空に墜ちる──if

琉斗六

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16年後の二人の章

2.影の噂

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「おい、真壁!」

 執務室のドアが、ノックもなく勢いよく開いた。
 顔を覗かせたのは、迷彩服の袖をまくった響野だ。

「三佐、困ります。司令部内は──」

 体の大きな響野の影になって見えないが、向こうから副官の西條三尉が困ったように言っている声が聞こえた。
 二十代半ば、まだ経験も浅く規律重視の三尉は、響野のような破天荒な上官が来るのが特に苦手のようだ。

「三尉、いいよ、ありがとう」

 真壁はデスクから立ち上がって扉の傍へ行き、響野の向こうで慌てふためいている三尉に声を掛けた。
 眉間にシワを寄せて、眼鏡の奥の目が怒っている三尉は、真壁の顔を見るとやや安堵した顔になった。
 そして、あまり納得いかない様子ながらも一礼して引き下がる。

「相変わらずガチガチだな、あの副官」
「仕事熱心なんだよ」
「良かったな、やつも上司がおまえで」
「おまえの副官だったら、胃潰瘍で入院してしまうぞ」
「ハハハ、全くだ」
「それより、どうしたんだ? また、なにか無理を通せという話じゃないだろうか?」
「いや、今日は飲みだ。残業続きと聞いてるぞ。たまには息抜きしようや」
「……まさか、もう店は決まってるとか?」
「さすが、わかってらっしゃる」
「強引だな」
「同期特権だ」

 響野はガハハと笑って、親指をくいっと持ち上げた。
 真壁は小さく息を吐きながらも、その勢いに押されるように上着を手に取った。
 どうせ断っても、響野は引き下がらない──そういう男だ。


§


 基地から少し離れた繁華街。
 案内された店は、いつものざっくばらんなカウンター居酒屋ではなく、落ち着いた照明の料亭風で、しかも個室だった。

「なんだ、今日はずいぶん奮発するじゃないか」
「気にすんな。埴生さんに教えてもらった店だ。味も酒も間違いない」

 席に着くなり、響野は生ビールのジョッキを二つ頼み、真壁の前にドンと置いた。

「まずは乾杯だ。──俺の第二子に」
「そういえば、麗子さんは?」
「今は実家だ。奏真そうまの時に妊婦の世話が出来なくて、カミサンが爆発したからな。今度は轍を踏まないように、早々に里帰りをさせたんだ。だが、家に誰もいないのは、なかなかきつい」
「寂しがってるのはおまえのほうか」
「ハハッ、否定はしねぇよ」

 グラスを合わせると、ビールの泡が細かく弾けた。

「ま、こんな俺でも幸せ家族ができてんだ。若桐さんには感謝しかないぜ」
「そういえば、麗子さんとおまえの見合いをセッティングしてくれたのは、若桐さんだったな」
「あんな清楚なお嬢さんに、一本背負いを食らうとは夢にも思わなかったぜ」
「あれは、油断していたおまえが悪い」
「だってよ……庭を散歩してただけだぞ? 初対面の──白いワンピース着てる女に、してやられると思うか?」
「女性は全部、自分の背中で守りますとか言うからだ」
「女に優しくしただけだろう!」

 二人で笑いながら、真壁の脳裏にあの日の情景が浮かぶ。
 若桐に「ちょっと顔を出せ」と呼び出されたので、付き合ってくれと真壁は響野に頼まれた。
 そうして二人でホテルのラウンジに行くと、そこにくだんの "清楚なお嬢さん" がいたのだ。
 庭園には花が咲き乱れる、春だった。
 軽食とお茶をして、庭に出たところで、真壁は若桐に「二人にしてやれ」と言われて、離された。

 しばらく遠目に見ていたら、いきなり響野の体が飛んだと思ったら、見事なフォームで麗子が一本背負いを決めていた。
 慌てて若桐と駆け寄ったら、上記の発言に麗子が「私、自分の足で立てますのよ」と返していたところだった。
 ぽかんとしていた響野が笑いだし、そこで全員が爆笑したのだ。

「一目惚れというのは聞いたことがあるが、おまえの場合は一本惚れだな」
「いや、全く。ありゃあ綺麗な投げだった……って、おまえは投げられてないから、そんなことが言えるんだ!」
「あんな素直な一本背負い、食らうほうがどうかしている」

 真壁の返しに、響野は「俺に負けるのに、なぜ麗子に勝てるんだ?」と首をひねっていた。

「若桐さんには、頭上がらんよ。……ま、おまえは俺とは、意味が違うだろうが」
「そういう言い方はよせよ」

 思わず低く遮ったが、響野のにやついた目は誤魔化しようがなかった。

 料理が並び始めた頃、響野の声色が変わった。

「でな。──麗子が実家で妙な噂を聞き込んできた」
「噂?」
「おまえのだ。将補候補に名前が上がってるってのは知ってるが、それを潰そうとする密告があったらしい」

 真壁の指が、無意識にグラスを強く握る。

「内容は?」
「訓練生時代に "不適切な行動" があった、とか──」

 その言葉を聞いた瞬間、空気が少し重くなった気がした。
 料亭の静かなBGMは変わっていないはずなのに、真壁の耳には響野の声だけが遠くに聞こえる。
 将補候補という響きにかすかに灯っていた自負が、ひやりとしたものに包まれて消えていく。

「……麗子さんと、篠原少将はなんて?」
「麗子も親父さんも、全然信じちゃいねぇよ」

 真壁はそこで初めて、響野の義父である篠原少将の顔を思い浮かべた。
 長年、航空自衛隊の医官として数え切れない隊員を診てきた人物だ。
 若桐がまだ飛んでいた頃、耳の疾患で進路に迷っていたときにも助言をくれたと聞いている。

 そこで若桐の顔が脳裏をよぎったところで、ふと、昼間に聞いた埴生の話を思い出す。
 なぜ今、若桐が職を辞そうと考えているのか?

「真壁、なにがあっても、俺とカミサンが絶対に支える。心配すんな」

 真壁は言葉を返しかけ──やめた。

「響野……、実は若桐さんのことなんだが」

 静かに切り出す声は、いつの間にか震えていた。
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