1 / 1
冬の海と魚が嫌いな僕のはなし
しおりを挟む冬の海になんて来てしまったのがいけなかった。
僕は魚が嫌いだ。
「ねえ、ちょっと」
冷たい波しぶきが跳ね上がる岩場に腰かけたそのひとは僕を見上げ、声をかけてきた。ただ静かにひとりの時間を過ごしたいという僕のささやかなお願いは叶わなかった。せっかく塾のない日を選んでここまで歩いてきたのに。悲しさにため息を吐き出すと、肩にかかるランドセルの重みが増した。
「ねえってば」
周りに僕以外のひとはいなかった。このまま聞こえなかったフリをして帰ってしまおうかとも思ったけれど。明らかに僕へとかけられた言葉を無視するのもどうかと思い、返事をすることにした。
「なんですか?」
顔を向けると潮の香りが先ほどよりも濃くなる。乾いた冬の空気の中にあってもそれは重く湿っている。手袋をはめた手をガードレールに置き、覗き込んだ僕にその声は不機嫌を隠さず響く。
「何って、なにかないの?」
眉根を寄せ、少し戸惑うように怒ってみせる彼女。「なにか」と問われて僕は思ったままを口にした。
「……寒くないんですか?」
見たところ彼女は服どころか水着すら身に着けていない。緩く波打つ髪が白い肌の表面を覆ってはいたけれど、僕には裸に見えた。春でも夏でもない。季節はまだ冬。常に半袖がモットーのケンタ君ですら今週はお母さんに上着を着せられていた。僕の足元には今朝まで降っていた雪の塊が残っている。
僕の問いかけに大きな瞳をさらに大きく見開き、何度か瞬きを繰り返してから、彼女は笑い出した。
「ふ、ふふ、なあにそれ。そんなことが気になるの?」
ケラケラとおかしそうに笑われて、僕はちょっとムッとする。なにかないかと言われて答えてあげたというのに。ちょっと失礼だな、このお姉さん。
「知らないひとと話してはいけないので。さようなら」
くるりと向きを変えた僕に「ちょっと待ってよ!」と笑いを止めた彼女の慌てた声が響く。知らないひとと話してはいけない、という言いつけは本当だが、すでに破っているので今さらどうということもない。僕のことを笑ったのはいただけないけど、僕よりも年上であろうひとが慌てる様子には足が止まった。
「……なんですか?」
今度は僕が不機嫌を声に含ませる番だった。渋々振り返った僕に「ちょっとおしゃべりしようよ」と弾んだ声が飛んできた。それは波音にも消えない、冷たい風にも流されない、不思議で美しい声だった。
おしゃべりをしようと言ってきたのは彼女だったけど。とくに話したいことがあるわけではないみたいで。「ただヒトの声が聴きたかっただけなの」と、僕がここに海の音を聞きに来たのと同じようなことを言った。声が聴きたかったと言われても僕は歌が得意ではないし、誰かと会話をすることも苦手だった。岩場の上と道路のガードレール越しという距離のまま波の音と潮の匂いだけが空間を支配する。
とても静かだった。
それは僕が求めていた世界だった。ひとりではなかったけど。それでも、僕の願いは叶えられたに等しかった。吐き出した息が白く滲み、ゆっくりと夕日が海の向こうに沈もうとしている。長靴の中の指が冷えていく。手袋をつけている手からも体温が逃げていくのを感じる。首に巻いているマフラーに顎の先を埋めてみても寒さは増していくばかり。完全な夜になってしまったら、僕は家に帰らないといけない。こうしていられる時間はもうあまりないだろう。僕は自分の望みが叶えられたので、彼女の望みを叶える番だと思い、静かに息を吸い込んだ。
「あの、好きな食べ物はなんですか?」
誰かと話をしなくてはならない時は相手の好きなものを聞くと言いと家庭教師の増田先生に教えてもらった。僕はそれを使うことにした。一瞬驚きの表情を見せた彼女だったが、今度は笑うことなくサラリと答えてくれた。
「魚かしら?」
「魚、食べるんですか?」
返ってきた言葉に驚いて、僕は思わず言葉ごと身を乗り出してしまう。いや、海にいるのだから魚を食べることが普通なのかもしれないけど。でも。
「だって美味しいじゃない」
コロコロと甘い飴玉を転がすように、小さな笑いを含ませた彼女の声が僕の鼓膜を揺らす。その直後、寒さに震えていたはずの僕の体は耳から熱を取り戻し始めた。
「本当に、魚、食べるんですか?」
「もちろん。じゃなきゃ、この体維持できないもの」
同じ質問を繰り返した僕に、彼女はいたずらを思いついたような表情で、パシャリ、と波を叩いた。青とも緑とも言えない美しい色が僕の視界で揺れている。ゆっくりと伸びてきた夕陽にますます彼女の尾鰭が不思議な色を見せる。僕はその光景をキレイだと思うと同時にさきほどの彼女の言葉を頭の中で分解していた。
――体を維持するために魚を食べる。それは体の半分が魚でできているから? ということは?
