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『大晦日』side大和(1)
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正直、俺は焦っていた。
母さんが家を空けることになった今、伊織はうちに来てくれないのではないか、と。
元々、俺が勝手に言いだしたことに母さんたちがのってくれたからこそ、伊織の了承なく決まった話だったわけで、母さんたちがいないのならば、伊織は適当な理由をつけて、今日の話をなかったことにしてくるのではないか。
焦った俺は伊織に何か言われる前にと、母さんが作りすぎたおかずたちを抱えて、伊織の住むマンションへと向かった。
伊織が俺を入れてくれるかどうかは、正直なところわからなかった。
耳の奥には鳴り続ける呼び出し音が未だに消えることなくこびりついている。
あの時の不安や苦しさを忘れることなんてできない。
でも、それでも、どうしても、俺は伊織に会いたい。聞きたいことも伝えたいことも、もう俺一人では抱えきれないんだ。
「伊織ー、開けてー」
震えそうになる声を隠すように、いつもよりも大きな声で呼びかける。
インターフォンの画面に映る俺を見て、伊織は今、どんな顔をしているのだろう。
応えてくれる声は聞こえない。
こちらに向けられているカメラを見つめることしか、俺にはできない。
「……」
——だから、自動ドアの開く音が聞こえた時、両手にかかる重さがふわりと消えてしまうくらい、俺はホッとした。
「どうして電話出てくれなかったの?」
そう聞いた瞬間の、伊織の表情を俺は見逃さなかった。それはほんの一瞬、不意を突かれて隠すことができなかった無防備なままの感情が表に出た瞬間だった。
「……あ、あー、具合悪くて寝てたんだよね。ごめんね」
それでも、伊織はすぐに慣れたように乾いた笑い声を混ぜて、俺から視線を外した。
「なんか急ぎだった?あ、でも、俺、そのままインフルになっちゃったから、仕方ないっていうか……」
重ねられる言葉とごまかすためだけに吐き出される小さな笑い声が、俺の耳を素通りしていく。手元のコーヒーカップから視線を外した伊織が、そのまま俺を避けるように後ろの棚へと体を向けた。
「お、クッキー発見」
そう呟いた伊織の声が、もういつもと変わらない響きを取り戻していて、さっきまで確かに見えていたはずの伊織の姿が消えてしまう。
——いつものように、俺がこのまま気づかなかったふりをして、問い詰めることもなく、当たり障りのない会話を続けていれば、きっと、まだ、ここにいられる。居心地のいい、慣れきって緩んでしまったこの関係の中で、俺が目を閉じてしまえば、何も傷つくことなく、ずっと笑っていられる。だけど……
「……」
棚の上段へと腕を伸ばす伊織の後ろ姿が見え、カツンと硬い物質に伊織の指先が弾かれる音がした。
「なんでこんな上にあるんだよなぁ」
そう文句を言いながら、伊織が再度手を伸ばすが、缶の表面には届くものの、それを掴むのは難しいようだった。
俺なら、俺ならきっと簡単に届くだろう。
「うーん、もうちょい……」
いつもの伊織なら、自分で取ることをあっさりと諦めて、俺を呼ぶはずだ。
その声を俺は待っていた。
けれど、伊織は俺を呼ぶことも、俺の方を振り返ることもしてくれない。
「伊織っ、……」
堪えきれずに立ち上がった視線の先、「うおっと、と」と変な声を出しながら棚から転がり落ちた缶を伊織が受け止めた。
「あっぶねー」
六角形の緑色の缶を両手で抱えた伊織は、そう呟きながら息を吐き出すと、顔だけを俺の方へと振り返らせる。
「これ、母さんのシンガポールのお土産なんだ」
そう笑って伊織は俺に言ってくれたけれど、向かい合っているはずの視線はどこか不自然に噛み合わない。伊織はこちらを見ているようで、俺のことなど何も見てはいない、そんな気にさせられる。
「そ、うなんだ」
こんなにすぐそばにいるのに。
こんなに近くにいるのに。
うまく笑えなくなっていく俺とは反対に、伊織の表情は笑顔で固定されていく。
「あと、他にもなんかあるかな」
再び棚の方へと顔を戻した伊織が、今度は棚の下の引き出しを開けながら、その姿をカウンターの下に隠した。
「伊織」
俺の声は届かない。
ガサゴソと棚の中を探る音だけが響く。
「伊織」
それは呼びかけというよりも、どこか祈りにも似た響きで。
「……っ、」
返ってこない声に、見えなくなってしまった姿に、助けを呼ぶことさえしてくれなくなったことに、溢れそうになる痛みを唇の先を噛んで飲み込む。
繋がることのなかった呼び出し音が、耳の奥で蘇る。
このままでいれば?——違う。
ここにいられる?——違う。
何も変わらない?——違う。
——これは、こんなのは、もうとっくに、今までの俺たちと全然違うじゃないか。
「!」
俺は震えそうになる手を握りしめて、足を踏み出す。
「……チョコ、はダメだしなぁ」
もう、ずっと前から、俺たちは変わっていたのだ。
「あ、ポテチあるじゃん」
変わってしまったことをなかったことにはできない。
「ポッキーもあったりして」
進み続ける時間を止めることができないように、俺も伊織も、立ち止まることはもうできない。
近づくにつれてはっきりと耳に届く伊織の声が、心地よくて。
「あるとしたら、この辺に……」
棚の前にしゃがみ込み、楽しそうに笑う顔をずっと見ていたくて。
「お、発見」
お菓子を探すことに夢中で俺が近くにいることに気づいていない伊織を、振り向かせてやりたくて。
「……」
——いつの間に、こんなに変わってしまったのか、自分でもわからない。
身長も、足の速さも、勉強だって、いつも競うように同じ場所に並んでいたはずなのに。
陽に透けるほど色素の薄い細く柔らかな髪の先が小さな耳を隠すように揺れる。片手で掴めそうなほど白く細い首がベージュのタートルネックから覗く。厚みのあるニットを着ていてもわかるほど薄い肩も、細い腰も、何もかもが自分とは違う。
「まとめ食いさせてやるか」
薄い唇の端が意地悪く持ち上がり、長い睫毛がおかしそうに揺れる。
伊織のその言葉に俺の頭の中で『ポッキーの日』の光景が蘇る。
たくさんの女子たちに囲まれていた伊織。それが当たり前に感じられてしまうほど、伊織の周りにはいつもたくさんの人がいた。
伊織は確かに綺麗な顔をしているけれど、あんなふうに人が集まってくるのは、きっとそれだけじゃない。自分の近くにいる人だけでなく、その周りにいる人にも気を使える伊織は、自分のことしか考えられない俺よりずっと大人だ。伊織は好き嫌いを態度に出さないし、誰とでも分け隔てなく話すことができる。男女問わず、先生だって、伊織の周りに集まる人はみんなその静かな優しさに笑顔になる。だけど、そうやって人に分け与えてばかりいる伊織が、俺は心配でならなかった。
だから、どうか俺の前でだけは、そんなふうに笑わないで。
伊織が伊織でいられる場所を、俺は守りたい。
そう、思っていたはずだった。
それなのに、さっき俺に見せた伊織の笑顔は——
「伊織」
「!」
俺が近くにいるとは思っていなかったのだろう。
伊織が両肩を弾ませるようにして振り返る。
「わ、びっくりした。いつの間に……」
そう言って驚いた顔を見せて、立ち上がった伊織に、俺は握りしめていた両手を開く。
「伊織」
俺は両腕を伸ばし、目の前に立つ伊織を、その両手に抱えられたお菓子ごと、包み込んだ。
「!」
俺の体でその姿全部を隠してしまえるほど、小さな伊織。俺の腕の中にすっぽりと収まってしまうほど華奢な体も、ふわりと舞い上がる優しい香りも、ゆっくりと染み込むように伝わってくる高い体温も、そのすべてが俺の心臓を跳ね上げ、どこまでも苦しくさせる。
「は?ちょ、大和?」
伊織が引き攣ったように揺れる声を出しながら、それでもどこか冗談めかして笑おうとするから、俺は抱きしめる腕にさらに力を込める。
「ちょっと、ほんとに、なんなの?痛いんだけど」
「……ごめん」
「え?」
両手にお菓子の箱を持ったまま俺の腕から逃れようと抵抗する伊織が、その力を緩める。
「ごめん。お願いだから、逃げないで」
「大和……?」
そう俺の名前を呼ぶ伊織の声が不安の色を見せたことに、気づいていたけれど、それでも俺は構わず続ける。もう、引き返すことなんてできない。
「……わざとだろ?」
「え?」
「俺からの電話、わざと取らなかったんだろ?」
「!」
俺の言葉に伊織の肩がビクリと震える。俯いたままの伊織の表情はわからないけれど、触れ合った体がそのわずかな振動さえ逃さず伝えてくる。
「何、言ってんの?だから、さっき言ったじゃん、寝てたって。で、そのままインフルで寝込んで……」
どんなに笑いを含めて見せたって、俺の胸を押してくる小さな両手の震えはもうごまかせない。
「俺と話したくなかった?」
「そんなわけ、」
「俺と会いたくなかった?」
「だから、そんなわけないって、」
「俺はずっと会いたかったよ」
「!」
ずっと俯いていた伊織の顔が俺に向けられる。俺はその繋がった視線を放さないように、逃さないように、必死で言葉を紡ぐ。
「会って、今度こそちゃんと言おうって思ってた」
「や、まと……?」
伊織の大きな瞳が揺れ、俺の腕から逃れようとしていたはずの伊織の手が止まる。
「俺、伊織のことが」
「言うな!」
それは強い拒絶の言葉だった。
震えそうになっていた俺の声をかき消してしまうくらいの強い伊織の言葉が、耳の奥、体の中を突き抜けるように響く。
「伊織、」
「聞きたくない。聞きたくないから、だから、もう……何も言うな」
力を緩めてしまった俺の腕を振り払い、伊織が逃げるように背を向ける。
触れたら簡単に壊れてしまいそうなほど小さな体を震わせて、その全身で俺の言葉から顔を背けている。
「伊織っ、……」
俺は伸ばしかけた手を、触れることなく握りしめる。
今、確かにここにあったはずの熱が消えないように。
その瞬間をなかったことにしたくなくて。
「……っ、」
噛み締めた唇の先から痛みよりも苦味が広がっていく。
手を伸ばせば届く距離にいるはずの伊織が、どこまでも遠く遠ざかっていく。
俺の言葉は、この気持ちは、伊織にとってそんなにも迷惑なものなのだろうか?
「……そんなに迷惑?」
その言葉は、震えながら、落ちていく。
「……」
伊織は振り向いてもくれない。
「今の俺は、伊織にとって……迷惑ってこと?」
それでも、もう零れてしまったものを戻せるはずもなく。
「っ、ちが、」
絞り出すように漏らした伊織の声さえ、溢れてしまった俺の痛みを止めることはできない。
——震え続ける伊織と、拒まれ続ける俺と、痛みが大きいのは、傷が深いのは、どちらなのだろう?
「……ごめん、伊織」
声が震える。
「大和?」
俺の名前を呼ぶ小さな伊織の声が、俺の目の奥に熱を集めていく。
——痛くて、苦しくて、どうしようもできないこの熱を、俺はもう持っていられない。
「俺、もう今までのようにはいられないんだ」
「……」
「伊織が望むなら、今のままでいいって、親友で幼馴染で、それでいいって、俺だって何度も思おうとしたよ」
「……」
「でも、もう分かんないんだ」
元に戻る方法なんて、とっくに失くしてしまった。
「……や、まと?」
ゆっくりと振り返った伊織の目に映る俺は、きっとぐしゃぐしゃで、どうしようもなく情けない顔をしているのだろう。それでも、どんなに情けなくても、惨めで格好悪くても、それが、今の俺なんだ。
「伊織の望む俺ってどんなだった?どうやって笑ってた?どうやって伊織に触れてた?俺、もう分かんなくて」
言葉が零れて、止まらなくなる。
「だって、俺、伊織のことが好きだって気づいてから、もう意識しないで話せないんだよ」
溢れ出した気持ちは、もう元には戻せない。
「迷惑だって思われても、それでも、もうなかったことになんて、できないんだよ」
視界がぼやけていくのを振り払うように、俺は走り続ける。
「伊織、」
「……」
伊織は何も言わなかった。
その代わり、その大きな瞳でまっすぐ俺を見つめていた。
「好きだ」
「や、……」
伊織が何かを飲み込むように、息を止める。
