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『プロローグ』side大和
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——これは約束。
もう一度、会うために。
もう一度、繋がるために。
不要の外出は控えるようにと、出がけに見ていたテレビのアナウンサーが言っていた。
片手をかざして見上げた空には澄んだ青色を背景に白く分厚い雲が高く伸びていく。
コンビニを出てから五分も経っていないと言うのに、手首に引っ掛けた袋には水滴が流れている。
「……溶けそう」
自分も、買ったばかりのアイスも。
振り払いきれない熱い空気にうまく呼吸ができない。
耳の奥まで響く蝉の鳴き声はどこまでも遠く重なっていく。
真上から降り注ぐ日差しが肌に突き刺さる。
熱を抱えた全身は汗でべとつき、息苦しさを覚える。
足元に落ちた影さえ溶けそうな気温の中、俺は見慣れたマンションのエントランスへと向かう。
目線を上げると、人感センサーが反応して緑色の小さな光に変わり、流れてきた温度に誘われるように足を踏み入れた。自動扉一枚隔てただけで、外よりは少しだけ大きく息を吸い込めるようになった。
閉じ込められたぬるい空気をそれでも肺の奥へと送り込みながら、俺はインターホンの前に立ち、頭に思い浮かべるまでもなく覚えてしまった指先で部屋番号を押す。
ピンポーン、と聞き慣れた軽い音が耳に届く。
「……入って」
名乗る必要さえなく、返された言葉はどこか素っ気なかった。
その理由がわかるから、俺は何も言わずに開いたガラスの扉をすり抜ける。
エレベーターの階数表示が目的の階へと近づくにつれ、俺の心臓は大きく高鳴り、その指先は震える。
——今日を、この日を、俺はずっと待っていた。
それと同時に今日が来ないことを、俺はずっと願っていた。
——蘇るのは、繋げた視線の先、少しだけ不安を覗かせて小さく笑う伊織の声。
「大和、お願い。お願いだから、俺のこと傷つけてもいいから、だから……」
「……」
そう言って震える指先で俺の手を握った伊織に、俺はただ頷くことしかできなかった。
ダークブラウンの大きな扉に自分の大きな影が重なる。そばに設置されたインターホンへと手を伸ばしたが、指先が触れる前に目の前で鍵を外す音が聞こえた。
「!」
反射的に上半身を引くと、明るい光が漏れるように開いた扉から伊織が顔を覗かせた。
伊織がいるその場所がまるで特別な場所であるかのように、奥から涼やかな風が流れてくる。
「外、暑かった?」
見上げるように小さく笑う伊織の顔に、少しばかりの緊張感が漂っている。
鼻に触れた伊織の香りにふわりと温かい石鹸の香りが混ざっている。
「……うん、」
外のまとわりつくような居心地の悪さとは違う微かな湿気を含んだ部屋の空気を、俺は渇いた喉を鳴らすように飲み込む。
「大和、汗すごいね」
見慣れた玄関に体を押し込め、背中に回した手で扉を閉める。いつもと変わらないはずの鍵をかける音ですら大きく聞こえるくらい、部屋の中は静かだった。
心地よい涼やかな温度と、ふわりと香る伊織と石鹸の香り。開け放たれているリビングへと続くドアの先から差し込む光はどこまでも明るい。先ほどまで自分がいた世界を忘れてしまうような、別世界のような空気に現実感が消えていく。
それでも——視界に入り込んでくる積み上げられた段ボール箱が、これが夢ではないことを教えてくれる。
「シャワー使っていいよ」
なんでもないことのように言ってみせるくせに、その声は少しだけ揺れている。
それを隠すように伊織が俺に背中を向けて歩き出したので、その細い肩に言葉を投げかける。
「伊織、は?」
「俺はもう先に浴びたから」
そう言って首の後ろを撫でた伊織の手の先、細く柔らかな伊織の髪に残った水滴が、白く細いうなじに向かって落ちた。
「!」
たったそれだけのことに、俺の心臓はぎゅっと掴まれるように苦しくなり、体の中に熱が集まっていく。堪えきれずに手を伸ばそうとして、カサリと手元で鳴った音に意識を引き戻された。
「あ、伊織!こ、これ!」
「なに?」
振り返った伊織に持っていた白い袋ごと突き出し、先ほどまでの意識を誤魔化すように大げさに笑ってみせた。
「アイス買ったからさ、終わったら食べようぜ」
なんでもないことのように吐き出す俺の声は不自然なほどに大きくなっていたけれど、伊織はそんな俺の顔を見つめて呆れたように小さく笑ってくれた。
「……終わったらって、宿題みたいに言うなよ」
繋がった視線に、お互いがこの先のことを意識せずにはいられなくて、ぎこちなくなってしまうのが痛いほどにわかるから、誤魔化すよりもこの不自然さを丸ごと受け止めて飲み込むしかないのだと、覚悟を決める。
この戸惑いさえ、今の俺にとっては大切な時間なのだから。
「宿題ってわけじゃないけど、ご褒美的な?」
「?」
「だってさ、どう考えても、苦しいのも痛い思いするのも伊織の方だから……」
手渡された袋の中を覗き込んでいた伊織が、俺の情けないほどに小さくなっていく声に、勢いよく顔を上げた。
「べつに大丈夫だって何回言わせるんだよ」
怒ったように顔を赤くして言葉を投げつけた伊織が再び俺に背を向け歩き出した。
「でも、やっぱり、」
言葉にしてしまったら言わずにはいられなくなって、すがりつくように追いかける俺に、伊織は振り返ることなく言った。
「俺は大和になら傷つけられたって構わないし、相手が大和なら苦しくても痛くてもそんなの気にならないくらいに嬉しいから」
「!」
俺の視界の中、伊織の白かったうなじが、丸く小さな耳の先が、熱を持ったように赤く染まっていく。俺の体の中、ドクドクと心臓の動きに合わせて流れていく血液に乗せて、どうしようもないほどの愛おしさが全身を巡り、その名前を呼ばずにはいられなくなる。
「伊織……」
俺の手を振り払いながら、顔を背けた伊織が少し怒ったような口調で小さく呟いた。
「だから、早くシャワー浴びてこいよ」
「……うん」
俺はもう、戸惑いや恥ずかしさよりも、胸の中がくすぐったくて笑うしかなかった。
もう二度と引き返せなくていい。
もう二度と手放したくはないから。
終わってしまうのが、こわかった。
この繋がりを解いてしまったら、次はいつ触れられるのだろう。
だから、何度でもその名前を呼ぶ。
「……伊織」
「ん?」
何度でも想いを言葉にする。
「好きだよ」
「……俺も大和が好きだよ」
返ってきた言葉も、その声も、触れ合っている温度も、その全部を自分のものにしたくて、何度も伊織の名前を俺は呼んだ。
一生、消えない傷を。
一生、残ってしまう跡を。
俺が伊織を覚えているために。
伊織が俺を忘れないために。
どんな結果になるかなんて、わからないけれど。
それでも、二人で決めた。
今、この瞬間、俺たちはもっと深く繋がるのだ、と。
たとえ、明日から離れ離れになるのだとしても。
——この瞬間の出来事がいつでも俺たちを、今に引き戻してくれるのだと信じて。
もう一度、会うために。
もう一度、繋がるために。
不要の外出は控えるようにと、出がけに見ていたテレビのアナウンサーが言っていた。
片手をかざして見上げた空には澄んだ青色を背景に白く分厚い雲が高く伸びていく。
コンビニを出てから五分も経っていないと言うのに、手首に引っ掛けた袋には水滴が流れている。
「……溶けそう」
自分も、買ったばかりのアイスも。
振り払いきれない熱い空気にうまく呼吸ができない。
耳の奥まで響く蝉の鳴き声はどこまでも遠く重なっていく。
真上から降り注ぐ日差しが肌に突き刺さる。
熱を抱えた全身は汗でべとつき、息苦しさを覚える。
足元に落ちた影さえ溶けそうな気温の中、俺は見慣れたマンションのエントランスへと向かう。
目線を上げると、人感センサーが反応して緑色の小さな光に変わり、流れてきた温度に誘われるように足を踏み入れた。自動扉一枚隔てただけで、外よりは少しだけ大きく息を吸い込めるようになった。
閉じ込められたぬるい空気をそれでも肺の奥へと送り込みながら、俺はインターホンの前に立ち、頭に思い浮かべるまでもなく覚えてしまった指先で部屋番号を押す。
ピンポーン、と聞き慣れた軽い音が耳に届く。
「……入って」
名乗る必要さえなく、返された言葉はどこか素っ気なかった。
その理由がわかるから、俺は何も言わずに開いたガラスの扉をすり抜ける。
エレベーターの階数表示が目的の階へと近づくにつれ、俺の心臓は大きく高鳴り、その指先は震える。
——今日を、この日を、俺はずっと待っていた。
それと同時に今日が来ないことを、俺はずっと願っていた。
——蘇るのは、繋げた視線の先、少しだけ不安を覗かせて小さく笑う伊織の声。
「大和、お願い。お願いだから、俺のこと傷つけてもいいから、だから……」
「……」
そう言って震える指先で俺の手を握った伊織に、俺はただ頷くことしかできなかった。
ダークブラウンの大きな扉に自分の大きな影が重なる。そばに設置されたインターホンへと手を伸ばしたが、指先が触れる前に目の前で鍵を外す音が聞こえた。
「!」
反射的に上半身を引くと、明るい光が漏れるように開いた扉から伊織が顔を覗かせた。
