婚約破棄された私はカエルにされましたが、悪役令嬢な妹が拾って舞踏会で全部ひっくり返します

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婚約破棄された私はカエルにされましたが、悪役令嬢な妹が拾って舞踏会で全部ひっくり返します

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 噴水の水音は、いつだって同じ――のはずだった。

 石に当たり、白い泡を散らし、夜の広場に薄い霧をつくる。けれど今の私には、その音がやけに冷たく、鋭く聞こえる。水が落ちるたび、胸の奥の何かが削れていくみたいだ。

 噴水の縁。苔の匂い。湿った石の冷たさ。
 そこにいるのは、私――ではない。

 小さな緑の身体。短い脚。大きな目。
 喉は鳴くためにあるのに、空気を震わせることさえできない。声が出ない。言葉が出ない。叫びも、泣き声も、助けを呼ぶ音も。

 私は蛙だった。

 (……どうして、こうなったんだろう)

 思い返せば、最初の亀裂はずっと前から入っていたのだ。
 私は、気づかないふりをしていただけで。

 婚約が決まった日の、父の顔。母の声。
「よかったわね」「役に立つのよ」
 それは祝福ではなく、手放しの宣告に近かった。私は笑って頷いた。そうするのが、いちばん波風が立たないと知っていたから。

 ――そして、決定的な夜。

 庭園の回廊。月の光。花の香り。
 薄い壁の向こうで聞こえた、甘ったるい笑い声。
 私の名ではない呼び方で、誰かが彼の袖を引いていた。

「……なにを、しているの」

 自分の声が、妙に遠かった。
 返ってきたのは、面倒くさそうな溜息と、すぐに作り直された穏やかな笑み。

「誤解だよ。君は――」

「誤解……私の婚約者が、私のいないところで逢引しているのが?」

 彼は一瞬だけ眉をひそめ、それから、逆に笑った。
 まるで私のほうが間違っているみたいに。

「君は、いろいろと足りないからね。黙っていればよかったのに」

 その言葉が、胸の奥を冷たく撫でた。
 私はそこで初めて、彼が“私”を見ていないことを理解した。見ているのは家の価値と、表向きの体裁だけ。
 だから――私が怒り、泣き、訴えるのが、彼にとってはただの騒音だった。

「破談にしよう」

 軽く言った。
 重たいものを床に置くみたいに。

「……そんな勝手な!?」

「勝手じゃない。君の能力が低いのが原因さ。君がもっと優秀で、可愛げがあって、思慮深ければ、僕だって浮気なんてことしなかったさ。というか……君は、言いふらしそうだな」

 彼の指が、すっと私の額の近くへ伸びた。
 不思議と、怖いと思うより先に、嫌な予感がした。

 次の瞬間、空気が、ぱちん、と弾けた。

 視界が落ちる。
 体が縮む。
 息が詰まって、声が潰れて――

 暗闇の中で、私は、鳴けない喉を震わせた。
 それでも言葉にならない。

 (……助けて)

 誰に?
 父に? 母に?

 ――ミレイに?

 思った瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
 けれど、熱さはすぐに冷たさに押しつぶされる。

 私は蛙だ。
 誰も、気づかない。

 *

 蛙になって、最初の一日は、ただ“落ちる”だけだった。

 屋敷の廊下は広く、床は滑る。高い天井の灯りは眩しく、空気は乾いているのに、私の皮膚だけがひどく敏感で、ひとつの風にさえ怯えた。
 跳ねれば跳ねるほど、世界は大きく遠くなる。

 声が出ない。呼べない。
 足音が近づいてきても、私はただ柱の影に隠れるしかなかった。

 昼。
 使用人が水差しを運ぶ。花瓶を替える。銀器を磨く。
 彼らの手は忙しく、目は忙しく、私に止まらない。止まる理由がない。
 私は影の中で、ただ見ている。

 夕方。
 食堂から香りが流れてきた。焼いた肉。甘い果物。温かいパン。
 それを嗅いだ瞬間、胃がぎゅっと縮んだ。――蛙の胃なのに、私の心が空腹を知っている。

 夜。
 私は門のほうへ跳ねた。
 帰りたい、帰れば、誰かが、と思って。

 でも門番の犬が吠えた。
 靴の音が近づき、棍棒が地面を叩く音がした。
 私は反射的に逃げて、門扉の隙間から外へ転がり出た。

 外の空気は冷たい。
 夜の匂いは、土と雨と、人の汗だ。

 ――私は、屋敷から放り出された。

 翌日も、その翌日も。
 私は屋敷の裏口に戻った。石垣の陰から覗いた。窓の灯りを見上げた。
 けれど、誰も私を呼ばない。
 私の名が屋敷で発されることもない。

 (……いなくなっても、困らないんだ)

