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婚約破棄された私はカエルにされましたが、悪役令嬢な妹が拾って舞踏会で全部ひっくり返します
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噴水の水音は、いつだって同じ――のはずだった。
石に当たり、白い泡を散らし、夜の広場に薄い霧をつくる。けれど今の私には、その音がやけに冷たく、鋭く聞こえる。水が落ちるたび、胸の奥の何かが削れていくみたいだ。
噴水の縁。苔の匂い。湿った石の冷たさ。
そこにいるのは、私――ではない。
小さな緑の身体。短い脚。大きな目。
喉は鳴くためにあるのに、空気を震わせることさえできない。声が出ない。言葉が出ない。叫びも、泣き声も、助けを呼ぶ音も。
私は蛙だった。
(……どうして、こうなったんだろう)
思い返せば、最初の亀裂はずっと前から入っていたのだ。
私は、気づかないふりをしていただけで。
婚約が決まった日の、父の顔。母の声。
「よかったわね」「役に立つのよ」
それは祝福ではなく、手放しの宣告に近かった。私は笑って頷いた。そうするのが、いちばん波風が立たないと知っていたから。
――そして、決定的な夜。
庭園の回廊。月の光。花の香り。
薄い壁の向こうで聞こえた、甘ったるい笑い声。
私の名ではない呼び方で、誰かが彼の袖を引いていた。
「……なにを、しているの」
自分の声が、妙に遠かった。
返ってきたのは、面倒くさそうな溜息と、すぐに作り直された穏やかな笑み。
「誤解だよ。君は――」
「誤解……私の婚約者が、私のいないところで逢引しているのが?」
彼は一瞬だけ眉をひそめ、それから、逆に笑った。
まるで私のほうが間違っているみたいに。
「君は、いろいろと足りないからね。黙っていればよかったのに」
その言葉が、胸の奥を冷たく撫でた。
私はそこで初めて、彼が“私”を見ていないことを理解した。見ているのは家の価値と、表向きの体裁だけ。
だから――私が怒り、泣き、訴えるのが、彼にとってはただの騒音だった。
「破談にしよう」
軽く言った。
重たいものを床に置くみたいに。
「……そんな勝手な!?」
「勝手じゃない。君の能力が低いのが原因さ。君がもっと優秀で、可愛げがあって、思慮深ければ、僕だって浮気なんてことしなかったさ。というか……君は、言いふらしそうだな」
彼の指が、すっと私の額の近くへ伸びた。
不思議と、怖いと思うより先に、嫌な予感がした。
次の瞬間、空気が、ぱちん、と弾けた。
視界が落ちる。
体が縮む。
息が詰まって、声が潰れて――
暗闇の中で、私は、鳴けない喉を震わせた。
それでも言葉にならない。
(……助けて)
誰に?
父に? 母に?
――ミレイに?
思った瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
けれど、熱さはすぐに冷たさに押しつぶされる。
私は蛙だ。
誰も、気づかない。
*
蛙になって、最初の一日は、ただ“落ちる”だけだった。
屋敷の廊下は広く、床は滑る。高い天井の灯りは眩しく、空気は乾いているのに、私の皮膚だけがひどく敏感で、ひとつの風にさえ怯えた。
跳ねれば跳ねるほど、世界は大きく遠くなる。
声が出ない。呼べない。
足音が近づいてきても、私はただ柱の影に隠れるしかなかった。
昼。
使用人が水差しを運ぶ。花瓶を替える。銀器を磨く。
彼らの手は忙しく、目は忙しく、私に止まらない。止まる理由がない。
私は影の中で、ただ見ている。
夕方。
食堂から香りが流れてきた。焼いた肉。甘い果物。温かいパン。
それを嗅いだ瞬間、胃がぎゅっと縮んだ。――蛙の胃なのに、私の心が空腹を知っている。
夜。
私は門のほうへ跳ねた。
帰りたい、帰れば、誰かが、と思って。
でも門番の犬が吠えた。
靴の音が近づき、棍棒が地面を叩く音がした。
私は反射的に逃げて、門扉の隙間から外へ転がり出た。
外の空気は冷たい。
夜の匂いは、土と雨と、人の汗だ。
――私は、屋敷から放り出された。
翌日も、その翌日も。
私は屋敷の裏口に戻った。石垣の陰から覗いた。窓の灯りを見上げた。
けれど、誰も私を呼ばない。
私の名が屋敷で発されることもない。
(……いなくなっても、困らないんだ)
理解すると、胸が痛い。
痛いのに、涙が出ない。
その代わり、夜の冷えが骨に染みてくる。
雨の日は最悪だった。
水たまりに落ちれば溺れそうになる。風に吹かれれば皮膚が張りつく。
塀の下で丸くなって、朝が来るのを待った。
朝が来ても、救いは来ないのに。
それでも私は、生き残った。
噴水のある広場に辿り着いたのは、そんな日々の末だった。
ここなら、人がいる。
ここなら、何かが起きるかもしれない。
――そう思った自分が、馬鹿みたいだ。
(……帰りたいよ)
思った瞬間、笑い声が降ってきた。
酒場の戸が開く音。酔った男の足取り。
二人組の若い男が、噴水へふらついてくる。視線が、私を見つけて歪む。
「お、蛙。踏んだら運がつくってやつだろ?」
「逆じゃね? まあどっちでもいいだろ。跳ねるとこ見てえ」
靴先が近づき、影が落ちる。
逃げようと脚を動かす。けれど石は滑り、身体は言うことを聞かない。軽いはずの身体が、恐怖だけで沈んでいく。
「おい、噴水に落とすか?」
「いいね。変な音出すかな」
私は跳ねた。必死に跳ねた。
でも、跳んだ先にも影が落ちる。逃げ道が塞がれる。石畳の冷たさが腹に刺さる。
――次の瞬間。
「……下がりなさい」
柔らかいのに、刃のような声だった。
怒鳴っていないのに、空気が一段冷える。男たちが反射的に振り向く。
そこに立っていたのは、一人の少女――いや、もう少女と呼ぶには背が高い。
月光を溶かしたような銀髪が、外套の隙間から滑り落ちている。私より少し背が高いはずなのに、今はずっと遠い場所に立っているみたいだった。
そして瞳。
右は深い青。左は琥珀に近い金。広場の灯りを受けて、二つの色が静かに揺れた。
ミレイ。
私の妹。
「なんだよ、お嬢ちゃん」
「ただの蛙だろ?」と男が笑う。
ミレイは、薄く、嫌味たらしく口角を上げた。
それは可愛らしい笑みではない。――上から見下ろし、相手の価値を量る、貴族の笑みだ。
「“ただの蛙”に、あなた方のような下卑た手が触れるのが不快ですの」
「は?」
「理解できないのかしら。……まあ、仕方ございませんわね。頭が弱いのは罪ではないもの」
「てめ――」
男が一歩踏み出す。
ミレイは指先をこめかみに添え、首を傾げた。
「噴水前の石畳。苔が生えて滑りやすい。酔っている。靴底が磨り減っている。――転ぶ条件が揃っておりますわ」
ぱちん、と空気が弾けるような音がして、男たちの足元に淡い光の輪が広がる。
「うわっ!」
「なんだよこれ!」
二人は派手に尻もちをついた。転んだだけ、のはずなのに、転ばされたと理解する程度には綺麗すぎるタイミングだった。
つま先が空を切り、肩が噴水の縁にぶつかって、水飛沫が上がる。
ミレイは扇でも持っていそうな仕草で、そっと唇に指を添える。
「まあまあ。石畳が悪いのですわ。――ああ、でも。石畳に謝罪なさったら?」
「ふざけんな!」
「変な嬢ちゃんだ……!」
男たちは悪態をつきながら、酒場のほうへ逃げていった。
広場に、噴水の音だけが戻る。
ミレイはゆっくり噴水の縁に膝をつき、私を見下ろした。
近くで見ると、彼女の手は震えている。睫毛が濡れている。唇を結び、泣くのを我慢している顔――なのに、それを絶対に表に出さない顔。
そして、わざとらしく鼻で笑った。
「……本当に、みすぼらしいですわね。お姉さま」
その声は耳からではなかった。
胸の内側に、直接落ちてきた。
(……え?)
