冬の海と魚が嫌いな僕のはなし

hamapito

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冬の海と魚が嫌いな僕のはなし

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 冬の海になんて来てしまったのがいけなかった。
 僕は魚が嫌いだ。
「ねえ、ちょっと」
 冷たい波しぶきが跳ね上がる岩場に腰かけたそのひとは僕を見上げ、声をかけてきた。ただ静かにひとりの時間を過ごしたいという僕のささやかなお願いは叶わなかった。せっかく塾のない日を選んでここまで歩いてきたのに。悲しさにため息を吐き出すと、肩にかかるランドセルの重みが増した。
「ねえってば」
 周りに僕以外のひとはいなかった。このまま聞こえなかったフリをして帰ってしまおうかとも思ったけれど。明らかに僕へとかけられた言葉を無視するのもどうかと思い、返事をすることにした。
「なんですか?」
 顔を向けると潮の香りが先ほどよりも濃くなる。乾いた冬の空気の中にあってもそれは重く湿っている。手袋をはめた手をガードレールに置き、覗き込んだ僕にその声は不機嫌を隠さず響く。
「何って、なにかないの?」
 眉根を寄せ、少し戸惑うように怒ってみせる彼女。「なにか」と問われて僕は思ったままを口にした。
「……寒くないんですか?」
 見たところ彼女は服どころか水着すら身に着けていない。緩く波打つ髪が白い肌の表面を覆ってはいたけれど、僕には裸に見えた。春でも夏でもない。季節はまだ冬。常に半袖がモットーのケンタ君ですら今週はお母さんに上着を着せられていた。僕の足元には今朝まで降っていた雪の塊が残っている。
 僕の問いかけに大きな瞳をさらに大きく見開き、何度か瞬きを繰り返してから、彼女は笑い出した。
「ふ、ふふ、なあにそれ。そんなことが気になるの?」
 ケラケラとおかしそうに笑われて、僕はちょっとムッとする。なにかないかと言われて答えてあげたというのに。ちょっと失礼だな、このお姉さん。
「知らないひとと話してはいけないので。さようなら」
 くるりと向きを変えた僕に「ちょっと待ってよ!」と笑いを止めた彼女の慌てた声が響く。知らないひとと話してはいけない、という言いつけは本当だが、すでに破っているので今さらどうということもない。僕のことを笑ったのはいただけないけど、僕よりも年上であろうひとが慌てる様子には足が止まった。
「……なんですか?」
 今度は僕が不機嫌を声に含ませる番だった。渋々振り返った僕に「ちょっとおしゃべりしようよ」と弾んだ声が飛んできた。それは波音にも消えない、冷たい風にも流されない、不思議で美しい声だった。
 おしゃべりをしようと言ってきたのは彼女だったけど。とくに話したいことがあるわけではないみたいで。「ただヒトの声が聴きたかっただけなの」と、僕がここに海の音を聞きに来たのと同じようなことを言った。声が聴きたかったと言われても僕は歌が得意ではないし、誰かと会話をすることも苦手だった。岩場の上と道路のガードレール越しという距離のまま波の音と潮の匂いだけが空間を支配する。
 とても静かだった。
 それは僕が求めていた世界だった。ひとりではなかったけど。それでも、僕の願いは叶えられたに等しかった。吐き出した息が白く滲み、ゆっくりと夕日が海の向こうに沈もうとしている。長靴の中の指が冷えていく。手袋をつけている手からも体温が逃げていくのを感じる。首に巻いているマフラーに顎の先を埋めてみても寒さは増していくばかり。完全な夜になってしまったら、僕は家に帰らないといけない。こうしていられる時間はもうあまりないだろう。僕は自分の望みが叶えられたので、彼女の望みを叶える番だと思い、静かに息を吸い込んだ。
「あの、好きな食べ物はなんですか?」