「じゃあ、人間も食べるんですか?」
食べたものでその形を維持しているのならば。彼女のもう半分は人間だから。彼女は人間を食べているということになるのではないか。僕の質問にもう一度パシャン、と海を叩いた彼女が薄く唇を引き伸ばしながら見上げてきた。夕日に透けた髪と同じ色の瞳を輝かせて。
「気になる?」
「気になるというか、命の危険なので知っておこうかと」
「なるほど。んー、じゃあとりあえず君のことは食べないから安心して」
――それって僕以外の人間は食べるってこと? それはそれで放っておけないんだけど。
僕がムムムッと眉根を寄せて黙り込むと、夜の闇と沈んでいく太陽の残りが混ざり合う中で「ねえねえ、それよりさ」と彼女が声を弾ませた。
「君はどうして私を見ても驚かないの?」
彼女を見つけたことと、彼女が人食いかもしれないことを天秤にかけたなら、気にするべきは明らかに後者で、ちっとも「それよりも」と置いておける問題ではないんだけど。とりあえず僕は食べられずにすむみたいだし、気が変わられても困るのでここはおとなしく会話に付き合うことにする。
「だって僕まだ小学生だから」
「え?」
「僕が知っていることってきっととっても少ないでしょ? だからお姉さんに会ったことは驚くべきことなのか、ただ単純に僕が知らなかっただけで普通のことなのか僕にはわからないもん。だから、お姉さんが人食い人魚だとしても」
「その人食いってやめて」
僕の言葉を遮り、ムッと頬を膨らませてお姉さんが言った。僕は仕方なく言い方を変えてあげる。
「……じゃあ、お姉さんがただの人魚だとしてもそれだけでしょ? 今日たまたま会ってお話したってだけ」
「そうなの?」
「うん。お姉さんはお姉さんで、僕は僕。それだけだよ」
そう、それだけだ。もし仮にお姉さんがとても珍しい存在なのだとしても。僕にとっては目の前で話しているお姉さんでしかないのだから。
「君、面白いね」
――つまらない。一緒に話していても楽しくない。小さいのによく知っているんだね。という言葉は言われ慣れていた。
でも「面白い」は初めてだった。
低くなっていく気温とは反対に僕の胸は温かくなる。同時に鼻の奥がツンと痛みだし、海水ほどではないけれど、しょっぱい味が目からこぼれそうになる。
僕が何も言えずに黙っていると、不意に「またね」と声が響き、そのままお姉さんは夜の海へと消えてしまった。僕が呼び止める間もなく。
「……やっぱり、きらいだ」
緩く流れる潮風のすき間に「食べなくてよかった」と聞こえたのは、気のせいだろうか。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
ざまぁされるための努力とかしたくない
こうやさい
ファンタジー
ある日あたしは自分が乙女ゲームの悪役令嬢に転生している事に気付いた。
けどなんか環境違いすぎるんだけど?
