続*今日はなんの日

hamapito

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『ホワイトデー*翌日』side大和

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 ふわりと視界が色を取り戻していく。
 いつもならもう少し夢の中にいたいと思うところだけど、今朝は不思議なほどすっきりと目覚めることができた。見慣れない景色が余計に頭の中をクリアにしていく。暖房は寝る前に切っていたけれど、それでも部屋の中は乾燥していて、喉がカラカラだった。
 水でも飲もうと、少し硬い手触りのシーツの中で体勢を変えようと試みるが、加えられた力の大きさに一瞬にして引き戻された。先ほどまでは俺の肩に触れているだけだった手が、今はしっかりと俺が来ているTシャツの袖を掴んでいる。
「伊織?」
 名前を呼んでみるが、閉じられた瞼はそのまま、並んだ睫毛が小さな寝息に合わせて僅かに揺れているだけだった。片方の頬を俺から奪った枕に沈めて眠る伊織は、俺にぴったり寄り添うように体を少し丸めていた。部屋の中の温度は少し肌寒かったが、分厚い布団の中、混ざり合う熱と触れ合っている体温で俺は少し暑いくらいだった。
 まだ薄暗い視界の端、カーテンの隙間から入り込んだ日差しが伊織の髪色を優しく変えていた。俺はそっと手を伸ばし、その柔らかな感触を確かめるように指を通す。音もなく落ちていく髪の毛から嗅ぎ慣れないシャンプーの匂いと変わることのない伊織の香りが混ざり合う。
「……」
 ——昨日、体力の限界まで遊び倒しておいてよかった。寝不足だったのも功を奏したと言えるかもしれない。
 安心したように眠る伊織の顔を確かめ、俺は露わになった小さな耳にそっと唇で触れた。
「次は、わかんないからな……」
 ——そうつぶやくくらい、いいだろう。

     *

 自分から言ってはみたものの、こんなにあっさりとしてくれるとは思っていなくて、俺は吐き出される暖かな熱と耳をふさぐ風の音に意識を集中させる。
「……」
 伊織の指が俺の短い髪の間を通るたびに触れているところが少しくすぐったい。不安定なベッドの上、伊織がドライヤーの向きを変えるだけで、俺の体にはその振動が伝わってくる。
「こんな感じ?」
 そうつぶやく伊織の声に合わせて、心地よい風がピタリと止んだ。
 俺は今まで伊織が触れていた自分の頭へと手を伸ばす。しっかりと乾かされた髪の間には柔らかな暖かさが残っている。
「おー、さっすが。ありがと」
 そう言って振り仰いだ俺に、伊織は小さくため息を吐き出しながら、笑った。
「どういたしまして」
 伊織がドライヤーのコードを束ねる手元に視線を落としたままベッドを降りたので、その跳ね返るような振動が余韻となって俺の体の中を響かせた。
「そろそろ寝る?」
 大きな鏡が備え付けられている机の上に置かれていた袋の中にドライヤーを戻しながら、伊織がこちらを見ることなく言った。
「そうだな。今日はさすがに疲れたし……」
 そう答えながらも、俺は自分に向けられたその小さな背中から視線を離せない。ここからじゃ俯けられた顔を直接確かめることができない。手を伸ばせば届く距離にいるはずなのに、どうしてだか簡単には触れてはいけないような気がしてしまう。
 ——柔らかかったはずの、いつも通りだったはずの空気が、いつの間にか少し変わっていた。
「テレビ消しちゃうね」
 そう言って伊織が置いてあったリモコンで点けっぱなしになっていたテレビの電源を落とした。間接照明しかないぼやけた明るさの中で、聞こえるのは天井に取り付けられているエアコンの稼働音だけになる。
 ——このまま、何も聞かなくて本当にいいのだろうか。
 伊織が自分から話してくれるのを待つつもりだったけど、でも……
 伊織が今考えていることがわからないことへの不安と、駅でとってしまった自分の行動への後悔が俺の胸を埋めていく。
 本当はちゃんと聞かなきゃいけない。話し合わなきゃいけない。そう思うのに、口にするのが怖かった。あれだけ自分勝手に行動したくせに、俺は今さら何を躊躇っているのだろう。ここまで自分から関わっておきながら、もう後戻りなんてできないのに——
「……っ、いお」
「今日は疲れたよね」
 意を決して口を開けた俺よりも僅かに早く伊織がそう言ったから。
「!」
 そのかすかに震える声を聞いてしまったら、鏡に映り込むその表情かおを見てしまったら、俺はもうこらえることなんてできない。
「伊織!」
 立ち上がると同時に踏み出した一歩で、伸ばした腕は簡単に伊織に届いた。
 俺はその勢いのままにその細い体を後ろから抱きしめる。
「今だけ、今だけでいいから」
「……大和?」
「あのルール、破らせて」
「……」
 伊織は何も言わなかった。言葉にはしなかった。けれど、回した俺の腕にそっと触れたその手が、答えだった。
 今にも泣き出しそうな伊織が目の前にいるのに、気づかないフリなんて俺にはできない。
 その小さな体を震わせるなら、抱えきれないほどの感情があるなら、俺のそばにいて。
 俺の知らないところで、俺の見ていないところで、伊織が泣いているなんて、そんなの俺には耐えられないから。