 理解すると、胸が痛い。
 痛いのに、涙が出ない。
 その代わり、夜の冷えが骨に染みてくる。

 雨の日は最悪だった。
 水たまりに落ちれば溺れそうになる。風に吹かれれば皮膚が張りつく。
 塀の下で丸くなって、朝が来るのを待った。
 朝が来ても、救いは来ないのに。

 それでも私は、生き残った。
 噴水のある広場に辿り着いたのは、そんな日々の末だった。

 ここなら、人がいる。
 ここなら、何かが起きるかもしれない。

 ――そう思った自分が、馬鹿みたいだ。

 (……帰りたいよ)

 思った瞬間、笑い声が降ってきた。

 酒場の戸が開く音。酔った男の足取り。
 二人組の若い男が、噴水へふらついてくる。視線が、私を見つけて歪む。

「お、蛙。踏んだら運がつくってやつだろ?」
「逆じゃね? まあどっちでもいいだろ。跳ねるとこ見てえ」

 靴先が近づき、影が落ちる。
 逃げようと脚を動かす。けれど石は滑り、身体は言うことを聞かない。軽いはずの身体が、恐怖だけで沈んでいく。

「おい、噴水に落とすか?」
「いいね。変な音出すかな」

 私は跳ねた。必死に跳ねた。
 でも、跳んだ先にも影が落ちる。逃げ道が塞がれる。石畳の冷たさが腹に刺さる。

 ――次の瞬間。

「……下がりなさい」

 柔らかいのに、刃のような声だった。
 怒鳴っていないのに、空気が一段冷える。男たちが反射的に振り向く。

 そこに立っていたのは、一人の少女――いや、もう少女と呼ぶには背が高い。
 月光を溶かしたような銀髪が、外套の隙間から滑り落ちている。私より少し背が高いはずなのに、今はずっと遠い場所に立っているみたいだった。

 そして瞳。
 右は深い青。左は琥珀に近い金。広場の灯りを受けて、二つの色が静かに揺れた。

 ミレイ。

 私の妹。

「なんだよ、お嬢ちゃん」
「ただの蛙だろ?」と男が笑う。

 ミレイは、薄く、嫌味たらしく口角を上げた。
 それは可愛らしい笑みではない。――上から見下ろし、相手の価値を量る、貴族の笑みだ。

「“ただの蛙”に、あなた方のような下卑た手が触れるのが不快ですの」

「は?」
「理解できないのかしら。……まあ、仕方ございませんわね。頭が弱いのは罪ではないもの」

「てめ――」

 男が一歩踏み出す。
 ミレイは指先をこめかみに添え、首を傾げた。

「噴水前の石畳。苔が生えて滑りやすい。酔っている。靴底が磨り減っている。――転ぶ条件が揃っておりますわ」

 ぱちん、と空気が弾けるような音がして、男たちの足元に淡い光の輪が広がる。

「うわっ!」
「なんだよこれ!」

 二人は派手に尻もちをついた。転んだだけ、のはずなのに、転ばされたと理解する程度には綺麗すぎるタイミングだった。
 つま先が空を切り、肩が噴水の縁にぶつかって、水飛沫が上がる。

 ミレイは扇でも持っていそうな仕草で、そっと唇に指を添える。

「まあまあ。石畳が悪いのですわ。――ああ、でも。石畳に謝罪なさったら?」

「ふざけんな!」
「変な嬢ちゃんだ……!」

 男たちは悪態をつきながら、酒場のほうへ逃げていった。

 広場に、噴水の音だけが戻る。

 ミレイはゆっくり噴水の縁に膝をつき、私を見下ろした。
 近くで見ると、彼女の手は震えている。睫毛が濡れている。唇を結び、泣くのを我慢している顔――なのに、それを絶対に表に出さない顔。

 そして、わざとらしく鼻で笑った。

「……本当に、みすぼらしいですわね。お姉さま」

 その声は耳からではなかった。
 胸の内側に、直接落ちてきた。

(……え?)