「俺、伊織のことが好きなんだ」
「……っ、」
俺の言葉の向こう、伊織は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
母さんが家を空けることになった今、伊織はうちに来てくれないのではないか、と。
元々、俺が勝手に言いだしたことに母さんたちがのってくれたからこそ、伊織の了承なく決まった話だったわけで、母さんたちがいないのならば、伊織は適当な理由をつけて、今日の話をなかったことにしてくるのではないか。
焦った俺は伊織に何か言われる前にと、母さんが作りすぎたおかずたちを抱えて、伊織の住むマンションへと向かった。
伊織が俺を入れてくれるかどうかは、正直なところわからなかった。
耳の奥には鳴り続ける呼び出し音が未だに消えることなくこびりついている。
あの時の不安や苦しさを忘れることなんてできない。
でも、それでも、どうしても、俺は伊織に会いたい。聞きたいことも伝えたいことも、もう俺一人では抱えきれないんだ。
「伊織ー、開けてー」
震えそうになる声を隠すように、いつもよりも大きな声で呼びかける。
インターフォンの画面に映る俺を見て、伊織は今、どんな顔をしているのだろう。
応えてくれる声は聞こえない。
こちらに向けられているカメラを見つめることしか、俺にはできない。
「……」
——だから、自動ドアの開く音が聞こえた時、両手にかかる重さがふわりと消えてしまうくらい、俺はホッとした。
「どうして電話出てくれなかったの?」
そう聞いた瞬間の、伊織の表情を俺は見逃さなかった。それはほんの一瞬、不意を突かれて隠すことができなかった無防備なままの感情が表に出た瞬間だった。
「……あ、あー、具合悪くて寝てたんだよね。ごめんね」
それでも、伊織はすぐに慣れたように乾いた笑い声を混ぜて、俺から視線を外した。
「なんか急ぎだった?あ、でも、俺、そのままインフルになっちゃったから、仕方ないっていうか……」
重ねられる言葉とごまかすためだけに吐き出される小さな笑い声が、俺の耳を素通りしていく。手元のコーヒーカップから視線を外した伊織が、そのまま俺を避けるように後ろの棚へと体を向けた。
「お、クッキー発見」
そう呟いた伊織の声が、もういつもと変わらない響きを取り戻していて、さっきまで確かに見えていたはずの伊織の姿が消えてしまう。
——いつものように、俺がこのまま気づかなかったふりをして、問い詰めることもなく、当たり障りのない会話を続けていれば、きっと、まだ、ここにいられる。居心地のいい、慣れきって緩んでしまったこの関係の中で、俺が目を閉じてしまえば、何も傷つくことなく、ずっと笑っていられる。だけど……
「……」
棚の上段へと腕を伸ばす伊織の後ろ姿が見え、カツンと硬い物質に伊織の指先が弾かれる音がした。
「なんでこんな上にあるんだよなぁ」
そう文句を言いながら、伊織が再度手を伸ばすが、缶の表面には届くものの、それを掴むのは難しいようだった。
俺なら、俺ならきっと簡単に届くだろう。
「うーん、もうちょい……」
いつもの伊織なら、自分で取ることをあっさりと諦めて、俺を呼ぶはずだ。
その声を俺は待っていた。
けれど、伊織は俺を呼ぶことも、俺の方を振り返ることもしてくれない。
「伊織っ、……」
堪えきれずに立ち上がった視線の先、「うおっと、と」と変な声を出しながら棚から転がり落ちた缶を伊織が受け止めた。
「あっぶねー」
六角形の緑色の缶を両手で抱えた伊織は、そう呟きながら息を吐き出すと、顔だけを俺の方へと振り返らせる。
「これ、母さんのシンガポールのお土産なんだ」
そう笑って伊織は俺に言ってくれたけれど、向かい合っているはずの視線はどこか不自然に噛み合わない。伊織はこちらを見ているようで、俺のことなど何も見てはいない、そんな気にさせられる。
「そ、うなんだ」
こんなにすぐそばにいるのに。
こんなに近くにいるのに。
うまく笑えなくなっていく俺とは反対に、伊織の表情は笑顔で固定されていく。
「あと、他にもなんかあるかな」
再び棚の方へと顔を戻した伊織が、今度は棚の下の引き出しを開けながら、その姿をカウンターの下に隠した。
「伊織」
俺の声は届かない。
ガサゴソと棚の中を探る音だけが響く。
「伊織」
それは呼びかけというよりも、どこか祈りにも似た響きで。
「……っ、」
返ってこない声に、見えなくなってしまった姿に、助けを呼ぶことさえしてくれなくなったことに、溢れそうになる痛みを唇の先を噛んで飲み込む。
繋がることのなかった呼び出し音が、耳の奥で蘇る。
このままでいれば?——違う。
ここにいられる?——違う。
何も変わらない?——違う。
——これは、こんなのは、もうとっくに、今までの俺たちと全然違うじゃないか。
「!」
俺は震えそうになる手を握りしめて、足を踏み出す。
「……チョコ、はダメだしなぁ」
もう、ずっと前から、俺たちは変わっていたのだ。
「あ、ポテチあるじゃん」
変わってしまったことをなかったことにはできない。
「ポッキーもあったりして」
進み続ける時間を止めることができないように、俺も伊織も、立ち止まることはもうできない。
近づくにつれてはっきりと耳に届く伊織の声が、心地よくて。
「あるとしたら、この辺に……」
棚の前にしゃがみ込み、楽しそうに笑う顔をずっと見ていたくて。
「お、発見」
お菓子を探すことに夢中で俺が近くにいることに気づいていない伊織を、振り向かせてやりたくて。
「……」
——いつの間に、こんなに変わってしまったのか、自分でもわからない。
身長も、足の速さも、勉強だって、いつも競うように同じ場所に並んでいたはずなのに。
陽に透けるほど色素の薄い細く柔らかな髪の先が小さな耳を隠すように揺れる。片手で掴めそうなほど白く細い首がベージュのタートルネックから覗く。厚みのあるニットを着ていてもわかるほど薄い肩も、細い腰も、何もかもが自分とは違う。
「まとめ食いさせてやるか」
薄い唇の端が意地悪く持ち上がり、長い睫毛がおかしそうに揺れる。
伊織のその言葉に俺の頭の中で『ポッキーの日』の光景が蘇る。
たくさんの女子たちに囲まれていた伊織。それが当たり前に感じられてしまうほど、伊織の周りにはいつもたくさんの人がいた。
伊織は確かに綺麗な顔をしているけれど、あんなふうに人が集まってくるのは、きっとそれだけじゃない。自分の近くにいる人だけでなく、その周りにいる人にも気を使える伊織は、自分のことしか考えられない俺よりずっと大人だ。伊織は好き嫌いを態度に出さないし、誰とでも分け隔てなく話すことができる。男女問わず、先生だって、伊織の周りに集まる人はみんなその静かな優しさに笑顔になる。だけど、そうやって人に分け与えてばかりいる伊織が、俺は心配でならなかった。
だから、どうか俺の前でだけは、そんなふうに笑わないで。
伊織が伊織でいられる場所を、俺は守りたい。
そう、思っていたはずだった。
それなのに、さっき俺に見せた伊織の笑顔は——
「伊織」
「!」
俺が近くにいるとは思っていなかったのだろう。
伊織が両肩を弾ませるようにして振り返る。
「わ、びっくりした。いつの間に……」
そう言って驚いた顔を見せて、立ち上がった伊織に、俺は握りしめていた両手を開く。
「伊織」
俺は両腕を伸ばし、目の前に立つ伊織を、その両手に抱えられたお菓子ごと、包み込んだ。
「!」
俺の体でその姿全部を隠してしまえるほど、小さな伊織。俺の腕の中にすっぽりと収まってしまうほど華奢な体も、ふわりと舞い上がる優しい香りも、ゆっくりと染み込むように伝わってくる高い体温も、そのすべてが俺の心臓を跳ね上げ、どこまでも苦しくさせる。
「は?ちょ、大和?」
伊織が引き攣ったように揺れる声を出しながら、それでもどこか冗談めかして笑おうとするから、俺は抱きしめる腕にさらに力を込める。
「ちょっと、ほんとに、なんなの?痛いんだけど」
「……ごめん」
「え?」
両手にお菓子の箱を持ったまま俺の腕から逃れようと抵抗する伊織が、その力を緩める。
「ごめん。お願いだから、逃げないで」
「大和……?」