例のごとく深く考えないで下さい。ゲーム転生系で前世の記憶が戻った理由自体が強制力とかってあんまなくね? って思いつきから書いただけなので。けど知らないだけであるんだろうな。
作中で「身近な物で代用できますよってその身近がすでにないじゃん的な~」とありますが『俺の知識チートが始まらない』の方が書いたのは後です。これから連想して書きました。
ただいま諸事情で出すべきか否か微妙なので棚上げしてたのとか自サイトの方に上げるべきかどうか悩んでたのとか大昔のとかを放出中です。見直しもあまり出来ないのでいつも以上に誤字脱字等も多いです。ご了承下さい。
恐らく後で消す私信。電話機は通販なのでまだ来てないけどAndroidのBlackBerry買いました、中古の。
中古でもノーパソ買えるだけの値段するやんと思っただろうけど、ノーパソの場合は妥協しての機種だけど、BlackBerryは使ってみたかった機種なので(後で「こんなの使えない」とぶん投げる可能性はあるにしろ)。それに電話機は壊れなくても後二年も経たないうちに強制的に買い換え決まってたので、最低限の覚悟はしてたわけで……もうちょっと壊れるのが遅かったらそれに手をつけてた可能性はあるけど。それにタブレットの調子も最近悪いのでガラケー買ってそっちも別に買い換える可能性を考えると、妥協ノーパソより有意義かなと。妥協して惰性で使い続けるの苦痛だからね。
……ちなみにパソの調子ですが……なんか無意識に「もう嫌だ」とエンドレスでつぶやいてたらしいくらいの速度です。これだって10動くっていわれてるの買ってハードディスクとか取り替えてもらったりしたんだけどなぁ。
英雄一家は国を去る【一話完結】
青緑 ネトロア
ファンタジー
婚約者との舞踏会中、火急の知らせにより領地へ帰り、3年かけて魔物大発生を収めたテレジア。3年振りに王都へ戻ったが、国の一大事から護った一家へ言い渡されたのは、テレジアの婚約破棄だった。
- - - - - - - - - - - - -
ただいま後日談の加筆を計画中です。
2025/06/22
【完結】精霊に選ばれなかった私は…
まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。
しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。
選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。
選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。
貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…?
☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。
冤罪で追放した男の末路
菜花
ファンタジー
ディアークは参っていた。仲間の一人がディアークを嫌ってるのか、回復魔法を絶対にかけないのだ。命にかかわる嫌がらせをする女はいらんと追放したが、その後冤罪だったと判明し……。カクヨムでも同じ話を投稿しています。
友人(勇者)に恋人も幼馴染も取られたけど悔しくない。 だって俺は転生者だから。
石のやっさん
ファンタジー
パーティでお荷物扱いされていた魔法戦士のセレスは、とうとう勇者でありパーティーリーダーのリヒトにクビを宣告されてしまう。幼馴染も恋人も全部リヒトの物で、居場所がどこにもない状態だった。
だが、此の状態は彼にとっては『本当の幸せ』を掴む事に必要だった
何故なら、彼は『転生者』だから…
今度は違う切り口からのアプローチ。
追放の話しの一話は、前作とかなり似ていますが2話からは、かなり変わります。
こうご期待。
【短編】追放した仲間が行方不明!?
mimiaizu
ファンタジー
Aランク冒険者パーティー『強欲の翼』。そこで支援術師として仲間たちを支援し続けていたアリクは、リーダーのウーバの悪意で追補された。だが、その追放は間違っていた。これをきっかけとしてウーバと『強欲の翼』は失敗が続き、落ちぶれていくのであった。
※「行方不明」の「追放系」を思いついて投稿しました。短編で終わらせるつもりなのでよろしくお願いします。
魔王を倒した勇者を迫害した人間様方の末路はなかなか悲惨なようです。
カモミール
ファンタジー
勇者ロキは長い冒険の末魔王を討伐する。
だが、人間の王エスカダルはそんな英雄であるロキをなぜか認めず、
ロキに身の覚えのない罪をなすりつけて投獄してしまう。
国民たちもその罪を信じ勇者を迫害した。
そして、処刑場される間際、勇者は驚きの発言をするのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる