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16年後の二人の章
1.静かな違和感
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朝の庁舎は、まだ空気が冷えている。
浜松基地の司令部棟に入ると、壁際に並ぶ掲示板には今週の行事予定と訓練計画、そして人事異動の内示が貼られていた。
一佐・真壁百合緒は、それを横目に廊下を進む。
背筋は真っ直ぐ、制服の肩章が微かに光る。
片手には資料の入ったバインダー、もう片方には蓋付きのタンブラー。
執務室に入ると、机の上には昨夜メールで届いた報告書が山積みになっていた。
燃料消費量の月次報告、訓練空域の調整依頼、広報イベントの警備計画──書類の見出しだけで一日が終わりそうだ。
真壁は椅子に腰を下ろし、まずは人事関係の書類に目を通し始めた。
この一枚の紙切れが、数十名の隊員の配置を変え、訓練計画を左右し、場合によっては部隊の士気を上下させる。
その意味も責任も、真壁は充分理解していた。
部隊運営の数字は順調で、ミスも滞りもない。
ふと手を止め、真壁はデスクの端に置かれたスマホに目をやった。
胸の奥にある、小さなざらつき。
それが個人的な理由に偏っていて、それを今考えてはいけないことも、分かっている。
しかし──。
ここ二週間ほど、恋人の若桐守から、連絡が一切ないことが、引っかかっていたのだ。
若桐との付き合いは──既に16年。
真壁も既に39歳、肩書きも一左になっている。
──なにか、したんだろうか……?
最後に会ったのは、先月。
忙しい合間を縫っての、ささやかな休日。
若桐は、いつものように真壁を甘やかしてくれた。
そうだ──。
若桐はいつだって、真壁を甘やかしてくれる。
間違っているときは叱咤し、落ち込んでいるときは鼓舞し、真壁の気づかないところではそっと支えて。
──次は、いつ会えますか?
そんなとりとめのない一文にも、真壁が感じている寂寥感や、焦燥感を丁寧に汲んだ、細やかな配慮がされた返信がある。
月に一度の逢瀬では、気持ちの高ぶりが抑えられないと真壁が駄々をこねた時には、まるでAMSRかと思うような音声ファイルを送ってくれたこともあった。
そんな若桐が、二週間、梨の礫なことなどあるのだろうか?
真壁は机に肘をつき、スマホをもう一度手に取る。
指先が何度か画面をなぞった。
既読の付いていない自分のメッセージを眺め、それからおもむろに「どうしていますか?」と入力した。
が──。
ため息と共に文字を削除し、スマホを伏せる。
ふと耳に「心配すんな」と笑う、若桐の声が聞こえた気がした。
笑顔までも鮮明に思い出せる。
真壁の胸の奥がじわりと熱を帯び、仕事の数字がすうっと遠のいた。
§
司令部棟の廊下を歩いていると、向こうから恰幅の良い男が歩いてくるのが見えた。
姿勢はゆったりしているが、あの目の鋭さは昔と変わらない。
「おう、真壁。頑張ってるか?」
「これは、埴生一佐。お久しぶりです」
敬礼を返しつつ姿勢を正すと、埴生はにやりと笑った。
「時間あるか? 次の会議まで、三十分ほど待たなきゃならんのだ」
「はい、構いませんよ」
廊下を並んで歩く。足音が反響して、やけに近くに感じられる。
途中、通りすがりの隊員が真壁に軽く会釈していくのを見て、埴生が肩で笑った。
「やっぱり目立つなぁ、おまえは。……ブルーの端っこ飛んでたくせに、降りても使いもんなるって評判だぞ」
「端っこって言い方、やめてくださいよ」
「いやいや、トップで引っ張るのも大変だが、端で経験積んでから現場でも事務でも結果出すやつは、そうはいない。映えだけで選ばれたなんて言われてたが──」
「言われてましたね、ええ」
「出る釘は打たれるってやつだな。でも、ああいう華やかな場所を任されて、ちゃんとやりきったやつは、上から見りゃ使いやすい」
言いながらバンッと背中を叩かれる。肉厚の掌の重みが、まだ現役の力強さを物語っていた。
