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第二部:ハリー
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数日後、ロイの入院している警察病院に、エリザベスを伴ったマクミラン夫妻の姿があった。
ハリーは顔見知りの医者に連絡を取り、ロイの様子が安定した頃合を見計らってやってきたのである。
初めに、同じ病院にいるイーストンに会った。
意識は戻っていたがまだ会話は出来ず、窓越しでの面会ではあったが、確実に回復しているようだった。
「あの子も、元気だと良いわ」
「そうだね」
来る途中の車の中で、ハリーはようやくリサに事の次第を説明した。リサは少し怒っていたようだが、それはハリーにではなく、モンテカルロに対してであるようだった。
「先に、ドクターに会っていくだろう?」
「私は良いわ、外で待ってる。あんまり、聞きたくない話を聞かされそうだから」
「そうだね」
ハリーは医者に会いに行き、リサはエリザベスと廊下でハリーを見送った。
「やあ、ハリー、待ってたんだよ」
「僕を? 何かあったのかい?」
ハリーの姿を見ると医者は立ち上がり、そのままハリーの背中を押して廊下に出た。
「こんにちわ、ドクター」
「おや、これはリサ奥さん。おいハリー、奥さんまで連れて来たのかい? マズイなあ」
「おいジョナサン、どうしたって言うんだ? 何があったか説明してくれよ。リサも大体の事は知ってるから…」
ジョナサンはしばらく困ったような顔をしていたが、決心したように顔を上げた。
「それじゃあ、大丈夫かどうかはそっちで決めてくれ。ハリー退行現象って知ってるか?」
「…そりゃあ…、名前ぐらいならね」
戸惑ったように答えるハリーに、ジョナサンはふうんと頷いてみせる。
「じゃあ、どんな状態かは?」
「…字面を見れば、大体のところは解るけど…。実質的にどんなものかは、解らないな。専門家でもないし…」
「キミはホントに正直者だな。よくあんな職を続けていられると、感心するよ」
「余計なお世話だ。それでなんなんだ? ハッキリ言えよ」
「ああ、そうだったな。歩きながら説明するよ、行こう」
「おい、待てよ。勝手なヤツだな」
置いて行かれたハリーとリサは、エリザベスを抱き上げて慌てて後を追う。
「つまりだな、う~ん。ああいった患者にはたまにあるんだよ。その、何だ、退行現象ってヤツがな」
「まさかロイが、なったのか?」
ハリーは一瞬足を止めて、医者を見た。ジョナサンは少し困ったような顔のまま頷いてみせる。
「うん、そのまさかなんだよ。俺もなるとは思わなかったんだけど…。発作を起こす前は、質問にもちゃんと答えていたし…。…あの坊や、なんか悩みとか抱えてたんじゃないの?」
「悩みを抱えていると…、なるんですか?」
「なりやすい。と言う方が、正しいね。退行現象ってのは、一種の現実逃避なんですよ、奥さん。嫌な事のある現在じゃなくって、楽しくってしょうがなかった過去に帰りたいとか、大人じゃ許されないけれど、子供なら許されるとか。解ります?」
医者の問いに、ハリーとリサは顔を見合わせた。
言われた事が、解らない訳ではない。
解りすぎて、困っているのだ。
それは憶測に過ぎないけれど。しかしロイは、アレックスの死を自分の非としてリサに審判を願い出た程だったのだから。
「ほらそこだよ。あ、言っとくけど多分キミ達のコト、全然判らないと思うから、そのつもりでね」
二人は黙って頷き、特別病室の扉を開けた。
明るい光が差し込む室内の、真っ白なベッドの縁に座った少年の姿が目に映る。
彼は、手に持った大きな本をジッと見つめていた。
大きな文字と、画面いっぱいに描かれた絵で出来ている。それは、市販されている絵本だった。
「こんにちは」
リサは少年の正面に膝をつくと、彼の顔を覗き込むようにして声をかける。
一瞬、吃驚したように顔を上げた少年は、大きく瞬きをした後でリサに向かってニッコリと笑いかける。
あまりに無防備で、しかも本当に無垢な笑顔を浮かべた少年に、ハリーはロイにも普通に笑う事が出来るのかと、奇妙に感心してしまった。
「なにを読んでいるの?」
