空に墜ちる──if

琉斗六

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16年後の二人の章

3.若桐の覚悟

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 若桐は、自分の部屋の机に向かい、ノートパソコンの画面に "辞表のフォーマット" を開いていた。

 昼間、久しぶりに埴生が顔を出した。
 わざわざ若桐の顔を見に来た……と言う。
 なにかと思えば──。

「真壁の名前が、将補の候補に上がってるぞ」

 と言う。
 それは実に嬉しい知らせで、若桐は手放しに喜んだ。
 少々、浮かれすぎるほど浮かれていた──とすら思う。

 だが、そんな若桐の元に、午後になって別の話が舞い込んだ。
 教官室に顔を出したのは、幕僚監部付き・樋口一佐。
 浜松と静浜の連絡係をしていて、所属は浜松だが頻繁に静浜に現れる顔なじみであった。
 年齢は41と真壁たち同様に若桐の教え子の一人だが、教官で二佐止まりの若桐と違い、階級から言えば向こうが上になる。

「若桐さん」

 にこやかな笑みを浮かべ、手にした資料を軽く掲げる。
 日常の連絡と予定の確認に来たらしいが、若桐の顔を見るなり、ちょいちょいと指先で手招きをした。

「どうした?」
「いや……少し耳にした話で。若桐さん、真壁を随分推しておられたでしょう?」
「真壁? ああ、真壁が……どうかしたのか?」

 わざと素知らぬ顔を装ったが、胸の内では誇らしさが膨らんでいた。

「将補の候補に出ているらしいですが……雲行きが怪しいらしいですよ」

 声を潜め、書類を指でトントンと揃えるしぐさで、周囲に話題を悟らせないようにしている。

「なぜ?」
「ここだけの話ですが──密告があったそうです。訓練生時代に "不適切な交際があった" とか」
「なんだってっ?!」
「莫迦、大きな声を出さないでください」

 ぐいと袖を引かれ、若桐は慌てて身を縮める。

「まあ、真壁は優秀です。頭も切れるし鍛錬も怠らない。俺たちの代にも、あそこまで真っ直ぐなやつは滅多にいませんでした。──まるで、若桐さんが理想とする "優等生像" そのものでしたけどね」

 口調はあくまで親しげだが、にやりとした目の奥に、どこか小馬鹿にした色が滲む。

「でも、完璧に見えるやつほど、ちょっとした影を探されやすいもんです。人はそういう所を面白がりますから」
「しかし……真壁に限って……」

「そうやって教え子を信じるのは、若桐さんらしい。けれど、あんまり肩入れしてると "贔屓" だの "癒着" だの言われかねませんよ。教官上がりは特にそうです。……お気をつけて」

 軽い調子で肩をすくめ、笑みを崩さずに続ける。

「もちろん、所詮は噂です。火のない所に煙は立たん、とも言いますけどね」

 ぽん、と若桐の肩を叩き、にこやかな笑みを残したまま、樋口は教官室を出ていった。

 残された若桐の胸には、氷のかけらのような不安が突き刺さっていた。

 不適切な交際──それが、教官室で真壁にキスをしてしまったあの一件だとしたら?
 真壁は、ただ純粋に体格のことを思い悩み、自分に相談に来ただけだったのだ。

 あの匂い立つような美しい背中に惹かれて、思わず我を忘れて口づけてしまったのは、自分だ──。
 そんな些細なことで、真壁の輝く未来が潰されることなどあってはならない。

──そもそも、未練たらしく付き合いを続けていることが、どうかしてたんだ。

 部屋の隅で加湿器の蒸気が白く立ち上る。
 キーを叩く指は冷静だが、胸の奥には重い鉛が沈んでいる。

 文章は淡々と、事務的に──しかし "一身上の都合" の一行が、やけに胸に刺さった。
 紙に印刷し、署名する。
 封筒に入れた辞表を机の一番上の引き出しにしまい、ゆっくりと閉めた。

 すぐに出しては、真壁の経歴に傷が残る。
 まずは、真壁との距離を置いて──。
 あの "妖精" が、無駄に心配をしないように、身の振り方も決めて置かねばならない。
 身の回りを綺麗にして、周囲に影響が出ないように。
 一つ一つ、やるべきことを考える。

 だが、脳裏に浮かぶのは、真壁の顔ばかりだった。
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