基地の喫茶ルームに入り、冬の日差しがガラス越しに差し込む窓際へと腰を下ろす。カウンター奥では、スチームの白い雲が静かに揺れていた。
埴生がコーヒーを注文し、真壁はホットティーを頼む。湯気が立ちのぼり、鼻先をくすぐる。
「だから──将補候補に名前が上がるのも、俺は早すぎるとは思わねぇ」
「……将補……候補?」
一瞬、心臓の拍が強くなる。口の中が乾き、思わずティーカップを手に取った。
早すぎる、と自分では思っていたはずだ。それでも、心の奥底で小さな誇りがふっと灯る。
訓練生の頃から目標にしてきた道が、現実味を帯びて迫ってくる感覚。
「何言ってんだ。訓練生の頃から嘱望されてたしなぁ。なんせ若桐が目をかけてるから、なにかと話題になる」
その名が出た瞬間、胸の奥に別の温かさが広がる。
あの頃の教官と訓練生の距離が、今では──と、思わず心の中で笑いそうになる。
「……そういえば、若桐さん、お元気ですか?」
埴生の眉が微かに寄った。笑みは消えて、少し探るような目つきになる。
「なにか、あったんですか?」
「いや……はっきりなんかあったって訳じゃないんだが……」
コーヒーをひと口すすってから、低い声で続ける。
「余所では言うなよ?」
「はい」
「俺も本人から直接聞いたわけじゃない。ただな──民間に流れた奴が、若桐から"教官の口ないか"って訊かれたって話があってな」
「……えっ」
ティーカップを持つ手がじわりと湿っていく。指先に力を入れすぎると震えそうで、そっとソーサーに戻した。
耳の奥で血の音がドクドクと響く。視界の端がわずかに暗くなる感覚。
「詳しいことはわからんが、自分が転職したいような空気だったって……まぁ、噂だがな」
「……」
「そろそろ初老に届くしな。実地訓練に付き合うのに、体力的に考えるところが出来たのかもしれん」
埴生は淡々としていたが、その言葉の一つ一つが真壁の胸に重く沈んでいく。
さっきまで昇進の話でふくらんだ心の温度が、一気に冷えていく。
窓の外の冬空が、先ほどよりも鈍い灰色に見えた。
浜松基地の司令部棟に入ると、壁際に並ぶ掲示板には今週の行事予定と訓練計画、そして人事異動の内示が貼られていた。
一佐・真壁百合緒は、それを横目に廊下を進む。
背筋は真っ直ぐ、制服の肩章が微かに光る。
片手には資料の入ったバインダー、もう片方には蓋付きのタンブラー。
執務室に入ると、机の上には昨夜メールで届いた報告書が山積みになっていた。
燃料消費量の月次報告、訓練空域の調整依頼、広報イベントの警備計画──書類の見出しだけで一日が終わりそうだ。
真壁は椅子に腰を下ろし、まずは人事関係の書類に目を通し始めた。
この一枚の紙切れが、数十名の隊員の配置を変え、訓練計画を左右し、場合によっては部隊の士気を上下させる。
その意味も責任も、真壁は充分理解していた。
部隊運営の数字は順調で、ミスも滞りもない。
ふと手を止め、真壁はデスクの端に置かれたスマホに目をやった。
胸の奥にある、小さなざらつき。
それが個人的な理由に偏っていて、それを今考えてはいけないことも、分かっている。
しかし──。
ここ二週間ほど、恋人の若桐守から、連絡が一切ないことが、引っかかっていたのだ。
若桐との付き合いは──既に16年。
真壁も既に39歳、肩書きも一左になっている。
──なにか、したんだろうか……?
最後に会ったのは、先月。
忙しい合間を縫っての、ささやかな休日。
若桐は、いつものように真壁を甘やかしてくれた。
そうだ──。
若桐はいつだって、真壁を甘やかしてくれる。
間違っているときは叱咤し、落ち込んでいるときは鼓舞し、真壁の気づかないところではそっと支えて。
──次は、いつ会えますか?
そんなとりとめのない一文にも、真壁が感じている寂寥感や、焦燥感を丁寧に汲んだ、細やかな配慮がされた返信がある。
月に一度の逢瀬では、気持ちの高ぶりが抑えられないと真壁が駄々をこねた時には、まるでAMSRかと思うような音声ファイルを送ってくれたこともあった。
そんな若桐が、二週間、梨の礫なことなどあるのだろうか?