しかし少年はリサの問いに答えず、すぐに目線を本の方へと戻して、その単純なストーリーの世界に没頭してしまう。
「ああ、そうそう。言い忘れてた」
扉越しにこちらを見ていたジョナサンが、不意に思い出したように口を開いた。
「その子、口が利けないからね」
「どうしてっ?」
思わず振り返って問うハリーに、ジョナサンはちょっとだけ肩を竦めてみせる。
「原因は、申し訳ないけど全く不明なんだ。病院中たらい回しにしたけどダメだった。多分記憶と一緒に戻るだろうって言うのが、携わった医師全員の結論。悪いね」
「悪いと思うなら何とかしろよ」
珍しく毒づいたハリーに、医者は苦い笑みを浮かべただけでなにも言わなかった。
「まま、おにいちゃんがりずにこのごほんを、くれるって」
不意にエリザベスがリサのスカートの裾を引き、手に持っていた本を差し出してくる。
「えっ?」
「まぁ、リズ。これはお兄ちゃんのでしょう?」
「ううん、りずにくれるって。ごほんをくれて、りずのあたまをなでなでしてくれたわ」
エリザベスは本を持ったままロイの側に寄り、ベッドの上によじ登った。
隣に座った少女の頭を、確かにロイがそっと撫でている。
「ほう、これは驚いたな。この状態になってから、人に興味を持ったのは初めてだよ」
感心したように呟いた医者を、ハリーは恨めしげな目線で見てしまう。
「それで、いつ退院できるのかしら?」
「退院? もういつでも大丈夫ですよ、身体の方に異常は認められませんから」
ジョナサンは、怒っているハリーを無視して、リサに愛想を振りまいた。
「リサ、まさか…」
「どうしたのハリー、退院手続きをしてきてちょうだい。今日連れて帰るわ、この子」
「だってリサ…」
「言ったでしょう。私はこの子にしてあげられるだけの事はなんでもしてあげたいの。この子がこんな風になってしまったのは、兄さんの所為よ。そうでしょう?」
「それは、そうだけど…」
「それにね、兄さんもそれを望んでいると思うの。兄さんは、この子が幸せになる事を望んでいたんだから…」
リサの大きな瞳がハリーを捉える。その目に、ハリーが逆らえる筈もなかった。
「解ったよ。すぐに戻ってくるから、待っててね」
ハリーは会計に走っていった。
ハリーは顔見知りの医者に連絡を取り、ロイの様子が安定した頃合を見計らってやってきたのである。
初めに、同じ病院にいるイーストンに会った。
意識は戻っていたがまだ会話は出来ず、窓越しでの面会ではあったが、確実に回復しているようだった。
「あの子も、元気だと良いわ」
「そうだね」
来る途中の車の中で、ハリーはようやくリサに事の次第を説明した。リサは少し怒っていたようだが、それはハリーにではなく、モンテカルロに対してであるようだった。
「先に、ドクターに会っていくだろう?」
「私は良いわ、外で待ってる。あんまり、聞きたくない話を聞かされそうだから」
「そうだね」
ハリーは医者に会いに行き、リサはエリザベスと廊下でハリーを見送った。
「やあ、ハリー、待ってたんだよ」
「僕を? 何かあったのかい?」
ハリーの姿を見ると医者は立ち上がり、そのままハリーの背中を押して廊下に出た。
「こんにちわ、ドクター」
「おや、これはリサ奥さん。おいハリー、奥さんまで連れて来たのかい? マズイなあ」
「おいジョナサン、どうしたって言うんだ? 何があったか説明してくれよ。リサも大体の事は知ってるから…」
ジョナサンはしばらく困ったような顔をしていたが、決心したように顔を上げた。
「それじゃあ、大丈夫かどうかはそっちで決めてくれ。ハリー退行現象って知ってるか?」
「…そりゃあ…、名前ぐらいならね」
戸惑ったように答えるハリーに、ジョナサンはふうんと頷いてみせる。
「じゃあ、どんな状態かは?」
「…字面を見れば、大体のところは解るけど…。実質的にどんなものかは、解らないな。専門家でもないし…」
「キミはホントに正直者だな。よくあんな職を続けていられると、感心するよ」
「余計なお世話だ。それでなんなんだ? ハッキリ言えよ」
「ああ、そうだったな。歩きながら説明するよ、行こう」
「おい、待てよ。勝手なヤツだな」
置いて行かれたハリーとリサは、エリザベスを抱き上げて慌てて後を追う。
「つまりだな、う~ん。ああいった患者にはたまにあるんだよ。その、何だ、退行現象ってヤツがな」
「まさかロイが、なったのか?」
ハリーは一瞬足を止めて、医者を見た。ジョナサンは少し困ったような顔のまま頷いてみせる。
「うん、そのまさかなんだよ。俺もなるとは思わなかったんだけど…。発作を起こす前は、質問にもちゃんと答えていたし…。…あの坊や、なんか悩みとか抱えてたんじゃないの?」
「悩みを抱えていると…、なるんですか?」
「なりやすい。と言う方が、正しいね。退行現象ってのは、一種の現実逃避なんですよ、奥さん。嫌な事のある現在じゃなくって、楽しくってしょうがなかった過去に帰りたいとか、大人じゃ許されないけれど、子供なら許されるとか。解ります?」
医者の問いに、ハリーとリサは顔を見合わせた。
言われた事が、解らない訳ではない。
解りすぎて、困っているのだ。
それは憶測に過ぎないけれど。しかしロイは、アレックスの死を自分の非としてリサに審判を願い出た程だったのだから。
「ほらそこだよ。あ、言っとくけど多分キミ達のコト、全然判らないと思うから、そのつもりでね」
二人は黙って頷き、特別病室の扉を開けた。
明るい光が差し込む室内の、真っ白なベッドの縁に座った少年の姿が目に映る。
彼は、手に持った大きな本をジッと見つめていた。
大きな文字と、画面いっぱいに描かれた絵で出来ている。それは、市販されている絵本だった。
「こんにちは」
リサは少年の正面に膝をつくと、彼の顔を覗き込むようにして声をかける。
一瞬、吃驚したように顔を上げた少年は、大きく瞬きをした後でリサに向かってニッコリと笑いかける。
あまりに無防備で、しかも本当に無垢な笑顔を浮かべた少年に、ハリーはロイにも普通に笑う事が出来るのかと、奇妙に感心してしまった。
「なにを読んでいるの?」
しかし少年はリサの問いに答えず、すぐに目線を本の方へと戻して、その単純なストーリーの世界に没頭してしまう。
「ああ、そうそう。言い忘れてた」
扉越しにこちらを見ていたジョナサンが、不意に思い出したように口を開いた。
「その子、口が利けないからね」
「どうしてっ?」
思わず振り返って問うハリーに、ジョナサンはちょっとだけ肩を竦めてみせる。
「原因は、申し訳ないけど全く不明なんだ。病院中たらい回しにしたけどダメだった。多分記憶と一緒に戻るだろうって言うのが、携わった医師全員の結論。悪いね」
「悪いと思うなら何とかしろよ」
珍しく毒づいたハリーに、医者は苦い笑みを浮かべただけでなにも言わなかった。
「まま、おにいちゃんがりずにこのごほんを、くれるって」
不意にエリザベスがリサのスカートの裾を引き、手に持っていた本を差し出してくる。
「えっ?」
「まぁ、リズ。これはお兄ちゃんのでしょう?」
「ううん、りずにくれるって。ごほんをくれて、りずのあたまをなでなでしてくれたわ」
エリザベスは本を持ったままロイの側に寄り、ベッドの上によじ登った。
隣に座った少女の頭を、確かにロイがそっと撫でている。
「ほう、これは驚いたな。この状態になってから、人に興味を持ったのは初めてだよ」
感心したように呟いた医者を、ハリーは恨めしげな目線で見てしまう。
「それで、いつ退院できるのかしら?」
「退院? もういつでも大丈夫ですよ、身体の方に異常は認められませんから」
ジョナサンは、怒っているハリーを無視して、リサに愛想を振りまいた。
「リサ、まさか…」
「どうしたのハリー、退院手続きをしてきてちょうだい。今日連れて帰るわ、この子」
「だってリサ…」
「言ったでしょう。私はこの子にしてあげられるだけの事はなんでもしてあげたいの。この子がこんな風になってしまったのは、兄さんの所為よ。そうでしょう?」
「それは、そうだけど…」
「それにね、兄さんもそれを望んでいると思うの。兄さんは、この子が幸せになる事を望んでいたんだから…」
リサの大きな瞳がハリーを捉える。その目に、ハリーが逆らえる筈もなかった。
「解ったよ。すぐに戻ってくるから、待っててね」
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