驚いた思考を浮かべた瞬間、ミレイの“声”がすぐ返ってくる。
「はい。わたくしの魔術で、お姉さまの心の声を拾っておりますの。――今だけ、繋ぎます」
(ミレイ……私……)
「黙ってくださいまし。今は“蛙”ですわ。目立ちますもの」
冷たい言い方なのに、視線が優しく揺れた。
ミレイは外套の内側から真っ白な布を取り出し、まるで汚物に触れるみたいに指先だけで私を摘まみ上げた。
「……臭い。汚い。湿っている。最悪ですわ」
(……ごめん)
「謝罪など不要ですの。――わたくしが連れ帰って、たっぷり苛めて差し上げますわ」
そう言って、彼女は私を布で包んだ。
乱暴な言葉とは裏腹に、包み方は丁寧で、熱を逃がさないように慎重だった。
私は布の中で小さく縮こまりながら、胸の奥で――安心してしまう自分が怖かった。
*
屋敷へ戻る道のりは、息が詰まるほど静かだった。
ミレイは大通りを避け、裏路地を選ぶ。灯りの少ない路地でさえ、彼女の足取りは迷わない。
時折、彼女はふっと視線を空へ向ける。何かを見ている――遠い場所を、都合よく覗き込むみたいに。
(見られてる……?)
「ええ。門の様子。使用人の動線。父と母の居場所。――全部ですわ」
(怖い)
「怖いのは、悪いことではございません。怖いのに止まるのが、悪いのですわ」
胸の内側に落ちる声は、いつものミレイよりずっと大人びていた。
その声の背中に、私は知らない夜を見た気がする。
裏手の小門。鍵の位置。見張りの癖。
ミレイはすべて知っていた。まるでこの屋敷の“目”になっているみたいに。
小門を抜け、薄暗い廊下へ入ると、空気が乾いて私の皮膚がひりついた。
ミレイはわずかに眉を寄せ、布の中の私を、もう一度抱き直す。
「……耐えなさい。すぐにお風呂へ入れて差し上げますわ」
(苛めるんじゃ……)
「苛めますわ。――いわゆる水責め」
その言い回しが、妙におかしくて。
笑えないのに、胸の奥がほんの少しだけ軽くなる。
ミレイの部屋は、灯りが暖かかった。
薬草の匂い、磨かれた木の床、刺繍の入ったクッション。窓辺には小さな鉢植え。几帳面に揃えられた机の上には、分厚い本が積まれている。
そして――部屋の隅に、湯気の立つ小さな洗面鉢。
「さあ。……落としますわよ」
(や、やめ……)
布が解かれ、私は洗面鉢のぬるい湯の上に落ちた――と思った瞬間、ミレイの指が素早く支えた。
ぬるい湯が皮膚に染み込み、震えが少し止まる。
「……ほら。震えているじゃありませんの。情けない」
(寒いよお)
「当然ですわ。あなた、今まで何日外で過ごしたの?」
(……一週間)
ミレイの指が、ぴくりと止まった。
すぐに笑みを作る。いつもの、嫌味たらしい笑み。
「一週間? ふうん。……屋敷の者たちは、よほど優秀なのでしょうね。――家の中から人が消えても気づかないなんて」
(皮肉やめて!)
「皮肉ではございません。事実の確認ですわ」
そう言って、ミレイは私を湯の中でそっと洗った。
言葉は冷たいのに、手つきは熱がこもっている。爪が皮膚を傷つけないよう、石鹸の泡を使わず、ぬるい湯と布で汚れだけを落としていく。
(恥ずかしい)
「恥ずかしい顔もできないくせに」
(言うなバカ)
「言って差し上げないと、あなたは何も伝えませんもの」
ミレイは私を布で包み、ぽん、とクッションの上へ置いた。
その置き方も、乱暴に見えて――角度が優しかった。
「そこで大人しくしていなさいませ。……わたくし、残飯を持って参りますわ」
(残飯って……)
「食堂のものですもの。わたくしの口に入る前なら残飯で、あなたの口に入るなら特別食ですわ」
(意味がわからない)
「あなたは昔からそうでしたわね。理解が遅い」
(遅くないもん。酷い言いぐさだ……)
ぷい、と顔を背けるように言って、ミレイは部屋を出た。
――しばらくして。
扉が静かに開き、ミレイが戻ってきた。
手には小さな皿。温かい白身と香草、柔らかい果肉、それから少しだけ甘いパンの端。
「……感謝なさいませ」
(ご、ごご、ごはんだ! あ、あああああ、ありがとう!)
「声に出せないのが不便ですわね。――まあいい。あなたが生きているだけで、今夜は十分ですの」
その“十分”が、胸に刺さった。
私は本能に従って口を動かす。人間の舌じゃない感覚に、涙の代わりに胸が熱くなる。
ミレイは窓際へ行き、カーテンの隙間から外を見た。
その横顔は、完璧な貴族令嬢――なのに、肩が少しだけ落ちている。
(ねえミレイ……)
「……何ですの」
(どうして、見つけられたの?)
ミレイは、すっと口角を上げた。
いつもの悪役令嬢の笑み。
「当然ですわ。わたくしを誰だと思っておりますの? 全てを見通す千里眼のミレイですわよ。
――あなたのような小さなもの、見つけるのは簡単です」
(……嘘だ)
ミレイの背中が、わずかに揺れた。
「嘘ではございません。……ただ」
こめかみに当てた指先が、ほんの少し力を失う。
「見えているのに、届かないのは……腹が立ちますの」
その声が、妙に子どもみたいで。
私は答えようとして、答えられなくて、ただ皿の上の食べ物をかじり続けた。
*
その夜、私は眠った――はずだった。
クッションの温かさと、布の柔らかさと、食べ物が腹に落ちる感覚。
どれも久しぶりで、意識がすとんと沈んだ。
けれど、夜更け。
目が覚めたのは、部屋の灯りが消えていなかったからだ。
ランプの火が、静かに揺れている。
机の上には本が積み上がり、紙片と羽ペン、古い封蝋。
そしてミレイが――外套も脱がず、銀髪を少し乱したまま、ページをめくっていた。
長い睫毛が影を落とし、片方の青い瞳が紙を追う。
もう片方の金の瞳は、まるで別の場所を見ているみたいに遠い。
(……寝てない)
思った瞬間、ミレイの肩がびくりと跳ねた。
「――起きていらしたの?」
(灯りが眩しくて……)
「……あなたの目は、夜でもよく見えるのでしょう? 蛙ですものね。嫌味ですわ」
(嫌味じゃなくて……心配だよ)
その思考が落ちた瞬間、ミレイは一瞬、黙った。
そして、いつもの顔に戻る。
「心配? あなたが? わたくしを?」
(……うん)
「――ふふ」
小さく笑った。
でもそれは、馬鹿にする笑いではなかった。
「お姉さまは、何も持っていないふりが上手ですのね」
(何もないよ)
「そういうところですわ」
ミレイは本を閉じ、机の端に積む。
そこには“呪術解除”の文字。古い宗派の系譜。王家の祝福儀礼。民間のまじない。
紙片には走り書きがぎっしりで、指先がインクで汚れている。
(……私のために?)
「違いますわ」
即答だった。
「蛙が部屋にいるのが不快だから、早く人間に戻して外へ追い出したいだけですの」
(……うそ)
「嘘では――」
言いかけて、ミレイの声が止まった。
こめかみに当てた指が、ふるふると震える。
(ミレイ)
「黙りなさいませ。……わたくしは、いつだって正しいのですわ」
正しい。
その言い方が、急に脆く聞こえた。
(気づいたんだ。私なんて、蛙のほうが似合ってるって)
口に出せない思考が、勝手に零れた。
今まで飲み込んできたものが、胸の内側で溢れた。
(人の姿でも役に立たない。頭もない。魔術もない。礼儀も覚えが悪い。……蛙なら、最初から期待されなくて済む。こっちの姿の方が……蛙としてミレイに飼われる方が私に合ってるんじゃないかって……)
ミレイの瞳が、ゆらりと揺れた。
次の瞬間、彼女の頬を、一筋の雫が伝った。
「……」
泣いている。
さっきまで高圧的だった妹が。
(え!? ごめん、もしかして私なんか酷いこと言っちゃった?)
私は動揺して、身体が跳ねそうになる。クッションの上でぴくぴくと震えるしかない。
ミレイは急いで袖で涙を拭い、顔を背けた。
「……み、見ないでくださいまし」
(だって、泣いてるじゃん)
「泣いておりません。目が乾いただけですわ」
(乾いてるなら涙出ないよ。どうして……)
「……っ、うるさいですの!」
ミレイは立ち上がって、私に背を向けたまま息を吸う。
肩が震えている。
「……お姉さま」
胸の内側に落ちる声が、いつもより小さい。
「わたくし、ずっと……お姉さまと遊びたかったですの」
(……遊ぶ?)
「幼い頃は、遊んでくださったじゃありませんの。わたくしが転んだら手を引いて、泣いたら抱き上げて、夜は本を読んで……」
ミレイの指が机の引き出しを開け、古い栞を取り出した。
使い込まれて、端がほつれている。
「これ。お姉さまがくれたものですわ。……わたくし、ずっと捨てられませんでしたの」
(……もちろん覚えてる。一緒に作ったもんね)
私は思った。
確かに覚えている。
小さなミレイが、私の袖を掴んで離れなかったこと。
あの頃だけ、家が柔らかかったこと。
「……でも、怖かったのですわ」
(怖い?)