そう俺の名前を呼ぶ伊織の声が不安の色を見せたことに、気づいていたけれど、それでも俺は構わず続ける。もう、引き返すことなんてできない。
「……わざとだろ?」
「え?」
「俺からの電話、わざと取らなかったんだろ?」
「!」
俺の言葉に伊織の肩がビクリと震える。俯いたままの伊織の表情はわからないけれど、触れ合った体がそのわずかな振動さえ逃さず伝えてくる。
「何、言ってんの?だから、さっき言ったじゃん、寝てたって。で、そのままインフルで寝込んで……」
どんなに笑いを含めて見せたって、俺の胸を押してくる小さな両手の震えはもうごまかせない。
「俺と話したくなかった?」
「そんなわけ、」
「俺と会いたくなかった?」
「だから、そんなわけないって、」
「俺はずっと会いたかったよ」
「!」
ずっと俯いていた伊織の顔が俺に向けられる。俺はその繋がった視線を放さないように、逃さないように、必死で言葉を紡ぐ。
「会って、今度こそちゃんと言おうって思ってた」
「や、まと……?」
伊織の大きな瞳が揺れ、俺の腕から逃れようとしていたはずの伊織の手が止まる。
「俺、伊織のことが」
「言うな!」
それは強い拒絶の言葉だった。
震えそうになっていた俺の声をかき消してしまうくらいの強い伊織の言葉が、耳の奥、体の中を突き抜けるように響く。
「伊織、」
「聞きたくない。聞きたくないから、だから、もう……何も言うな」
力を緩めてしまった俺の腕を振り払い、伊織が逃げるように背を向ける。
触れたら簡単に壊れてしまいそうなほど小さな体を震わせて、その全身で俺の言葉から顔を背けている。
「伊織っ、……」
俺は伸ばしかけた手を、触れることなく握りしめる。
今、確かにここにあったはずの熱が消えないように。
その瞬間をなかったことにしたくなくて。
「……っ、」
噛み締めた唇の先から痛みよりも苦味が広がっていく。
手を伸ばせば届く距離にいるはずの伊織が、どこまでも遠く遠ざかっていく。
俺の言葉は、この気持ちは、伊織にとってそんなにも迷惑なものなのだろうか?
「……そんなに迷惑?」
その言葉は、震えながら、落ちていく。
「……」
伊織は振り向いてもくれない。
「今の俺は、伊織にとって……迷惑ってこと?」
それでも、もう零れてしまったものを戻せるはずもなく。
「っ、ちが、」
絞り出すように漏らした伊織の声さえ、溢れてしまった俺の痛みを止めることはできない。
——震え続ける伊織と、拒まれ続ける俺と、痛みが大きいのは、傷が深いのは、どちらなのだろう?
「……ごめん、伊織」
声が震える。
「大和?」
俺の名前を呼ぶ小さな伊織の声が、俺の目の奥に熱を集めていく。
——痛くて、苦しくて、どうしようもできないこの熱を、俺はもう持っていられない。
「俺、もう今までのようにはいられないんだ」
「……」
「伊織が望むなら、今のままでいいって、親友で幼馴染で、それでいいって、俺だって何度も思おうとしたよ」
「……」
「でも、もう分かんないんだ」
元に戻る方法なんて、とっくに失くしてしまった。
「……や、まと?」
ゆっくりと振り返った伊織の目に映る俺は、きっとぐしゃぐしゃで、どうしようもなく情けない顔をしているのだろう。それでも、どんなに情けなくても、惨めで格好悪くても、それが、今の俺なんだ。
「伊織の望む俺ってどんなだった?どうやって笑ってた?どうやって伊織に触れてた?俺、もう分かんなくて」
言葉が零れて、止まらなくなる。
「だって、俺、伊織のことが好きだって気づいてから、もう意識しないで話せないんだよ」
溢れ出した気持ちは、もう元には戻せない。
「迷惑だって思われても、それでも、もうなかったことになんて、できないんだよ」
視界がぼやけていくのを振り払うように、俺は走り続ける。
「伊織、」
「……」
伊織は何も言わなかった。
その代わり、その大きな瞳でまっすぐ俺を見つめていた。
「好きだ」
「や、……」
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