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『ホワイトデー*翌日』side伊織
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地上へと続くエスカレーターを抜ける直前、吹き込んできた風に思わず首をすくめた。半歩先を歩く大和の「うお、寒っ」と呟いた声が冷たい温度とともに俺の耳に届く。海からほど近いそこは、高さよりも広さを重視した建物が多く、普段よりも空が大きく見えた。昨日よりも少しだけ厚みの増した雲が広がり太陽は見えなかったけれど、ホテルを出る直前に見ていた天気予報の降水確率はそれほど高くはなかった。
「伊織、あそこでいいんだよな?」
「あ、うん」
大和が指差す方へと寒さで狭めていた視界を向けた俺は、目の前の光景に思わず息を飲んだ。開場時間まではまだ二時間もあるというのに、人の列が大きな会場の外をぐるりと囲っていた。
「すげぇな。これみんな舞台見に来た人ってことだよな」
隣で大和がそうつぶやいて、そっと俺の肩に手を置いた。小さく振り返ると、まっすぐ目を合わせてから大和は「大丈夫か?」と少し心配そうに表情を和らげる。
「大丈夫だよ。そもそも俺が行きたいって言ったんだから」
「……じゃあ、行くか」
大和が俺の言葉を受け止めるまでに作った一瞬の間で、何を考えたのかはわからなかったけれど、それでもゆっくりと解かれた視線には確かな熱を感じた。
「うん」
そっと吐き出した息に乗せられる言葉はなかったけれど、一回り大きなスニーカーの隣へと俺は足を踏み出す。そして昨日一日中繋いでいた手を今だけはポケットに突っ込んで、硬いスマートフォンを強く握りしめた。
——大和が渡した連絡先に、父さんからの連絡はなかった。
*
視界の端で大和の膝にあったはずの白いタオルが床に落ちていく。
「伊織!」
優しすぎるほどの衝撃と大和の高い体温が背中から伝わってくる。先ほどまで目の前で感じていたシャンプーの香りに大和の匂いが混ざり合い俺の体を包み込む。
「今だけ、今だけでいいから」
懇願するような大和の声が、熱を含んだ吐息となって耳に直接落ちてくる。
「……大和?」
俺は自分の声が震えていることに気づいていたけれど、もうそれをごまかすことができない。
「あのルール、破らせて」
——そう大和に言われた瞬間に、どこかでそれを期待していた自分に気づく。
頭の中では今日一日の出来事が目まぐるしくフラッシュバックしていて、何から考えればいいのかわからなかった。
「……」
言葉はもう何も出てこなかった。
こんなふうに触れられたら、こんなふうに抱きしめられたら、もう俺には自分の感情を抑えることなんてできない。俺は俺の体を包み込んでくれる大和の腕に自分から手を伸ばす。指先が触れた瞬間に少しだけ強くなったその力が、俺のせき止めていた感情を溢れさせた。
「大和、俺、本当は……」
「うん、大丈夫。大丈夫だから」
「本当は、もう、自分でもよくわからなくて」
「うん、それでもいいから。ゆっくり聞かせてよ」
耳に触れる声が、体を包み込む体温が、大和がそのすべてを使って俺を受け入れようとしているのだと、全身から伝わってくる。その心地よさに俺はどうしようもなく泣きたくなって、どうしようもなく胸が痛くなる。
「……っ、」
自分でもどうして泣いてしまったのか、よくわからなかった。
悲しいのか、悔しいのか、それすらわからない。それでも胸の中には例えようのない苦しさが溢れていて、両目に集まる熱を止めることができない。言葉にならない感情を吐き出す方法が今の俺にはそれしかなかったのかもしれない。
——何も言わない大和の優しさに甘えるように、俺は零れるままに涙を流し続けた。
エアコンの稼働音と俺の鼻をすする音だけが広くない部屋の中で響き、それを自分で自覚できるくらいには落ち着いてきた頃、ふと気づいてしまった。自分の感情でいっぱいいっぱいだった感覚が少しずつ広がっていき、触れている背中へと意識が強まる。