「わたくしは、優秀でなければならない――そう言われ続けてきました。
優秀であればあるほど、周りはわたくしを褒めて……そのぶん、お姉さまを――」
言葉が途切れ、ミレイは奥歯を噛みしめた。
「……お姉さまを、“いないもの”にした」
胸の奥へ落ちてきた声が、刃みたいに痛かった。
(そんなの、ミレイが悪いわけじゃ――)
「いいえ。わたくしも、悪かったのですわ」
ミレイは小さく息を吸い、震える唇をきゅっと結ぶ。
「……本当は、お姉さまに話しかけたかった。甘えたかった。
けれど、可愛く頼むなんて――できなくて。
もし一歩でも間違えたら、お姉さまに嫌われるのではないかと……それが、怖かった」
振り返ったミレイの頬には、乾ききらない涙の跡が残っている。
それでも彼女は、いつもの笑みを無理やり貼りつけた。
「だから、見下したのですわ。冷たくしたのですわ。
――悪人みたいに振る舞えば、嫌われても平気だと思えるから。
最初からそういう人間だって、自分に言い聞かせられるから」
(そんな理由……)
「笑わないでくださいませ。わたくしにとっては……死ぬほど、真剣でしたの」
その一言で、私はようやく分かった。
ミレイは“強い”のではない。――“強いふり”が、上手かっただけだ。
(……実はさ、私。ミレイのこと、苦手だった)
言ってしまった思考に、胸の奥がきゅっと縮む。
(勝手に嫉妬して、私を見下してるんだって決めつけて……嫌われてるんだろうなって思って。
これ以上嫌われたくなくて、関わらないようにしてた。……ごめん。
似た者同士だったんだね。……私たち)
ミレイは目を見開き、次の瞬間――ぷい、と顔を逸らした。
「……謝罪は要りませんわ。どうせ、わたくしは……可愛げなど、ありませんもの」
(可愛いよ)
ミレイが、固まった。
「……い、今、何と?」
(可愛い。ミレイは可愛い。昔も今も、これから先もずっと)
胸の内側で言い切ると、ミレイの耳まで赤くなった。
「な……なな、何を言っておりますの! 蛙のくせに!」
(な、なにをお!? 蛙のくせにって言うな!)
「言いますわ! 言ってやりますわ! 蛙のくせに、わたくしを……っ」
怒鳴りかけて、声が震えた。
ミレイは唇を噛み、もう一度涙を拭う。
「……だから、明日も明後日も、その次も。わたくしは文献を漁りますの。呪いを解く方法を探しますわ。……見つけますの」
(ミレイ)
「何ですの」
(……ありがとう)
ミレイは、顔を背けたまま、ちいさく鼻を鳴らした。
「当然ですわ。……お姉さまは、わたくしのものですもの」
(え?)
「聞き間違いですわ!」
バン、と本を閉じる音が大きく響いた。
そしてミレイは、震える手でランプの火を少し弱めた。
「寝てくださいまし。……明日から、準備を始めますわ」
(準備?)
ミレイは、机の上の紙片の一枚を、指で押さえる。
そこには古い文字で――“王の御前で真実を照らす”と記されていた。
「一週間後の舞踏会ですわ」
(……行くの? 怖い……やだ……)
「怖くても、行きますの。あなたは逃げ癖がある。だから、わたくしが無理やり連れて行きますわ」
ミレイは近づき、私の頭――こめかみのあたりに、指先をそっと触れた。
「……大丈夫。わたくしが、守りますわ」
その触れ方が、あまりに優しくて。
私は布の中で、ただ目を閉じた。
*
それから数日。
私は“ミレイの部屋の住人”になった。
昼はカーテンの奥。夜はランプの灯り。
ミレイが学びに行く間、私は鉢植えの影に身を隠した。窓の外の空を見た。庭の鳥を眺めた。
蛙の目は、近くのものをやけに鮮明に映す。葉の筋。机の傷。インクの匂い。
そんな些細なものが、妙に胸に刺さった。
そして毎晩、ミレイは“残飯”を運んできた。
残飯と言いながら、いつも温かい。いつも香草が添えられている。いつも私の喉を通りやすい。
私は知っていた。
彼女が食卓で父と母の隣に座り、完璧な笑みで賞賛を受けながら――その裏で、皿の端を少しずつ取り分けていることを。
見えるから。ミレイが見せてしまうから。
(……ミレイ、無理しないでよ)
「うるさいですわね。あなたが太れば、わたくしの手間が減る。それでいいのですわ」
(意味が……)
「意味などなくていいのですわ」
そう言い切るくせに、ミレイは私の寝床の布を毎日交換した。
そして舞踏会の前夜。
私は眠れずに目を開き、机へ視線を向けた。
ミレイが、また文献の山に埋もれている。
目の下に薄い影。指先はインクで黒い。ページをめくる音だけが続く。
(ミレイ、もう……)
思った瞬間、ミレイの肩が揺れ、顔を上げる。
そして、わざとらしく、嫌味たらしく笑った。
「何ですの。まさか心配しているの? お姉さまのくせに」
(……してるよ。もちろん)
「……ばか」
小さく言った。
ミレイは、机の端の紙片を指で押さえた。
そこには“解除の条件”が書かれている――私はその文字を、蛙の目で読んでしまった。
(……ねえこれ)
視線が、彼女の唇へ向いてしまう。
ミレイが、真っ赤になった。
「見ないでくださいませ!!!!」
(え!? いや、ごめん)
「謝っても無駄ですわ! わたくしだって……っ」
言葉が途切れ、ミレイは顔を背けた。
「……言えるわけ、ないでしょう」
(……)
「……寝なさいませ。明日は、完璧にして差し上げますわ」
ミレイは乱暴に紙片を引き出しに押し込み、鍵をかけた。
その仕草が、必死で。
私はそれ以上、何も言えなかった。
*
舞踏会の日、王宮は金色に輝いていた。
シャンデリアの光が床に星を散らし、香水と花の匂いが混ざり合う。笑い声、グラスの触れ合う音、弦楽器の旋律――すべてが“上等”で、だからこそ冷たい。
ミレイは淡い色のドレスに身を包み、銀髪を丁寧にまとめていた。
私は刺繍の袋の中。彼女の腕の中にいる。
すれ違う貴族たちは微笑み、視線はミレイの瞳の色に吸い寄せられる。
羨望、嫉妬、好奇心――全部が混ざって、肌がひりつく。
(ミレイ、本当に大丈夫?)
「ええ。わたくしが大丈夫と言ったら、大丈夫ですわ」
胸の内側に落ちる声は、強くて冷たい。
でも、その強さが――私を支えている。
玉座の前。
王が座っている。
視線は淡々としていて、感情がない。人を値踏みする目。
その隣に、元婚約者がいる。取り繕った笑顔。自信満々の姿勢。
あの日の“面倒くさそうな溜息”が、まだ彼の影に残っている。
ミレイは一歩前に出た。
会場がざわめく。彼女が公の場で声を上げること自体、稀だ。
「陛下。国のために、ご報告がございます」
王が頷く。
ミレイは扇を開く――ふりをして、指を鳴らした。
空中に、巨大な光の幕が広がる。
次々と映し出されるのは――賄賂、横領、密輸、脅迫。裏で人を踏みつけにする言葉。嘲笑。悪意。
そして、元婚約者の下卑た笑い。
同じ場所で何度も繰り返された、口止め。脅し。
会場の空気が凍る。
甘い音を立てていたグラスが、急に重たく見えた。
「な、なにを……! こんなのでたらめだ!」
元婚約者が叫ぶ。
だが映像は止まらない。目撃してしまった者たちの顔色が変わる。貴族たちが息を呑む。
中には、汗を拭う者もいる。――映像の中に、自分がいるからだ。
ミレイは、可愛らしく首を傾げた。
その笑みは、完全に悪役令嬢のそれだった。
「でたらめではございません。わたくしの目が……この千里眼が見たものですわ。……そして、この方は婚約を一方的に破談にし、口封じに呪術を用いました」
ざわめきが一段深くなる。
ミレイは袋の口をそっと開き、私を掌に移した。
私は王の前に差し出される。
視線が針みたいに刺さる。
喉が鳴らない。声が出ない。逃げられない。
「この蛙が――わたくしの姉ですの」
誰も理解できない沈黙。
しかし王は眉ひとつ動かさない。視線だけが、静かに私たちを量る。
値踏み。
ミレイは、私を見下ろした。
二つの色の瞳が、柔らかく細まる。
けれど、その直後、彼女はわざと冷たい声を作った。
「……お姉さま。覚悟してくださいまし。わたくし、これから恥ずかしいことをしますの」
(ミレイ、まさか――)
「黙りなさいませ。……あなたは逃げるから、言わないと決めていたのですわ」
そしてミレイは、ほんの一瞬だけ目を閉じて。
私のこめかみに、そっと唇を落とした。
熱が走った。
世界が歪み、骨が戻り、指が伸び、視界が広がる。肺が膨らみ、息が入る。
耳が音を拾い、喉が震え――
「……っ、は……っ!」
声が出た。
会場が揺れる。
ミレイの掌の上にいたのは蛙ではない。元の姿に戻った私だった。
銀髪が肩に落ちる。
同じ色の髪が、隣で揺れる。ミレイの瞳だけが、相変わらず夜灯りを受けて異なる輝きを帯びていた。
誰かが息を呑み、誰かが目を見開いた。
しかしミレイは、堂々と前を向いた。
「……この呪いは、こうして解けますの」
それだけ言って、一歩も引かなかった。
王の目が、わずかに細まる。
そこに宿ったのは驚きではない。興味だ。
そして――元婚約者の顔が、憎悪で歪んだ。
「ふざけるなぁぁぁ!!」
彼は近くの給仕からナイフを奪い、突進してきた。
衛兵は遠い。
誰も動けない。音楽が止まり、悲鳴が上がる。
床に散った花びらを踏み潰しながら、刃が一直線にこちらへ伸びる。
ミレイが息を呑んだ。額に汗が滲む。
私は反射的に彼女を引き寄せ、背中へ回した。
「ミレイ、下がって」
「お姉さま――!」
刃が迫る。避けられない――はずだった。
私の脚が床を蹴る。
貴族の舞踏会で許されない動き。けれど身体が覚えていた。
私は昔から、殴り方だけは知っていた。
怒りではなく、生き残るために。
ナイフが宙を舞った。
私の蹴り上げが刃を弾き飛ばしたのだ。
元婚約者の目が見開かれる。理解できない顔。
私はその顔面に、迷いなく拳を叩き込んだ。
――鈍い音。
身体が吹っ飛び、壁に叩きつけられ、崩れ落ちる。
男の口から、情けない息が漏れる。二度と立てない。
会場が凍りつく。
私は息を吐いて、震える声で言った。
「……破談にされたことも、蛙にされたことも、今はどうでもいい」
ミレイが目を見開く。
私は続けた。
「そのおかげで、ミレイと話せた。だから――」
倒れた男を見下ろし、声を冷やす。
「でも」
視線を上げ、会場に響かせた。
「ミレイに手を出したら、絶対に許さない」
ミレイの“声”が、胸の奥に落ちてくる。
「……お姉さま、さいっこうですわ……!」
涙声なのに、どこか誇らしそうで。
私は振り返り、ミレイの手を握った。彼女の指は小さく震えている。
その震えが、私の怒りを少しずつ冷ましていく。
遅れて衛兵が駆け込み、倒れた男を取り押さえる。
同時に、会場のあちこちから呻き声が上がった。――映像で暴かれた者たちが、逃げるタイミングを失ったのだ。
王がゆっくり立ち上がる。
会場が一斉に膝を折る中、王だけが私たちを見た。
「――その目。……そして、その身体能力……」
淡々とした声だった。
だがその淡々とした響きが、逆に場を鎮めた。
「二人を王城に迎える。必要な保護は与える。これは王直々の命である」
ざわめきが、今度は別の色を帯びる。
羨望。恐れ。嫉妬。
私はその全部が嫌で、ミレイの手だけを握りしめた。
ミレイは一歩前に出て、可愛らしくも完璧に礼をした。
そして、悪役令嬢の笑みで言う。
「ありがたきお言葉ですわ、陛下。ただし――わたくしは、お姉さまを傷つける者を許しません」
王の眉がわずかに動く。
「よい」
返事は短い。
短いのに、空気が決まる。
ミレイは、私の手をぎゅっと握り直した。
その力は、宣言だった。
*
舞踏会が終わったあと、私たちは王宮の一角――小さな控え室へ通された。
騒ぎの中心にいたのに、扉の向こうは不思議なほど静かだった。
遠くで衛兵の足音と、誰かが泣く声がする。けれどここには、ミレイの呼吸だけがある。
机の上には、温かな茶と、焼き菓子。
甘い香りがするのに、私はすぐに口をつけられない。
自分の手が、まだ震えている。
「……手、痛くない?」
私が言うと、ミレイはぱちりと瞬きをする。
そして、いつもの嫌味たらしい笑みを作ってみせた。
「お姉さまのゴリラのような握力で握りつぶされそう。――でもお姉さまが握ってくださるなら、むしろ嬉しいですわ」
「……ばか」
「褒め言葉ですのよ?」
「違う」
言いながら、私はその手を離せなかった。
離したら、また奪われる気がしたから。
ミレイはカップに湯を注ぎ直し、少しだけ息を吹きかけてから、私の前へ差し出す。
その所作が、あまりにも丁寧で、育てられた年月が見える。
同時に、その丁寧さが、彼女自身を縛ってきたのだとも分かる。
「お姉さま」
胸の内側に、声が落ちる。
舞踏会の喧騒ではなく、今の静けさの中で聞くミレイの声は、さらに深く沁みた。
「……あのとき、噴水の前で。お姉さまの目が、光を失っていくのが見えましたの」
私は息を止めた。
「わたくし、見ておりますのに……助けられないのが、いちばん怖かったですわ。目は見えるのに、手が届かない。……そんなの、嫌でした」
ミレイの睫毛がまた濡れる。
彼女は笑って誤魔化そうとするけれど、上手くいかない。
「……だから、今日は、よかったですわ」
私はカップを両手で包んだ。
温かい。
温かさが、指先から体の奥へ染み込んで、ようやく“生きている”感覚が戻ってきた。
「ミレイ」
「はい、お姉さま」
「……あの紙。昨日見ちゃった」
ミレイが、固まった。
「……」
「キスのこと、言わなかったの」
ミレイの耳まで真っ赤になった。
「言えるわけないでしょう!? わたくしだって……っ」
怒鳴りかけて、声が震えて、最後は小さくなる。
「……恥ずかしかったのですわ」
私は、その顔を見て。
胸の奥が、ぎゅっと締まった。
「……私は嬉しかったなあ。蛙のまま、ミレイに触れられるの」
「――ばか」
ミレイが、笑った。
涙のまま、笑った。
控え室の扉が開き、王が入ってくる。
随行の者たちが後ろに控える。
王は椅子に腰を下ろし、淡々と私たちを見た。
「姉」
短く呼びかける。
「お前は、格闘を学んだか」
「……学んでません」
「ならば、なぜあの蹴りが出る」
私は一瞬だけ言葉に詰まる。
隠してきた。褒められないと知っていた。
でも今は、隠したままだと、ミレイがまた何かを背負う。
「……何もないからです」
私はゆっくり言った。
「私には、頭も、魔術も、礼儀も、皆が欲しがるものがありませんでした。だから、せめて……自分の身だけは、自分で守れるように……誰にも迷惑はかけないようにと思って」
王は瞬きをしない。
重い沈黙が落ちる。
そして、王はひとつ頷いた。
「よい。守れる者は、価値がある」
価値。
その言葉に胸がひくりと痛む。
でもミレイの手が、私の手を握り直した。
王はミレイへ視線を移す。
「千里の目。――それを見せる術もあるな」
「ございますわ」
ミレイは背筋を伸ばし、悪役令嬢の笑みを崩さず答える。
けれどその目は揺らがない。王の“値踏み”を、真正面から睨み返している。
「二人を王城に迎えると言った。撤回はせぬ」
王は淡々と告げる。
「だが条件がある。お前たちは、互いを盾にするな。互いを武器にするな。……王城は、守るが、縛りもする場所だ」
ミレイが先に頷く。
「承知しておりますわ。ただし――お姉さまを壊す鎖なら、わたくしが噛み砕きますの」
王の眉がわずかに動いた。
しかし否定はしない。
「……よい」
王が立ち上がり、去り際に短く言う。
「明日から、お前たちは王城の客ではない。――王国の目と、王国の拳だ」
扉が閉まる。
残ったのは、私とミレイと、温かな茶の匂い。
ミレイが、胸の内に声を落とす。
「お姉さま。これからは、わたくしが守ります」
私は握り返す。
「違う。今度は一緒に守る」
ミレイが少し背伸びをするように、私のこめかみに額を寄せた。
体温が伝わる。そこに言葉はいらなかった。
「……はい。では、ずっと一緒ですわ。お姉さま」
王宮の灯りは眩しくて、怖いほどだ。
でも――噴水の冷たい水音はもう遠い。
私は、もう一人じゃない。
ミレイが、いつものように嫌味たらしく笑って言った。
「お姉さま。まずは温かいお茶を飲みなさいませ。……その後、わたくし、たっぷり苛めて差し上げますわ。今までの分も」
「それ、苛めじゃなくて世話じゃん」
「うるさいですの!」
怒鳴る声が可愛くて、私は思わず笑ってしまった。
ミレイはぷい、と顔を背けたまま。
それでも、手だけは離さなかった。
石に当たり、白い泡を散らし、夜の広場に薄い霧をつくる。けれど今の私には、その音がやけに冷たく、鋭く聞こえる。水が落ちるたび、胸の奥の何かが削れていくみたいだ。
噴水の縁。苔の匂い。湿った石の冷たさ。
そこにいるのは、私――ではない。
小さな緑の身体。短い脚。大きな目。
喉は鳴くためにあるのに、空気を震わせることさえできない。声が出ない。言葉が出ない。叫びも、泣き声も、助けを呼ぶ音も。
私は蛙だった。
(……どうして、こうなったんだろう)
思い返せば、最初の亀裂はずっと前から入っていたのだ。
私は、気づかないふりをしていただけで。
婚約が決まった日の、父の顔。母の声。
「よかったわね」「役に立つのよ」
それは祝福ではなく、手放しの宣告に近かった。私は笑って頷いた。そうするのが、いちばん波風が立たないと知っていたから。
――そして、決定的な夜。
庭園の回廊。月の光。花の香り。
薄い壁の向こうで聞こえた、甘ったるい笑い声。
私の名ではない呼び方で、誰かが彼の袖を引いていた。
「……なにを、しているの」
自分の声が、妙に遠かった。
返ってきたのは、面倒くさそうな溜息と、すぐに作り直された穏やかな笑み。
「誤解だよ。君は――」
「誤解……私の婚約者が、私のいないところで逢引しているのが?」
彼は一瞬だけ眉をひそめ、それから、逆に笑った。
まるで私のほうが間違っているみたいに。
「君は、いろいろと足りないからね。黙っていればよかったのに」
その言葉が、胸の奥を冷たく撫でた。
私はそこで初めて、彼が“私”を見ていないことを理解した。見ているのは家の価値と、表向きの体裁だけ。
だから――私が怒り、泣き、訴えるのが、彼にとってはただの騒音だった。
「破談にしよう」
軽く言った。
重たいものを床に置くみたいに。
「……そんな勝手な!?」
「勝手じゃない。君の能力が低いのが原因さ。君がもっと優秀で、可愛げがあって、思慮深ければ、僕だって浮気なんてことしなかったさ。というか……君は、言いふらしそうだな」
彼の指が、すっと私の額の近くへ伸びた。
不思議と、怖いと思うより先に、嫌な予感がした。
次の瞬間、空気が、ぱちん、と弾けた。
視界が落ちる。
体が縮む。
息が詰まって、声が潰れて――
暗闇の中で、私は、鳴けない喉を震わせた。
それでも言葉にならない。
(……助けて)
誰に?
父に? 母に?
――ミレイに?
思った瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
けれど、熱さはすぐに冷たさに押しつぶされる。
私は蛙だ。
誰も、気づかない。
*
蛙になって、最初の一日は、ただ“落ちる”だけだった。
屋敷の廊下は広く、床は滑る。高い天井の灯りは眩しく、空気は乾いているのに、私の皮膚だけがひどく敏感で、ひとつの風にさえ怯えた。
跳ねれば跳ねるほど、世界は大きく遠くなる。
声が出ない。呼べない。
足音が近づいてきても、私はただ柱の影に隠れるしかなかった。
昼。
使用人が水差しを運ぶ。花瓶を替える。銀器を磨く。
彼らの手は忙しく、目は忙しく、私に止まらない。止まる理由がない。
私は影の中で、ただ見ている。
夕方。
食堂から香りが流れてきた。焼いた肉。甘い果物。温かいパン。
それを嗅いだ瞬間、胃がぎゅっと縮んだ。――蛙の胃なのに、私の心が空腹を知っている。
夜。
私は門のほうへ跳ねた。
帰りたい、帰れば、誰かが、と思って。
でも門番の犬が吠えた。
靴の音が近づき、棍棒が地面を叩く音がした。
私は反射的に逃げて、門扉の隙間から外へ転がり出た。
外の空気は冷たい。
夜の匂いは、土と雨と、人の汗だ。
――私は、屋敷から放り出された。
翌日も、その翌日も。
私は屋敷の裏口に戻った。石垣の陰から覗いた。窓の灯りを見上げた。
けれど、誰も私を呼ばない。
私の名が屋敷で発されることもない。
(……いなくなっても、困らないんだ)
理解すると、胸が痛い。
痛いのに、涙が出ない。
その代わり、夜の冷えが骨に染みてくる。
雨の日は最悪だった。
水たまりに落ちれば溺れそうになる。風に吹かれれば皮膚が張りつく。
塀の下で丸くなって、朝が来るのを待った。
朝が来ても、救いは来ないのに。
それでも私は、生き残った。
噴水のある広場に辿り着いたのは、そんな日々の末だった。
ここなら、人がいる。
ここなら、何かが起きるかもしれない。
――そう思った自分が、馬鹿みたいだ。
(……帰りたいよ)
思った瞬間、笑い声が降ってきた。
酒場の戸が開く音。酔った男の足取り。
二人組の若い男が、噴水へふらついてくる。視線が、私を見つけて歪む。
「お、蛙。踏んだら運がつくってやつだろ?」
「逆じゃね? まあどっちでもいいだろ。跳ねるとこ見てえ」
靴先が近づき、影が落ちる。
逃げようと脚を動かす。けれど石は滑り、身体は言うことを聞かない。軽いはずの身体が、恐怖だけで沈んでいく。
「おい、噴水に落とすか?」
「いいね。変な音出すかな」
私は跳ねた。必死に跳ねた。
でも、跳んだ先にも影が落ちる。逃げ道が塞がれる。石畳の冷たさが腹に刺さる。
――次の瞬間。
「……下がりなさい」
柔らかいのに、刃のような声だった。
怒鳴っていないのに、空気が一段冷える。男たちが反射的に振り向く。
そこに立っていたのは、一人の少女――いや、もう少女と呼ぶには背が高い。
月光を溶かしたような銀髪が、外套の隙間から滑り落ちている。私より少し背が高いはずなのに、今はずっと遠い場所に立っているみたいだった。
そして瞳。
右は深い青。左は琥珀に近い金。広場の灯りを受けて、二つの色が静かに揺れた。
ミレイ。
私の妹。
「なんだよ、お嬢ちゃん」
「ただの蛙だろ?」と男が笑う。
ミレイは、薄く、嫌味たらしく口角を上げた。
それは可愛らしい笑みではない。――上から見下ろし、相手の価値を量る、貴族の笑みだ。
「“ただの蛙”に、あなた方のような下卑た手が触れるのが不快ですの」
「は?」
「理解できないのかしら。……まあ、仕方ございませんわね。頭が弱いのは罪ではないもの」
「てめ――」
男が一歩踏み出す。
ミレイは指先をこめかみに添え、首を傾げた。
「噴水前の石畳。苔が生えて滑りやすい。酔っている。靴底が磨り減っている。――転ぶ条件が揃っておりますわ」
ぱちん、と空気が弾けるような音がして、男たちの足元に淡い光の輪が広がる。
「うわっ!」
「なんだよこれ!」
二人は派手に尻もちをついた。転んだだけ、のはずなのに、転ばされたと理解する程度には綺麗すぎるタイミングだった。
つま先が空を切り、肩が噴水の縁にぶつかって、水飛沫が上がる。
ミレイは扇でも持っていそうな仕草で、そっと唇に指を添える。
「まあまあ。石畳が悪いのですわ。――ああ、でも。石畳に謝罪なさったら?」
「ふざけんな!」
「変な嬢ちゃんだ……!」
男たちは悪態をつきながら、酒場のほうへ逃げていった。
広場に、噴水の音だけが戻る。
ミレイはゆっくり噴水の縁に膝をつき、私を見下ろした。
近くで見ると、彼女の手は震えている。睫毛が濡れている。唇を結び、泣くのを我慢している顔――なのに、それを絶対に表に出さない顔。
そして、わざとらしく鼻で笑った。
「……本当に、みすぼらしいですわね。お姉さま」
その声は耳からではなかった。
胸の内側に、直接落ちてきた。
(……え?)
驚いた思考を浮かべた瞬間、ミレイの“声”がすぐ返ってくる。
「はい。わたくしの魔術で、お姉さまの心の声を拾っておりますの。――今だけ、繋ぎます」
(ミレイ……私……)
「黙ってくださいまし。今は“蛙”ですわ。目立ちますもの」
冷たい言い方なのに、視線が優しく揺れた。
ミレイは外套の内側から真っ白な布を取り出し、まるで汚物に触れるみたいに指先だけで私を摘まみ上げた。
「……臭い。汚い。湿っている。最悪ですわ」
(……ごめん)
「謝罪など不要ですの。――わたくしが連れ帰って、たっぷり苛めて差し上げますわ」
そう言って、彼女は私を布で包んだ。
乱暴な言葉とは裏腹に、包み方は丁寧で、熱を逃がさないように慎重だった。
私は布の中で小さく縮こまりながら、胸の奥で――安心してしまう自分が怖かった。
*
屋敷へ戻る道のりは、息が詰まるほど静かだった。
ミレイは大通りを避け、裏路地を選ぶ。灯りの少ない路地でさえ、彼女の足取りは迷わない。
時折、彼女はふっと視線を空へ向ける。何かを見ている――遠い場所を、都合よく覗き込むみたいに。
(見られてる……?)
「ええ。門の様子。使用人の動線。父と母の居場所。――全部ですわ」
(怖い)
「怖いのは、悪いことではございません。怖いのに止まるのが、悪いのですわ」
胸の内側に落ちる声は、いつものミレイよりずっと大人びていた。
その声の背中に、私は知らない夜を見た気がする。
裏手の小門。鍵の位置。見張りの癖。
ミレイはすべて知っていた。まるでこの屋敷の“目”になっているみたいに。
小門を抜け、薄暗い廊下へ入ると、空気が乾いて私の皮膚がひりついた。
ミレイはわずかに眉を寄せ、布の中の私を、もう一度抱き直す。
「……耐えなさい。すぐにお風呂へ入れて差し上げますわ」
(苛めるんじゃ……)
「苛めますわ。――いわゆる水責め」
その言い回しが、妙におかしくて。
笑えないのに、胸の奥がほんの少しだけ軽くなる。
ミレイの部屋は、灯りが暖かかった。
薬草の匂い、磨かれた木の床、刺繍の入ったクッション。窓辺には小さな鉢植え。几帳面に揃えられた机の上には、分厚い本が積まれている。
そして――部屋の隅に、湯気の立つ小さな洗面鉢。
「さあ。……落としますわよ」
(や、やめ……)
布が解かれ、私は洗面鉢のぬるい湯の上に落ちた――と思った瞬間、ミレイの指が素早く支えた。
ぬるい湯が皮膚に染み込み、震えが少し止まる。
「……ほら。震えているじゃありませんの。情けない」
(寒いよお)
「当然ですわ。あなた、今まで何日外で過ごしたの?」
(……一週間)
ミレイの指が、ぴくりと止まった。
すぐに笑みを作る。いつもの、嫌味たらしい笑み。
「一週間? ふうん。……屋敷の者たちは、よほど優秀なのでしょうね。――家の中から人が消えても気づかないなんて」
(皮肉やめて!)
「皮肉ではございません。事実の確認ですわ」
そう言って、ミレイは私を湯の中でそっと洗った。
言葉は冷たいのに、手つきは熱がこもっている。爪が皮膚を傷つけないよう、石鹸の泡を使わず、ぬるい湯と布で汚れだけを落としていく。
(恥ずかしい)
「恥ずかしい顔もできないくせに」
(言うなバカ)
「言って差し上げないと、あなたは何も伝えませんもの」
ミレイは私を布で包み、ぽん、とクッションの上へ置いた。
その置き方も、乱暴に見えて――角度が優しかった。
「そこで大人しくしていなさいませ。……わたくし、残飯を持って参りますわ」
(残飯って……)
「食堂のものですもの。わたくしの口に入る前なら残飯で、あなたの口に入るなら特別食ですわ」
(意味がわからない)
「あなたは昔からそうでしたわね。理解が遅い」
(遅くないもん。酷い言いぐさだ……)
ぷい、と顔を背けるように言って、ミレイは部屋を出た。
――しばらくして。
扉が静かに開き、ミレイが戻ってきた。
手には小さな皿。温かい白身と香草、柔らかい果肉、それから少しだけ甘いパンの端。
「……感謝なさいませ」
(ご、ごご、ごはんだ! あ、あああああ、ありがとう!)
「声に出せないのが不便ですわね。――まあいい。あなたが生きているだけで、今夜は十分ですの」
その“十分”が、胸に刺さった。
私は本能に従って口を動かす。人間の舌じゃない感覚に、涙の代わりに胸が熱くなる。
ミレイは窓際へ行き、カーテンの隙間から外を見た。
その横顔は、完璧な貴族令嬢――なのに、肩が少しだけ落ちている。
(ねえミレイ……)
「……何ですの」
(どうして、見つけられたの?)
ミレイは、すっと口角を上げた。
いつもの悪役令嬢の笑み。
「当然ですわ。わたくしを誰だと思っておりますの? 全てを見通す千里眼のミレイですわよ。
――あなたのような小さなもの、見つけるのは簡単です」
(……嘘だ)
ミレイの背中が、わずかに揺れた。
「嘘ではございません。……ただ」
こめかみに当てた指先が、ほんの少し力を失う。
「見えているのに、届かないのは……腹が立ちますの」
その声が、妙に子どもみたいで。
私は答えようとして、答えられなくて、ただ皿の上の食べ物をかじり続けた。
*
その夜、私は眠った――はずだった。
クッションの温かさと、布の柔らかさと、食べ物が腹に落ちる感覚。
どれも久しぶりで、意識がすとんと沈んだ。
けれど、夜更け。
目が覚めたのは、部屋の灯りが消えていなかったからだ。
ランプの火が、静かに揺れている。
机の上には本が積み上がり、紙片と羽ペン、古い封蝋。
そしてミレイが――外套も脱がず、銀髪を少し乱したまま、ページをめくっていた。
長い睫毛が影を落とし、片方の青い瞳が紙を追う。
もう片方の金の瞳は、まるで別の場所を見ているみたいに遠い。
(……寝てない)
思った瞬間、ミレイの肩がびくりと跳ねた。
「――起きていらしたの?」
(灯りが眩しくて……)
「……あなたの目は、夜でもよく見えるのでしょう? 蛙ですものね。嫌味ですわ」
(嫌味じゃなくて……心配だよ)
その思考が落ちた瞬間、ミレイは一瞬、黙った。
そして、いつもの顔に戻る。
「心配? あなたが? わたくしを?」
(……うん)
「――ふふ」
小さく笑った。
でもそれは、馬鹿にする笑いではなかった。
「お姉さまは、何も持っていないふりが上手ですのね」
(何もないよ)
「そういうところですわ」
ミレイは本を閉じ、机の端に積む。
そこには“呪術解除”の文字。古い宗派の系譜。王家の祝福儀礼。民間のまじない。
紙片には走り書きがぎっしりで、指先がインクで汚れている。
(……私のために?)
「違いますわ」
即答だった。
「蛙が部屋にいるのが不快だから、早く人間に戻して外へ追い出したいだけですの」
(……うそ)
「嘘では――」
言いかけて、ミレイの声が止まった。
こめかみに当てた指が、ふるふると震える。
(ミレイ)
「黙りなさいませ。……わたくしは、いつだって正しいのですわ」
正しい。
その言い方が、急に脆く聞こえた。
(気づいたんだ。私なんて、蛙のほうが似合ってるって)
口に出せない思考が、勝手に零れた。
今まで飲み込んできたものが、胸の内側で溢れた。
(人の姿でも役に立たない。頭もない。魔術もない。礼儀も覚えが悪い。……蛙なら、最初から期待されなくて済む。こっちの姿の方が……蛙としてミレイに飼われる方が私に合ってるんじゃないかって……)
ミレイの瞳が、ゆらりと揺れた。
次の瞬間、彼女の頬を、一筋の雫が伝った。
「……」
泣いている。
さっきまで高圧的だった妹が。
(え!? ごめん、もしかして私なんか酷いこと言っちゃった?)
私は動揺して、身体が跳ねそうになる。クッションの上でぴくぴくと震えるしかない。
ミレイは急いで袖で涙を拭い、顔を背けた。
「……み、見ないでくださいまし」
(だって、泣いてるじゃん)
「泣いておりません。目が乾いただけですわ」
(乾いてるなら涙出ないよ。どうして……)
「……っ、うるさいですの!」
ミレイは立ち上がって、私に背を向けたまま息を吸う。
肩が震えている。
「……お姉さま」
胸の内側に落ちる声が、いつもより小さい。
「わたくし、ずっと……お姉さまと遊びたかったですの」
(……遊ぶ?)
「幼い頃は、遊んでくださったじゃありませんの。わたくしが転んだら手を引いて、泣いたら抱き上げて、夜は本を読んで……」
ミレイの指が机の引き出しを開け、古い栞を取り出した。
使い込まれて、端がほつれている。
「これ。お姉さまがくれたものですわ。……わたくし、ずっと捨てられませんでしたの」
(……もちろん覚えてる。一緒に作ったもんね)
私は思った。
確かに覚えている。
小さなミレイが、私の袖を掴んで離れなかったこと。
あの頃だけ、家が柔らかかったこと。
「……でも、怖かったのですわ」
(怖い?)
「わたくしは、優秀でなければならない――そう言われ続けてきました。
優秀であればあるほど、周りはわたくしを褒めて……そのぶん、お姉さまを――」
言葉が途切れ、ミレイは奥歯を噛みしめた。
「……お姉さまを、“いないもの”にした」
胸の奥へ落ちてきた声が、刃みたいに痛かった。
(そんなの、ミレイが悪いわけじゃ――)
「いいえ。わたくしも、悪かったのですわ」
ミレイは小さく息を吸い、震える唇をきゅっと結ぶ。
「……本当は、お姉さまに話しかけたかった。甘えたかった。
けれど、可愛く頼むなんて――できなくて。
もし一歩でも間違えたら、お姉さまに嫌われるのではないかと……それが、怖かった」
振り返ったミレイの頬には、乾ききらない涙の跡が残っている。
それでも彼女は、いつもの笑みを無理やり貼りつけた。
「だから、見下したのですわ。冷たくしたのですわ。
――悪人みたいに振る舞えば、嫌われても平気だと思えるから。
最初からそういう人間だって、自分に言い聞かせられるから」
(そんな理由……)
「笑わないでくださいませ。わたくしにとっては……死ぬほど、真剣でしたの」
その一言で、私はようやく分かった。
ミレイは“強い”のではない。――“強いふり”が、上手かっただけだ。
(……実はさ、私。ミレイのこと、苦手だった)
言ってしまった思考に、胸の奥がきゅっと縮む。
(勝手に嫉妬して、私を見下してるんだって決めつけて……嫌われてるんだろうなって思って。
これ以上嫌われたくなくて、関わらないようにしてた。……ごめん。
似た者同士だったんだね。……私たち)
ミレイは目を見開き、次の瞬間――ぷい、と顔を逸らした。
「……謝罪は要りませんわ。どうせ、わたくしは……可愛げなど、ありませんもの」
(可愛いよ)
ミレイが、固まった。
「……い、今、何と?」
(可愛い。ミレイは可愛い。昔も今も、これから先もずっと)
胸の内側で言い切ると、ミレイの耳まで赤くなった。
「な……なな、何を言っておりますの! 蛙のくせに!」
(な、なにをお!? 蛙のくせにって言うな!)
「言いますわ! 言ってやりますわ! 蛙のくせに、わたくしを……っ」
怒鳴りかけて、声が震えた。
ミレイは唇を噛み、もう一度涙を拭う。
「……だから、明日も明後日も、その次も。わたくしは文献を漁りますの。呪いを解く方法を探しますわ。……見つけますの」
(ミレイ)
「何ですの」
(……ありがとう)
ミレイは、顔を背けたまま、ちいさく鼻を鳴らした。
「当然ですわ。……お姉さまは、わたくしのものですもの」
(え?)
「聞き間違いですわ!」
バン、と本を閉じる音が大きく響いた。
そしてミレイは、震える手でランプの火を少し弱めた。
「寝てくださいまし。……明日から、準備を始めますわ」
(準備?)
ミレイは、机の上の紙片の一枚を、指で押さえる。
そこには古い文字で――“王の御前で真実を照らす”と記されていた。
「一週間後の舞踏会ですわ」
(……行くの? 怖い……やだ……)
「怖くても、行きますの。あなたは逃げ癖がある。だから、わたくしが無理やり連れて行きますわ」
ミレイは近づき、私の頭――こめかみのあたりに、指先をそっと触れた。
「……大丈夫。わたくしが、守りますわ」
その触れ方が、あまりに優しくて。
私は布の中で、ただ目を閉じた。
*
それから数日。
私は“ミレイの部屋の住人”になった。
昼はカーテンの奥。夜はランプの灯り。
ミレイが学びに行く間、私は鉢植えの影に身を隠した。窓の外の空を見た。庭の鳥を眺めた。
蛙の目は、近くのものをやけに鮮明に映す。葉の筋。机の傷。インクの匂い。
そんな些細なものが、妙に胸に刺さった。
そして毎晩、ミレイは“残飯”を運んできた。
残飯と言いながら、いつも温かい。いつも香草が添えられている。いつも私の喉を通りやすい。
私は知っていた。
彼女が食卓で父と母の隣に座り、完璧な笑みで賞賛を受けながら――その裏で、皿の端を少しずつ取り分けていることを。
見えるから。ミレイが見せてしまうから。
(……ミレイ、無理しないでよ)
「うるさいですわね。あなたが太れば、わたくしの手間が減る。それでいいのですわ」
(意味が……)
「意味などなくていいのですわ」
そう言い切るくせに、ミレイは私の寝床の布を毎日交換した。
そして舞踏会の前夜。
私は眠れずに目を開き、机へ視線を向けた。
ミレイが、また文献の山に埋もれている。
目の下に薄い影。指先はインクで黒い。ページをめくる音だけが続く。
(ミレイ、もう……)
思った瞬間、ミレイの肩が揺れ、顔を上げる。
そして、わざとらしく、嫌味たらしく笑った。
「何ですの。まさか心配しているの? お姉さまのくせに」
(……してるよ。もちろん)
「……ばか」
小さく言った。
ミレイは、机の端の紙片を指で押さえた。
そこには“解除の条件”が書かれている――私はその文字を、蛙の目で読んでしまった。
(……ねえこれ)
視線が、彼女の唇へ向いてしまう。
ミレイが、真っ赤になった。
「見ないでくださいませ!!!!」
(え!? いや、ごめん)
「謝っても無駄ですわ! わたくしだって……っ」
言葉が途切れ、ミレイは顔を背けた。
「……言えるわけ、ないでしょう」
(……)
「……寝なさいませ。明日は、完璧にして差し上げますわ」
ミレイは乱暴に紙片を引き出しに押し込み、鍵をかけた。
その仕草が、必死で。
私はそれ以上、何も言えなかった。
*
舞踏会の日、王宮は金色に輝いていた。
シャンデリアの光が床に星を散らし、香水と花の匂いが混ざり合う。笑い声、グラスの触れ合う音、弦楽器の旋律――すべてが“上等”で、だからこそ冷たい。
ミレイは淡い色のドレスに身を包み、銀髪を丁寧にまとめていた。
私は刺繍の袋の中。彼女の腕の中にいる。
すれ違う貴族たちは微笑み、視線はミレイの瞳の色に吸い寄せられる。
羨望、嫉妬、好奇心――全部が混ざって、肌がひりつく。
(ミレイ、本当に大丈夫?)
「ええ。わたくしが大丈夫と言ったら、大丈夫ですわ」
胸の内側に落ちる声は、強くて冷たい。
でも、その強さが――私を支えている。
玉座の前。
王が座っている。
視線は淡々としていて、感情がない。人を値踏みする目。
その隣に、元婚約者がいる。取り繕った笑顔。自信満々の姿勢。
あの日の“面倒くさそうな溜息”が、まだ彼の影に残っている。
ミレイは一歩前に出た。
会場がざわめく。彼女が公の場で声を上げること自体、稀だ。
「陛下。国のために、ご報告がございます」
王が頷く。
ミレイは扇を開く――ふりをして、指を鳴らした。
空中に、巨大な光の幕が広がる。
次々と映し出されるのは――賄賂、横領、密輸、脅迫。裏で人を踏みつけにする言葉。嘲笑。悪意。
そして、元婚約者の下卑た笑い。
同じ場所で何度も繰り返された、口止め。脅し。
会場の空気が凍る。
甘い音を立てていたグラスが、急に重たく見えた。
「な、なにを……! こんなのでたらめだ!」
元婚約者が叫ぶ。
だが映像は止まらない。目撃してしまった者たちの顔色が変わる。貴族たちが息を呑む。
中には、汗を拭う者もいる。――映像の中に、自分がいるからだ。
ミレイは、可愛らしく首を傾げた。
その笑みは、完全に悪役令嬢のそれだった。
「でたらめではございません。わたくしの目が……この千里眼が見たものですわ。……そして、この方は婚約を一方的に破談にし、口封じに呪術を用いました」
ざわめきが一段深くなる。
ミレイは袋の口をそっと開き、私を掌に移した。
私は王の前に差し出される。
視線が針みたいに刺さる。
喉が鳴らない。声が出ない。逃げられない。
「この蛙が――わたくしの姉ですの」
誰も理解できない沈黙。
しかし王は眉ひとつ動かさない。視線だけが、静かに私たちを量る。
値踏み。
ミレイは、私を見下ろした。
二つの色の瞳が、柔らかく細まる。
けれど、その直後、彼女はわざと冷たい声を作った。
「……お姉さま。覚悟してくださいまし。わたくし、これから恥ずかしいことをしますの」
(ミレイ、まさか――)
「黙りなさいませ。……あなたは逃げるから、言わないと決めていたのですわ」
そしてミレイは、ほんの一瞬だけ目を閉じて。
私のこめかみに、そっと唇を落とした。
熱が走った。
世界が歪み、骨が戻り、指が伸び、視界が広がる。肺が膨らみ、息が入る。
耳が音を拾い、喉が震え――
「……っ、は……っ!」
声が出た。
会場が揺れる。
ミレイの掌の上にいたのは蛙ではない。元の姿に戻った私だった。
銀髪が肩に落ちる。
同じ色の髪が、隣で揺れる。ミレイの瞳だけが、相変わらず夜灯りを受けて異なる輝きを帯びていた。
誰かが息を呑み、誰かが目を見開いた。
しかしミレイは、堂々と前を向いた。
「……この呪いは、こうして解けますの」
それだけ言って、一歩も引かなかった。
王の目が、わずかに細まる。
そこに宿ったのは驚きではない。興味だ。
そして――元婚約者の顔が、憎悪で歪んだ。
「ふざけるなぁぁぁ!!」
彼は近くの給仕からナイフを奪い、突進してきた。
衛兵は遠い。
誰も動けない。音楽が止まり、悲鳴が上がる。
床に散った花びらを踏み潰しながら、刃が一直線にこちらへ伸びる。
ミレイが息を呑んだ。額に汗が滲む。
私は反射的に彼女を引き寄せ、背中へ回した。
「ミレイ、下がって」
「お姉さま――!」
刃が迫る。避けられない――はずだった。
私の脚が床を蹴る。
貴族の舞踏会で許されない動き。けれど身体が覚えていた。
私は昔から、殴り方だけは知っていた。
怒りではなく、生き残るために。
ナイフが宙を舞った。
私の蹴り上げが刃を弾き飛ばしたのだ。
元婚約者の目が見開かれる。理解できない顔。
私はその顔面に、迷いなく拳を叩き込んだ。
――鈍い音。
身体が吹っ飛び、壁に叩きつけられ、崩れ落ちる。
男の口から、情けない息が漏れる。二度と立てない。
会場が凍りつく。
私は息を吐いて、震える声で言った。
「……破談にされたことも、蛙にされたことも、今はどうでもいい」
ミレイが目を見開く。
私は続けた。
「そのおかげで、ミレイと話せた。だから――」
倒れた男を見下ろし、声を冷やす。
「でも」
視線を上げ、会場に響かせた。
「ミレイに手を出したら、絶対に許さない」
ミレイの“声”が、胸の奥に落ちてくる。
「……お姉さま、さいっこうですわ……!」
涙声なのに、どこか誇らしそうで。
私は振り返り、ミレイの手を握った。彼女の指は小さく震えている。
その震えが、私の怒りを少しずつ冷ましていく。
遅れて衛兵が駆け込み、倒れた男を取り押さえる。
同時に、会場のあちこちから呻き声が上がった。――映像で暴かれた者たちが、逃げるタイミングを失ったのだ。
王がゆっくり立ち上がる。
会場が一斉に膝を折る中、王だけが私たちを見た。
「――その目。……そして、その身体能力……」
淡々とした声だった。
だがその淡々とした響きが、逆に場を鎮めた。
「二人を王城に迎える。必要な保護は与える。これは王直々の命である」
ざわめきが、今度は別の色を帯びる。
羨望。恐れ。嫉妬。
私はその全部が嫌で、ミレイの手だけを握りしめた。
ミレイは一歩前に出て、可愛らしくも完璧に礼をした。
そして、悪役令嬢の笑みで言う。
「ありがたきお言葉ですわ、陛下。ただし――わたくしは、お姉さまを傷つける者を許しません」
王の眉がわずかに動く。
「よい」
返事は短い。
短いのに、空気が決まる。
ミレイは、私の手をぎゅっと握り直した。
その力は、宣言だった。
*
舞踏会が終わったあと、私たちは王宮の一角――小さな控え室へ通された。
騒ぎの中心にいたのに、扉の向こうは不思議なほど静かだった。
遠くで衛兵の足音と、誰かが泣く声がする。けれどここには、ミレイの呼吸だけがある。
机の上には、温かな茶と、焼き菓子。
甘い香りがするのに、私はすぐに口をつけられない。
自分の手が、まだ震えている。
「……手、痛くない?」
私が言うと、ミレイはぱちりと瞬きをする。
そして、いつもの嫌味たらしい笑みを作ってみせた。
「お姉さまのゴリラのような握力で握りつぶされそう。――でもお姉さまが握ってくださるなら、むしろ嬉しいですわ」
「……ばか」
「褒め言葉ですのよ?」
「違う」
言いながら、私はその手を離せなかった。
離したら、また奪われる気がしたから。
ミレイはカップに湯を注ぎ直し、少しだけ息を吹きかけてから、私の前へ差し出す。
その所作が、あまりにも丁寧で、育てられた年月が見える。
同時に、その丁寧さが、彼女自身を縛ってきたのだとも分かる。
「お姉さま」
胸の内側に、声が落ちる。
舞踏会の喧騒ではなく、今の静けさの中で聞くミレイの声は、さらに深く沁みた。
「……あのとき、噴水の前で。お姉さまの目が、光を失っていくのが見えましたの」
私は息を止めた。
「わたくし、見ておりますのに……助けられないのが、いちばん怖かったですわ。目は見えるのに、手が届かない。……そんなの、嫌でした」
ミレイの睫毛がまた濡れる。
彼女は笑って誤魔化そうとするけれど、上手くいかない。
「……だから、今日は、よかったですわ」
私はカップを両手で包んだ。
温かい。
温かさが、指先から体の奥へ染み込んで、ようやく“生きている”感覚が戻ってきた。
「ミレイ」
「はい、お姉さま」
「……あの紙。昨日見ちゃった」
ミレイが、固まった。
「……」
「キスのこと、言わなかったの」
ミレイの耳まで真っ赤になった。
「言えるわけないでしょう!? わたくしだって……っ」
怒鳴りかけて、声が震えて、最後は小さくなる。
「……恥ずかしかったのですわ」
私は、その顔を見て。
胸の奥が、ぎゅっと締まった。
「……私は嬉しかったなあ。蛙のまま、ミレイに触れられるの」
「――ばか」
ミレイが、笑った。
涙のまま、笑った。
控え室の扉が開き、王が入ってくる。
随行の者たちが後ろに控える。
王は椅子に腰を下ろし、淡々と私たちを見た。
「姉」
短く呼びかける。
「お前は、格闘を学んだか」
「……学んでません」
「ならば、なぜあの蹴りが出る」
私は一瞬だけ言葉に詰まる。
隠してきた。褒められないと知っていた。
でも今は、隠したままだと、ミレイがまた何かを背負う。
「……何もないからです」
私はゆっくり言った。
「私には、頭も、魔術も、礼儀も、皆が欲しがるものがありませんでした。だから、せめて……自分の身だけは、自分で守れるように……誰にも迷惑はかけないようにと思って」
王は瞬きをしない。
重い沈黙が落ちる。
そして、王はひとつ頷いた。
「よい。守れる者は、価値がある」
価値。
その言葉に胸がひくりと痛む。
でもミレイの手が、私の手を握り直した。
王はミレイへ視線を移す。
「千里の目。――それを見せる術もあるな」
「ございますわ」
ミレイは背筋を伸ばし、悪役令嬢の笑みを崩さず答える。
けれどその目は揺らがない。王の“値踏み”を、真正面から睨み返している。
「二人を王城に迎えると言った。撤回はせぬ」
王は淡々と告げる。
「だが条件がある。お前たちは、互いを盾にするな。互いを武器にするな。……王城は、守るが、縛りもする場所だ」
ミレイが先に頷く。
「承知しておりますわ。ただし――お姉さまを壊す鎖なら、わたくしが噛み砕きますの」
王の眉がわずかに動いた。
しかし否定はしない。
「……よい」
王が立ち上がり、去り際に短く言う。
「明日から、お前たちは王城の客ではない。――王国の目と、王国の拳だ」
扉が閉まる。
残ったのは、私とミレイと、温かな茶の匂い。
ミレイが、胸の内に声を落とす。
「お姉さま。これからは、わたくしが守ります」
私は握り返す。
「違う。今度は一緒に守る」
ミレイが少し背伸びをするように、私のこめかみに額を寄せた。
体温が伝わる。そこに言葉はいらなかった。
「……はい。では、ずっと一緒ですわ。お姉さま」
王宮の灯りは眩しくて、怖いほどだ。
でも――噴水の冷たい水音はもう遠い。
私は、もう一人じゃない。
ミレイが、いつものように嫌味たらしく笑って言った。
「お姉さま。まずは温かいお茶を飲みなさいませ。……その後、わたくし、たっぷり苛めて差し上げますわ。今までの分も」
「それ、苛めじゃなくて世話じゃん」
「うるさいですの!」
怒鳴る声が可愛くて、私は思わず笑ってしまった。
ミレイはぷい、と顔を背けたまま。
それでも、手だけは離さなかった。
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