 驚いた思考を浮かべた瞬間、ミレイの“声”がすぐ返ってくる。

「はい。わたくしの魔術で、お姉さまの心の声を拾っておりますの。――今だけ、繋ぎます」

(ミレイ……私……)

「黙ってくださいまし。今は“蛙”ですわ。目立ちますもの」

 冷たい言い方なのに、視線が優しく揺れた。
 ミレイは外套の内側から真っ白な布を取り出し、まるで汚物に触れるみたいに指先だけで私を摘まみ上げた。

「……臭い。汚い。湿っている。最悪ですわ」

(……ごめん)

「謝罪など不要ですの。――わたくしが連れ帰って、たっぷり苛めて差し上げますわ」

 そう言って、彼女は私を布で包んだ。
 乱暴な言葉とは裏腹に、包み方は丁寧で、熱を逃がさないように慎重だった。

 私は布の中で小さく縮こまりながら、胸の奥で――安心してしまう自分が怖かった。

 *

 屋敷へ戻る道のりは、息が詰まるほど静かだった。

 ミレイは大通りを避け、裏路地を選ぶ。灯りの少ない路地でさえ、彼女の足取りは迷わない。
 時折、彼女はふっと視線を空へ向ける。何かを見ている――遠い場所を、都合よく覗き込むみたいに。

(見られてる……?)

「ええ。門の様子。使用人の動線。父と母の居場所。――全部ですわ」

(怖い)

「怖いのは、悪いことではございません。怖いのに止まるのが、悪いのですわ」

 胸の内側に落ちる声は、いつものミレイよりずっと大人びていた。
 その声の背中に、私は知らない夜を見た気がする。

 裏手の小門。鍵の位置。見張りの癖。
 ミレイはすべて知っていた。まるでこの屋敷の“目”になっているみたいに。

 小門を抜け、薄暗い廊下へ入ると、空気が乾いて私の皮膚がひりついた。
 ミレイはわずかに眉を寄せ、布の中の私を、もう一度抱き直す。

「……耐えなさい。すぐにお風呂へ入れて差し上げますわ」

(苛めるんじゃ……)

「苛めますわ。――いわゆる水責め」

 その言い回しが、妙におかしくて。
 笑えないのに、胸の奥がほんの少しだけ軽くなる。

 ミレイの部屋は、灯りが暖かかった。
 薬草の匂い、磨かれた木の床、刺繍の入ったクッション。窓辺には小さな鉢植え。几帳面に揃えられた机の上には、分厚い本が積まれている。
 そして――部屋の隅に、湯気の立つ小さな洗面鉢。

「さあ。……落としますわよ」

(や、やめ……)

 布が解かれ、私は洗面鉢のぬるい湯の上に落ちた――と思った瞬間、ミレイの指が素早く支えた。
 ぬるい湯が皮膚に染み込み、震えが少し止まる。

「……ほら。震えているじゃありませんの。情けない」

(寒いよお)

「当然ですわ。あなた、今まで何日外で過ごしたの?」

(……一週間)

 ミレイの指が、ぴくりと止まった。
 すぐに笑みを作る。いつもの、嫌味たらしい笑み。

「一週間? ふうん。……屋敷の者たちは、よほど優秀なのでしょうね。――家の中から人が消えても気づかないなんて」

(皮肉やめて!)

「皮肉ではございません。事実の確認ですわ」

 そう言って、ミレイは私を湯の中でそっと洗った。
 言葉は冷たいのに、手つきは熱がこもっている。爪が皮膚を傷つけないよう、石鹸の泡を使わず、ぬるい湯と布で汚れだけを落としていく。

(恥ずかしい)

「恥ずかしい顔もできないくせに」

(言うなバカ)

「言って差し上げないと、あなたは何も伝えませんもの」

 ミレイは私を布で包み、ぽん、とクッションの上へ置いた。
 その置き方も、乱暴に見えて――角度が優しかった。

「そこで大人しくしていなさいませ。……わたくし、残飯を持って参りますわ」

(残飯って……)

「食堂のものですもの。わたくしの口に入る前なら残飯で、あなたの口に入るなら特別食ですわ」

(意味がわからない)

「あなたは昔からそうでしたわね。理解が遅い」

(遅くないもん。酷い言いぐさだ……)

 ぷい、と顔を背けるように言って、ミレイは部屋を出た。

 ――しばらくして。

 扉が静かに開き、ミレイが戻ってきた。
 手には小さな皿。温かい白身と香草、柔らかい果肉、それから少しだけ甘いパンの端。

「……感謝なさいませ」

(ご、ごご、ごはんだ! あ、あああああ、ありがとう!)

「声に出せないのが不便ですわね。――まあいい。あなたが生きているだけで、今夜は十分ですの」

 その“十分”が、胸に刺さった。
 私は本能に従って口を動かす。人間の舌じゃない感覚に、涙の代わりに胸が熱くなる。

 ミレイは窓際へ行き、カーテンの隙間から外を見た。
 その横顔は、完璧な貴族令嬢――なのに、肩が少しだけ落ちている。

(ねえミレイ……)

「……何ですの」

(どうして、見つけられたの?)