 誰かと話をしなくてはならない時は相手の好きなものを聞くと言いと家庭教師の増田先生に教えてもらった。僕はそれを使うことにした。一瞬驚きの表情を見せた彼女だったが、今度は笑うことなくサラリと答えてくれた。
「魚かしら?」
「魚、食べるんですか?」
 返ってきた言葉に驚いて、僕は思わず言葉ごと身を乗り出してしまう。いや、海にいるのだから魚を食べることが普通なのかもしれないけど。でも。
「だって美味しいじゃない」
 コロコロと甘い飴玉を転がすように、小さな笑いを含ませた彼女の声が僕の鼓膜を揺らす。その直後、寒さに震えていたはずの僕の体は耳から熱を取り戻し始めた。
「本当に、魚、食べるんですか?」
「もちろん。じゃなきゃ、この体維持できないもの」
 同じ質問を繰り返した僕に、彼女はいたずらを思いついたような表情で、パシャリ、と波を叩いた。青とも緑とも言えない美しい色が僕の視界で揺れている。ゆっくりと伸びてきた夕陽にますます彼女の尾鰭が不思議な色を見せる。僕はその光景をキレイだと思うと同時にさきほどの彼女の言葉を頭の中で分解していた。
 ――体を維持するために魚を食べる。それは体の半分が魚でできているから? ということは?
「じゃあ、人間も食べるんですか?」
 食べたものでその形を維持しているのならば。彼女のもう半分は人間だから。彼女は人間を食べているということになるのではないか。僕の質問にもう一度パシャン、と海を叩いた彼女が薄く唇を引き伸ばしながら見上げてきた。夕日に透けた髪と同じ色の瞳を輝かせて。
「気になる?」
「気になるというか、命の危険なので知っておこうかと」
「なるほど。んー、じゃあとりあえず君のことは食べないから安心して」
 ――それって僕以外の人間は食べるってこと? それはそれで放っておけないんだけど。
 僕がムムムッと眉根を寄せて黙り込むと、夜の闇と沈んでいく太陽の残りが混ざり合う中で「ねえねえ、それよりさ」と彼女が声を弾ませた。
「君はどうして私を見ても驚かないの?」
 彼女を見つけたことと、彼女が人食いかもしれないことを天秤にかけたなら、気にするべきは明らかに後者で、ちっとも「それよりも」と置いておける問題ではないんだけど。とりあえず僕は食べられずにすむみたいだし、気が変わられても困るのでここはおとなしく会話に付き合うことにする。
「だって僕まだ小学生だから」
「え?」
「僕が知っていることってきっととっても少ないでしょ? だからお姉さんに会ったことは驚くべきことなのか、ただ単純に僕が知らなかっただけで普通のことなのか僕にはわからないもん。だから、お姉さんが人食い人魚だとしても」
「その人食いってやめて」
 僕の言葉を遮り、ムッと頬を膨らませてお姉さんが言った。僕は仕方なく言い方を変えてあげる。
「……じゃあ、お姉さんがただの人魚だとしてもそれだけでしょ? 今日たまたま会ってお話したってだけ」
「そうなの?」
「うん。お姉さんはお姉さんで、僕は僕。それだけだよ」
 そう、それだけだ。もし仮にお姉さんがとても珍しい存在なのだとしても。僕にとっては目の前で話しているお姉さんでしかないのだから。
「君、面白いね」
 ――つまらない。一緒に話していても楽しくない。小さいのによく知っているんだね。という言葉は言われ慣れていた。
 でも「面白い」は初めてだった。
 低くなっていく気温とは反対に僕の胸は温かくなる。同時に鼻の奥がツンと痛みだし、海水ほどではないけれど、しょっぱい味が目からこぼれそうになる。
 僕が何も言えずに黙っていると、不意に「またね」と声が響き、そのままお姉さんは夜の海へと消えてしまった。僕が呼び止める間もなく。
「……やっぱり、きらいだ」
 緩く流れる潮風のすき間に「食べなくてよかった」と聞こえたのは、気のせいだろうか。

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