦しいのも、足が痛いのも、体から流れる汗も、会いたくて仕方がないこの気持ちも、全部。魔法が解けたら消えてしまうものですか?
 オレンジ色の屋根が見えても、呼び出し音が途切れることはない。家には寄らずに帰ってしまっただろうか。それでも確かめないわけにはいかなかった。
 クリーム色の壁の前で立ち止まる。足を止めれば、肌に触れる風も止まる。雨に濡れた肌の内側からは熱と汗が染み出る。息を整え、インターフォンへと指を伸ばす。
 触れるかどうか、というところで「みのり?」後ろから声が聞こえた。
「わっ」
 驚きに体を跳ねさせ、うっかり指がインターフォンを押してしまう。間の抜けた高い音が建物内に響くのが聞こえる。誰もいないのか、答える声はない。スマートフォンの呼び出し音は続いていたが、求めていた声は機械を通すことなく空気を震わせる。美月センパイが立っていた。
「なんでびしょ濡れなの」
 美月センパイの赤い傘が傾けられる。
「……センパイ」
「うん」
 美月センパイの白い肌が赤い影に染まる。
「美月、センパイ」
「うん」
 何から言えばいいのか。何から伝えればいいのか。たくさんあったはずなのにどれもうまく言葉にならない。
「なんで……出てくれない、んですか」
 ようやく出てきた言葉に、美月センパイが一瞬驚いたように目を大きくし、すぐに「ごめん、ごめん」と笑った。スマホ忘れちゃったの、という声はぎゅっと抱きしめられたのと同時に落ちてきた。
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