 ベッドサイドに置かれた小さな間接照明だけを点けた部屋の中に、スマートフォンの強い光が浮かび上がる。
伊山いやま織人おりと……」
 検索結果を表示した画面を両手に持ったままつぶやいた俺の声に、同じ布団に潜り込みながら伊織が顔を振り返らせた。大きな枕の上に肘を立て、揃えた両手に顎を載せる伊織を俺は視線だけで見上げる。
「大和、お化けみたい」
 そう言って眉根を小さく寄せて笑うと、伊織はそのままなんの躊躇いもなく、支えにしていた腕を前に伸ばし、うつ伏せに倒れこんだ。ベッドの軋む音と振動が俺の体に直接伝わってくる。俺はサイドテーブルへと手を伸ばし、手の中の光を手放した。柔らかな暗さが部屋の中に戻り、俺は目の前を無防備に転がるその背中に言ってやる。
「……襲ってやろうか」
 それはほんの冗談のつもりだったのだけれど、俺の言葉に寝返りを打つようにくるりと体をこちらに向けた伊織がニヤリと意地の悪い笑みを見せた。
「もうルール復活したから、無理でしょ」
「は?え、今?」
「うん、今から復活ね」
 そう言って伊織は、俺から奪い取った枕をその両手で抱え込むようにして抱きしめた。伊織の腕の中で、その柔らかさを証明するように枕カバーの表面には大きなシワができた。
「ちょ、ずるくない」
「そうだよ、俺、ずるいもん」
「うわ、開き直りやがった」
「大和は反省が足りてないから仕方ないじゃん」
「反省って……」
 俺はそうやって冗談にして無理にでも声を出していないと、簡単に意識を持っていかれそうで怖かったのだと思う。使い慣れない枕なんか伊織にとられたところでなんの問題もないけど、ふわりと舞う香りの濃さに、ほんの少し身じろぎするだけで伝わってしまう振動に、二人の体温で温まっていく布団の中に、意識しなくても感じてしまう距離に、油断すると俺の中には簡単に熱が蘇ってしまう。
 だから、こうやって伊織がルールを戻してくれて、正直助かったと思っている。あとは伊織が自分のベッドに戻ってくれれば、今日歩き続けた疲れの残る体は簡単に眠りに落ちてくれそうだった。
「伊織、そろそろもど……」
 俺が言いかけた言葉に被せるように、伊織が枕を抱きしめたまま上目遣いで声を弾ませた。
「このまま一緒に寝ていい?」
「いや、それは……」
 さっきまでの泣きそうな伊織の表情かおと、今目の前にあるあざとさ満載なのに可愛く見えてしまう伊織の顔が俺の頭の中でぐるぐると回り出す。伊織が少しでも元気になってくれるなら……そうは思うけれど。本当に大丈夫だろうか。いくらルールが復活したとはいえ、いくら疲れた体が睡眠を欲しているとはいえ、やっぱりこれ以上はさすがに俺も頑張れな……
「大和、」
 悩み続ける俺の気持ちを知ってか知らずか、優しく俺の名前を呼んできた伊織の声に、俺は素直に反応して顔を向けてしまった。そんな俺の動きを読んでいたかのように、スッと伊織がその細い首を伸ばした。
「……!!」
 触れ合った唇を離しながら、目を閉じることさえできなかった俺に、伊織がにこりと笑顔を作る。
「伊織、お前っ、」
 一気に顔が熱くなり声を荒げた俺に、伊織はその大きな瞳で俺を見つめたまま言った。
「大和はんでしょ?」
「それはっ!……ん?え、ちょ、まさか伊織、あの時……!」
「おやすみー」
 そう言って伊織が今度はくるりと俺に背を向けたので、俺を覆っていた柔らかな重みが俺の体を撫でるようにして逃げていった。
「おい、ちょっと、伊織!」
 巻き込まれた布団を戻しつつ、上がっていく室温に耐えきれなくなった俺は暖房のスイッチを切った。そして、体を再び柔らかな温度の中へと戻しながら、伊織と背中合わせになってきつく目を閉じた。
 俺がもう一方のベッドを使えばよかったのだと、そんなことに気づける余裕もないままに、俺はただ眠ることだけを意識した。
「……」
 ——遊びすぎただけではなく、どこか緊張もしていたのだろう、俺の体は柔らかな布団の感触と心地よい暖かさに、あっという間に眠りに落ちていった。

     *

 触れたばかりの耳の先が揺れ、「ん、んん……」とくすぐったそうに伊織が眉根を寄せる。
 俺はルールを破ってしまったことがバレないようにと、そっと顔を離しながら昨夜のことを思い出していた。寝る直前に放たれた伊織の言葉が蘇る。
「……まさか、起きてた?」
 あの時、伊織は俺の後ろのソファで眠っていたはずじゃ……
 起きていたとしたら、いつから?
 いやあの時には起きていたのだとしたら、そのあと俺は——
「百面相?」
「うわ、」
 突然間近で響いた声に思わず声を跳ねさせると、伊織が呆れたように小さく笑った。
「うわ、って……おはよ。朝から忙しいね、大和は」
「……いつから?」
 ぐるぐる悩み続けるよりは、もう聞いてしまってスッキリしたかった。
 俺は伊織の薄い茶色の瞳から目をそらすことなく、尋ねる。
「何が?」
「何がって……この旅行の打ち合わせした日!伊織はいつから起きてたんだよ?」
 伊織がその長いまつ毛を二、三度揺らすように瞬きを繰り返したあと、「あぁ」と小さく声を漏らすと俺と視線を繋げたまま、悪びれる様子など一切見せずに言った。
「うちの母さん、鍵回す音うるさいんだよね」
「……」
「まさかプロポーズされるとは思わなかったけど」
「!お前なぁっ!!」
 ——恥ずかしさで顔を赤くした俺に、伊織が肩を震わせて笑うから。
「だって起きるタイミング逃しちゃったんだもん」
「だからって狸寝入りはないだろうが」
 ——ベッドから伝わってくる振動がくすぐったくて、俺ももう笑うしかなかった。

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