「……ふ、」
「伊織?」
堪えきれずに声をこぼしてしまった俺に、大和が少し驚いたように俺の名前を呼ぶ。
「ふ、ふは、」
「え、ちょ、なんで笑ってんの??」
大和が力を緩めた腕の中、俺はゆっくりと体の向きを変える。
「???」
戸惑った表情を浮かべる大和を見上げ、そっと右手を前に伸ばす。触れた指先からハッキリと大和の心臓の動きが伝わってくる。
「すげーバクバクしてる」
「は?」
「ドキドキしすぎじゃない?背中くすぐったくて笑っちゃったじゃん」
「いや、だって、」
「ふは、おかげで涙引っ込んだわ。ありがと」
「!……どういたしまして?」
俺の目線を避けるように顔を背けた大和の耳が赤くなっていて、手のひらから伝わる鼓動がさらに大きくなっていて、俺はやっぱり笑ってしまった。
「ふ、ふはは……あのさ、大和に見て欲しいものがあるんだよね」
「?」
そう言って俺は大和から体を離し、机の上に置いていたスマートフォンへと手を伸ばす。充電のために差し込んでいたプラグを抜き取り、細く伸びるコードをぶら下げたまま、画面に指を滑らせる。
鏡に映り込んだ大和がそんな俺を見つめ、先ほどの表情とは違う緊張感を見せる。
振り返った俺は、写真フォルダに入れていた一枚を手の中で表示させ、大和の前に差し出した。
「これ、どう思う?」
「何?写真?」
少しだけホッとしたような顔を見せた大和が画面を覗き込み、声を弾ませる。
「うわ、何これ?おばさん若いな」
「うん」
「おじさんも……やっぱり伊織に似てるな」
ゆっくりと吐き出された息に混ぜられた言葉には温かな温度が込められていた。さらに柔らかくなった大和の視線に俺は小さく頷く。
「……うん」
「えっと、この写真がどうかしたのか?」
大和が申し訳なさそうに俺の顔を覗き込み、瞬きを繰り返す。俺は人差し指と中指で画像の一部を拡大してみせる。
「この日付」
「日付?あ、伊織の両親もうちと同じ十一月二十二日が結婚記念日だったんだ……え?あれ?」
小さく笑っていた大和が、違和感に気づいて顔を上げる。
「これって俺たちが生まれる前の年だよな?」
「うん」
「伊織の誕生日って六月だよな?」
「うん」
俺が頷くたびに大和の顔には戸惑いと混乱の色が濃くなっていく。
「え、でも……」
答えを求めるように向けられた大和の視線に、俺の中で先ほど消えたはずの息苦しさが蘇る。
「……俺はさ、今まで自分から知りたいって思ったことなかったんだ。いや、知りたくないわけじゃなかったんだけど……たぶん怖かった」
情けないことに声はまた震えていたけれど、それでも鼻の奥が痛くなることも、両目が熱くなることももうなかった。
「……」
ただ静かにまっすぐこちらを見つめる大和が、俺の言葉を一つも取りこぼさないようにと耳を傾けているのが痛いほどに伝わってくる。もう隠すことも、ごまかすこともできない。
——見ないようにしてきた、気づかないふりをしてきた、その場所へと俺は手を伸ばす。
「聞こえてくるのは母さんを傷つける言葉ばかりだったし、これ以上はもういいやって、そう思ってたんだ……でも、それが、今まで聞いてきたことが、違うとしたら?」
何も言わなかったのは、聞かなかったのは、目の前の小さな世界を守りたかったから。でも、その守ってきた世界こそがウソなのだとしたら。
「過去なんか知らなくたっていいって思ってきたけど、教えられてきたものが真実じゃないのなら、俺はこの先、何を信じればいいんだろうって」
知らないでいることできっと自分は守られてきたのだろう。だけど、このまま知らないでいるのは、この先もずっと守られ続けるしかないのだということになる。
「敢えて隠しているのは俺のためかもしれないけど、でも……もう自分だけが知らない、なんて嫌なんだ……」
——俺はきっと知らないといけない。
俺が守りたいものを自分で守るために、これは必要なことなのだ。
「……伊織、」
——そう大和が優しく俺の名前を呼んでくれるから。
「俺も一緒に行っていいんだよな?」
——今ならどんな結果でも受け止められる気がするから。
「……うん」
「ありがとう」
「ふ、……なんで大和がお礼言うの?」
——こんなふうに思えるようになれたのは、きっと大和がいたからだ。
「なんでって……あ、明日行きたいとこあるって言ってたけど、それってさ、」
途切れた言葉の続きは大和が見せたその表情で簡単にわかってしまったから、誤魔化すように話を変えた大和を俺は追及しなかった。
*
会場となっている建物を通り過ぎ、俺と大和は大きな複合施設の中へと入った。強い風が止み、暖かな空気と人々のざわめきに体が包み込まれる。
「開演まではまだ時間あるよな?」
館内アナウンスが響く中、案内表示の前で立ち止まった大和が俺を振り返る。
「うん。まだ三時間くらいあるよ」
手元のスマートフォンの表示を確かめて俺が答えると、大和は食事の写真が並ぶ方へと視線を戻して「じゃあ、先に軽くお昼を……」とつぶやいた。
とっくにソールドアウトしたはずのチケットのキャンセル分が手に入ってしまった偶然を俺は未だにどう受け止めればいいのかわからなかった。『イヤマオリト』を検索したその日、それは半分勢いようなものだったと思う。当たることはないだろうという諦めにも似た安心感と、もしも当たったならこれで会うための口実ができるという気持ちが、指先の重りを外してしまった。
「伊織、何か食べたいものある?」
「え、あー、正直なところそこまでお腹空いてないかも」
「確かに。朝食べ過ぎたもんなぁ……あのさ、」
小さく笑っていた大和が急に何かを躊躇うように言葉を揺らした。向けられた視線にはどこか迷うような色を漂わせ、少し緊張したような表情で次の言葉を探している。
「?……大和?」
「いや、実は……」
そう言いかけた大和だったが突然驚いたように肩を震わせ、着ていた上着のポケットへと顔を向けた。取り出されたスマートフォンが大和の大きな手の中で規則的な振動を繰り返している。
「電話?」
「あ、うん……」
飲み込んでしまった言葉をまだ引っ掛けている大和が、くるりと手の中でひっくり返した画面を目にして息を飲むのがハッキリと伝わってきた。
「大和?」
顔を覗き込むようにして尋ねた俺に、大和はそっと息を吐き出すように静かな声で言った。
「伊織、おじさんからだ」
「!」
俺が何かを答えるよりも早く、大和は俺の顔を見つめたままその太い指先を動かした。
「伊織、あそこでいいんだよな?」
「あ、うん」
大和が指差す方へと寒さで狭めていた視界を向けた俺は、目の前の光景に思わず息を飲んだ。開場時間まではまだ二時間もあるというのに、人の列が大きな会場の外をぐるりと囲っていた。
「すげぇな。これみんな舞台見に来た人ってことだよな」
隣で大和がそうつぶやいて、そっと俺の肩に手を置いた。小さく振り返ると、まっすぐ目を合わせてから大和は「大丈夫か?」と少し心配そうに表情を和らげる。
「大丈夫だよ。そもそも俺が行きたいって言ったんだから」
「……じゃあ、行くか」
大和が俺の言葉を受け止めるまでに作った一瞬の間で、何を考えたのかはわからなかったけれど、それでもゆっくりと解かれた視線には確かな熱を感じた。
「うん」
そっと吐き出した息に乗せられる言葉はなかったけれど、一回り大きなスニーカーの隣へと俺は足を踏み出す。そして昨日一日中繋いでいた手を今だけはポケットに突っ込んで、硬いスマートフォンを強く握りしめた。
——大和が渡した連絡先に、父さんからの連絡はなかった。
*
視界の端で大和の膝にあったはずの白いタオルが床に落ちていく。
「伊織!」
優しすぎるほどの衝撃と大和の高い体温が背中から伝わってくる。先ほどまで目の前で感じていたシャンプーの香りに大和の匂いが混ざり合い俺の体を包み込む。
「今だけ、今だけでいいから」
懇願するような大和の声が、熱を含んだ吐息となって耳に直接落ちてくる。
「……大和?」
俺は自分の声が震えていることに気づいていたけれど、もうそれをごまかすことができない。
「あのルール、破らせて」
——そう大和に言われた瞬間に、どこかでそれを期待していた自分に気づく。
頭の中では今日一日の出来事が目まぐるしくフラッシュバックしていて、何から考えればいいのかわからなかった。
「……」
言葉はもう何も出てこなかった。
こんなふうに触れられたら、こんなふうに抱きしめられたら、もう俺には自分の感情を抑えることなんてできない。俺は俺の体を包み込んでくれる大和の腕に自分から手を伸ばす。指先が触れた瞬間に少しだけ強くなったその力が、俺のせき止めていた感情を溢れさせた。
「大和、俺、本当は……」
「うん、大丈夫。大丈夫だから」
「本当は、もう、自分でもよくわからなくて」
「うん、それでもいいから。ゆっくり聞かせてよ」
耳に触れる声が、体を包み込む体温が、大和がそのすべてを使って俺を受け入れようとしているのだと、全身から伝わってくる。その心地よさに俺はどうしようもなく泣きたくなって、どうしようもなく胸が痛くなる。
「……っ、」
自分でもどうして泣いてしまったのか、よくわからなかった。
悲しいのか、悔しいのか、それすらわからない。それでも胸の中には例えようのない苦しさが溢れていて、両目に集まる熱を止めることができない。言葉にならない感情を吐き出す方法が今の俺にはそれしかなかったのかもしれない。
——何も言わない大和の優しさに甘えるように、俺は零れるままに涙を流し続けた。
エアコンの稼働音と俺の鼻をすする音だけが広くない部屋の中で響き、それを自分で自覚できるくらいには落ち着いてきた頃、ふと気づいてしまった。自分の感情でいっぱいいっぱいだった感覚が少しずつ広がっていき、触れている背中へと意識が強まる。
「……ふ、」
「伊織?」
堪えきれずに声をこぼしてしまった俺に、大和が少し驚いたように俺の名前を呼ぶ。
「ふ、ふは、」
「え、ちょ、なんで笑ってんの??」
大和が力を緩めた腕の中、俺はゆっくりと体の向きを変える。
「???」
戸惑った表情を浮かべる大和を見上げ、そっと右手を前に伸ばす。触れた指先からハッキリと大和の心臓の動きが伝わってくる。
「すげーバクバクしてる」
「は?」
「ドキドキしすぎじゃない?背中くすぐったくて笑っちゃったじゃん」
「いや、だって、」
「ふは、おかげで涙引っ込んだわ。ありがと」
「!……どういたしまして?」
俺の目線を避けるように顔を背けた大和の耳が赤くなっていて、手のひらから伝わる鼓動がさらに大きくなっていて、俺はやっぱり笑ってしまった。
「ふ、ふはは……あのさ、大和に見て欲しいものがあるんだよね」
「?」
そう言って俺は大和から体を離し、机の上に置いていたスマートフォンへと手を伸ばす。充電のために差し込んでいたプラグを抜き取り、細く伸びるコードをぶら下げたまま、画面に指を滑らせる。
鏡に映り込んだ大和がそんな俺を見つめ、先ほどの表情とは違う緊張感を見せる。
振り返った俺は、写真フォルダに入れていた一枚を手の中で表示させ、大和の前に差し出した。
「これ、どう思う?」
「何?写真?」
少しだけホッとしたような顔を見せた大和が画面を覗き込み、声を弾ませる。
「うわ、何これ?おばさん若いな」
「うん」
「おじさんも……やっぱり伊織に似てるな」
ゆっくりと吐き出された息に混ぜられた言葉には温かな温度が込められていた。さらに柔らかくなった大和の視線に俺は小さく頷く。
「……うん」
「えっと、この写真がどうかしたのか?」
大和が申し訳なさそうに俺の顔を覗き込み、瞬きを繰り返す。俺は人差し指と中指で画像の一部を拡大してみせる。
「この日付」
「日付?あ、伊織の両親もうちと同じ十一月二十二日が結婚記念日だったんだ……え?あれ?」
小さく笑っていた大和が、違和感に気づいて顔を上げる。
「これって俺たちが生まれる前の年だよな?」
「うん」
「伊織の誕生日って六月だよな?」
「うん」
俺が頷くたびに大和の顔には戸惑いと混乱の色が濃くなっていく。
「え、でも……」
答えを求めるように向けられた大和の視線に、俺の中で先ほど消えたはずの息苦しさが蘇る。