伊織がいるその場所がまるで特別な場所であるかのように、奥から涼やかな風が流れてくる。
「外、暑かった?」
見上げるように小さく笑う伊織の顔に、少しばかりの緊張感が漂っている。
鼻に触れた伊織の香りにふわりと温かい石鹸の香りが混ざっている。
「……うん、」
外のまとわりつくような居心地の悪さとは違う微かな湿気を含んだ部屋の空気を、俺は渇いた喉を鳴らすように飲み込む。
「大和、汗すごいね」
見慣れた玄関に体を押し込め、背中に回した手で扉を閉める。いつもと変わらないはずの鍵をかける音ですら大きく聞こえるくらい、部屋の中は静かだった。
心地よい涼やかな温度と、ふわりと香る伊織と石鹸の香り。開け放たれているリビングへと続くドアの先から差し込む光はどこまでも明るい。先ほどまで自分がいた世界を忘れてしまうような、別世界のような空気に現実感が消えていく。
それでも——視界に入り込んでくる積み上げられた段ボール箱が、これが夢ではないことを教えてくれる。
「シャワー使っていいよ」
なんでもないことのように言ってみせるくせに、その声は少しだけ揺れている。
それを隠すように伊織が俺に背中を向けて歩き出したので、その細い肩に言葉を投げかける。
「伊織、は?」
「俺はもう先に浴びたから」
そう言って首の後ろを撫でた伊織の手の先、細く柔らかな伊織の髪に残った水滴が、白く細いうなじに向かって落ちた。
「!」
たったそれだけのことに、俺の心臓はぎゅっと掴まれるように苦しくなり、体の中に熱が集まっていく。堪えきれずに手を伸ばそうとして、カサリと手元で鳴った音に意識を引き戻された。
「あ、伊織!こ、これ!」
「なに?」
振り返った伊織に持っていた白い袋ごと突き出し、先ほどまでの意識を誤魔化すように大げさに笑ってみせた。
「アイス買ったからさ、終わったら食べようぜ」
なんでもないことのように吐き出す俺の声は不自然なほどに大きくなっていたけれど、伊織はそんな俺の顔を見つめて呆れたように小さく笑ってくれた。
「……終わったらって、宿題みたいに言うなよ」
繋がった視線に、お互いがこの先のことを意識せずにはいられなくて、ぎこちなくなってしまうのが痛いほどにわかるから、誤魔化すよりもこの不自然さを丸ごと受け止めて飲み込むしかないのだと、覚悟を決める。
この戸惑いさえ、今の俺にとっては大切な時間なのだから。
「宿題ってわけじゃないけど、ご褒美的な?」
「?」
「だってさ、どう考えても、苦しいのも痛い思いするのも伊織の方だから……」
手渡された袋の中を覗き込んでいた伊織が、俺の情けないほどに小さくなっていく声に、勢いよく顔を上げた。
「べつに大丈夫だって何回言わせるんだよ」
怒ったように顔を赤くして言葉を投げつけた伊織が再び俺に背を向け歩き出した。
「でも、やっぱり、」
言葉にしてしまったら言わずにはいられなくなって、すがりつくように追いかける俺に、伊織は振り返ることなく言った。
「俺は大和になら傷つけられたって構わないし、相手が大和なら苦しくても痛くてもそんなの気にならないくらいに嬉しいから」
「!」
俺の視界の中、伊織の白かったうなじが、丸く小さな耳の先が、熱を持ったように赤く染まっていく。俺の体の中、ドクドクと心臓の動きに合わせて流れていく血液に乗せて、どうしようもないほどの愛おしさが全身を巡り、その名前を呼ばずにはいられなくなる。
「伊織……」
俺の手を振り払いながら、顔を背けた伊織が少し怒ったような口調で小さく呟いた。
「だから、早くシャワー浴びてこいよ」
「……うん」
俺はもう、戸惑いや恥ずかしさよりも、胸の中がくすぐったくて笑うしかなかった。
もう二度と引き返せなくていい。
もう二度と手放したくはないから。
終わってしまうのが、こわかった。
この繋がりを解いてしまったら、次はいつ触れられるのだろう。
だから、何度でもその名前を呼ぶ。
「……伊織」
「ん?」
何度でも想いを言葉にする。
「好きだよ」
「……俺も大和が好きだよ」
返ってきた言葉も、その声も、触れ合っている温度も、その全部を自分のものにしたくて、何度も伊織の名前を俺は呼んだ。
一生、消えない傷を。
一生、残ってしまう跡を。
俺が伊織を覚えているために。
伊織が俺を忘れないために。
どんな結果になるかなんて、わからないけれど。
それでも、二人で決めた。
今、この瞬間、俺たちはもっと深く繋がるのだ、と。
たとえ、明日から離れ離れになるのだとしても。
——この瞬間の出来事がいつでも俺たちを、今に引き戻してくれるのだと信じて。
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