 ミレイは、すっと口角を上げた。
 いつもの悪役令嬢の笑み。

「当然ですわ。わたくしを誰だと思っておりますの? 全てを見通す千里眼のミレイですわよ。
――あなたのような小さなもの、見つけるのは簡単です」

(……嘘だ)

 ミレイの背中が、わずかに揺れた。

「嘘ではございません。……ただ」

 こめかみに当てた指先が、ほんの少し力を失う。

「見えているのに、届かないのは……腹が立ちますの」

 その声が、妙に子どもみたいで。
 私は答えようとして、答えられなくて、ただ皿の上の食べ物をかじり続けた。

 *

 その夜、私は眠った――はずだった。

 クッションの温かさと、布の柔らかさと、食べ物が腹に落ちる感覚。
 どれも久しぶりで、意識がすとんと沈んだ。

 けれど、夜更け。
 目が覚めたのは、部屋の灯りが消えていなかったからだ。

 ランプの火が、静かに揺れている。
 机の上には本が積み上がり、紙片と羽ペン、古い封蝋。
 そしてミレイが――外套も脱がず、銀髪を少し乱したまま、ページをめくっていた。

 長い睫毛が影を落とし、片方の青い瞳が紙を追う。
 もう片方の金の瞳は、まるで別の場所を見ているみたいに遠い。

(……寝てない)

 思った瞬間、ミレイの肩がびくりと跳ねた。

「――起きていらしたの?」

(灯りが眩しくて……)

「……あなたの目は、夜でもよく見えるのでしょう? 蛙ですものね。嫌味ですわ」

(嫌味じゃなくて……心配だよ)

 その思考が落ちた瞬間、ミレイは一瞬、黙った。
 そして、いつもの顔に戻る。

「心配? あなたが? わたくしを?」

(……うん)

「――ふふ」

 小さく笑った。
 でもそれは、馬鹿にする笑いではなかった。

「お姉さまは、何も持っていないふりが上手ですのね」

(何もないよ)

「そういうところですわ」

 ミレイは本を閉じ、机の端に積む。
 そこには“呪術解除”の文字。古い宗派の系譜。王家の祝福儀礼。民間のまじない。
 紙片には走り書きがぎっしりで、指先がインクで汚れている。

(……私のために?)

「違いますわ」

 即答だった。

「蛙が部屋にいるのが不快だから、早く人間に戻して外へ追い出したいだけですの」

(……うそ)

「嘘では――」

 言いかけて、ミレイの声が止まった。
 こめかみに当てた指が、ふるふると震える。

(ミレイ)

「黙りなさいませ。……わたくしは、いつだって正しいのですわ」

 正しい。
 その言い方が、急に脆く聞こえた。

(気づいたんだ。私なんて、蛙のほうが似合ってるって)

 口に出せない思考が、勝手に零れた。
 今まで飲み込んできたものが、胸の内側で溢れた。

(人の姿でも役に立たない。頭もない。魔術もない。礼儀も覚えが悪い。……蛙なら、最初から期待されなくて済む。こっちの姿の方が……蛙としてミレイに飼われる方が私に合ってるんじゃないかって……)

 ミレイの瞳が、ゆらりと揺れた。
 次の瞬間、彼女の頬を、一筋の雫が伝った。

「……」

 泣いている。
 さっきまで高圧的だった妹が。

(え!? ごめん、もしかして私なんか酷いこと言っちゃった?)

 私は動揺して、身体が跳ねそうになる。クッションの上でぴくぴくと震えるしかない。
 ミレイは急いで袖で涙を拭い、顔を背けた。

「……み、見ないでくださいまし」

(だって、泣いてるじゃん)

「泣いておりません。目が乾いただけですわ」

(乾いてるなら涙出ないよ。どうして……)

「……っ、うるさいですの!」

 ミレイは立ち上がって、私に背を向けたまま息を吸う。
 肩が震えている。

「……お姉さま」

 胸の内側に落ちる声が、いつもより小さい。

「わたくし、ずっと……お姉さまと遊びたかったですの」

(……遊ぶ?)

「幼い頃は、遊んでくださったじゃありませんの。わたくしが転んだら手を引いて、泣いたら抱き上げて、夜は本を読んで……」

 ミレイの指が机の引き出しを開け、古い栞を取り出した。
 使い込まれて、端がほつれている。

「これ。お姉さまがくれたものですわ。……わたくし、ずっと捨てられませんでしたの」

(……もちろん覚えてる。一緒に作ったもんね)

 私は思った。
 確かに覚えている。
 小さなミレイが、私の袖を掴んで離れなかったこと。
 あの頃だけ、家が柔らかかったこと。

「……でも、怖かったのですわ」

(怖い?)