真壁は机に肘をつき、スマホをもう一度手に取る。
指先が何度か画面をなぞった。
既読の付いていない自分のメッセージを眺め、それからおもむろに「どうしていますか?」と入力した。
が──。
ため息と共に文字を削除し、スマホを伏せる。
ふと耳に「心配すんな」と笑う、若桐の声が聞こえた気がした。
笑顔までも鮮明に思い出せる。
真壁の胸の奥がじわりと熱を帯び、仕事の数字がすうっと遠のいた。
§
司令部棟の廊下を歩いていると、向こうから恰幅の良い男が歩いてくるのが見えた。
姿勢はゆったりしているが、あの目の鋭さは昔と変わらない。
「おう、真壁。頑張ってるか?」
「これは、埴生一佐。お久しぶりです」
敬礼を返しつつ姿勢を正すと、埴生はにやりと笑った。
「時間あるか? 次の会議まで、三十分ほど待たなきゃならんのだ」
「はい、構いませんよ」
廊下を並んで歩く。足音が反響して、やけに近くに感じられる。
途中、通りすがりの隊員が真壁に軽く会釈していくのを見て、埴生が肩で笑った。
「やっぱり目立つなぁ、おまえは。……ブルーの端っこ飛んでたくせに、降りても使いもんなるって評判だぞ」
「端っこって言い方、やめてくださいよ」
「いやいや、トップで引っ張るのも大変だが、端で経験積んでから現場でも事務でも結果出すやつは、そうはいない。映えだけで選ばれたなんて言われてたが──」
「言われてましたね、ええ」
「出る釘は打たれるってやつだな。でも、ああいう華やかな場所を任されて、ちゃんとやりきったやつは、上から見りゃ使いやすい」
言いながらバンッと背中を叩かれる。肉厚の掌の重みが、まだ現役の力強さを物語っていた。
基地の喫茶ルームに入り、冬の日差しがガラス越しに差し込む窓際へと腰を下ろす。カウンター奥では、スチームの白い雲が静かに揺れていた。
埴生がコーヒーを注文し、真壁はホットティーを頼む。湯気が立ちのぼり、鼻先をくすぐる。
「だから──将補候補に名前が上がるのも、俺は早すぎるとは思わねぇ」
「……将補……候補?」
一瞬、心臓の拍が強くなる。口の中が乾き、思わずティーカップを手に取った。
早すぎる、と自分では思っていたはずだ。それでも、心の奥底で小さな誇りがふっと灯る。
訓練生の頃から目標にしてきた道が、現実味を帯びて迫ってくる感覚。
「何言ってんだ。訓練生の頃から嘱望されてたしなぁ。なんせ若桐が目をかけてるから、なにかと話題になる」
その名が出た瞬間、胸の奥に別の温かさが広がる。
あの頃の教官と訓練生の距離が、今では──と、思わず心の中で笑いそうになる。
「……そういえば、若桐さん、お元気ですか?」
埴生の眉が微かに寄った。笑みは消えて、少し探るような目つきになる。
「なにか、あったんですか?」
「いや……はっきりなんかあったって訳じゃないんだが……」
コーヒーをひと口すすってから、低い声で続ける。
「余所では言うなよ?」
「はい」
「俺も本人から直接聞いたわけじゃない。ただな──民間に流れた奴が、若桐から"教官の口ないか"って訊かれたって話があってな」
「……えっ」
ティーカップを持つ手がじわりと湿っていく。指先に力を入れすぎると震えそうで、そっとソーサーに戻した。
耳の奥で血の音がドクドクと響く。視界の端がわずかに暗くなる感覚。
「詳しいことはわからんが、自分が転職したいような空気だったって……まぁ、噂だがな」
「……」
「そろそろ初老に届くしな。実地訓練に付き合うのに、体力的に考えるところが出来たのかもしれん」
埴生は淡々としていたが、その言葉の一つ一つが真壁の胸に重く沈んでいく。
さっきまで昇進の話でふくらんだ心の温度が、一気に冷えていく。
窓の外の冬空が、先ほどよりも鈍い灰色に見えた。
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