「……俺はさ、今まで自分から知りたいって思ったことなかったんだ。いや、知りたくないわけじゃなかったんだけど……たぶん怖かった」
情けないことに声はまた震えていたけれど、それでも鼻の奥が痛くなることも、両目が熱くなることももうなかった。
「……」
ただ静かにまっすぐこちらを見つめる大和が、俺の言葉を一つも取りこぼさないようにと耳を傾けているのが痛いほどに伝わってくる。もう隠すことも、ごまかすこともできない。
——見ないようにしてきた、気づかないふりをしてきた、その場所へと俺は手を伸ばす。
「聞こえてくるのは母さんを傷つける言葉ばかりだったし、これ以上はもういいやって、そう思ってたんだ……でも、それが、今まで聞いてきたことが、違うとしたら?」
何も言わなかったのは、聞かなかったのは、目の前の小さな世界を守りたかったから。でも、その守ってきた世界こそがウソなのだとしたら。
「過去なんか知らなくたっていいって思ってきたけど、教えられてきたものが真実じゃないのなら、俺はこの先、何を信じればいいんだろうって」
知らないでいることできっと自分は守られてきたのだろう。だけど、このまま知らないでいるのは、この先もずっと守られ続けるしかないのだということになる。
「敢えて隠しているのは俺のためかもしれないけど、でも……もう自分だけが知らない、なんて嫌なんだ……」
——俺はきっと知らないといけない。
俺が守りたいものを自分で守るために、これは必要なことなのだ。
「……伊織、」
——そう大和が優しく俺の名前を呼んでくれるから。
「俺も一緒に行っていいんだよな?」
——今ならどんな結果でも受け止められる気がするから。
「……うん」
「ありがとう」
「ふ、……なんで大和がお礼言うの?」
——こんなふうに思えるようになれたのは、きっと大和がいたからだ。
「なんでって……あ、明日行きたいとこあるって言ってたけど、それってさ、」
途切れた言葉の続きは大和が見せたその表情で簡単にわかってしまったから、誤魔化すように話を変えた大和を俺は追及しなかった。
*
会場となっている建物を通り過ぎ、俺と大和は大きな複合施設の中へと入った。強い風が止み、暖かな空気と人々のざわめきに体が包み込まれる。
「開演まではまだ時間あるよな?」
館内アナウンスが響く中、案内表示の前で立ち止まった大和が俺を振り返る。
「うん。まだ三時間くらいあるよ」
手元のスマートフォンの表示を確かめて俺が答えると、大和は食事の写真が並ぶ方へと視線を戻して「じゃあ、先に軽くお昼を……」とつぶやいた。
とっくにソールドアウトしたはずのチケットのキャンセル分が手に入ってしまった偶然を俺は未だにどう受け止めればいいのかわからなかった。『イヤマオリト』を検索したその日、それは半分勢いようなものだったと思う。当たることはないだろうという諦めにも似た安心感と、もしも当たったならこれで会うための口実ができるという気持ちが、指先の重りを外してしまった。
「伊織、何か食べたいものある?」
「え、あー、正直なところそこまでお腹空いてないかも」
「確かに。朝食べ過ぎたもんなぁ……あのさ、」
小さく笑っていた大和が急に何かを躊躇うように言葉を揺らした。向けられた視線にはどこか迷うような色を漂わせ、少し緊張したような表情で次の言葉を探している。
「?……大和?」
「いや、実は……」
そう言いかけた大和だったが突然驚いたように肩を震わせ、着ていた上着のポケットへと顔を向けた。取り出されたスマートフォンが大和の大きな手の中で規則的な振動を繰り返している。
「電話?」
「あ、うん……」
飲み込んでしまった言葉をまだ引っ掛けている大和が、くるりと手の中でひっくり返した画面を目にして息を飲むのがハッキリと伝わってきた。
「大和?」
顔を覗き込むようにして尋ねた俺に、大和はそっと息を吐き出すように静かな声で言った。
「伊織、おじさんからだ」
「!」
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