「わたくしは、優秀でなければならない――そう言われ続けてきました。
 優秀であればあるほど、周りはわたくしを褒めて……そのぶん、お姉さまを――」

 言葉が途切れ、ミレイは奥歯を噛みしめた。

「……お姉さまを、“いないもの”にした」

 胸の奥へ落ちてきた声が、刃みたいに痛かった。

(そんなの、ミレイが悪いわけじゃ――)

「いいえ。わたくしも、悪かったのですわ」

 ミレイは小さく息を吸い、震える唇をきゅっと結ぶ。

「……本当は、お姉さまに話しかけたかった。甘えたかった。
 けれど、可愛く頼むなんて――できなくて。
 もし一歩でも間違えたら、お姉さまに嫌われるのではないかと……それが、怖かった」

 振り返ったミレイの頬には、乾ききらない涙の跡が残っている。
 それでも彼女は、いつもの笑みを無理やり貼りつけた。

「だから、見下したのですわ。冷たくしたのですわ。
 ――悪人みたいに振る舞えば、嫌われても平気だと思えるから。
 最初からそういう人間だって、自分に言い聞かせられるから」

(そんな理由……)

「笑わないでくださいませ。わたくしにとっては……死ぬほど、真剣でしたの」

 その一言で、私はようやく分かった。
 ミレイは“強い”のではない。――“強いふり”が、上手かっただけだ。

(……実はさ、私。ミレイのこと、苦手だった)

 言ってしまった思考に、胸の奥がきゅっと縮む。

(勝手に嫉妬して、私を見下してるんだって決めつけて……嫌われてるんだろうなって思って。
 これ以上嫌われたくなくて、関わらないようにしてた。……ごめん。
 似た者同士だったんだね。……私たち)

 ミレイは目を見開き、次の瞬間――ぷい、と顔を逸らした。

「……謝罪は要りませんわ。どうせ、わたくしは……可愛げなど、ありませんもの」

(可愛いよ)

 ミレイが、固まった。

「……い、今、何と?」

(可愛い。ミレイは可愛い。昔も今も、これから先もずっと)

 胸の内側で言い切ると、ミレイの耳まで赤くなった。

「な……なな、何を言っておりますの! 蛙のくせに!」

(な、なにをお!? 蛙のくせにって言うな!)

「言いますわ! 言ってやりますわ! 蛙のくせに、わたくしを……っ」

 怒鳴りかけて、声が震えた。
 ミレイは唇を噛み、もう一度涙を拭う。

「……だから、明日も明後日も、その次も。わたくしは文献を漁りますの。呪いを解く方法を探しますわ。……見つけますの」

(ミレイ)

「何ですの」

(……ありがとう)

 ミレイは、顔を背けたまま、ちいさく鼻を鳴らした。

「当然ですわ。……お姉さまは、わたくしのものですもの」

(え?)

「聞き間違いですわ!」

 バン、と本を閉じる音が大きく響いた。
 そしてミレイは、震える手でランプの火を少し弱めた。

「寝てくださいまし。……明日から、準備を始めますわ」

(準備?)

 ミレイは、机の上の紙片の一枚を、指で押さえる。
 そこには古い文字で――“王の御前で真実を照らす”と記されていた。

「一週間後の舞踏会ですわ」

(……行くの? 怖い……やだ……)

「怖くても、行きますの。あなたは逃げ癖がある。だから、わたくしが無理やり連れて行きますわ」

 ミレイは近づき、私の頭――こめかみのあたりに、指先をそっと触れた。

「……大丈夫。わたくしが、守りますわ」

 その触れ方が、あまりに優しくて。
 私は布の中で、ただ目を閉じた。

 *

 それから数日。
 私は“ミレイの部屋の住人”になった。

 昼はカーテンの奥。夜はランプの灯り。
 ミレイが学びに行く間、私は鉢植えの影に身を隠した。窓の外の空を見た。庭の鳥を眺めた。
 蛙の目は、近くのものをやけに鮮明に映す。葉の筋。机の傷。インクの匂い。
 そんな些細なものが、妙に胸に刺さった。

 そして毎晩、ミレイは“残飯”を運んできた。
 残飯と言いながら、いつも温かい。いつも香草が添えられている。いつも私の喉を通りやすい。

 私は知っていた。
 彼女が食卓で父と母の隣に座り、完璧な笑みで賞賛を受けながら――その裏で、皿の端を少しずつ取り分けていることを。
 見えるから。ミレイが見せてしまうから。

(……ミレイ、無理しないでよ)

「うるさいですわね。あなたが太れば、わたくしの手間が減る。それでいいのですわ」

(意味が……)

「意味などなくていいのですわ」

 そう言い切るくせに、ミレイは私の寝床の布を毎日交換した。

 そして舞踏会の前夜。
 私は眠れずに目を開き、机へ視線を向けた。

 ミレイが、また文献の山に埋もれている。
 目の下に薄い影。指先はインクで黒い。ページをめくる音だけが続く。

(ミレイ、もう……)

 思った瞬間、ミレイの肩が揺れ、顔を上げる。
 そして、わざとらしく、嫌味たらしく笑った。

「何ですの。まさか心配しているの? お姉さまのくせに」

(……してるよ。もちろん)

「……ばか」

 小さく言った。

 ミレイは、机の端の紙片を指で押さえた。
 そこには“解除の条件”が書かれている――私はその文字を、蛙の目で読んでしまった。

(……ねえこれ)

 視線が、彼女の唇へ向いてしまう。

 ミレイが、真っ赤になった。

「見ないでくださいませ!!!!」

(え!? いや、ごめん)

「謝っても無駄ですわ! わたくしだって……っ」

 言葉が途切れ、ミレイは顔を背けた。

「……言えるわけ、ないでしょう」

(……)

「……寝なさいませ。明日は、完璧にして差し上げますわ」

 ミレイは乱暴に紙片を引き出しに押し込み、鍵をかけた。
 その仕草が、必死で。
 私はそれ以上、何も言えなかった。

 *

 舞踏会の日、王宮は金色に輝いていた。

 シャンデリアの光が床に星を散らし、香水と花の匂いが混ざり合う。笑い声、グラスの触れ合う音、弦楽器の旋律――すべてが“上等”で、だからこそ冷たい。

 ミレイは淡い色のドレスに身を包み、銀髪を丁寧にまとめていた。
 私は刺繍の袋の中。彼女の腕の中にいる。

 すれ違う貴族たちは微笑み、視線はミレイの瞳の色に吸い寄せられる。
 羨望、嫉妬、好奇心――全部が混ざって、肌がひりつく。

(ミレイ、本当に大丈夫?)

「ええ。わたくしが大丈夫と言ったら、大丈夫ですわ」

 胸の内側に落ちる声は、強くて冷たい。
 でも、その強さが――私を支えている。

 玉座の前。
 王が座っている。

 視線は淡々としていて、感情がない。人を値踏みする目。
 その隣に、元婚約者がいる。取り繕った笑顔。自信満々の姿勢。
 あの日の“面倒くさそうな溜息”が、まだ彼の影に残っている。

 ミレイは一歩前に出た。
 会場がざわめく。彼女が公の場で声を上げること自体、稀だ。

「陛下。国のために、ご報告がございます」

 王が頷く。
 ミレイは扇を開く――ふりをして、指を鳴らした。

 空中に、巨大な光の幕が広がる。

 次々と映し出されるのは――賄賂、横領、密輸、脅迫。裏で人を踏みつけにする言葉。嘲笑。悪意。
 そして、元婚約者の下卑た笑い。
 同じ場所で何度も繰り返された、口止め。脅し。

 会場の空気が凍る。
 甘い音を立てていたグラスが、急に重たく見えた。

「な、なにを……! こんなのでたらめだ!」

 元婚約者が叫ぶ。
 だが映像は止まらない。目撃してしまった者たちの顔色が変わる。貴族たちが息を呑む。
 中には、汗を拭う者もいる。――映像の中に、自分がいるからだ。

 ミレイは、可愛らしく首を傾げた。
 その笑みは、完全に悪役令嬢のそれだった。

「でたらめではございません。わたくしの目が……この千里眼が見たものですわ。……そして、この方は婚約を一方的に破談にし、口封じに呪術を用いました」

 ざわめきが一段深くなる。

 ミレイは袋の口をそっと開き、私を掌に移した。
 私は王の前に差し出される。

 視線が針みたいに刺さる。
 喉が鳴らない。声が出ない。逃げられない。

「この蛙が――わたくしの姉ですの」

 誰も理解できない沈黙。
 しかし王は眉ひとつ動かさない。視線だけが、静かに私たちを量る。
 値踏み。

 ミレイは、私を見下ろした。
 二つの色の瞳が、柔らかく細まる。
 けれど、その直後、彼女はわざと冷たい声を作った。

「……お姉さま。覚悟してくださいまし。わたくし、これから恥ずかしいことをしますの」

(ミレイ、まさか――)

「黙りなさいませ。……あなたは逃げるから、言わないと決めていたのですわ」

 そしてミレイは、ほんの一瞬だけ目を閉じて。

 私のこめかみに、そっと唇を落とした。

 熱が走った。

 世界が歪み、骨が戻り、指が伸び、視界が広がる。肺が膨らみ、息が入る。
 耳が音を拾い、喉が震え――

「……っ、は……っ!」

 声が出た。

 会場が揺れる。
 ミレイの掌の上にいたのは蛙ではない。元の姿に戻った私だった。

 銀髪が肩に落ちる。
 同じ色の髪が、隣で揺れる。ミレイの瞳だけが、相変わらず夜灯りを受けて異なる輝きを帯びていた。

 誰かが息を呑み、誰かが目を見開いた。
 しかしミレイは、堂々と前を向いた。

「……この呪いは、こうして解けますの」

 それだけ言って、一歩も引かなかった。

 王の目が、わずかに細まる。
 そこに宿ったのは驚きではない。興味だ。

 そして――元婚約者の顔が、憎悪で歪んだ。

「ふざけるなぁぁぁ!!」

 彼は近くの給仕からナイフを奪い、突進してきた。

 衛兵は遠い。
 誰も動けない。音楽が止まり、悲鳴が上がる。
 床に散った花びらを踏み潰しながら、刃が一直線にこちらへ伸びる。

 ミレイが息を呑んだ。額に汗が滲む。
 私は反射的に彼女を引き寄せ、背中へ回した。

「ミレイ、下がって」

「お姉さま――!」

 刃が迫る。避けられない――はずだった。

 私の脚が床を蹴る。
 貴族の舞踏会で許されない動き。けれど身体が覚えていた。
 私は昔から、殴り方だけは知っていた。
 怒りではなく、生き残るために。

 ナイフが宙を舞った。
 私の蹴り上げが刃を弾き飛ばしたのだ。

 元婚約者の目が見開かれる。理解できない顔。
 私はその顔面に、迷いなく拳を叩き込んだ。

 ――鈍い音。
 身体が吹っ飛び、壁に叩きつけられ、崩れ落ちる。
 男の口から、情けない息が漏れる。二度と立てない。

 会場が凍りつく。

 私は息を吐いて、震える声で言った。

「……破談にされたことも、蛙にされたことも、今はどうでもいい」

 ミレイが目を見開く。
 私は続けた。

「そのおかげで、ミレイと話せた。だから――」

 倒れた男を見下ろし、声を冷やす。

「でも」

 視線を上げ、会場に響かせた。

「ミレイに手を出したら、絶対に許さない」

 ミレイの“声”が、胸の奥に落ちてくる。

「……お姉さま、さいっこうですわ……!」

 涙声なのに、どこか誇らしそうで。
 私は振り返り、ミレイの手を握った。彼女の指は小さく震えている。
 その震えが、私の怒りを少しずつ冷ましていく。

 遅れて衛兵が駆け込み、倒れた男を取り押さえる。
 同時に、会場のあちこちから呻き声が上がった。――映像で暴かれた者たちが、逃げるタイミングを失ったのだ。

 王がゆっくり立ち上がる。
 会場が一斉に膝を折る中、王だけが私たちを見た。

「――その目。……そして、その身体能力……」

 淡々とした声だった。
 だがその淡々とした響きが、逆に場を鎮めた。

「二人を王城に迎える。必要な保護は与える。これは王直々の命である」

 ざわめきが、今度は別の色を帯びる。
 羨望。恐れ。嫉妬。
 私はその全部が嫌で、ミレイの手だけを握りしめた。

 ミレイは一歩前に出て、可愛らしくも完璧に礼をした。
 そして、悪役令嬢の笑みで言う。

「ありがたきお言葉ですわ、陛下。ただし――わたくしは、お姉さまを傷つける者を許しません」

 王の眉がわずかに動く。

「よい」

 返事は短い。
 短いのに、空気が決まる。

 ミレイは、私の手をぎゅっと握り直した。
 その力は、宣言だった。

 *

 舞踏会が終わったあと、私たちは王宮の一角――小さな控え室へ通された。

 騒ぎの中心にいたのに、扉の向こうは不思議なほど静かだった。
 遠くで衛兵の足音と、誰かが泣く声がする。けれどここには、ミレイの呼吸だけがある。

 机の上には、温かな茶と、焼き菓子。
 甘い香りがするのに、私はすぐに口をつけられない。
 自分の手が、まだ震えている。

「……手、痛くない?」

 私が言うと、ミレイはぱちりと瞬きをする。
 そして、いつもの嫌味たらしい笑みを作ってみせた。

「お姉さまのゴリラのような握力で握りつぶされそう。――でもお姉さまが握ってくださるなら、むしろ嬉しいですわ」

「……ばか」

「褒め言葉ですのよ?」

「違う」

 言いながら、私はその手を離せなかった。
 離したら、また奪われる気がしたから。

 ミレイはカップに湯を注ぎ直し、少しだけ息を吹きかけてから、私の前へ差し出す。
 その所作が、あまりにも丁寧で、育てられた年月が見える。
 同時に、その丁寧さが、彼女自身を縛ってきたのだとも分かる。

「お姉さま」

 胸の内側に、声が落ちる。
 舞踏会の喧騒ではなく、今の静けさの中で聞くミレイの声は、さらに深く沁みた。

「……あのとき、噴水の前で。お姉さまの目が、光を失っていくのが見えましたの」

 私は息を止めた。

「わたくし、見ておりますのに……助けられないのが、いちばん怖かったですわ。目は見えるのに、手が届かない。……そんなの、嫌でした」

 ミレイの睫毛がまた濡れる。
 彼女は笑って誤魔化そうとするけれど、上手くいかない。

「……だから、今日は、よかったですわ」

 私はカップを両手で包んだ。
 温かい。
 温かさが、指先から体の奥へ染み込んで、ようやく“生きている”感覚が戻ってきた。

「ミレイ」

「はい、お姉さま」

「……あの紙。昨日見ちゃった」

 ミレイが、固まった。

「……」

「キスのこと、言わなかったの」

 ミレイの耳まで真っ赤になった。

「言えるわけないでしょう!? わたくしだって……っ」

 怒鳴りかけて、声が震えて、最後は小さくなる。

「……恥ずかしかったのですわ」

 私は、その顔を見て。
 胸の奥が、ぎゅっと締まった。

「……私は嬉しかったなあ。蛙のまま、ミレイに触れられるの」

「――ばか」

 ミレイが、笑った。
 涙のまま、笑った。

 控え室の扉が開き、王が入ってくる。
 随行の者たちが後ろに控える。
 王は椅子に腰を下ろし、淡々と私たちを見た。

「姉」

 短く呼びかける。

「お前は、格闘を学んだか」

「……学んでません」

「ならば、なぜあの蹴りが出る」

 私は一瞬だけ言葉に詰まる。
 隠してきた。褒められないと知っていた。
 でも今は、隠したままだと、ミレイがまた何かを背負う。

「……何もないからです」

 私はゆっくり言った。

「私には、頭も、魔術も、礼儀も、皆が欲しがるものがありませんでした。だから、せめて……自分の身だけは、自分で守れるように……誰にも迷惑はかけないようにと思って」

 王は瞬きをしない。
 重い沈黙が落ちる。
 そして、王はひとつ頷いた。

「よい。守れる者は、価値がある」

 価値。
 その言葉に胸がひくりと痛む。
 でもミレイの手が、私の手を握り直した。

 王はミレイへ視線を移す。

「千里の目。――それを見せる術もあるな」

「ございますわ」

 ミレイは背筋を伸ばし、悪役令嬢の笑みを崩さず答える。
 けれどその目は揺らがない。王の“値踏み”を、真正面から睨み返している。

「二人を王城に迎えると言った。撤回はせぬ」

 王は淡々と告げる。

「だが条件がある。お前たちは、互いを盾にするな。互いを武器にするな。……王城は、守るが、縛りもする場所だ」

 ミレイが先に頷く。

「承知しておりますわ。ただし――お姉さまを壊す鎖なら、わたくしが噛み砕きますの」

 王の眉がわずかに動いた。
 しかし否定はしない。

「……よい」

 王が立ち上がり、去り際に短く言う。

「明日から、お前たちは王城の客ではない。――王国の目と、王国の拳だ」

 扉が閉まる。

 残ったのは、私とミレイと、温かな茶の匂い。

 ミレイが、胸の内に声を落とす。

「お姉さま。これからは、わたくしが守ります」

 私は握り返す。

「違う。今度は一緒に守る」

 ミレイが少し背伸びをするように、私のこめかみに額を寄せた。
 体温が伝わる。そこに言葉はいらなかった。

「……はい。では、ずっと一緒ですわ。お姉さま」

 王宮の灯りは眩しくて、怖いほどだ。
 でも――噴水の冷たい水音はもう遠い。

 私は、もう一人じゃない。

 ミレイが、いつものように嫌味たらしく笑って言った。

「お姉さま。まずは温かいお茶を飲みなさいませ。……その後、わたくし、たっぷり苛めて差し上げますわ。今までの分も」

「それ、苛めじゃなくて世話じゃん」

「うるさいですの!」

 怒鳴る声が可愛くて、私は思わず笑ってしまった。

 ミレイはぷい、と顔を背けたまま。
 それでも、手だけは離さなかった。
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